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ジングウコウゴウ《神功皇后》

ジングウコウゴウ《神功皇后》

『古事記』表記 息長帯日売命
『日本書紀』表記 気長足姫尊
別名 大足姫命皇后
祭神名 神功皇后、息長帯姫命、他
系譜 (父)息長宿禰王
(母)葛城高顙媛
(弟)息長日子王
(妹)虚空津比売、豊姫
(夫)仲哀天皇
(子)誉田別尊(応神天皇)、品夜和気命(『古事記』)
属性 仲哀天皇皇后、初の摂政
後裔 天皇家
祀られている神社(全国) 住吉大社(大阪府大阪市)、宇佐神宮(大分県)をはじめとする全国の八幡神社、香椎宮(福岡県福岡市)、筥崎宮(福岡県福岡市)、宇美八幡宮(福岡県)、宮地嶽神社(福岡県福津市)、廣田神社(兵庫県西宮市)、など
祀られている神社(名古屋) 八幡社(町屋川)(緑区)、城山八幡社(大高)(緑区)、八幡社(枇杷島)(西区)、八幡神社(要町)(南区)、西八幡社(蝮ヶ池)(千種区)、泥江縣神社(中区)、八幡社(長須賀)(中川区)、下中八幡宮(中村区)、鳴海八幡宮(緑区)、八幡社(闇之森八幡社)(中区)、綿神社(北区)、城山八幡宮(千種区)

わざと難しくしてる?

神功皇后の扱いは難しくて悩ましい。
第14代仲哀天皇の皇后で、第15代応神天皇の母というのはどの伝承でも共通しているのだけど、天皇として即位したのか摂政だったのかについては見解が分かれる。
実在についても肯定派と否定派がいる。
『古事記』は仲哀天皇記の中で事績を語っているのに対して、『日本書紀』は神功皇后記を独立させて一段丸々を当てている。天皇以外でこういう扱いになっているのは神功皇后だけだ。
『先代旧事本紀』は『日本書紀』に倣っていて、『古語拾遺』は成務天皇や仲哀天皇を飛ばして神功皇后を天皇のように扱っている。
『常陸国風土記』(721年)や『扶桑略記』(1094年)、北畠親房『神皇正統記』(1339-1343年)では初の女帝とされている。
明治時代までは一般的にも神功皇后は天皇と考えられており、紙幣や切手の肖像にもなった。
しかし、大正15年(1926年)に皇統の見直しが行われた際に天皇から正式に外され、第15代天皇は応神天皇とされ、現在に至っている。
以上のように一筋縄ではいかないのが神功皇后像ということになるのだけど、なんとなくわざと分かりづらくするような情報操作が行われているような気がしないでもない。
実在したとすれば4世紀後半とするのが通説とされるも、仲哀天皇は日本武尊(ヤマトタケル)の子で、神功皇后はその后なので、そうなると4世紀では年代が合わないことになる。
神功皇后をある程度理解するためにはややしい話を避けては通れない。とにかく面倒くさいのだけど仕方がないので、まずは系譜を頭に入れつつ事績を追っていくことにしたい。
神功皇后は息長氏(おきなが)の娘で、息長氏とは何者かが問題となる。
その前に、夫である仲哀天皇についていくつか確認しておいた方がよさそうだ。

