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八剱神社(中品野町)

中品野の氏神なのだけど

読み方やつるぎ-じんじゃ(?)(なかしなのちょう)
所在地瀬戸市中品野町180 地図
創建年不明
旧社格・等級等旧村社・十三等級
祭神天照皇大神(アマテラス)
日本武尊(ヤマトタケル)
建稲種命(タケイナダネ)
素盞鳴尊(スサノオ)
宮簀媛命(ミヤズヒメ)
アクセス名鉄バス「中品野停留所」から徒歩約7分
駐車場なし
webサイト
例祭・その他例祭10月15日前後の日曜日
神紋
オススメ度
ブログ記事

中品野について

 江戸時代に中品野村と呼ばれていた集落の神社で、社名からしても祭神からしても尾張氏の関係神社ということは明白だ。
 ”八劔”は、”やつるぎ”、”はっけん”、”はっけん”といった読み方があって、この神社はどれか分からないので(『愛知縣神社名鑑』にフリガナはない)、とりあえず”やつるぎ”としておく。
 神社について書く前に、まず中品野について少しまとめておきたい。

 中世までは広く科野郷などと呼ばれていたこの地区がいつから3つの村に分かれたのかは明確ではない。
 江戸時代は水野川に沿って上流から上品野村、中品野村、下品野村があった。
 下品野村エリアで品野西遺跡と呼ばれる縄文草創期 (15,000-12,000年前)の遺跡が見つかっており、かなり早い段階からこのあたりに人が暮らしていたことが分かっている。
 発見された遺構などから中心は下品野だったと推測できる。

 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、江戸時代から続く中品野の様子がある程度分かる。
 集落があったのは、今の品野町8丁目と中品野町、それと少し離れた鳥原町だ。
 村の北を水野川が流れ、村の西で南から流れてきた鳥原川と合流している。
 北と南を丘陵地に挟まれた川沿いの沖積地を田んぼにして、そこに家を建てている。
 水害は多かっただろうけど、肥沃な土地だっただろうと思う。

 八剱社があるのは中品野町の西の外れだ。
 本郷は村北の品野町8丁目だっただろうから、そこから見るとわりと外れの方ということになる。
 境内地は特別に囲まれていて見慣れない地図記号が書かれている。これは何を意味しているのだろう。ただの樹林ではない気がするのだけど。

『尾張徇行記』(1822年)は中品野村についてこう書いている。

此村落ハ、信州街道筋ニアリ、農屋ハ処々ニ散在セリ、街道ニアル村居ヲ郷島ト云、片草川ノ北ニアル村居ヲ川北島ト云、又南ノ方ニアルヲ清水垣外ト云、又支邑ヲ鳥原ト云、是ハ農屋二十七戸ホトアリ、山ノ南ニアリテ本郷ヨリ程隔テリ、此村ハ農業ヲ以テ生産トシ小百姓ハカリ也、田面ハ下品野村ヨリツツキ平衍ノ地ナリ、
鳥原ノ南二流ルル川ヲ乃鳥原川ト云、此村二ハ薪問屋アリ、瀬戸物焼ノ薪其外千端薪モ売出セリ、又信州澳州ヨリ往来ノ馬宿ヲモスルトナリ、村中処々ニ棗多シ、是モ名古屋へ売出セリ

 現在の国道363号線を名古屋港と瀬戸を結ぶという意味で瀬港線(せこうせん)と呼んでいるのだけど、この頃は信州街道といっていた。
 瀬戸にあって窯業はせず、村人は農業に専念していたようだ。
 ただ、街道沿いということもあって馬宿をしたり、焼き物や薪などを名古屋に売りにいったりということもしていると書いている。
 郷島というのが品野町8丁目の集落のことで、片草川は今の水野川のことを指す。
 北島がどこのことをいっているのかちょっと分からないのだけど、南の方を清水垣外(しみずがいと)といっているので、これが神社のある品野町集落のことだろう。
 鳥原については支邑という扱いになっている。
 この記事の中でちょっと面白いと思ったのは「村中処々ニ棗多シ」の部分だ。
 棗は”そう”と読み、ナツメのことだ。
 南ヨーロッパ原産とも、中国原産ともいわれ、日本には飛鳥時代には入ってきていたと考えられている。
 自生するものではないから集落に誰かが植えたのだろうけど、ナツメがたくさんあったというのはどういうことなんだろう。今もあるのかどうか。
 それを売っていたというから江戸時代の人たちも食べていたということだ。もしくは、生薬として使われていただろうか。

