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サルタヒコ《猿田彦大神》

サルタヒコ《猿田彦大神》

『古事記』表記 猿田毘古大神・猿田毘古神
『日本書紀』表記 猨田彦大神・猨田彦神
別名 衢神
祭神名 猿田彦命・猿田彦大神、他
系譜 (父母) 不明
(妻?)天鈿女命(アメノウズメ)
(子) 不明
属性 導きの神、道開きの神
後裔 大田命、宇治土公(うじのつちぎみ)
祀られている神社(全国) 椿大神社(三重県鈴鹿市)、二見興玉神社(三重県伊勢市)、猿田彦神社(三重県伊勢市)、阿射加神社(三重県松阪市)、白鬚神社(滋賀県高島市)、他
祀られている神社(名古屋) 千代ヶ丘椿神社(千種区)、稲荷社(十一屋)(港区)、稲荷社(辰巳町)(港区)、社宮司社(須賀町)(熱田区)、櫻田神社(熱田区)、日出神社(大須)(中区)、豊藤稲荷神社(緑区)、大井神社(北区)、稲荷神社(古渡稲荷神社)(中区)猪子石神社・大石神社(名東区)

有名だけどよくは知らない神

 猿田彦といえば、日本神話の中でかなり知名度が高い方だと思う。アンケートを採れば10位以内に入るんじゃないだろうか。
 天孫瓊瓊杵尊(ニニギ)が降臨するときに出迎えた神で、一般的には導き、道開きの神とされる。
 しかし、それ以上詳しく説明できる人は多くないだろう。天鈿女命(アメノウズメ)とは本当に夫婦だったのか、出身地はどこだったのか、どういう死に方をしたのか、後裔氏族は誰なのかなど、訊かれて即答できる人は少ないはずだ。
 そのあたりについて、私自身自分の頭の中を整理するために記紀その他を詳しく一から見直していくことにしよう。
 まずは『古事記』から見ていくことにする。

 

『古事記』はわりとあっさりしている

 国譲りはなんだかんだで手間と時間がかかってようやく日子番能邇邇芸命(ヒコホノニニギ)が葦原中国に降りるとなったとき、天の八衢(やちまた)に上は高天原を下は葦原中国を照らす神がいた。
 それを見た天照大御神(アマテラス)と高木神(タカギ)は偵察兼交渉役に天宇受売神(アメノウズメ)を選んだ。か弱い女性ではあるけど面と向かっても勝てるからというのが選ばれた理由だった。
 天宇受売神は天神の御子が降臨する道にいるのは誰かと問うと、僕(やつがれ)は国津神で名を猿田毘古神だと答えた(僕者國神、名猨田毘古神也)。
 天神の御子が降ってくると聞いて、御前に仕へようと出向いてきたのだという。

『古事記』ではこの後、猿田毘古神がニニギを導いたという具体的な記述はなく、五伴緒(いつのとものお)など様々な神を付けられてニニギは竺紫(つくし)の日向(ひむか)の高千穂の久士布流多気(くしふるたけ)に天降ったという話の流れになっている。
 そしてニニギは天宇受売命に、御前に仕えた猿田毘古大神はその正体を明らかにしたおまえが猿田毘古の名を背負って仕えるように命じたといっている。
 このことがあって、後にこの一族は猿女君(サルメノキミ)と呼ばれるようになったとも書いている。

 場面は変わって唐突に猿田毘古神の死が描かれる。
 阿邪訶(あざか)にいるとき漁をしていたら比良夫貝(ひらふがい)に手を食われて溺れ、そのまま海の底に沈んでしまったというのだ。
 底に沈んだときの名を底度久御魂(ソコドクミタマ)、泡になったときの名を都夫多都時(ツブタツミタマ)、泡がはじけたときの名を阿和佐久御魂(アワサクミタマ)というというと、よく分からないことをいっている。
 猿田毘古神が死んだとはっきり書いていないものの、天宇受売命は送り届けて帰ってきた(於是送猨田毘古神而還到)といっているので、やはり死んだという設定なのだろう。
 この後、天宇受売命は様々な魚を集めて、おまえたちは天神の御子に仕えるかと問いただす場面が描かれる。ほとんどの魚は仕えるという中、海鼠(なまこ)だけが答えなかったので小刀で海鼠の口を裂き、これ以降、志摩国の初物の魚介類が猿女君によって献じられるようになったといっている。
 ちょっと分からないのは、猿田毘古神は阿邪訶の海で溺れたとしつつ、天宇受売命は送って還ってきて魚介が猿女君によって献じられるようになったという話の展開だ。どうしてここで突然、志摩国の話になったのだろう?
 猿田毘古神を送ったのが伊勢国だとして、天宇受売命が還ってきたのが志摩国では辻褄が合わない。志摩国は伊勢国より東で、大和国に戻る途中でもない。
 志摩国は古くから伊勢の神宮(web)に神饌を奉納する御贄地(みにえどころ)とされていたという事実を反映したものだろうか。