仲哀天皇と神功皇后の位置づけ

『古事記』、『日本書紀』ともに、第14代仲哀天皇こと帯中津日子命/足仲彦天皇(タラシナカツヒコ)はヤマトタケル(倭建命/日本武尊)が第12代垂仁天皇皇女の布多遅能伊理毘売命/兩道入姫皇女(フタジノイリビメ)を娶って生んだ子としている(記紀では兄弟構成に違いあり)。
仲哀天皇の先代はヤマトタケルの異母弟の第13代成務天皇で、成務天皇に男子がいなかったため甥の足仲彦が第14代仲哀天皇として即位したと記紀はいっている。
記紀ともに成務天皇の記事が少なすぎて違和感があるのだけど、違和感でいえば仲哀天皇もかなりのものだ。
『古事記』は穴門(あなと)の豊浦宮(とゆら)と筑紫(つくし)の訶志比宮(かしひ)で天下を治めたとし、『日本書紀』は宮の場所を明記せず、角鹿(つぬが)で行宮(あんぐう)の笥飯宮(かしひ)を作ったとか、紀伊国の德勒津宮(とこつ)に滞在したとだけ書き、穴門から筑紫方面に向かって進み、結局そこで命を落とすことになった。
灘県(なだあがた)の橿日宮(かしひ)に着いたのが即位8年といっているので、単なる移動ではなく数年かけて少しずつ南下したことになる。
これらの地名が現在の山口県や福岡市に当たるとは個人的には考えていないのだけど、それにしてもこういう話の設定にしたのには何らかの訳があるはずで、それは次の神功皇后の話につなげるための前フリのようなものかもしれない。

神功皇后こと息長帯日売命/気長足姫尊(オキナガタラシヒメ)は仲哀天皇の即位2年に皇后に立てられたというのは記紀ともに共通する。
仲哀天皇はそれ以前(皇太子時代?)に大中津比売命/大中姫(オオナカツヒメ)を娶って、香坂王/麛坂皇子(カゴサカ)と忍熊王/忍熊皇子(オシクマ)が生まれている。
このふたりは後に神功皇后に対して反乱を起こして討伐されることになるのだけど、この兄弟が勝っていれば大中姫が皇后だったという話になったはずだ。
大中姫の父は景行天皇皇子の彦人大兄/大江(ヒコヒトオオエ)なので出自に問題があるとは思えない。
むしろ問題は、気長足姫尊の父が息長氏という点だ。

息長氏とは何者か?

母親の葛城高顙媛(カヅラキノタカヌカヒメ)は天日槍/天之日矛(アメノヒボコ)に始まる渡来系氏族とされることが多いのだけど、個人的に天日槍が渡来系(外国人)だとは思っていないので、その説には同意しない。
葛城高顙媛の父は多遅摩比那良岐(タジマヒナラキ)だから、多治比氏系の人ではないかと思う。
それよりここで問題にしたいのは父系の息長氏のことだ。
現存する文献における息長の初出は『古事記』の息長水依比賣(オキナガノミズヨリヒメ)で、その父は天之御影神(アメノミカゲ)とも、天之御影神六世孫の国忍富命(クニオシトミ)ともされ、第9代開化天皇皇子の日子坐王(ヒコイマス)の妃とされるのだけど、その出自ははっきりしない。
天之御影神は『先代旧事本紀』に饒速日命(ニギハヤヒ)が天降ったときに従った神として出てくる。なので、開化天皇妃の息長水依比賣を天之御影神の子とするのは世代的に無理がある。
気長足姫尊(神功皇后)の父の息長宿禰王/気長宿禰王(オキナガスクネ)は日子坐王の孫に当たるとされる。
この流れを考えれば気長足姫尊のときに息長氏が急に力を持ったというわけではないだろうけど、なんとなく唐突な印象を受ける。
本拠地についても定かではなく、近江国の坂田郡説や河内説などがありはっきりしない。
応神天皇の妃のひとりに息長真若中比売(オキナガマワカナカツヒメ)がいて(『古事記』)、生まれた子の若沼毛二俣王(ワカヌケフタマタ)と息長真若中比売の妹の弟比売(オトヒメ)が婚姻して生まれたのが意富々杼王(オオホド)で、この意富々杼王が息長氏の祖といういわれ方をすることもある。
時代はだいぶ下って第26代継体天皇は息長氏と深い関わりがあるという説があり、継体天皇の妃に息長真手王の娘の麻績娘女(オクミノイラツメ)がいて、継体天皇の孫に当たる第30代敏達天皇の皇后は息長真手王の娘の広姫とされる。
このあたりの系譜はちょっと怪しい部分があるものの、第34代舒明天皇(じょめいてんのう)の和風諡号が息長足日広額天皇(オキナガタラシヒヒロヌカ)だったり、血脈という点において息長氏は皇室に深く入り込んでいたことがうかがえる。
それはやはり、神功皇后こと気長足姫尊が勝者となったことが大きい。歴史は勝者の側から逆算して書かれるものだ。

