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金神社(小金町)

一筋縄ではいかない

読み方こがね-じんじゃ(おがねちょう)
所在地瀬戸市小金町69 地図
創建年不明
旧社格・等級等旧村社・十等級
祭神尾張金連(おわりかねのむらぢ)
アクセス名鉄瀬戸線「瀬戸市役所前駅」から徒歩約6分
駐車場なし
webサイト公式サイト
例祭・その他例祭 10月15日直前の日曜日
神紋五三桐紋(総陰五三桐?)
オススメ度*(旧地もあわせると**)
ブログ記事

見切り発車で始める

 名鉄瀬戸線「瀬戸市役所前駅」の北、瀬戸市立図書館のすぐ東の高台に鎮座している。
 しかし、元からここにあったわけではない。
 昭和19年(1944年)までは旧上水野村にあった。
 現住所でいうと水北町(すいほくちょう)で、直線距離で3キロ以上離れた土地からの遷座だった。

 神社名は「きん-じんじゃ」ではなく、「こがね-じんじゃ」という。
 なのに住所は「おがね-ちょう」なので、ちょっと間違えやすい。
 こがねなのかおがねなのかどっちかにしてほしかった。

 それはともかくとして、この神社は理解が難しいところがある。
 一つは旧地の感応寺との関係性で、もう一つは旧鎮座地と旧名についてだ。
 更に祭神の問題もある。
 その他、いくつか疑問を抱きつつ、とりあえず見切り発車で書き進めながら自分の頭も整理していこうと思う。

上水野村の神社その他

 上に書いたように、この神社は昭和19年(1944年)までかつての上水野村にあった。
 水野村は他に中水野村、下水野村があり、水野川の上流から下流に向かって上・中・下の集落ができていた。
 分かれる前は広く水野村だっただろうと思う。
 というわけで、金神社を調べる場合は上水野村を見ないといけない。

 まずは江戸時代の書から関係する記述を拾っていこうと思うのだけど、よく分からないことがあって混乱している。
 年代順にまずは『寛文村々覚書』(1670年頃)を見てみよう。

上水野村

家数 七拾六軒
人数 四百五拾六人
馬 三拾三疋

神宗 水野定光寺末寺 小金山感応寺
寺内五畝弐拾弐歩 備前檢除

観音堂一宇 地内四町八反歩 前々除 感応寺持分

薬師堂一宇 地内年貢地 堂守 円随

社四ヶ所 内  八幡 山神 八王神 八剣宮
社内八反歩 前々除 中水野祢宜 弥五右衛門持分

 江戸時代の一村の平均人数は400人程度とされているので、456人は平均的といえるのだけど、名古屋城下から遠く離れた地ということを考えると村の規模としては大きかったといえる。
 尾張瀬戸駅がある瀬戸村でも208人だから、その倍以上だ。
 戸数が76軒だから、1軒あたり6人ということで、これは平均的だ。

 感応寺については後ほど詳しく見るとして、神社は、八幡、山神、八王神、八剣宮の4社だといっている。
 ここでまず、あれ? と思う。
 金神社がない。
 この中で、八幡は水北町にある八幡神社(地図)で、八王子は曾野町の八王子神社(地図)のことだと思う。
 山神がどこかの時点で合祀されたのは推測できるのだけど、八剣宮がどうなったか分からず気になっている。
 かなり距離は離れているけど、余床町の八劔神社(地図)のことだろうか。
 この顔ぶれからすると尾張氏の色合いが相当に濃い。
 後述するように金神社の祭神は尾張金連とされているので、当然といえば当然なのだけど。
 すべて前々除(まえまえよけ)なので1608年の備前検地以前からあった神社ということが分かる。
 管理していたのは上水野村ではなく中水野村の祢宜だったというのが少し引っ掛かるといえば引っ掛かる。

 続いて『尾張徇行記』(1822年)はどうなっているだろうと思って読んでみると、これがますますよく分からなくなる。
 記述が断片的で、なんとなく矛盾もあるようにも思う。
 分からないまま引用すると以下のようなことが書かれている。