 以上、中品野についてある程度把握できたところで八剱社について見ていくことにしよう。

そんなに新しくはないはず

『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。

創建については明かではないが『尾張志』八剱社、中品野村にあり、長江入道がこの社を創建すると、永禄元年(1558)松平監物修復すとある。
明治5年、村社に列格する。

 中途半端な情報で、これだけではまったく分からない。
 まず、長江入道が誰かということなのだけど、これだけでは何とも判断がつかない。
 一般的に長江氏(ながえし)というと、桓武平氏良文流の鎌倉景正(かまくらかげまさ)を祖とする鎌倉氏の嫡流とされる。
 鎌倉景正は平安時代後期の武将で、相模国の鎌倉あたりを本拠にしていた。
 鎌倉時代に重臣となり、武功を挙げて所領を拡大し、関東から奥州、美濃や尾張までそれを広げたというから、その流れで瀬戸を拠点とした一族がいた可能性はある。
 長江入道の入道は通称だろうけど、具体的に誰を指すのかは分からない。
 しかし、祭神からしてこの神社はどう考えても尾張氏が祀る神で、鎌倉あたりからやってきた平氏の後裔が祀る神社とは思えない。
 あるいは、桑下城跡の永井民部こと長江利景のことをいっているのか。
 だとしてもそれは室町時代のことで、長江入道が誰にせよ、この話はちょっと信じられない。

 戦国時代の永禄元年(1558年)に松平監物が修復したというのはあり得るかもしれない。
 家康の祖父の松平清康が品野を後略して、品野が松平氏のものだった時代がある。
 桜井松平家3代当主にあたる松平監物こと松平家次(まつだいらいえつぐ)も父から品野城を引き継いで城主だった。
 天文14年(1545年)の広畔畷の戦いで松平広忠(家康の父)と戦って敗れて品野城を明け渡すことになるのだけど、家康の代になって織田信長の軍勢が品野城に攻め込んできたときに籠城線で品野城を守ったとされる。
 これが永禄元年(1558年)3月のことなので、戦で焼かれたか壊された社殿を修復したということかもしれない。

江戸時代の中品野村

 ではここで江戸時代の書で中品野村がどう書かれているか見ていくことにしよう。
 まずは『寛文村々覚書』(1670年頃)から。

家数 三拾軒
人数 弐百四人
馬 九疋

禅宗 赤津村雲興寺末寺 洞谷山浄源寺
 寺内三反壱畝歩 備前検除
 外ニ寺山 三町七反五畝歩 当村山之内
       壱町五反歩 下品野村山之内

 是ハ元和三年丁巳之六月、本寺雲興寺ノ住持善雲和尚、大猷院様(家光) 御継目御朱印之節、右寺内井山弐ヶ所、山林竹木共、諸役免許拝領、安藤対馬守証文有之。

社四ヶ所 社内壱町五畝弐拾五歩 前々除

内 八幡山之神 社内壱反弐拾五步 当村祢宜 次郎太夫持分
  八劔宮山之神 社内九反五畝歩 同 助太夫持分

 家数は30軒で村人は204人なので、規模としては小さい方だ。
 神社は4社で、八幡、八劔、山神が2社だった。
 山神2社はすでに残っておらず、八幡は鳥原の八幡のことだと思う。
 浄源寺については八幡神社(鳥原町)のところで書くことにしたい。
 神社はすべて前々除(まえまえよけ)なので備前検地が行われた1608年時点で除地となっていたことを意味する。
 少なくとも江戸時代になって建てられた新しい神社ではないということだ。
 少し気になったのが、八幡と八劔は違う祢宜が管理していた点だ。
 当村(同村)となっているので中品野村の祢宜なのだけど、これだけ小さな村で二人も祢宜がいた例はあまり多くないのではないかと思う。
 考えられるとすれば八劔の方は熱田あたりから派遣されてきた祢宜かもしれない。
 八劔が”宮”になっている点からも特別な感じがする。