『古事記』の神功皇后話はシンプルだ

以上のような出自や系譜を踏まえつつ、記紀その他が語る神功皇后の事績を見ていくことにしよう。

系譜の追記として『古事記』と『日本書紀』の違いを書いておくと、『古事記』は仲哀天皇と息長帯比売命との間の子をふたり(品夜和気命(ホムヤワケ)と大鞆和気命(オホトモワケ)、別名・品陀和気命(ホムダワケ))としているのに対し、『日本書紀』は気長足姫尊の子は誉田別命ひとりとしている。
また、『日本書紀』は『古事記』には出てこないもうひとりの妃の弟媛を登場させ、その子を誉屋別皇子(ホムヤワケ)とする。
品陀和気命/誉田別命が後の応神天皇なのだけど、品夜和気命/誉屋別皇子については何も書かれていないのでよく分からない。
ただ、『新撰姓氏録』には誉屋別命の後裔を自認する間人宿禰(はしひと)や蘇宜部首(そぎべ)などがいることから、まったくの架空とは思えない。
その人物が気長足姫尊の子かそうじゃないかはわりと重要だと思うのだけど、とりあず保留として先へ進めたい。

仲哀天皇が筑紫の香椎宮で熊曽国(くまそ)を討とうとしていたとき、息長帯比売命が神懸かり(帰神)したので、天皇が琴を弾き、建内宿禰大臣(タケウチノスクネ)が沙庭(さには)となって神の言葉を聞いた。
”さには”は審神者とも書き、神懸かりした人が語る言葉を聞いて人に伝える役割のことで、いうなれば神と人との通訳のようなものだ。
そして、こういうときは琴を弾く習わしだった。
神懸かりした息長帯比売命は、西に金銀で輝く国があり、その国を賜るという。
その言葉を受けた天皇は高いところに登って西を見たものの国は見えず海しなかったと答え、神が偽ったと思って琴を弾くのをやめてしまった。
すると神は怒り、天下(あめした)をしろしめすのはおまえではない、あの世に行ってしまえ(向一道)と言い放った。
焦った建内宿禰は天皇に恐れ多いことです、琴を弾いてくださいと頼むと天皇はしぶしぶ弾き始めたもものの、灯りを灯してみると天皇はすでに崩御していたのだった。
驚きつつも建内宿禰の行動は素早く、天皇を殯宮(もがりのみや)に移すと、国中から大奴佐(おおぬさ)を集めて天津罪・国津罪の汚れを祓い、あらためて沙庭で神の言葉を受けた。
神は以前と同じ事を語り、この国は汝命の御腹に坐す御子がしろしめすといった。
この言い回しは少し微妙なところで、実際に語っているのは神懸かりした息長帯比売命なので、汝命の御腹に坐す御子の”汝”は誰が誰にいっているのかを考えるとどうなんだと思ってしまう。
というのも、息長帯比売命のお腹の子供の父親は仲哀天皇ではなく建内宿禰ではないかという話があるからだ。

住吉大社に伝わる気になる伝承

少し脱線すると、大阪の住吉大社(web)に伝わる『住吉大社神代記』という氏文(解文)に気になる記述がある。
細かい部分で記紀との違いがあるのだけど、そこは省略して皇后(息長帯比売命)に神懸かりした神が自分は表筒男・中筒男・底筒男(いわゆる住吉三神)と名乗り、自分のいうことを聞かなければ汝(天皇)はその国(新羅)を得られないけど、皇后の腹の子は得られるといい、この夜に天皇は病を発して崩御してしまった。
このとき皇后と大神は密事が有り、俗に夫婦の秘事のことだと書いているのだ。
ここでは建内宿禰の名は出てこないものの、常に側仕えしていたことを思わせる建内宿禰と神宮皇后(息長帯比売命)が通じて子を身ごもり、それは住吉大神が神懸かっているときにできたから住吉大神の子であるという理屈が通ったというのは考えられる。
『古事記』は年代を書いていないので分からないのだけど、『日本書紀』でいうと、仲哀天皇が崩御したのが即位9年春2月5日で、三韓征伐から戻って筑紫で誉田天皇を生んだのが12月14日と書いている。
新羅に向けて出発したのが10月3日で、すでに臨月だったのを陰部に石を押し込んで産み月を遅らせたというのだけど、さすがにそれは無理がある。
妊娠から出産までの十月十日は40週、280日なので、9ヶ月ちょっととなり、12月生まれなら妊娠は3月だ。そのときすでに仲哀天皇はこの世にいない。
細かいことをいっても意味がないだろうけど、応神天皇以降の数代は天皇の資格がなかったというような話も聞いているので、そのあたりのことがこのへんに関わってくるのかもしれない。
その後、皇統を元に戻すために応神天皇5世孫とされる継体天皇を持ってきたというのも関係がありそうだ。