社四区覚書ニ八幡、山神、八王子、八劔、社内八反歩前々除、中水野宜弥五右衛門持分

感応寺 号小金山、臨済宗、属水野定光寺、昔菩薩行基挿草地也

寺記ニ、人皇四十五代聖武帝御宇ニ、行基菩薩当山へ入来アリシカ、金神社天神此山ニ鎮座アリシ故ニ当寺ヲ創建シ、著シキ両部兼行ノ道場ナリ、本堂ニ安置スル大観音ハ、往古ヨリ秘仏ナリ(後略)

金神社、往古ヨリ当山ニ鎮座アリ、此神祠ハ当国大明神四世ノ神孫ニテ、尾治金連ヲ祭レリ、天孫本紀及延喜式神名帳ニ載レリ、此社天文ノ比マテハ今ノ観音堂ノ所ニ鎮座アリシカ、其堂宇炎焼ノ後、金神社ヲ今ノ地へ遷座シ、其趾へ観音堂ヲ移セリ、元禄十三辰年水野勘太夫平正照再営ス

熊野三所権現社、当山ノ内ニアリ、勧請ノ年紀へ不詳、当山鎮主ナリ

白山社内一畝歩村除、当村一色洞トイヘル所ニアリ、草創ノ由来ハ不知と也

小金山白山祠、参考本国帳曰山田庄従三位金神社(天神一本作正四位下小金社在上水野村小金山今号白山)

天孫本紀曰天香語山命十五世孫尾治金連

 まず、おっと思うのが行基の名前が出てくることだ。
 山神社(東郷町)のところで書いたように、宝泉寺(地図)は行基作の薬師如来像を本尊としていたという話があって、ここでまた行基が出てくるとなると、その関係を考えたくなる。
 行基は飛鳥時代の後期から奈良時代中期にかけて生きたとされる僧で(668-749年)、聖武天皇の治世(701- 756年)にこの地を訪れたときにはすでに金神社と天神社が祀られていて、そこへ感応寺(の前身)を建てたといっている。
 金神社はというと、”往古”よりこの地に鎮座していて、尾治金連を祀っていると書いている。
 江戸時代の人がいう往古(おうこ)は相当な昔で、平安、奈良時代よりも以前という感覚だっただろうと思う。
 尾治金連を祀るから金神社としたというのは安易で、この金が何を意味しているかについても後ほど考えることにしたい。

 金神社関係でいうと、天文の頃までは今(江戸時代後期)の観音堂が建っている場所にあったのが、火事で焼けて現在地(江戸時代後期)に移したともいっている。
 天文は1532年から1555年なので、室町時代後期に当たる(信長が生まれたのが1534年)。
「元禄十三辰年水野勘太夫平正照再営ス」とあるので、元禄13年、すなわち1700年に水野勘太夫平正照という人物が再建したようだ。
 再建でも造営でもなく、”再営”という言葉を使っていることからすると、天文年間に焼けた後、失われた形になっていたものを水野勘太夫平正照が新たに建て直したということかもしれない。
 水野勘太夫平正照に関しては情報がなく、何者なのかは分からない。

『寛文村々覚書』にはなかった情報としては、熊野三所権現と白山があって、白山は一色洞にあるというのがある。
 あと、金神社のことを今(江戸時代後期)は白山と呼んでいるといっていて、ここもかなり引っ掛かった点だ。
 なんで白山なんだろう? なんだかすごく唐突な感じがする。
 古い神社が中世以降に八幡になったり神明になったりすることはよくあって、白山と称された例もあるのだけど、金神社と白山がなんとなく結びつかない気がする。
 別に白山でもいいんだけど、なんで白山なんだろうという疑問というか違和感が残る。
 白山と呼びながらも、『延喜式』神名帳(927年)に載っている山田郡金神社はこの神社のことという認識はあったようだ。
 一色洞の白山や熊野山椒権現も古そうなのに、『寛文村々覚書』が書かなかったのはどうしてだろうとも思う。

