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八幡社(鹿乗町)

入尾城と関係があるのかないのか

読み方はちまん-しゃ(かのりちょう)
所在地瀬戸市鹿乗町731 地図
創建年不明
旧社格・等級等不明
祭神不明(応神天皇?)
アクセス名鉄バス「鹿乗橋バス停」より徒歩約4分
駐車場なし
webサイト
例祭・その他不明
神紋
オススメ度
ブログ記事奥まったところにある印象の鹿乗町町八幡社

入尾城跡の八幡ではない?

 かつて入尾城(いりおじょう)があったとされる場所にある八幡社。
 しかし、入尾城と八幡の関係は不明。関係性についての情報がまったくない。
 城と八幡の組み合わせはよくあるのだけど、ここは違うかもしれない。
 というのも、入尾城を築いたのは平氏の後裔だからだ。

入尾について

 現在の鹿乗町(かのりちょう)は、江戸時代まで下水野村に属しており、入尾の集落は支邑(村)という扱いだった。
『尾張徇行記』(1822年)にはこうある。

支邑ヲ入尾嶋岩淵瀬ト云、入尾嶋へ玉野川ノ東岸水野川落合南ノ方ニアリ、農屋十戸ホトアリ、ココニ城墟アリ、前ニ記ス、玉野川ニ渡船アリ、冬ハ仮橋ヲカクルナリ、篠城庄中ノ人水野陣屋へ多クココヲ経歴ス、岩淵瀬ハ入尾島ノ東玉野川ノ辺リ山ノ麓ニアリ、農屋三戸アリ

 ここでは”入尾嶋”といっており、農家が10戸ほどあり、城跡もあると書く。
 岩割瀬(いわりぜ)は八幡から見て1.7キロほど東の岩割瀬神社があるあたりだ。

 この入尾にやってきて城を築いたのが平景貞(たいだのかげさだ)だったと伝わる。
 平安時代中後期の1129年(大治4年)という。

平家と水野

 平景貞が水野にやってきた理由は明確ではないものの、志段味(志田見)や水野あたりを管理するために派遣されたのではないかという話がある。
 平景貞は平安京で滝口の武士を務めていたことから滝口景貞とも称していたようだ。
 滝口(たきぐち)の武士というのは御所の清涼殿横の滝口という場所を拠点に警備をする役職で、平将門も滝口の武士だった。
 血統としては桓武平氏系の長田氏(おさだうじ)の支流に当たるとされる。
 鎮守府将軍だった平良兼(たいらのよしかね)の孫の致頼(むねより)が伊勢・尾張に進出して、その孫の経家(つねいえ)が尾張国の師桑(もろくわ/愛西市 旧佐織町)に移住し、その経家の子として生まれたのが景貞という。
 なので、景貞は尾張国海部郡の出身で、尾張氏とも関係があっただろうと推測できる。

 景貞が入尾城を築いたのは、保元の乱から平治の乱にかけての頃(1156-1159年)とされる。
 水野に移り住んだのが1129年とすると、30年ほど後のことになる。
 景貞は水野氏を名乗るようになり、尾張における水野氏の祖となった。
 平治の乱で平清盛方に敗れた源義朝(みなもとのよしとも)は南知多の野間に逃れたところを配下の長田忠致・景致父子によって殺されてしまう。恩賞目的だったとされるも、理由ははっきりしない。
 この長田というのが平良兼一族の本家筋に当たる長田氏だ。
 後に長田忠致・景致父子は源義朝の子の頼朝によって殺されることになる。
 因果は廻るというか、非常に人間関係がややこしい。
 保元平治の乱を経て、尾張国は平家一門が管理を独占するようになるのだけど、一方で尾張源氏の山田重忠がいて、源氏と平家はくっきり色分けされていたわけではなくて複雑に入り組んでいた。
 尾張旭の新居などを開拓した水野良春(みずのよしはる)も、この水野氏一族の一人だ。

 景貞以降の流れを簡単に追っておくと、景貞の子に景俊(かげとし)がいて、景俊は水野の本郷に移り住み、この子の高家の頃には水野に加えて志談(志段味)あたりにも勢力を広げていたようだ。
 しかし、高家の子の高康(たかやす)のときに起きた承久の乱(1221年)で山田重忠に従って後鳥羽上皇側について戦ったものの敗れ、生き残った一族は京に移住したとされる。
 ただ、この後、高康の甥の高致(たかむね)が志談の郷司(ごうじ)に任じられて、入尾城を再築して居を構えることになる。

 その後もいろいろあるのだけど、長くなるのでやめておく。
 戦国時代には多くの武将を輩出したり、江戸時代に水野陣屋で奉行職を勤めたり、御林奉行をしたりと、瀬戸から守山、尾張旭一帯で水野一族は足跡を残すことになる。

入尾の集落と入尾城と神社

 入尾城は八幡社の東側にあったとされるも、遺構のたぐいは残っていないとされる。
 瀬戸ペディアを引用させてもらうと以下の通り。

江戸時代の村絵図に八幡社東辺に「城山」が描かれている。これが入尾城跡である。
『張州府史』には「下水野村にあって、水野備中守が之に居す」とあり、また『張州雑志』には玉野川の南岸に木立と石垣を描き「東西三十二間、南北三十一間、四方一重堀」などの付記がみられ、編集当時は堀跡などの遺構があったようである。