神功皇后は新羅へ向かう

もう一度『古事記』に戻ると、建内宿禰は腹の子は男か女かと訊ね、男という答えを得て、神の名を問うた。
神は答えて、これは天照大神(アマテラス)の御心であり、底筒男・中筒男・上筒男の三柱の大神であると。
その国(新羅)を欲するなら我を祀れというのでその教えを守り、皇后は軍勢を集めて海を渡るとたちまち新羅に辿り着き、恐れをなした新羅国は従うことを約束したため新羅の国主の門に墨江大神(スミエノオオカミ)の荒御魂(あらみたま)を祀って還ってきた、というのがここでの話になる。
『古事記』は新羅だけで百済や高麗は出てこない。

帰国後の皇子たちの反乱

筑紫国で子を産んだ神功皇后は大和に戻る途中で謀反の企てがあることを伝えられたため、子(ホムダワケ)は死んだと偽って喪船に乗せて逃がした。
その頃、大和では先妻の子の香坂王と忍熊王が皇后を討つべく待ち構えていた。
それに先立ち、戦の行方を占うべく斗賀野(とがの)で誓約狩(うへひがり)をしたところ、突然怒った大猪が出てきて香坂王を食ってしまった。
それでも忍熊王は抵抗を続けたため神功皇后軍と戦になり、最終的には神功皇后側が勝利を収めることになるのだけど、神功皇后はすでに亡くなったという偽情報を流してだまし討ちにしてなんとか勝ったという書き方をしている。
兄の香坂王が生きていたら結果は逆で、その後の歴史も大きく変わっていたかもしれない。

建内宿禰とホムダワケの関係性と名前の交換

先ほど書いたホムダワケ(応神天皇)は建内宿禰の子疑惑だけど、この後の記述にもそれを匂わせるものがある。
建内宿禰は皇太子(ホムダワケ)を連れて淡海(あふみ)や若狭国(わかさのくに)を巡り、高志(こし)の前の角鹿(つぬが)に仮宮を造って滞在したという。これはもう父が子を連れて関係各所を回っていたとしか思えない。
ここでとても気になることが書かれている。
角鹿に坐す伊奢沙和気大神命(イザサワケノオオカミ)が建内宿禰の夢の中に出てきて自分(伊奢沙和気大神命)の名をその子(ホムダワケ)の名に変えたいといい、明日の朝、浜を訪れたらその幣(しるし)を与えるというのだ。
ホムダワケ皇太子が浜に行ってみると鼻がそこなわれた(毀)入鹿魚(いるか)がいたので、神が我に御食(みけつ)の魚を賜ってくれた、だからそれを称えて御食津大神(ミケツオオカミ)と名付けたという。
これは今の気比大神(ケヒノオオカミ)のことだとも書いている。
これは一体何を意味しているのか?
イザサワケ(伊奢沙和気)とホムダワケ(誉田別)の名を交換したということなのか、イザサワケがホムダワケに名を与えたということなのか。
名は体を表すという言葉あるように、名は人格そのものなので、ひょっとすると人間の入れ替えがあったのか。
伊奢沙和気の”イザ”がイザナギ・イザナミの”イザ”に通じるのであれば、イザナギ・イザナミのお墨付きが与えられたとも受け取れる。
いずれにしても名前を変えたという話は気になるところで、ホムダワケは交換後の名ということもあり得るのか。

