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窯神社

民吉が祀り民吉が祀られる

読み方かまがみ-しゃ
所在地瀬戸市窯神町112番地 地図
創建年1811年(江戸時代後期)
旧社格・等級等旧無格社・十五等級
祭神火具土神(ヒノカグツチ)
菅原道真(すがわらのみちざね)
加藤民吉(かとうたみきち)
アクセス名鉄瀬戸線「尾張瀬戸駅」から徒歩約10分
駐車場あり
webサイト
例祭・その他せともの祭 9月第3土・日
神紋
オススメ度
ブログ記事

加藤民吉の遙拝所

 磁祖と呼ばれた加藤民吉を祀る神社のように思われがちだけど、実際は加藤民吉が創建した神社だ。
 創建といっていいのかはやや微妙で、もともとは遙拝所だった。

『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。

文政11年(1811)磁祖加藤民吉製品の完成を祈願のため太宰府天満宮と火具土神を祀るに始まる。
文政7年(1824)民吉歿すと郷人その偉業を徳として彼の霊を併祀した。
明治6年据置公許となる。
昭和39年9月、本殿、拝殿を改築する。

 神社境内にある由緒書は少し違っている。

窯神神社は、磁祖加藤民吉翁が信仰していた秋葉大権現・天満威徳天神・金比羅大権現三神の遥拝所建立を申請し、文政七年(1824)五月尾張藩の許可を得て、翁の窯場背後の山上に祀ったのが始まりであります。その後に民吉翁が合祀され、「やきもの」の神社として市民の崇敬を受けています。

 やや誤解を生む部分もあるので補足したい。
 まず、『愛知縣神社名鑑』がいう祭神の火具土神(ヒノカグツチ)と菅原道真は明治以降のことで、加藤民吉の意識としてはそうではなかったかもしれないということだ。
 江戸時代の人にとっての秋葉大権現はおそらく記紀神話に登場するカグツチではない。
 秋葉権現は火の神というよりも火伏せや火除けの神として信仰されていた。
 ”天満威徳天神”は菅原道真のこととするのが通説だけど、加藤民吉が実際にそう認識していたかどうかは分からない。
 太宰府に流されて死去した後に都で異変が相次いで菅原道真は怨霊扱いになり、時代を経ることで学問の神となっていったわけだけど、江戸時代後期の陶工にとっての天満天神がどういう存在だったのかは想像が出来ない。
 金比羅大権現をどういう神として信仰対象としていたのかもよく分からない。
 一般的には水の神とされることが多い。
 加藤民吉がどういう思いでこれら三柱の神の”遙拝所”を建てたのかも分からない。

 時期の違いについても気になる。
『愛知縣神社名鑑』は1811年に「製品の完成を祈願のため太宰府天満宮と火具土神を祀るに始まる」といっているのに対して、神社の由緒書は「磁祖加藤民吉翁が信仰していた秋葉大権現・天満威徳天神・金比羅大権現三神の遥拝所建立を申請し、文政七年(1824)五月尾張藩の許可を得て、翁の窯場背後の山上に祀ったのが始まりであります」といっている。
『愛知縣神社名鑑』がいう1811年というのがどこから出てきた話なのか不明なのだけど、加藤民吉が九州の修行から瀬戸に戻ったのは1807年なので、その4年後に当たる。
 時期としては中途半端な感じがするけどどうなんだろう。
 神社由緒がいう1824年の5月は、民吉が亡くなる直前だ。民吉は1824年7月に死去している。
 民吉が合祀されたのはその2年後の1826年という。

 この神社は謎らしい謎も裏もないのだけど、このあたりの創建のいきさつがはっきりしない。
 何故、民吉はこれらの神を祀る社ではなく遙拝所を建てたのか。
 遙拝所を建てるのに尾張藩の許可が必要だったというのも、ちょっと不思議というか違和感を抱く。

 なお、社名については『愛知縣神社名鑑』が「窯神社」としているのでここではそれにならうことにする。
 神社の社号標などは「窯神神社」となっているので、もしかしたら今は「窯神神社」が正式名なのかもしれない。