 以上が『古事記』が描く猿田毘古神だ。なんか知ってる話と違うと思った人も多いんじゃないだろうか。
 猿田毘古神の特徴に関する記述もなく、あっさりした内容になっている。

 その中でもまず気になったのは、猿田毘古神が天宇受売神に正体を問われたときに、自分のことを”僕”と称している点だ。
 今なら男性が自分のことを僕(ぼく)というのは普通だけど、古代において僕は”やつがれ”といい、自分をへりくだっていう言い方だ。時代が進んで下僕や下男といった使われ方をするようになり、近世以降は一般的な男性の代名詞となった。
 天宇受売神が選ばれた理由についてだけど、”面勝神”の意味がもうひとつよく分からない。一般的には面と向かっても気後れしないといった意味とされているのだけど、面で勝つとはどういうことなのか。顔で勝負したら負けないということなのか、天宇受売神は強面(こわもて)だとでもいうのか。
 猿田毘古神は天宇受売神と結婚したと思っている人もいるだろうけど、『古事記』はそういう書き方をしていない。猿田毘古神の名を背負って仕えるようにとニニギに命じられている。天神が国神に仕える例はあまりない。
 猿女君の由来については上に書いたとおりで、あくまでも天宇受売神の子孫ことで猿田毘古神一族を指すのではないことに留意する必要がある。
 婚姻していないのだから当然、猿田毘古神と天宇受売神の間に子供はいない。

 猿田毘古神の死の場面についても非常に唐突な印象を受ける。
 阿邪訶(あざか)については現在の三重県松阪市とされ、『延喜式』神名帳(927年)に載る「阿射加神社三座」(名神大社)のあたりと考えられている。
 現在、三重県松阪市には小阿坂町と大阿坂町に阿射加神社があり、それぞれが論社とされている。
 祭神の三坐についてはいくつか説があり、『古事記』がいうところの底度久御魂、都夫多都時、阿和佐久御魂とされたことや、龍天大明神、神明社(アマテラス)、熊野社と考えられていた時代もあった。
 現在は猿田彦大神、伊豆速布留神、竜天大神の三柱を祀るとしている。
 それにしても、貝に手を食われて溺れるというのはどう考えても隠喩だろうから、神名とともに何かを伝えようとしていると考えるべきだ。
 阿邪訶の地名も、単に伊勢国の阿邪訶という場所で起きた出来事というわけではなく、何か意味がある。

 