 いろいろなモヤモヤを残しつつ『尾張志』(1844年)を見てみる。

金ノ神社

上水野村のうち小金山にありて今は白山社と稱す
祭神は舊事紀ノ天孫本紀に見えたる天香語山命十五世孫尾張ノ金ノ連なるへしと延喜神名式に山田ノ郡金ノ神社尾張國神名帳に従三位金ノ天神(一本に正四位下小金ノ天神とす)と見えたる官社也(此神のまします故に北山を小金とよふ小は添てよふ例あまたあり守僧感應寺の山貌をも小金山ど呼へり今は御林にて山内廣く元祿の頃より小金山八景といふ地を撰ひて歌あり府志に其名をあぐ猶くはしくは感應寺の條にしるす

天王社 八王子社 八劔社 白山社 四社上水野村にあり

 小金山にあって今(江戸時代後期)は白山社と称していると、ここでもいっている。
 その宮寺に当たる感應寺(感応寺)の山号が小金山なのはそのためだとも書いている。
 小金山の白山については、延喜式内社の金神社というのが共通認識だったようだ。
 では何故、金山ではなく小金山だったのだろう、という疑問を抱く。
 金神社を”こがね”と読ませる理由が何かあったはずだ。
 祭神とされる尾張金連(尾治金連)は一般的に”おわり-かね-の-むらじ”と呼んでいて、”こがね”ではない。
 尊称で”御金”なら分かるけど、それを”こがね”とは読まない。
 公式サイトには「古くは『延喜神名式』(平安時代)に山田郡金神社とあり、近世には小金神社とも称された」とあるので、小金神社といっていたときもあったということか。

 金神社の他には天王社、八王子社、八劔社、白山社があるといっている。
 これは『寛文村々覚書』の八幡、山神、八王神、八剣宮からは一部入れ替わっている。
 今も残っている八幡がないのが気になるのと、『尾張徇行記』がいっている熊野三所権現も入っていないのはどうなのか。
 天王社は後から加わったのか、社名が変わっただけなのか。

『尾張名所図会』(1844年)も金神社について紹介している。

金神社 こがねのかみのやしろ
上水野村のうち小金山(こがねやま)にありて、今白山(はくさん)と稱(しょう)す。
【延喜式神名式】に、山田郡金神社(こがねのかみのやしろ)と見えたる官社にて、此神の鎮座ある故に、山も小金と呼び初(そ)めしなり。
祭神は【舊事紀】の天孫本紀に見えたる天香語山命(あめのかごやまのみこと)十五世の孫(すえ)尾張金連(こがねのむらじ)なるべし

『尾張名所図会』はまとめ方が上手くて文章も平易で分かりやすい。名所案内なので一般人にも分かるように書いているためだろう。
 ここで面白いのは、延喜式内の金神社を”こがね”として、尾張金連についても”こがね”としている点だ。
 一般的に神名帳の金神社は”カネノ”という訓がつけられていて、尾張金連についても上で書いたように”かねのむらじ”とされるのだけど、”こがね”という訓がある史料もある(あった)ということだろうか。
 尾張金連が実際に”こがねのむらじ”であれば、金神社を”こがね-じんじゃ”と呼ぶことに矛盾はなくなる。
 ただ、ここで私の悪い癖が出て、上水野村の白山は本当に延喜式内の金神社なのだろうか? という疑惑を抱いてしまう。

『尾張国内神名帳』の記載順と位置関係についてはこれまで何度か取り上げてきたのだけど、この金神社(金天神)についても一考の余地があるように感じている。
 写本によって少し違いがあるものの、古いとされる「熱田座主如法院蔵本」は以下の並び順になっている。

 羊天神 坂庭天神 澁河天神 大檐天神 金天神 尾張戸天神 深河天神 大井天神 大目天神 石作天神

 大檐天神(よきてんじん)がはっきりしないのだけど(西区の大乃伎神社という説もある)、尾張戸天神よりも前に金天神が来ているのが引っ掛かる。
 尾張戸天神は通説では守山区と瀬戸市にまたがる東谷山山頂にある尾張戸神社とされるのだけど、実際は守山区小幡にあった神社(白山社か?)の可能性もあって、そうなると金天神は守山区のどこかということにならないだろうか。
 金天神が上水野の白山だとすると、深河天神の前か、大目天神の前に来るのが自然に思える(大井天神は不明)。
 この記載順問題は私も確信があるわけではないのでとりあえず問題提起するにとどめるけど、上水野の白山を無条件に延喜式内の金神社と決めつけるのはよくないような気がする。