神功皇后は酒で皇子をもてなす

大和に戻ったホムダワケを迎えた神功皇后は酒を献じて歌を歌った。
この酒は私が造ったものではない、常世にいる酒神の少名御神(スクナ)が神寿き造ったものだといった歌だ。
この歌に返しの歌を歌ったのはホムダワケではなく建内宿禰だったというのもやはり怪しいというか、建内宿禰の存在感は際立ちすぎている。

ここで仲哀天皇記は終わりなのだけど、神功皇后が国内でどんな政治を行ったとか、どういう立場だったのかについて『古事記』は何も書いていない。
書いていないといえば神功皇后の死についても触れず、応神天皇即位についてもはっきり書いていない。そこにちょっと不自然なものを感じる。
『日本書紀』は摂政としてあれこれやったことをいろいろ書いていて、結局亡くなるまでホムダワケに帝位を譲らなかったことになっている。
神功皇后が亡くなるのが摂政69年なので、約70年間天皇不在だったことになる。そんなことはあり得るだろうか。
ホムダワケが幼い頃はともかく、ある程度の年齢になったら帝位を譲るのが妥当だと思うのだけど、そうでないということはやはり神功皇后は天皇だったということではないのか。

長い割に面白くない神功皇后の話

続いて『日本書紀』に移るだけど、はっきりいって神功皇后記は文章量が多いわりに内容が薄いというか面白くないので、大部分は省略して『古事記』との違いを中心に見ていくことにする。

繰り返しになるけど書いておくと、即位2年に気長足姫尊を皇后として、後に生まれるのが誉田別命(応神天皇)で、それ以前に妃の大中姫との間に麛坂皇子(カゴサカ)と忍熊皇子(オシクマ)のふたりの皇子がいて、弟媛との間に誉屋別皇子がいるというのが『日本書紀』の系図となっている。
仲哀天皇記の前半部分は飛ばすとして、天皇が南国を巡回中に德勒津宮(ところつのみや)にいるとき熊襲(くまそ)が背いて朝貢しなかったため熊襲国を討つべしとなって穴門(あなと)へ向かい、角鹿(つぬが)にいた神功皇后に遣いをやって合流することになった。
これは即位2年3月のことなのに、記事は急に即位8年1月になっていて戸惑う。合流に6年もかかるはずがないのにこの間何をしていたのか。
とにかく筑紫から水門(みなと)へ行ったときに天皇が乗った船が潮で進まなくなり、皇后も洞海(くきのうみ)というところで潮が引いて進めなくなり、熊鰐(ワニ)の助けを借りたり神を祀ったりしてどうにか橿日宮(かしひのみや)に辿り着き、ここで例の事件が起きる。
ただ、切迫した状況ではなかったのか、熊襲討伐の話し合いが行われたのは即位8年9月といっている。また半年以上経っている。
話し合いの途中、神功皇后が神懸かって語るには、どうして熊襲など討つ必要があるのか、それよりも服属させるべきは膂宍之空国(そししのむなくに)で、そこには金銀を有する栲衾新羅国(たくぶすましらきのくに)がある。自分を祀れば自ずと服従するだろうし熊襲も従うはずだといった。
しかし、神の言葉を信じられなかった天皇は高いところに登って西を見るも海しか見えず、どうして自分を欺こうというのかと神に問いかけた。
神は答えて、自分のいうことを信じられなければその国は得られないだろうといい、天皇はそれも信じず、無理矢理に熊襲を討とうとしたところ勝つことができずに帰還することになる。
この後の展開が『古事記』とは少し違って、『古事記』は神の言葉を聞いているときに突然亡くなったとしているのに対して、ここでは即位9年2月5日に病気になって翌日崩御したことになっている。
その理由については、神の言葉を聞かなかったからだとしつつ、異伝では熊襲の矢に当たったのが原因という話も紹介している。

何故、仲哀天皇急死を隠したのか?

