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八王子神社(白岩町)

白岩の地名由来が気になる

読み方はちおうじ-じんじゃ(しらいわちょう)
所在地瀬戸市白岩町385 地図
創建年不明(1848年?)
旧社格・等級等旧村社・十四等級
祭神天之忍穂耳命(アマノオシホミミ)
天津彦根命(アマツヒコネ)
活津彦根命(イクツヒコネ)
天穂日命(アマノホヒ)
田心姫命(タゴリヒメ)
市杵島姫命(イチキシマヒメ)
熊野久須毘命(クマノクスヒ)
湍津比売命(タギツヒメ)
アクセス名鉄バス「白岩町」下車すぐ
駐車場なし
webサイト
例祭・その他例祭 10月16日に近い日曜日
神紋
オススメ度
ブログ記事

山道を行けば辿り着くけど

 名鉄瀬戸線の尾張瀬戸駅から北方面へ自転車で行くと(そんな人はあまりいないと思うけど)、古瀬戸町のあたりからだんだん坂道がきつくなり、品野町2丁目交差点の手前あたりでいったんピークを迎える。
「品野坂上」という名前のバス停を見て、知っていますと心の中でつぶやく。
 2kmで標高差が150mほどあるので、けっこうな坂道だ。
 ゴリゴリのロードバイクさんからすればそんなもん坂のうちに入らんぞとお叱りを受けそうだけど、一般人レベルでは変速機なしのママチャリでは登り切れないくらいだと思う。
 そこから岩屋堂方面へ行くと更に坂が続き、岩屋堂へ行く度に、こんなところ自転車で来るところじゃないなと思う(しばらくすると忘れてまた行ってしまうのだけど)。

 しかし、私の認識はまだまだ甘かった。品野交番前交差点を右折して上品野に入り、そこを過ぎて白岩、片草へと至る坂道はとんでもなかった。瀬戸をナメてましたすみませんと心の中で謝りながら時速5kmくらいのスピードでヨロヨロしながら青息吐息で自転車を漕ぎ続けることになった。
 かつて信州街道などと呼ばれた363号線は瀬戸から土岐へ抜ける峠道で、つづら折りになっていても勾配がきつく、どう考えても自転車には向かない道だ。
 自転車で走るとしたらロードバイクの人が鍛えるために行く道で、実際ひとりのロードバイクの人に追い抜かれたのだけど、その人はダンシング(立ち漕ぎ)しながら軽快に登っていった。
(全然関係ない情報だけど、YouTubeのまさ / 高倉正善)チャンネルのファンで、まささんとイモティーの姿に勝手に励まされている。あのチャンネルを見なかったら私の奥瀬戸自転車行きは実現していなかったかもしれないくらいの恩人だ。)
 私の自転車は瀬戸の山道にも対応できる極太タイヤのMTB(愛称はミヤタさん)なので、その分のハンデもあった。
 結局、この日は7時間くらいかけて瀬戸の奥地の神社をまとめて10社くらい回ったのだけど、最後はサイクリンハイ状態になってどこまでも漕ぎ続けられるような気がする危険な状態だった。
 夜は足がつって大変なことになった。

 そんな印象深い白岩・片草行きだったのだけど、神社自体の印象はさほど強いものではなかった。
 八王子神社も、上り階段のあたりは覚えていても、社殿の様子や境内の映像は思い浮かんでこない。
 疲労で意識が半分飛んでいたかもしれない。まだ夏が続く9月で気温が35度以上だったし。

 史料や写真などを見つつ、なんとか思い出しながら書き進めていくことにしよう。

白岩の地名由来は?

 白岩(しらいわ)の地名の由来がずっと気になっている。
 字面からすると白い岩が関係すると考えるのが自然だけど、実際にそうとは思えない。
『尾張徇行記』(1822年)は、「左右ニ兀山アリテ其色白シ、村名白岩ト唱フルモ不宜へ乎」といっている。
 左右というのは信州街道の左右で、そこの”はげ山”の地肌が白いから白岩というようになったのか、といった意味だ。
 ただ”不宜”、よろしからず、というのがちょっと分からない。
 そもそも、このあたりの山だけが白いというのはちょっと考えにくいし、山肌が白いから白岩というのも変だ。
 それなら白山から城山に転じるなどした方があり得る話に思える。
 たとえ村の中に白い岩があったとしても、それが村名になるかといえばそれもどうだろう。
 白岩は当て字で”しらいわ”が先かもしれないけど、津田正生は『尾張国地名考』の中で「地名正字なるべし」と書いている。
 つまり、江戸時代人の感覚では当て字ではなく正字という認識だったということだ。
「織田信雄分限帳」に”しら岩ノ郷”があるそうなので(未確認)、”しらいわ”という地名が戦国時代にはすでにあったようだ。
 何らかの磐座信仰があって、それが必ずしも白色ではなくても、白の磐座があって白岩がある場所ということから白岩村になったというのはあり得そうだ。
 いずれにしても、祭祀やカミマツリに関係していそうな気がしている。