 津田正生(つだまさなり)は『尾張国神社考』(1850年)の中でこんなことを書いている。

従三位金神社天神(をかね)(一本作小金) 【集説云】山田庄水野村(みづぬ)小金山(をかねやま)稱白山
【正生謹考】小金(をがね)ノ神社は、建武以来佛境と變て感應寺(カムオウジ)禅宗の一山全く是也。此寺もとは宮寺なりけむ。
申すも惶(かしこ)かれと、今は檀家(だんか)もおほく、石塔も數々見へたり惜(おしむ)べし神山は斯穢土(かくけがれち)と成て、小金は只山號に残れる事を集説本後誰歟小金山のうしろに、一谷を隔て、山洞をすこし穿ちて、そこに小社を立て白山姫命を祭る。
此をいま小金天神という。熟案(つらつらおもう)に舊社の亡(ほろび)たるは悲しけれどかく清浄地に更(かは)り給ふも則また神意ならむと、たふとくおぼゆ」

 なかなか興味深いというか混乱が増すというか、ちょっとよく分からないところがある内容だ。
 当時の人たちの一般的な認識なのか津田正生自身の認識なのか、感應寺がある小金山全体がもともとの金神社があった神山で、それが建武以来は仏教的な穢土(けがれち)になってしまったと嘆いている。
 建武は後醍醐天皇治世のことなので、1334年から1338年を指す。
 火事で焼けて遷されたとされるのが天文(1532-1555年)なので、江戸時代は遷された後ということになる。
 その場所がどこだったのか把握できていないのだけど(私が)、小金山の後ろの一谷を隔てた洞に小さな祠を建てて白山姫を祀っていて、今(江戸時代)はそれを小金天神といっていると書いている。
 これは『尾張徇行記』がいう「白山社内一畝歩村除、当村一色洞トイヘル所ニアリ、草創ノ由来ハ不知と也」のことなのか、それとも遷された白山(金神社)のことなのか判断がつかない。
 旧社が滅びてしまったのは悲しいけど、清浄地になってしまったのも神の思し召しならそれもまた貴いことだと締めくくる。
 ただ、この”清浄地”がどこのことをいっているのかもよく分からない。

旧地を訪ねる

 現在の金神社を訪ねた際に抱いたのは、ここじゃない感だった。
 高台のいい場所に建っているものの、本当にここだったのかなという違和感を持った。
 神社を回る前はあまり情報を入れず出向くようにしている。自分自身の感覚や第一印象を大事にしたいからだ。
 あらかじめ情報を持っていると、そのことで印象が左右されることがあって、それを避けたい思いがある。
 もちろん、よく知っている神社でも再訪することで新たな発見や気づきがあって、それはそれで大切ではある。
 で、金神社の場合は境内の説明板を読んで概要を初めて知って、なるほどそういうことかと納得した。
 説明板には、かつては上水野村の小金山に祀られていたものを昭和19年に現在地に遷座したと書いている。
 そういうことであれば、旧地を訪ねてみないことには始まらないということで、日を改めて後日旧地を訪ねることにした。

 まずは感応寺へ挨拶に行った。
 なかなか立派な寺だ。
 旧旧地というか最初に鎮座していたのは感応寺の本堂がある場所ではなく、少し西の観音堂が建っている場所だ。
 ただ、そちらは観音堂もあるし、墓地になっていて、往時の面影は何も残っていない。
 天文年間に焼けた跡地に観音堂が建てられたということで、すでに江戸時代にも何もなかったことが津田正生の記述からも知れる。
 なので、目指すべきは感応寺の山門の150メートルほど南の旧地だ。
 昭和19年までそこにあったのだから、多少なりとも痕跡は残っているだろうと期待した。