ここからがまた不思議というか引っかかる話で、皇后と武内宿禰は天皇の死を公表せずに隠して、遺体を武内宿禰に預けて穴門の豊浦宮で秘密の殯(もがり)を行っている。
これではまるで殺人の隠匿ではないか。
同時に中臣烏賊津連(ナカトミノイカツ)、大三輪大友主君(オオミワノオオトモヌシ)、物部膽咋連(モノノベノイクヒ)、大伴武以連(オオトモノタケモツ)に命じて宮中を厳重に守らせている。
これはもう何かあったとしか思えない。名前からも分かるようにこれらの面々は軍事担当の氏族達だ。
構図としては仲哀天皇対神功皇后・武内宿禰で、この二者が対立して衝突したということだろうか。
ここでは神功皇后に神懸かりした神の正体は明かされず、記事は神功皇后記に移っていく。

現れた神は住吉大神だけではない

天皇の罪汚れを祓うことを群臣(まへつのきみたち)と百僚(つかさつかさ)に命じ、斎宮(いわいのみや)を小山田邑(おやまだむら)に作った。
そこで皇后は自ら神主となり、武内宿禰に琴を弾かせ、中臣烏賊津使主を審神者(さには)として神の言葉を聞くことになった。
始めて七日七夜経ったとき、最初に現れた神は伊勢国の度逢縣(わたらいのあがた)の拆鈴五十鈴宮(さくすずいすずのみや)にいる撞賢木嚴之御魂天疎向津媛命(ツキサカキイツノミタマアマサカルムカツヒメ)と名乗った。
撞賢木嚴之御魂天疎向津媛命については天照大神の荒魂だとか瀬織津姫(セオリツヒメ)ではないかとする説などがあってはっきりしないものの、『古事記』には出てこなかった神だ。
続いて現れたのは尾田(おだ)の吾田節(あがたふし)の淡郡(あわのこおり)にいる神で、名前は名乗っていない。
更に天事代於虛事代玉籤入彦嚴之事代主神(アメニコトシロシラニコトシロタマクシイリビコノイツノコトシロヌシ)がいるというのだけど(名前が長い)、これがいわゆる大国主神(オオクニヌシ)の子の事代主神(コトシロヌシ)のことなのかどうかはよく分からない。
ここでいったん神の言葉は途絶える。しかし、審神者が後からまた言葉があるかもしれないというので粘っていると、最後に表筒男・中筒男・底筒男神が現れ、これでおしまいとなった。
『古事記』では住吉三神だけだったので話は分かりやすかったけど、『日本書紀』はいろいろ出てきたので仲哀天皇に語った神がどの神なのかははっきりしない。少なくとも住吉三神と決めつける根拠は示されていない。
これらの神を祀った後、熊襲国を討つとほどなくして服従してきたと、あっけない幕切れになる。

新羅行きまでがまた長い

この後すぐに新羅討伐になるかといえばそうではなく、各地の反乱を鎮めたり、神祀りをしたりあれこれあって、いよいよ新羅に向けて出航する段になる。
皇后は髪を鬟(みずら)にして男装した上で群臣たちに演説を行った。
命令に従わなければ隊列は乱れ、私欲に走れば必要以上に敵を作る。敵が少なくても侮ってはいけないし、敵が多くても怖じ気づいてはいけない。婦女子を犯すことはならず、自ら服従してきたものは殺してはいけない。戦に勝てば必ず恩賞がある。敵前逃亡すれば罪に問うと。
これぞまさに屈強な女将軍といった風情だ。

追い風と波に乗って瞬く間に新羅に攻め寄せた神功皇后軍を恐れた新羅国は戦わずして降伏し、毎年貢ぎ物を送ると約束した。
神功皇后は新羅の宝と書などを押収し、征服の証として新羅王の門に矛を立て、それは今なお(奈良時代)も立っているといっている。
『古事記』との違いでいうと、新羅が降伏したことを知った高麗(こま)と百済(くだら)も自ら降伏してきたと書いている点だ。
いわゆるこれを三韓征伐と呼んでいる。
実際に倭国(日本)が朝鮮半島に攻め込んだことが好太王碑などにもあることから、この記事はある程度の事実を反映したものと考えられる。
ただ、好太王碑がいう辛卯の年(391年)に倭が百済や新羅などを破ったというのが神功皇后時代のことと決めつけることはできない。