八王子を祀るということ

『尾張国地名考』で津田正生はこうも書いている。
「白岩・片草も旧品野の一郷なるべし」
 この”旧品野”が品野(科野郷)全体のことをいっているのか上品野のことなのかは判断ができないのだけど、地理的に見て上品野の支村という位置づけから始まっている可能性はある。
 ただ、そうなると、どうして白岩で八王子を祀ったのかだ。
 品野地区全体を見ても八王子を祀っている神社はない。境内社で祀っている(いた)ところはあるかもしれないけど、主祭神として祀る八王子社はない。もしくは現存していない。
 瀬戸全体で見ると八王子社が多くて、瀬戸は八王子の土地という言い方ができる。瀬戸の中心的な神社である深川神社や式内社とされる赤津の大目神社も江戸時代までは八王子と称していた。
 もし最初から白岩で八王子を祀っていたとすると、上品野の支村などではなくもともと独立した古い集落だったとも考えられる。

『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。

社伝に嘉永元年(1848)創建と言う。
『尾張志』に白岩に八王子社ありと記るす。
明治5年5月村社に列格する。

 幕末の1848年創建というのはいくらなんでもあり得ない。
 社伝にそうあるとしても、それは修造とか再建だろう。

江戸時代の書に見る白岩村と八王子

 江戸時代の地誌に白岩村がどう書かれているかを順番に見てみる。
 まずは『寛文村々覚書』(1670年頃)から。

家数 七軒
人数 四拾弐人
馬 三疋

社弐ヶ所 内 八王子 山之神 中品野村祢宜 頼母持分
 社内六畝歩 前々除

 家数はわずか7軒で、村人は42人なのでとても小さな村だったことが分かる。
 八王子の他に山神もあったようだけど、これはもう残っていない。
 前々除(まえまえよけ)になっているので、1608年の備前検地のときはすでに除地となっていたということで、創建は江戸時代以前に遡る。
 このことだけでも社伝がいう1848年創建は間違いとなる。

 続いて『尾張徇行記』(1822年)を読んでみる。

八王子 山神覚書ニ社内六畝歩前々除、中品野村頼母持分
当村社人菊田助太夫書上ニ八王子社内二畝二十八歩
末社神明社本社境内前々除
同村白石社内一畝二十步(村除)山神社内二畝四歩御除地、共ニ今社廃ス、
右社勧請ノ由来ハ不知、八王子社再営ハ正保元年ニアリ
府志曰、八王子社在白岩村
摂社神明祠 山神祠

 江戸時代前期は中品野村の頼母の持分だったのが、江戸時代後期には中品野村の菊田助太夫のものになっていたようだ。菊田助太夫は中品野の八劔社などの社人だった。菊田助太夫と頼母の関係はよく分からない。
 勧請の時期については不明で、再営を正保元年といっている。正保元年は江戸時代前期の1644年だ。
 八王子の摂社として神明と山神があったらしい(今もあるかは不明)。

 白岩村についてはこう書いている。

此村落ハ、品野街道ヨリ東ノ方山径へ入、白岩片草トツツキ、此間巖石嵯峨トシテ佳景ナリ、
左右ニ兀山アリテ其色白シ、村名白岩ト唱フルモ不宜へ乎、田畝ハ片草川ノ左右ニアリ、
農屋ハ北ノ方山ノ麓ニ建ナラへリ、実ニ山隈幽僻ノ所ニテ風俗殊ニ質朴ナリ、是ヨリ片草村へユクニ滝坂トイヘル所アリ、巖石ヲタタミ処々ニ瀑布ソソキ落チヨキミモノ也、此村ハ農業ヲ以テ専ラ生産トシ、農隙ニハ薪ヲ採リ名古屋ヘウリ出セリ、元ヨリ細民ハカリナレトモ、一体土地ヨキ所ニテ、給地免三ツ七分ニ付トナリ、此村田畝ハ東西ヘ長ク地形高低アリ棚田多シ、是ヨリ片草村ヘ七町ホトアリ

「実ニ山隈幽僻ノ所ニテ風俗殊ニ質朴ナリ」で、片草へと続く道沿いには滝があるといっている。
 地図には不動の滝とあるけど、これもそのひとつだろうか。
 江戸時代の人から見ても田舎の村を通り越して山奥の集落という風情に感じたようだ。
 ただ、土地はよかったようで、米作りをしつつ農閑期には薪を拾って名古屋に売りにいっていたらしい。
 高低差を利用した棚田が多いといっているけど、今も少し名残がある。