 続いて『尾張徇行記』(1822年)を読んでみる。

浄源寺
此寺草創ノ由来不詳、岩屋薬師境内一畝歩年貢地、庚申堂境内五歩年貢地、共ニ草創ノ年紀ハ不知

社四区覚書ニ八幡山神社内一段二十五歩次郎太夫持分、八劔山ノ神社内九段五畝歩助太夫持分
鳥原社人岩松治太夫書上ニ、八幡社内五畝二十歩御除地、外ニ田四畝歩村除、畠六畝廿六歩屋敷年貢地
末社熊野権現稲種公相殿一社、神明社、源太夫社此本社勧請ノ年紀ハ不伝、再営ハ正保四年ニアリ、山神境内一畝六歩年貢地社ナシ
当村社人菊田助太夫書上ニ、八劔社内七段六畝十四歩前々除、外ニ田九畝步村除
末社九社明神社、天神社、牛頭天王社、八幡社、白山権現社、浅間社、源太夫社、此本社勧請年紀ハ不知、再建ハ永禄元年ニアリ
同村弁天社内九歩御除地、山神社三区社ナシ、境内一段一畝四步村除
府志八劔祠、在中品野村、伝言有長江入道者建此社、永禄元戊午年松平監物重修之
摂社八幡祠、白山祠、神明祠、浅間祠、天神祠、源太夫祠又社外有山神稲荷弁天祠

 おっと思うことがいくつかあるので順番に見ていくと、まず社人が八幡は鳥原社人岩松治太夫、八劔が菊田助太夫となっていることに注目したい。
『寛文村々覚書』では八幡が次郎太夫、八劔宮が助太夫になっていた。
 菊田性の社人は名古屋の神社でもちょくちょく出てくるので、菊田一族という神職集団がいたのだろうと思う。ただ、必ずしも血縁ではないかもしれない。
 東谷山山頂にある尾張戸神社の社人も菊田氏なので、やはり中品野の八劔は熱田の尾張氏と関係が深そうだ。

 それから面白いのが末社だ。
 八幡の末社に熊野権現と稲種公の相殿や源太夫社がある。
 源太夫社は八劔の末社にもある。
 稲種公は建稲種(タケイナダネ)のことで、源太夫は現在の上知我麻神社で乎止与(オトヨ)が祭神となっている。
 乎止与と建稲種は父子とされている。
 これはもう、尾張氏の後裔一族が中品野にいて祖先を祀ったとしか考えようがない。
 八劔だけでなく八幡の創建にも関わっているのではないか。

 山神は江戸時代後期のこの頃までは社がなくなっていたようだ。
 弁天社は品野町の辯才天社のことだと思う。
『愛知縣神社名鑑』が書いていた長江入道が建てて、永禄元年に松平監物が重修したというのは『張州府志』(1752年)が書いていることを引用したものだということが分かる。
「伝言有長江入道者建此社」なので、記録があるわけではなく、そういう言い伝えがあるというだけだ。 

『尾張志』(1844年)もこの話をそのまま書いている。

八劔ノ社
中品野村にあり長江入道といふものありて此社を創建すといへり永禄元戌午年松平監物修復す
末社に八幡社 白山社 神明社 天神社 源太夫社 以上六社境内
山神社 稲荷社 辯才天社 以上三社境外にあり

 内容は『張州府志』をほぼそのまま写しているのだけど、末社(摂社)にあったはずの浅間祠が抜けている。
 たまたま書き落としただけかもしれない。
 境外社の稲荷は現存していないと思うのだけど、見落としの可能性もある。
 山神はたぶん残っていない。