 しかし、旧地を見つけることはそれほど簡単ではなかった。
 感応寺のあたりというぼんやりとした情報しか持っておらず、あちこち探し歩いてしまった。
 当然ながら案内板などがあるわけではなく、石碑の類いもないし、平日の昼間にこのへんを歩いているような地元民はいない。
 一度はだいぶ手前の川沿いの道を入っていって、ずんずん進んでも何も見えてこないのであきらめて引き返した。
 この散策路は定光寺方面につながっているようだ。
 そこではなく、川沿いから少し北の左手にちょっとした広場がある。行くならまずはここを見つけてください。
 この空間も跡地の一部かもしれない。


 草に覆われていて分かりづらいのだけど、登っていく石段がある。
 これが旧金神社の痕跡で、この石段がそのすべてといえるものだ。


 登っていった先の風景がこんな感じ。
 夏ということもあって草木が生い茂っていて、足下がすごく悪い。
 だいたい、普通の人はこんなところまで踏みこんでいかない。
 この奥がどうなっているか気になったのだけど、草で足下がまったく見えないので進むのはやめた。
 溝とか崖とかになっていて足を踏み外したら助からない場所だ。
 ここまでやってくる物好きは数年に一人くらいだろうから、その人の助けも期待できない。

 それでも、なんとか旧地に立てたことで満足というか納得した。
 ここがそうだったんだという感慨を抱きつつ、一礼してこの場をあとにした。

 感応寺について『尾張志』がかなり詳しく書いている。
 全部引用するほどの内容ではないのでかいつまんでいうと、いつ誰が創建したなど縁起は分からなくなっていて、ただ観世音(菩薩像)は行基の作という言い伝えはあった。
 そんな状況が一変したのが元禄7年(1694年)、当時の住職がたまたま古い木牌を見つけて読んでみたところ、開山行基大菩薩とあってびっくり。大喜びして長歌を歌ったとかなんとか。
 観世音や十一面など6体の仏像も行基作ということになり、秘仏にしていたのだけど、この仏像が霊験あらたかですごく感応するということで、そのまま寺号になったと書いている。
 嘘とも本当とも何とも判断できない話だけど、何もないところにこんな話が生まれるとも思えず、行基にまつわる何かしらがある寺なんだろうとは思う。
 その感応寺よりもずっと古い時代から金神社がここにあって小金山全域が神山とされていたというのであれば、そもそもこの場所が特別視されていたということがいえそうだ。
 ただ、それが尾張金連にどうつながっていくのかがまだ見えてこない。

尾張金連とは

 金神社の祭神について『尾張志』をあらためて引用すると、こう書いている。
「祭神は舊事紀ノ天孫本紀に見えたる天香語山命十五世孫尾張ノ金ノ連なるへし」
 舊事紀というのは『先代旧事本紀』(800-900年頃と推定)のことで、その中の「天孫本紀」に尾張氏の系譜が載っていて、そのことをいっている。
 尾張氏系の系図では国宝に指定されている籠神社(公式サイト)社家の海部氏のものもよく知られているのだけど、ここでは『先代旧事本紀』を見ていくことにする。
 尾張金連の前後は以下のようになっている。

十三世孫 尻綱根命(シリツナネ)
 誉田天皇(応神天皇)の大臣
 尾治連の姓を与えられた

十四世 尾治弟彦命(ヲトヒコ)
 次に尾治針名根連(ハリナネ)
 次に意乎巳連(ヲヲミ)
  大雀朝(仁徳天皇)で大臣

十五世孫 尾治金連(カネ)
 次に尾治岐閇連(キヘ)
 次に尾治知々古連(チチコ)
  去来穂別(イサホワケ/履中天皇)の世に臣としてよく仕えた

十六世孫 尾治坂合連(サカアヒ)
 金連(カ子ノ)連の子
  允恭天皇の世に寵臣として供奉
 次に尾治古利連、尾治阿古連、尾治中天連、尾治多々村連、尾治弟鹿連、尾治多與志連