『尾張志』(1844年)にはこんなことが書かれている。

入尾の城
下水野村玉野川のほとりに舊址あり上水野むら感應寺に古き位牌一基ありて義雲院仁峯宗智居士覺位としるしうらに應永十九壬辰歳十二月廿八日尾州入尾城主水野備中守平致高と見えたり

 平(水野)致高(むねたか)は平景貞の後裔で、入尾城四代目城主に当たる。
 1412年(応永19年)12月24日に第101代称光天皇から備中守に任じられたものの、4日後の28日に入尾城にて没したと伝わる。
 位牌が残っているという感応寺はかつて金神社(小金山)があったところだ。
 この後、入尾城は歴史に登場することがなくなるため、致高の死をきっかけに廃城となったと考えられている。
 しかし、この頃、水野家で内紛があったようで、備中守に補任されてすぐの急死というのは何かきな臭い。
 致高はは美濃守護の土岐持益(ときもちます)に仕えて美濃の野尻村に移ったという話もあり、はっきりしたことは分からない。

 それにしても、平景貞はどうしてここに住んだのかということが私の中でずっと引っ掛かっている。
 上志段味に荘園があったからそこの管理を任されたのではないかという話があるけど、それなら志段味に住めばいい。
 水野郷は志段味の隣(東)ではあるけど、水野郷といっても広いのに、あえてこんなところに居着く必然性が分からない。
 土地勘がある人や現地を訪ねると分かるのだけど、ものすごく不便そうなところだ。
 今昔マップを見てほしい。
 東から流れてきた玉野川(庄内川)と北からのうぐい川、南からの水野川が合流する複雑な土地で、玉野川は深い谷を流れているものの、水野川はちょっとしたことで氾濫しそうだ。
 実際、入尾の平地部分は水野川が運んだ土砂でできた沖積地だろう。
 八幡社の北に鹿乗橋が架かっているけど、ここは玉野川の川幅が一番狭くなるところで、古くはここに入尾の渡しがあった。冬場は仮橋を架けたという。
 入尾城は西と北と東の三方を川に囲まれているから守りやすいと思うかもしれないけど、背水の陣という言葉があるように、こんな場所では南を押さえられたら逃げ場がない。城を枕に討ち死にだくらいの決死の覚悟がないとこんなところに城は建てないだろう。
 保元・平治の乱の頃とはいえ、尾張のこんな片隅がそんな切羽詰まった状況だったとは思えない。
 景貞がここに入郷して城を建てたのには何らかの理由なり必然があったに違いない。
 それが何だったのかは私は分からないし、推測することも難しい。
 ただ、少なくとも平安時代中後期の1129年時点で入尾の集落はあったということだ。
 それはそうだろう、手ぶらで何のツテもなく未開の地にやってきて一から土地を開墾するなんてのは現実的ではない。
 景貞が実際に滝口の武士だったとすれば、それは都のエリート武人だったということだ。好き好んでこんなところに来るはずもない。
 入尾は平家の集落だった可能性が高いし、ここである必要が何かあったのではないか。

 平安時代までにはすでに入尾の集落があったとすれば、何らかの社があったと考えるのが自然だ。
 もともとは八幡ではなかったかもしれない。
 しかし、江戸時代の地誌に入尾の八幡は載っていない。
『寛文村々覚書』(1670年頃)や『尾張徇行記』などにある八幡は、おそらく内田町の八幡神社のはずだ。
 瀬戸ペディアがいう江戸時代の古地図というのを見ていないのだけど、そこには神社も描かれているのだろうか。
 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)には鳥居マークが描かれているから、その頃にはすでにあったのは間違いない。

いろいろ分からない

 入尾城から見て八幡は西に位置している。
 入尾の集落から見ると北西に当たる。
 そこから考えてもこの八幡は集落の神社だろうと思う。
 城の守り神としては位置が不自然に感じるし、上に書いたように平家と八幡は上手く結びつかない。
 もともと八幡ではなかったとすれば、中世のどこかで八幡になったということだ。
 現在の八幡社は、社が三社並んでいて、中央が大きめで、左右が小さめになっている。
 それぞれ札などはないので何の神を祀っているのは不明。
 最初から三社だったのか、どこかで三社になったのかの判断も難しい。

 境内にはアベマキの木があってどんぐりがたくさん落ちている。
 神社は楠の木が多いのだけど、あえてのアベマキに何か意図が感じられる。
 意外とこの神社は古いのかもしれない。

 水野一族は承久の乱で後鳥羽上皇側について戦い、南北朝時代は水野良春などが南朝側で戦うなど、尊皇派だった。
 玉野川を渡った対岸の玉野には後醍醐天皇妃のなか姫の伝承なども残っている。
 このあたりの話は、いずれ春日井市編でまた考えてみたい。

作成日 2025.3.6

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