江戸時代の書では

 上に書いたように、神社としての窯神社の成立がいつだったのかがはっきりしないことを頭に入れつつ、江戸時代の書を確認してみることにする。
 1670年頃の『寛文村々覚書』には当然載っておらず、1822年完成の『尾張徇行記』にも窯神社に相当するような神社の記述はない。
 神社由緒書がいうように遙拝所として許可が下りたのが1824年ならそうだろう。
『尾張志』の完成は1844年だから載っていてもおかしくはないのだけど、瀬戸村の神社は深川神社しか載っていない。
 その他の瀬戸村の神社がないのは載せ忘れたのか、私の調べ方が足りていないのか。
 少し気になったのが、深川神社のところに「陶彦ノ社」が載っていて、これは現在の深川神社と並ぶ陶彦社のことなのだけど、「文政七年申十月おほやけに申□ひて藤四郎春慶の靈をまつる」といっていることだ。
 藤四郎春慶は鎌倉時代に瀬戸竃を開いて陶祖と呼ばれる加藤四郎左衛門景正のことで、藤四郎とも呼ばれている。
 この加藤藤四郎を陶彦ノ社に祀ったのが文政7年10月といっていて、窯神社の由緒は同じ文政7年5月に尾張藩の許可を得て遙拝所を建てたとしている。
 これは連動しているのかどうなのか。
 いずれにしても、江戸時代の地誌から窯神社についての情報は得られなかった。

 瀬戸村については深川神社の項であらためて詳しく見ることにしたい。  

加藤民吉はいかにして磁祖となったか

 加藤民吉は江戸時代中期の1772年、瀬戸村の大松窯という窯元の二男として生まれた。
 瀬戸で本格的な窯業が始まったのは鎌倉時代前期の12世紀頃とされている。
 陶祖と呼ばれる加藤四郎左衛門景正が生まれたのが1168年頃とされるのでその頃のことだ。
 時代は流れて江戸時代中期になると肥後国有田(佐賀県)の伊万里焼などの磁器におされて陶器しかなかった瀬戸竃は衰退の道を辿っていた。
 そのため、瀬戸では生産を制限せざるをえず、窯元の長男のみに作陶が許され、二男以降は作陶することができない状況になっていた。
 二男だった民吉は父の吉左衛門らとともに熱田の新田開発(熱田前新田)に従事することになる。
 これが1801年というのだけど、民吉は1772年生まれとされるので30歳近くになっている。それまで何をしていたのかは気になるところだ。
 そこで熱田奉行で新田開発の担当者だった津金文左衛門胤臣(つがねぶんざえもんたねおみ)と出会い、この人物が民吉の人生を大きく変えることになる。

 陶工の一族で農作業には向いてなかったのだろう。
 彼らの様子を見て声を掛けた津金胤臣は、なるほどそういうことかと事情を知り、それなら熱田で竃を開いてみないかと持ちかけた。
 津金胤臣は持っていた染め付け製法が書かれた本と資金を与え、民吉たちは試作を始めた。
 しかし本だけでは情報不足で品質は有田焼に遠く及ばず、これはもう現地で学んでくるしかないだろうということになった。
 その前に、瀬戸の陶工たちが瀬戸以外で竃を開くのを反対してすったもんだがあって、竃は瀬戸に移すことになった。

 この後の話は長くなるので省略してしまう。
 最初はツテを頼って九州の天草へ行き、あちこちを巡って知識と情報を得て1807年に瀬戸に戻った。
 出発したのが1804年なので、3年ちょっとという期間だった。
 瀬戸において染め付け磁器の製法を完成させ、尾張藩主に献上もした。
 そのことで染付御用達になり、一代限りの苗字御免も与えられている。

 こうして瀬戸焼は陶器だけでなく磁器も生産出荷できるようになり、瀬戸焼は復活を遂げることとなる。
 陶祖と呼ばれた藤四郎に対して加藤民吉が磁祖と呼ばれるのはこういう経緯があったためだ。

せともの祭の雨は涙雨?