祭神の不思議

『愛知縣神社名鑑』は祭神を天照皇大神(アマテラス)、日本武尊(ヤマトタケル)、建稲種命(タケイナダネ)、素盞鳴尊(スサノオ)、宮簀媛命(ミヤズヒメ)としている。
 尾張には馴染みの深い面々で、それぞれは何の不思議もないのだけど、この組み合わせはかなり珍しい。
 尾張側の伝承では、東征への行き帰りに尾張に立ち寄った日本武は、尾張の姫の宮簀媛と婚姻し、その兄である建稲種を副将として伴ったとしている。
 宮簀媛は『古事記』と『日本書紀』にも出てくるのだけど、建稲種は東征の場面では出てこない(『古事記』の応神天皇の系譜で建伊那陀宿禰として名前だけ登場する)。
 建稲種は『先代旧事本紀』などの尾張氏の系譜に出てくる天火明(アメノホアカリ)尾張氏当主で、乎止与(オトヨ)の子とされる。
 日本武東征の副将云々というのは、熱田社(熱田神宮)の縁起や内々神社などの関連神社の伝承として語られている。
 つまり、日本武・建稲種・宮簀媛は一つのグループとして捉えることができるのだけど、ここには乎止与や天火明は入っていないということも言えるということだ。
 末社の一つの源太夫社の祭神を乎止与と意識していたかどうかは何とも言えない。
 そして、天照大神と素戔嗚がいるのがまた不思議だ。
 この八剱社の歴史を見ても神明や津島(牛頭天王)は絡んでいない。どこかの地点で入り込んだのか、古い段階から入っていたのかも分からない。
 熱田社が明治になって神宮号を得るために天照大神を取り込んだことと連動しているのかどうか。
 それにしても素戔嗚はどこから来ているのだろう。
 江戸時代に中品野で祀られていた牛頭天王を合祀したくらいしか考えつかない。
 しかし、この祭神の顔ぶれにこそ、この八剱社の本質が表れているのかもしれないとも思う。
 天照大神と素戔嗚を尾張の神(人)と同列に祀ることが必要だったのではないか。
 今の形になったのがそれほど古い時代ではなかったとしても、何らかの根拠があったに違いない。
 言うまでもなく祭神というのは適当に決められているわけではない。

今昔マップで辿る中品野村の変遷

 あらためて今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見て神社の場所を確認しておく。
 現在の中品野町に八剱神社はある。
 当時でいうと、郷嶋と呼ばれた北部が村の中心だったので、そこからはだいぶ外れている。
 信州街道からも離れているので、名古屋と信州方面を行き来する人たちがついでに立ち寄るという場所ではない。
 どうしてここだったのだろうと考えるとわりと不思議だ。
 神社が創建された当時の集落がこの場所だったのかもしれないけど、それにしても中途半端な場所に思える。
 道沿いでもなく、川沿いでもなく、丘陵地の縁とかでもない平地部分に建っている。
 ここに祀った意味や必然があったのだろうけど、現代人の私の感覚からするとよく分からない。

 地図は一気に1968-1973年(昭和43-48年)まで飛んでしまうので、その間の変遷は辿れない。
 昭和40年代までに現在の町並みはほぼ出来上がっている。
 その後、道沿いを中心に家が少しずつ増えていき、田んぼはだんだん減っていった。
 鳥原町の方はまだ田んぼがけっこう残っているのだけど、中品野町に田んぼがある印象はない。少しは残っているだろうか。
 現在の地図を見るとけっこう空白があって、びっしり家が建ち並んでいる感じではない。
 このあたりは鉄道からも遠いし、バスも少なそうだから、車がないと暮らすのには不便かもしれない。
 363号線沿いにファミマがあるけど、スーパーなどは見かけなかった気がする。下品野まで行くとバローがある。

不思議感が残った

 以上見てきて、この神社についてすっかり理解できたかというと全然できていない。
 クリア感としては70パーセントか60パーセントくらいだろうか。
 尾張氏が深く関わっているのは間違いないだろうけど、最初からなのか途中からなのか、始まりがいつだったのかといった基本的な部分が見えてこない。
 現実的に考えて奈良時代くらいかとも思うけど、品野という土地の歴史からしたら起源はもっとずっと遡っても不思議はない。
 場所が最初からここだったのかというとちょっと疑問で、遷座の情報はないものの、なんとなくここではない感もある。
 境内の空気感も、神社の境内というより広場みたいな感覚がした。
 自分の感覚がどの程度当てになるかは私自身もよく分からないのだけど、しっくり来る場所としっくり来ない場所があって、ここは後者の方だ。
 もっと山の方がふさわしい気がするし、里のお宮ということなら北の集落の方がよかったのではないかとも思う。
 もしかすると、尾張氏が祖神を祀ったという認識が根本的に間違っているのかもしれない。
 そのへんについては品野全体であらためて考える必要がありそうだ。  

作成日 2024.11.27

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