『日本書紀』の設定が意味するものとは

『日本書紀』の猿田彦大神は九段の異伝の中で語られる。
 九段は国譲りから天孫降臨までの話なのだけど、本文に猿田彦大神の話はない。出てくるのは一書第一の最後で、それが唯一の出番だ。猿田彦大神に関する異伝はない。
 天津彦彦火瓊瓊杵尊(ニニギ)が天降るに先立って様子を見に行った者が戻ってきて報告するには、天八達之衢(あめのやちまた)に神がいて、その様子はというと、鼻の長さが七咫(ななあた)、背の高さが七尺(ななさか)の大男で、口の端は光り、目は八咫鏡(やたのがかみ)のように輝き、まるで赤酸醤(あかかがち=ホオズキのこと)のようだという。
 そこで同伴の神々たちを遣ったところ恐れて誰も目を合わすことができなかった。
 次に選ばれたのが天鈿女(アメノウズメ)で、おまえは”目勝者”だから行って問いただしてくるよう命じられた。
 すると天鈿女は乳を露わにして帯を臍(へそ)の下まで下げて嘲笑い(咲㖸)ながら 向かっていった。衢神(ちまたのかみ)は天鈿女よ汝は何故そんなことをするのかと問いかけた。
 それはそうだろう。いきなり女が裸で笑いながら向かってきたら驚く。しかし、どうしてまだ名乗ってもいない天鈿女の名前を知っていたのだろう。
 対して天鈿女は、この道は天照大神の子が通るところだ。そこにいるのは誰だと問う。答えて衢神は天照大神の子が降ってくるので迎えにきたのだ。我が名は猨田彦大神であると。
 重ねて天鈿女が問う。汝が先に行くか我が先に行くか。衢神答えて我が先に行く。
 更に天鈿女は問う。汝はどこへ行くのか。皇孫はどこへ行くのか。衢神答えて、天神の子は筑紫日向高千穗槵觸之峯へ、我は伊勢之狹長田五十鈴川上へ行く。
 続けて、我を顕わにした汝が我を送って欲しいと。
 天鈿女は戻って以上のやりとりを報告した。
 猿田彦神の言葉通り皇孫ニニギは筑紫日向高千穗槵觸之峯に天降り、猿田彦神は天鈿女命に付き添われて伊勢の狹長田の五十鈴川上に戻った。
 こういういきさつがあったので、皇孫は天鈿女命に対してこの神(猨田彦神)の名を姓とするように命じ、猿女君と呼ばれるようになったという。

 以上が『日本書紀』が伝える猿田彦大神の話だ。
『古事記』との違いでいうと、猿田彦大神の外見的特徴を描いている点と、猿田彦大神の死についての記述がない点が挙げられる。猿女君の由来については共通している。
 もうひとつよく分からないのは、天鈿女命のその後だ。伊勢国まで送り届けた後どうなったか書いていない。猿田彦の妻になったとも、戻ったともないのでなんともいえない。
『古事記』でははっきり猿田毘古神に仕えるように命じられているのに対して『日本書紀』はそのあたりが曖昧になっている。
 最大の謎は、天鈿女命のキャラ設定だ。なんですぐ裸になる。裸芸の走りか?
 ただ、天照大神の岩戸隠れの場面で裸になるのは『古事記』の天宇受売命(アメノウズメ)で、『日本書紀』の天鈿女命は裸になっていない。
 天孫降臨の場面ではそれが逆転している。『日本書紀』があえて乳を顕わにしたと書いているのは何らかの意図があったはずだけど、当時の人の感覚はよく分からない。
 性的な関係があったことを示唆しているという説もあるけど、だとしたら『古事記』が書かなかった理由が説明できない。

 

記紀以外も記紀に準じている

『古語拾遺』は『日本書紀』の丸写しで、『先代旧事本紀』は『日本書紀』と『古事記』の合わせ技となっており、二書ともに目新しい情報はない。
 ここまで異伝が伝わっていないということは、元ネタがひとつなのか、誰かが話を作ったかだ。

『新撰姓氏録』に猿田彦神の名は見当たらない。
 ただ、猿田彦を祀る神社の関係者は猿田彦の後裔を自認していることから、猿田彦には妻も子もいたことが考えられる。記紀の記述からすると、それは天鈿女ではない。
 地元の伝承では天鈿女と婚姻したという話も伝わっている。

 

猿田彦神の後裔について

 鎌倉時代中期に神宮外宮の神官だった度会行忠(わたらいゆきただ)らが編纂したと考えられている『倭姫命世記』(やまとひめのみことせいき)にはこんな話が書かれている。
 天照大神を祀る地を探して巡り歩いていた倭姫命に猿田彦神の子孫を名乗る大田命(おおたのみこと)が五十鈴川の川上一帯の土地を献上し、それが伊勢の神宮創建につながったというものだ。
 大田命の子孫は宇治土公(うじのつちぎみ)を称して代々伊勢の神宮の玉串大内人(たまぐしおおうちんど)を務めたという。
 玉串大内人というのは、玉串などの供御(くご)の物をつかさどる役職で、式年遷宮の際には重要な心御柱と御船代を造る役割を担ったとされる。
『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』には猿田彦大神は宇遅土公氏遠祖の神なりという記述もあり、『神名秘書』などは大田命は興玉神の別称としている。
 大田命は数は多くないものの東北から九州にかけての幅広い地域で神社の境内社に祀られていることから、猿田彦神の後裔もしくは、宇治土公氏の家系を自認する一族が一定数いたと考えられる。
 うちの大田家もこの系統という話を聞いているのだけど本当かどうかは分からない。

