ジングウコウゴウ《神功皇后》

2020年1月16日

ジングウコウゴウ《神功皇后》

『古事記』表記 息長帯姫大神、大帯比売命
『日本書紀』表記 気長足姫尊
別名 大足姫命皇后、大帯日姫
祭神名 神功皇后、息長帯姫命・他
系譜 (父)息長宿禰王
(母)葛城高顙媛
(弟)息長日子王
(妹)虚空津比売、豊姫
(夫)仲哀天皇
(子)誉田別尊(応神天皇)、品夜和気命(ホムヤワケ/『古事記』)
属性 初の摂政
後裔 天皇家
祀られている神社(全国) 宇佐神宮(大分県)、香椎宮(福岡県福岡市)、筥崎宮(福岡県福岡市)、住吉大社(大阪府大阪市)、宇美八幡宮(福岡県)、宮地嶽神社(福岡県福津市)、風浪宮(福岡県大川市)、御香宮神社(京都府京都市)、廣田神社、長田神社、生田神社、大分八幡宮、花岡八幡宮(山口)、大足智姫神社(愛媛県新居浜市)
祀られている神社(名古屋) 八幡社(町屋川)(緑区)、城山八幡社(大高)(緑区)、八幡社(枇杷島)(西区)、八幡神社(要町)(南区)、西八幡社(蝮ヶ池)(千種区)、泥江縣神社(中区)、八幡社(長須賀)(中川区)、下中八幡宮(中村区)、鳴海八幡宮(緑区)、八幡社(闇之森八幡社)(中区)、綿神社(北区)、城山八幡宮(千種区)

