石神社の名前の通り、石を御神体として祀っているという。 その石は隕石だという話がある。 このあたりの星﨑という地名は、石神社の西北300メートルほどのところにある星宮社(地図)が由来ともされる。 641年と1632年に隕石が落下したという記録があり、そのうちのひとつが石神社の500メートルほど南の喚續社(よびつぎしゃ/地図)に御神体として祀られていたという。 『尾張名所図会』(1844年)の付録「小治田之真清水」では、落ちてきた隕石を取り囲む人たちが描かれている。江戸期の人たちは基本的に暇だから、こういう珍しい出来事が大好きで、噂が噂を呼んで大勢の人たちが見物にやってきたことだろう。 星石と名付けられたその石は、長らく個人が所有したのち、1829年に喚續神社に奉納されたようだ。 昭和51(1976年)に国立科学博物館で鑑定してもらったところ、本物の隕石に間違いないというお墨付きをもらったらしい。 ここは笠寺台地の南端に当たり、かつてすぐ南は海だった。星﨑は海を見下ろす高台の岬で、隕石が落下したのはたまたまだったとしても、星がよく見える場所だったに違いない。 石神社は歯痛や神経痛に霊験あらたかともっぱらの評判だったそうだ。隕石に含まれていたなんらかの宇宙物質が人体に影響したなどというとSF的な妄想になってしまうだろうか。 参拝者がお礼に杓文字(しゃもじ)を奉納したことから、おしゃもじ様と呼ばれるようになった。
『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。 「創建は明かではない。明治4年10月8日、員外公許となる」 「員外公許」というのは他では見ない表現で、どういうことを意味しているのかよく分からない。一般的な据置公許とは何が違うのか。 祭神については、伊佐奈岐命としつつ、無格社調査では猿田彦命とされたようだ。どちらにしても明治以降の後付けだろう。 「いしがみ-しゃ」ではなく「いし-じんじゃ」としていることからしても、何らかの石を祀ったのが始まりではないかと思う。 『南区の神社を巡る』は「しゃく-じんじゃ」とフリガナを振っているので、氏子や地元民はそう呼んでいるのかもしれない。
江戸時代のここは本地村で、村の中心神社は星宮だった。 『寛文村々覚書』(1670年)には天王と山神二社があると書かれている。 『尾張志』(1844年)は星宮社の他に八幡社と山神社二社、社宮司社の廃址があると書いている。 シャグジは石神にも通じるのだけど、廃址ということは今の石神社とは別ということなのだろう。 『南区の神社を巡る』は、もともとは現在地より800メートルほど西の大江湊(三ツ又とも)と呼ばれた場所にあり、『尾張志』がいう下知我麻神社の摂社の社宮司ノ社がこの神社ではないかと書いている。
この石神社が民間信仰から始まったものなのか、それとも星﨑を拠点とした氏族が祀ったのかは判断が難しい。石神信仰自体は縄文時代からあったと考えられ、物部氏が石神信仰だったという話もある。 祀られている石が本当に隕石だったとすれば、それはそれで信仰対象になり得るし、神社に発展しても不思議はない。 石神とイザナギが結びついたのが思っているより古いとすれば、尾張氏系と考えられなくもない。
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、この頃は星﨑村だったことが分かる。 明治11年(1878年)に南野村が大江新田、繰出新田、八左衛門新田と合併して星﨑村となり、本地村は水袋新田と宝生新田、豊宝新田と合併して本星﨑村となった。それが明治22年(1889年)に合併して星﨑村となった(明治39年に笠寺村、鳴尾村と合併して笠寺村となり星﨑村は廃止)。 鳥居マークが初めて描かれるのは1968-1973年の地図からなのだけど、もともとこの場所にあったとしてもおかしくない。 名鉄名古屋本線の豊橋方面はもともと愛知電気鉄道だった路線で、大正6年(1917年)に有松線として神宮駅前 – 笠寺駅(現在の本笠寺駅)が開業した。同じ年に笠寺駅から有松裏駅(今の有松駅)まで延びた。 星﨑あたりが大きく変わったのは、戦後に南を国道1号線が通ってからだ。ただ、住宅地の中に入っていくと、区画整理されていない細い道が入り組んでいて、かつての町並みを残している。
それにしても、なんだかいい空気を持つ神社だ。狭小住宅(きょうしょうじゅうたく)のような神社なのだけど、四畳半一間的な居心地の良さを感じる。この神社を守り伝えてきた人たちの温もりが作りだしているものだろうか。 星宮社へ行った折などにちょっと立ち寄ってやってほしい神社だ。
作成日 2017.4.23(最終更新日 2019.8.8)
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