帰国後の皇位継承争いと摂政69年

帰国後、神功皇后は筑紫で誉田別命を生んでいる。
翌年、穴門豊浦宮で仲哀天皇の殯(もがり)を正式に行い、大和に戻ろうとしたところ麛坂王と忍熊王が反乱を起こして戦になるという展開は『古事記』と共通する。
兄弟が占いの祈狩(うけひがり)をしたら兄の麛坂王が赤猪に食われてしまい、忍熊王が単独で神功皇后側と戦うことになるのだけど、この戦についても『日本書紀』は細々というか長々と書き綴っている。そこまで詳しく書く必要があったのだろうか。口数が多すぎてかえって嘘っぽい。

争いを収めた神功皇后は仲哀天皇即位10年に摂政となり、この年を摂政即位元年とし、即位3年に誉田別皇子を皇太子としたものの、即位69年に100歳で死去するまで皇太子に帝位を譲ることはなかった。
宮は磐余(いわれ)の若桜宮(わかさくらのみや)としている。

これ以外にも新羅や百済との関係などをやけに細かくあれこれ書いているのだけど、内容ははっきりいってつまらない。
この時期に朝鮮半島との関係が密になったことを示しているのかもしれないけど、日本の歴史書に外国の事情を事細かに書く必要があったのかどうか。
ひとつ思い当たるのは、ここでいっている新羅や百済が朝鮮半島の国のことではない可能性だ。新羅や百済という名を借りて国内のことを書いている可能性はないだろうか。
『日本書紀』は神功皇后を卑弥呼になぞらえているところがあることからすると、卑弥呼の時代の話をここに放り込んでいるということもあり得るのか。
このあたりについては、『日本書紀』編纂者たちの意図がちょっと分かりづらい。明らかに意図していろいろな話を盛り込んでいるのは確かだけど、何を隠して何を伝えたかったのだろう。

記紀外にめぼしい情報はない

『古語拾遺』は簡潔ながらも神功皇后の段を設けて、磐余の稚桜の朝廷の時代に住吉大神が姿を現し、新羅を征伐して三韓初めて朝貢したと書いている。
仲哀天皇も仁徳天皇も飛ばしているのに神功皇后を入れている点は注目に値する。

『先代旧事本紀』の天皇本紀はごく短いまとめ記事で文章量は少ない。
神功皇后についても、『日本書紀』の内容を簡単にまとめたものとなっている。
仲哀天皇が即位9年に神のお告げを聞かなかったので亡くなり、新羅国を攻めて降伏させ、大和に戻ったときに
麛坂王と忍熊王が敵対したので反乱を鎮圧し、磐余の稚桜宮で摂政となり、即位69年に崩御したといったことを書いている。
これらのことは別の書に詳しくあるといっているので別巻があったのか、『古事記』や『日本書紀』のことを指しているのか。

神功皇后関連の神社について

神功皇后を祀る神社はそれほど多くないものの、神功皇后関連の神社は少なくない。
たとえば神功皇后に神懸かったとされる底筒男・中筒男・上筒男(表筒男)の住吉三神を祀る大阪府大阪市の住吉大社(web)などもそうで、第四本宮には神功皇后を祀っている。
『延喜式』神名帳(927年)に4座とあるので平安時代中期までには4柱の神を祀るという意識があったことは分かる。
ただし、『住吉大社神代記』には第四宮を姫神宮としているので、住吉大神の姫神という認識だったかもしれない。
大阪の住吉大社が住吉大神の和魂を祀っているのに対し、山口県下関市に住吉大神の荒魂を祀るとする住吉神社がある。
『日本書紀』によると、神功皇后が三韓征伐から戻ってきたときに住吉大神が現れ、我の荒魂を穴門の山田邑に祀れと託宣が下ったため、穴門直践立(アナトノアタエホンダチ)を神主にして祠を建てたとある。
『延喜式』神名帳には「住吉坐荒御魂神社三座 並名神大」とあり、長門国一宮でもあった。
その他、住吉三神よりも前に出てきた撞賢木厳之御魂天疎向津媛命を祀る神社に、兵庫県西宮市の廣田神社(web)や奈良県桜井市の撞賢木厳之御魂天疎向津姫命神社などがにある。
これは天照大神の荒魂を祀るともされる。
兵庫県神戸市の長田神社(web)は事代主神を祀っているのだけど、これも『日本書紀』に出てきた天事代於虛事代玉籤入彦嚴之事代主神を祀ったのが始まりという。