 

猿田彦神の神社

 猿田彦神を祀る神社の総本社は、三重県鈴鹿市にある椿大神社(つばきおおかみやしろ/web)ということになっている。ここが『延喜式』神名帳(927年)の椿大神社に当たるとされる。
 伊勢の神宮は別格で、伊勢国の一宮は椿大神社だった。
 社伝によると、猿田彦神が阿邪訶で命を落とした後、伊勢国のこの地に葬られ、倭姫命に下った神託により墓の近くに社を造営したことが始まりといっている。
 現在の椿大神社でいうと、本殿に向かう途中の参道脇にある高山土公神御陵がそれだという。
 史料上の初見は、奈良時代前期の天平20年(748年)、『大安寺伽藍縁起並流記資財帳』とされる。
 同じ鈴鹿市内にある都波岐神社・奈加等神(つばきじんじゃ・なかとじんじゃ)が延喜式内社の椿大神社とする説もある。

 猿田彦神を祀る神社でいうと、伊勢の神宮近くにある猿田彦神社(三重県伊勢市/web)がよく知られている。
 もともと伊勢の神宮の玉串大内人だった宇治土公氏が邸宅内で屋敷神として祀っていたものを、明治になって神官の世襲が廃止されて屋外で祀るようになったのがこの神社だ。なので神社としての歴史は新しいといえば新しい。

 もうひとつ、猿田彦神関連で重要な神社が夫婦岩で知られる二見にある二見興玉神社(ふたみおきたまじんじゃ/web)だ。
 夫婦岩の沖合700メートルの海中に沈む興玉神石を拝するために作られた神社で、かつてはお伊勢参りをする人はまず二見のここに立ち寄って海水で禊ぎをするのが習わしだった。
 この地が天孫降臨の際に猿田彦神が立っていた場所という伝承がある。

 中世になると、導きの神ということで道祖神と結びついたり、近世には”猿”つながりで庚申信仰の神ともされた。
 そちらの関係で明治の神仏分離令以降に庚申の神を猿田彦神として存続させたところも少なくない。

 名古屋で猿田彦神を主祭神として祀っているところとしては、北区の猿田彦社(六が池町)や中区齋宮社(中須)、熱田区の瑞光宮があるものの、古くからサルタヒコを祀るとしていたところはほとんどないのではないかと思う。
 椿大神社の名古屋分社とされる千代ヶ丘椿神社では天鈿女命とともに祀っている他、港区の稲荷社(十一屋)、港区の稲荷社(辰巳町)、熱田区の社宮司社(須賀町)、熱田区の櫻田神社、中区の日出神社(大須)、緑区の豊藤稲荷神社、北区の大井神社、中区の稲荷神社(古渡稲荷神社)で祭神に名を連ねている。
 猪子石村(いのこしむら)の名前の由来となったとされる牡石(猪子石神社)と牝石(大石神社)のうち、牡石で猿田彦神を、牡石で天鈿女命を祀るという話もある(猪子石神社・大石神社)。

 

白鬚伝説と猿田彦神の関係は?