『尾張志』(1844年)に、おや? ということが書かれている。

白石權現社 八王子社 二社白岩村にあり末社神明社山神社あり

 ここへ来て急に”白石權現社”なるものが登場して戸惑う。
 こんなものがもともとあったのなら、これが地名の白岩の由来なんじゃないのか。
 それとも白岩村にある権現なので白石権現と呼ばれた(名づけた)のか。
 なかなか気になる存在ではあるのだけど、これ以上の情報がないのでどうしようもない。

今昔マップに見る白岩の変遷

 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見てみる。
 東から流れてきた品野川と、それに平行して通っている信濃街道(363号線)の間に集落ができていることが確認できる。
 品野川の南を南東から流れてきた東山川(だと思う)が村の西で品野川に注ぎ込んでおり、この川沿いの狭い平地で米作りをしていただようだ。
 それでも「一体土地ヨキ所ニテ、給地免三ツ七分ニ付トナリ」(『尾張徇行記』)とあるので、稲作に適した土地だったのだろう。
「給地免三ツ七分ニ付トナリ」がどういうことなのか分からないのだけど(私の理解不足)、給地は尾張藩士に与えられる土地(田畑)のことなので、それを免除されたということだろうか。

 八王子は集落から少し離れた北の山裾に位置している。
 集落全体を見守る格好で、これはいい場所だ。
 集落が先か神社が先かによっても意味が違ってくるのだけど、この位置関係は自然で理にかなっているように思う。

 その後の変遷を辿っても大きな変化は見られない。
 1990年代の地図でもほとんど変わっていない。
 民家は多少増えただろうけど、白岩町の2024年現在の住人は87人というから、江戸時代前期の42人から倍くらいしか増えていない。

 風景として大きく変わったのは、2005年に475号線(東海環状自動車道)が開通したときだ。
 町を東西に分断して通された高架道路で、風景としては変わったものの、利便性は大して高まらなかった。
 この道路を利用するには、だいぶ南下してせと品野インターまで行かないといけない。
 高架道路で分断されて不便になった部分の方が多いくらいではないか。うるさいし空気も悪くなっただろう。

もう一度白岩について考える

 結局、八王子の起源や由緒については分からないというのが現状の結論ということになる。
 瀬戸における八王子の分布というか配置については瀬戸市編が終わったときにあらためて考えることにしたい。

 最後に白岩についてもう少しだけ考えてみる。
 気になっているのが、”しろいわ”ではなく”しらいわ”という点だ。
「織田信雄分限帳」に”しら岩ノ郷”とあるようなので、戦国時代には”しらいわ”と呼んでいたと考えていい。
 ”しろ”も”しら”も発音の違いでたいした意味はないと思うかも知れないけど、”しら”という響きが何か意味を持っているような気がしている。
 ”しら”でまず思い浮かぶのが、”おしら様(お白様)”だ。
 東北地方を中心に東日本で信仰された民間信仰の神様で実体はよく分かっていない。
 桑の木で作った夫婦像をご神体とするというのも何かありそうだ。
 このおしら様信仰と関係があるのかないのか分からないけど、東北から関東にかけて白岩という地名がたくさんある。
 青森、秋田から山形、群馬あたりにかけてだ。
 江戸時代以前は白岩村が各地にあったという。
 もちろん、すべての地名が同じ由来ということはあり得ないし、白岩を”しろいわ”と呼んだ例もあるだろう。
 それにしても、”白”という字と”しら”という響きには何か引っ掛かるものがある。
 これは天白信仰とも関係があるかもしれない。
 天白は今は普通に”てんぱく”といっているけど、そもそも”あめのしら”または”あまのしら”ではなかったかと思う。
 天白は矢白にもつながるし、矢白は”社”だ。

 こうした母音変化はわりとあるようで実はそれほど多くない。
 特に、”お”から”あ”に変化するのは”白”しかない。
 白子と書いて”しらす”だったり(三重県鈴鹿市の白子は”しろこ”)、ウナギを焼くと”白(しら)焼き”と呼ばれる。白州も”しらす”と読ませる。
 合掌造りで知られる白川村も”しらかわ”だ。
 何かに掛かると必ず”しろ”が”しら”に変化するわけではなく、白熊も白蟻も”しろ”だ。
 もともと”しら”だったのが”しろ”に変化した可能性があるのかどうかは分からない。なんとなくで”しろ”が”しら”になったのかもしれない。
 ただ、白岩の場合は、やはり最初から”しらいわ”だったような気がするし、なんとなくでは名づけられてないのではないかとも思う。
 その土地を”しらいわ”と呼ぶ理由があったはずで、そこで八王子を祀ったのも何かしらつながりがありそうだ。

 今のところこれ以上は思いつかないので保留とするけど、白岩の八王子についてはこれで完結とせずに引き続き頭に入れておくことにしたい。



作成日 2024.12.18

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