九州にも神功皇后の足跡がいくつか残っている。
神功皇后が誉田別皇子を産んだ場所とされる宇美八幡宮(web)や、生み月になったのに出産を遅らせるために陰部に入れた石を祀るとされる️鎮懐石八幡宮(ちんかいせきはちまんぐう/web)などがそうだ。
同様の石伝承は長崎県壱岐市の本宮八幡神社(web)や京都府京都市の松尾大社摂社の月読神社(web)にも伝わっている。
少し違うのだけど、名古屋の別小江神社の伝承に、神功皇后の世話をした尾張国造稲植(おわりのくにのみやつこいなだね)が神胞をいただいて尾張国の安井に帰郷した際に千本杉に祀ったというものがある。

全国の八幡神社の祭神となっているのは、子の応神天皇が八幡神として祀られたことによるところが大きい。
八幡社の総本宮とされる宇佐神宮(web)が八幡大神、比売大神、神功皇后を祀っていることから、それに倣ったところが多い。
神功皇后を主祭神として祀っている神社としては、福岡県福津市の宮地嶽神社(みやじだけじんじゃ/web)、京都府京都市の御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ/web)などがある。
福岡県福岡市の香椎宮(かしいぐう/web)はもともと仲哀天皇と神功皇后の神霊を祀り香椎廟(かしいびょう)という霊廟だったものが平安時代中期以降に神社となった珍しい例だ。

これらの神社は『古事記』、『日本書紀』が書かれた以降に建てられたものが大部分だろうけど、それでも1000年以上の歴史が積み重なっている。
記紀の話が事実ではないとしても千年の時間は現実であり、その重みがある。
嘘から出た実という言葉もある。

神功皇后は実存する

神功皇后を作られた架空の人物とは思わない。
少なくともモデルがいて、何らかの史実を反映しているに違いない。
ただ、『日本書紀』の内容は多分に創作や脚色が入っていることはまず間違いなく、では、どうしてああいった神功皇后像を作り上げる必要があったか、ということだ。
そこには誤魔化そうとした嘘と守ろうとした意思がある。
『日本書紀』は律令制を固めていく中で行われた国家的歴史書編纂事業で決していい加減なものではない。天皇家にとって不都合な真実を隠して正当性を主張するといった狭い了見で作られたものでもない。
歴史の真実を伝えるという大前提に揺らぎはなく、悪意ではなく善意で書かれたものであることは確かだ。
『日本書紀』は当時一流の人たちが集まって40年かけて作り上げた国の歴史書であり、個人的な歴史小説などとは根本的に在り方が違う。
現代の一般人レベルで考えてはいけない。
神功皇后とは何かといったことを軽々しく推理するのも違うのだけど、日本古代史の鍵を握る重要人物のひとりには違いない。
何しろ名前に”神”がついている。神の諡号が贈られた天皇は神武天皇、崇神天皇、応神天皇しかいない。
どうして『日本書紀』は神功皇后(気長足姬)を天皇扱いせず摂政としたのか。誉田別皇子が応神天皇として即位したのを何故、神功皇后が亡くなった後としたのか。生前譲位は645年に皇極天皇から孝徳天皇に行われているので『日本書紀』編纂者たちは知っていた。
その上で亡くなった後、気長足姬尊と”尊”号を贈っている。”尊”は特に貴い神のことだと『日本書紀』はいっている。つまり最大限の敬意を払っているということだ。
これが意味することは何なのか?
その問いに対する答えを私は持たない。
いずれにしても、神功皇后は”実存”する。それは絶対的な事実としてある。

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