 個人的に気になっているのが、白鬚神社との関係だ。
 滋賀県高島市の白鬚神社(web)は滋賀県最古の神社とされ、猿田彦命を祀っている。
 本来は神社裏手の比良山(ひらさん)を神体山としたのが始まりで、猿田彦神は後付けというのが通説となっているのだけど、まったく縁もゆかりもない地に唐突に猿田彦神が祀られるとも思えず、何らかの関わりがあったのではないかと思う。
 ちょっと面白い話として、年を取って白鬚のおじいちゃんになった猿田彦神が琵琶湖が気に入って釣りをして過ごしたという伝承だ。
 猿田彦は溺れ死なずに琵琶湖で余生を過ごしたというのはなかなか素敵な話だ。
 白鬚伝説は近くの水尾神社(滋賀県高島市)や武蔵国にもあることから、何か元になる話があったと考えられる。
 白鬚伝説と猿田彦神とのつながりは正直よく分からないながらも、ずっと気になっている。

 

ただの神ではなく大神であること

 記紀ともに猨(猿)の字を当てていることから、どうしても動物の猿のイメージが強くなってしまうのだけど、どうして猿田彦は猿だったのだろう? 動物の猿と関係があるのかないのか。
 猿田の”田”は何を意味しているのか。まさか田んぼの田ではないだろうけど、他に田の付く神はいないので類推できない。
 後裔を自認する大田命の田も田んぼのことではないとすると、大田は大きい田という意味ではないことになる。
 猿は昔話によく出てくる。「さるかに合戦」や「桃太郎」のお供としても登場していて、それらは何かの象徴に違いない。
 猿を神の使いとするのは日枝山で、愛知県の三河には猿投山もある。
 景行天皇が猿をかわいがって常にそばに置いていたのだけど、伊勢に行幸した際にその猿が悪さをしたので怒って伊勢の海に投げ捨てたところ、三河まで泳いでいって鷲取山に逃げ込んだことから猿投山と呼ばれるようになったなどという話もある。更に、この猿は人に化けて日本武尊(ヤマトタケル)の東征に従い武勲を挙げたという後日談さえ作られた。
 それらの逸話と猿田彦神の直接的な関係はないにしても、猿田彦神が猿の字を当てられたことと間接的なつながるがあるような気もする。

 猿田彦神の容姿について、『日本書紀』は書いて『古事記』は書かなかったのがやはり引っかかる。逆なら違和感はない。
『古事記』が書いていないことを『日本書紀』が書く場合、嘘とはいわないまでも脚色の疑いが強い。
 鼻の長さが七咫、背の高さが七尺というというと、身長は2メートルを超える。長い鼻を持ち、口の端は光り、目は八咫鏡のように輝いてまるでホオズキ(赤酸醤)のようという特徴は何をいわんとしているのだろう。
 こういった容姿から後の天狗のモデルになったともいわれる。

 衢(ちまた)の神としている点についても何か意味がありそうだ。
 八衢(やちまた)といえば、多方向に枝分かれした辻のことだ。
 運命の分かれ道という言葉あるけど、その場所に立って天孫を正しい道に導いたのが猿田彦神であったなら、
それは大きな功績といえる。

 気になったことを思いつくままに書いておくと、興玉神(おきたまのかみ)とは何か、ということもある。
 二見興玉神社のところでも書いたように、夫婦岩の沖合にある興玉石は猿田彦神が降り立った地とされ、そこに社が建てられた。
 伊勢の神宮を参拝する前に人々はこの海で禊ぎをしたというのも何かを示している。
 伊勢の神宮の内宮でも興玉神を祀っており、所管社30社のうちの第二位(第一位は滝祭神)となっており、神宮の重要な祭祀である神嘗祭と月次祭では神職たちがまず興玉神で祭祀を行うことから始められる。
 特徴的なのは、伊勢の外ではなく内で猿田彦神を祀っているということだ。大国主神(オオクニヌシ)や大物主神(オオモノヌシ)などとの違いがそこにある。
 伊勢の地主神だからという説もあるけど、それだけではないように思う。
 天皇もしくは天皇家は猿田彦神に対してやけに気を遣っているように感じる。恩義を感じているのか、敬意を表している。祟りを恐れて鎮めているのとは違う。
 そのあたりの関係性が反映されて記紀の神話が作られたのではないだろうか。
 見方を変えれば、猿田彦が伊勢にいたから天照大神を祀る神宮は伊勢に建てられたという言い方ができるかもしれない。
 猿田彦神後裔の大田命が五十鈴川の川上一帯の土地を献上したという伝承も、この時代に行われた国譲りに他ならない。
 だから猿田彦は単なる神ではなく”大神”なのだ。大神と称されるのは天照大神や猿田彦大神などに限られる。

 

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