 第14代仲哀天皇の皇后で、第15代応神天皇の母。
 父は第9代開化天皇の玄孫(やしゃご)の氣長宿禰王(オキナガスクネ)、母は天日矛(アメノヒボコ)の末裔の葛城高顙媛(カツラキノタカヌカヒメ)。
 天皇直系の血を引きつつ、母方は新羅からの渡来人とされる天日矛の系統ということになる。
 仲哀天皇は日本武尊の子供なので、日本武尊から見ると息子の嫁に当たる。
 幼い頃から容姿端麗で知性に優れ、人並み外れたところがあると父親も思っていたと『日本書紀』は書いている。
 仲哀天皇即位2年に皇后となった(『日本書紀』)。
 仲哀天皇にはそれ以前に大中姫/大中津比売という妃とその息子、麛坂皇子/香坂王、忍熊皇子が、弟媛との間に誉屋別皇子(『古事記』では神功皇后の子としている)がいた。この二皇子が後に神功皇后と誉田別に対して反乱を起こすことになる。
『古事記』、『日本書紀』ともに熊襲征伐に出向いた際、神功皇后(気長足姫)が神憑りして熊襲ではなく新羅を討てと告げたのを仲哀天皇が聞き入れなかったため、仲哀天皇は謎の急死を遂げ、代わりに気長足姫が新羅をはじめ、百済、高麗まで征伐したという話が語られる。
 このとき常に付き従っていたのが大臣の建内宿禰/武内宿禰で、天皇の殯(もがり)を取り仕切ったり、気長足姫に神の言葉を伝える役割を果たしたりしている。仲哀天皇の死後10ヶ月後に誉田別尊(応神天皇)が生まれていることから、誉田別尊の父は建内宿禰ではないかという話もある。
 仲哀天皇ならびに神功皇后に新羅を討てと告げたのは底筒男・中筒男・上筒男の住吉三神で、これは天照大神の意志だと『古事記』はいっている。
『日本書紀』では中臣烏賊津使主(ナカトミノイカツノオミ)を審神者(さにわ)として神に訊ねると伊勢国の度逢縣(わたらいあがた)の撞賢木嚴之御魂天疎向津媛命(ツキサカキイツノミタマアマサカルムカツヒメ)、尾田の吾田節(あがたふし)の淡郡(あわのこおり)に居る神、天事代於虛事代玉籤入彦嚴之事代主神(アメニコトシロシラニコトシロタマクシイリビコノイツノコトシル)、それと住吉三神がいるという答えが返ってきたとしている。
『古事記』ではすぐに新羅征伐に向かい、魚たちと風の協力であっという間に新羅に辿り着き、恐れをなした新羅王は戦わずして降伏し、百済もそれにならったとしている(高麗はここでは出てこない)。
『日本書紀』は熊襲国を討ったり、羽白熊鷲という人物を征伐したり、橿日宮から松峽宮(福岡県朝倉郡)に宮を移したり、山門縣で土蜘蛛の田油津媛を殺したり、松浦縣で誓約(うけい)の釣りをしたり、神田を作って神祇を祀ったり、といった前置きがあって、その後、ようやく軍勢を整えて新羅征伐に向かうという流れになっている。
 新羅王は倭国に従うと誓い、百済、高麗もそれにならったため神功皇后一行は帰国した。
『古事記』では新羅王の家の門に杖を立てて住吉三神の荒御魂を祀ったとし、『日本書紀』は矛を立てたと書いている。いずれも支配した証ということだ。
 この後の倭国はしばらく新羅との関係が深くなるのだけど、神功皇后の母が新羅系渡来人の天日矛の末裔ということも関係があるかもしれない。
 記紀で共通しているのは、新羅征伐中にお腹の子供が臨月を迎えていたのだけど、石を腰に巻きつけて出産を遅らせたという話だ。帰国後に筑紫で出産し、そのことからその地は宇美(うみ)と呼ばれるようになったというのも記紀ともに書いている。
『古事記』はその石は筑紫の伊斗村にあるといっている。現在、壱岐の本宮八幡神社、京都の月読神社、福岡県の鎮懐石八幡宮の3ヶ所にその石があるということになっている。
 石ではないのだけど名古屋にも似た伝承が北区の別小江神社に伝わっている。
 出産の世話係をしたのが尾張国造稲植(おわりのくにのみやつこいなだね)で、帰国した稲植は神功皇后に神胞(赤ん坊を包んでいた膜)をいただいて尾張国の安井に帰郷した際、千本杉に祀り、それが今の別小江神社につながっているというものだ。
 非常に唐突な話なのだけど、それゆえにまったくの作り話とも思えないから、何らかの伝承があったのは確かだろう。尾張国造の稲植というのは建稲種命(タケイナダネ)のことだろうか。
 大和に帰ろうとした神功皇后一行を待ち受けていたのが先妻の子の香坂王・忍熊王で、両者の間で戦いが起こるという展開も記紀で共通している。
 香坂王と忍熊王は誓約(うけい)の狩りとするのだけど、香坂王は大猪に食い殺されてしまう。
 残された忍熊王軍と神功皇后軍は激しい戦いとなり、最終的には神功皇后軍が勝利を収める。
 最初は皇子(誉田別)はすでに死んだと偽り、更に神功皇后も亡くなったと偽り、いわばだまし討ちでなんとか勝ったという危うい勝利だった。
 正々堂々と戦うことが美しいとか尊いとされたのは中世以降のことだ。武士は貴族から汚れ仕事をさせられたので、せめて姿勢だけでも美しくあらねばならないという発想から来たものだろう。古代においてはだまし討ちが常套手段だったようだ。素戔嗚尊も日本武尊もそうだった。
 大和に無事帰還した一行を神功皇后が祝いの酒で出迎えたと『古事記』は書いているのだけど、応神天皇の即位や神功皇后がその後どうなったかなどについては触れていない。
『日本書紀』は神功皇后に一段を割いているので、この後の出来事をわりと詳しく書いている。
 天皇以外で一段を割り当てているのは神功皇后だけだ。明治時代までは神功皇后は初の女性天皇だったとする考え方があり、紙幣の肖像画にもなっていた。しかし、大正15年に正式に天皇ではないとされた。
 ただ、そうなると、仲哀天皇が崩御してから誉田別皇子が応神天皇として即位するまでの期間は天皇不在だったということになってしまう。そんなことがあり得るだろうか。やはり神功皇后は天皇として即位したのではないだろうか。そうでなければ国は収まらない。
『日本書紀』は摂政となったと書いており、そのままずっと神功皇后が皇太后として政治を行ったことになっている。誉田別皇子が成人しても即位することなく、神功皇后は摂政69年に100歳で亡くなったといい、その後、ようやく誉田別皇子は天皇として即位することになる。これは一体何を意味しているのか。
 神功皇后摂政時代に再び新羅を攻め、その後、百済との関係が深くなっていく。百済の肖古王から送られたとされる七支刀は奈良県天理市の石上神宮に納められているものとされていて国宝になっている。
 宮があったのは現在、稚桜神社がある奈良県桜井市池之内あたりで、『日本書紀』には磐余若桜宮とある。
 陵は奈良県奈良市山陵町の狹城盾列池上陵(さきのたたなみのいけのえのみささぎ)が宮内庁によって治定されている。遺跡名としては五社神古墳で、墳丘長275メートルの前方後円墳だ。
 住吉三神のお告げを受けたということで大阪の住吉大社で祀られる他、八幡神と同一視された応神天皇の母なので八幡社で祀られることが多い。中世には、八幡太郎こと源義家をはじめ武人の崇敬を受けた。
 足跡が西国に多いことから西日本で多く祀られている。
 主な神社としては、宇佐神宮(大分県)、香椎宮(福岡県福岡市)、筥崎宮(福岡県福岡市)、住吉大社(大阪府大阪市)、宇美八幡宮(福岡県)などがある。
 名古屋では八幡社(町屋川)(緑区)、城山八幡社(大高)(緑区)、八幡社(枇杷島)(西区)、八幡神社(要町)(南区)、西八幡社(蝮ヶ池)(千種区)、泥江縣神社(中区)、八幡社(長須賀)(中川区)、下中八幡宮(中村区)、鳴海八幡宮(緑区)、八幡社(闇之森八幡社)(中区)、綿神社(北区)、城山八幡宮(千種区)で祀られている。

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