 瀬戸市最大のイベントである「せともの祭」は昭和7年(1932年)に民吉への感謝祭として始まったものだ。
 瀬戸川沿いに陶器を始め、たくさんの出店が並び、近年はイベントや打ち上げ花火なども行われている。
 現在、せともの祭は9月の第2土・日曜日に開催される。
 以前は9月の第3土日だった。
 せともの祭は必ず雨が降るというジンクスのようなものがあって、それはもう見事に雨が降る。時期的によくないんじゃないかと一週変更してみたものの、やはり雨は降る。
 それにはこんな伝承がある。

 磁器の製法を学びにいった民吉は、跡取りにしか伝えられない秘伝の製法を得るために窯元の娘婿になり、知識を得ると妻子を置いて瀬戸に戻ってしまった。
 残された妻子は民吉がいる瀬戸を訪ねてみると、瀬戸には民吉の本妻と子がいて、それを知った九州の現地妻は子とともに池に身を投げた。
 だから、民吉に感謝するせともの祭には現地妻と子の嘆きの涙として雨が降るのだと。

 この話はかなり昔から語られてきたもので、わりと本気で信じている人も多いようなのだけど、ちゃんと調べるとそんなことはないことが分かる。
 現地でそういった妻がいたという記録もなく、瀬戸には妻(みつ)はいたものの、跡取り息子はおらず、ひとり娘(里登)も早くに亡くしている。
 民吉は窯元の娘を騙して産業スパイのようなことはしてないし、重婚でもないので、これはやはりお話でしかないと思う。
 ただ、話のネタとしては面白くて誰かに話したくなるので、この伝承はこの先もずっと語られ続けるのだろう。

陶器と磁器の違いは?

 陶器と磁器の違いは見た目で分かる。
 厚みがあって表面がザラザラしたのが陶器、薄くて表面がツルっとしたのが磁器だ。
 製法ではなく成分の違いなのだけど、違いを詳しく説明できる人はそれほど多くないと思う。私も知らなかったので調べてみた。

 焼き物は通常、粘土、長石、珪石の3つを成分としている。
 陶器は主に粘土から成り、磁器は珪石を細かく砕いたものから作る。
 しかし、完全に粘土だけだともろくなり、逆に珪石だけでも割れやすくなるので、どちらも珪石や粘土を混ぜ込む。
 要は3つの成分の割合が違うだけということになる。
 長石は珪石を溶かす役割なので、長石を多くすることで磁器になる。
 民吉が学んだのはこういった成分の割合だったということだ。
 分かってみればそんなこととなるのだけど、小さな差が結果として大きな差になる。
 細かいことをいうと、磁器の方が高い温度(1300-1400度)で焼かれるということもある。

民吉が残したもの

 名鉄瀬戸線の終点「尾張瀬戸駅」から北へ10分ほど歩くと窯神社の入り口に着く。
 けっこうな上り坂で、自転車で行くのはわりとしんどい。
 そこから更に長めの石段を登っていくので疲れる。
 神社はちょっとした公園のようになっていて、展望台もあるので、瀬戸の市街地を見下ろすこともできる。
 夜景はそれなりにきれいかもしれないし、せともの祭の花火を見物するにもよさそうな場所だ。

 現在の社殿は丸竃を模したコンクリート造の変わった姿をしており、その中に檜造の社が収まっている。
 昭和39年(1964年)に建て替えられたものだ。
 以前は藤四郎を祀る陶彦社の旧社殿を移築したものだったのが、大正14年(1925年)に放火で焼失している。
 加藤家の縁者の犯行で、みすぼらしいから燃やせばもっと立派なものに建て替えられるのではないかと思ったらしい。
 しかし、この時代の瀬戸は窯業が傾いていて再建の資金が集まらず、戦争もあって、ようやく再建が成ったのが昭和39年だったというわけだ。

 駅から神社へ向かう途中に、加藤民吉屋敷跡の石碑が建っており、一部が広場として残されている。
 おそらく竃もここにあったはずで、その上の山に遙拝所を建てたということだろう。
 神社の裏手は陶土や珪石の採掘場となっている。
 民吉が亡くなったのは九州修行から戻った17年後で、53歳(享年)だった。
 窯元の跡取りでもない次男坊として生まれ、何の因果か一発逆転で瀬戸の窯業を救って磁祖と呼ばれて歴史に名を残し、神社にまで祀られている。
 まずは恵まれた人生といっていいんじゃないかと思う。

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