 もう少し遡ると、第十一世孫が乎止与命(ヲトヨ)で、その子の建稲種命(タケイナダネ)が十二世孫、十三世孫の尻綱根命(尾綱根命とも)は建稲種の子に当たる。
 建稲種は日本武尊(ヤマトタケル)の東征に際に副将として従って、帰り道の途中の駿河で命を落としたという伝承が尾張に伝わっている(熱田社の縁起など)。
 ややこしいというかやっかいなのは、尻綱根命と尾治弟彦命、尾治弟彦命と尾治金連命との関係が書かれていないことだ。
 尾治坂合連は金連の子とあるので、書かれていないことが余計気になる。
 普通に考えれば父と息子ということになるのだろうけど、書くまでもないと思って書かなかったのか、あえて書かなかったのか、あるいは実の親子ではなかったのか。
 十四世の当主の弟彦命を祀る神社はない(現存していない)のに、その弟と思われる針名根連は天白区の針名神社の祭神となっている。
 その先代の尻綱根命は犬山市の針綱神社(公式サイト)で針名根連らとともに祭神に名を連ねている。
 弟彦命ではなく針名根連が祀られたということは、そちらの系統が有力だったというか。
 あるいは、当主は本拠で家を守って、二男以降は外に開拓に出たり、朝廷に仕えたりするということだったのかもしれない。
 ややこしいついでに書いておくと、金連命の弟と思われる岐閇連の子が草香(クサカ)で、その娘の目子媛(メノコヒメ)が継体天皇の妃となって安閑天皇、宣化天皇を生んでいる。

 上の系図を信じるのであれば、金連は履中天皇時代の人ということになる。
 履中天皇は仁徳天皇の第一子で、二人の弟も反正天皇、允恭天皇として即位した。
 履中天皇の皇子に市辺押磐皇子(いちへのおしは)がおり、本来であればこの皇子が即位する可能性が高かった。
 しかし、帝位を狙う雄略天皇に殺されてしまう。
 そこで、市辺押磐皇子の皇子の億計王(オケ王)と弘計王(ヲケ王)は雄略天皇から逃れて一宮に隠れ住み、後に仁賢天皇、顕宗天皇として即位するという話が『真清探當證』(ますみたんとうしょう)に書かれている。

 履中天皇は5世紀前半の天皇というのが通説となっている。
 金連も5世紀の人で、その人を祀る神社を建てたとすると、早くても5世紀以降、6世紀あたりと推測できる。
 死んですぐに神様として神社で祀るかというと少し違和感がある。
 行基が訪れたときはすでに金神社があったという話を信じるなら、8世紀にはすでにあったことになり、江戸時代の人から見て”往古”から鎮座ということであれば、少なくとも古墳時代にはあったのではないか。
 小金山が神山とされた理由は、単純に考えたら金連の塚(古墳)があったからかもしれない。
 金連やその後裔一族が上水野の地を開拓したというだけでは小金山が神山になることはない。
 5世紀から6世紀といえば尾張でも盛んに古墳が築造された時期で、熱田の断夫山古墳は6世紀初めのもので、草香や目子媛との関連も指摘されているから、金連はそれより前ということになる。

 事実は全然違うかもしれないけど、金連の古墳が神社に発展したと考えると違和感がない。
 逆にいうと、そうでも考えないとこの地に金連命を祀る神社があることがすごく唐突に思える。

神紋のこと

 この金神社を調べているとき、祭礼の動画(夏越の神事動画)を見つけて見てみたら、おやっと思うことがあった。
 五三桐紋は尾張氏系の古い神社の神紋なので当然ではあるのだけど、なんとなく普通と違う違和感があった。
 その理由は何だろうとしばらく考えて、あ、そうか、白抜きになっているんだと気がついた。
 通常だとのれんに染め抜くときは縁取りだけが白なのに、ここのものは全体が白く染め抜かれて縁取りが染められている。
 これがそのまま金神社の神紋だとすると、総陰五三桐(そうかげごさんきり)と呼ばれるものだ。
 この紋を使っている家はそれなりにあって特別珍しいものではないとはいえ、尾張にある尾張氏系の神社では初めて見た。
 本家筋ではない分家筋が遠慮してこの紋を使ったのか、別の理由があるのか。
 総陰五三桐にした意味はちょっと分からない。

山田の金神社との関係を考える

 北区の山田天満宮の中に金神社がある。
 この金神社も上水野の金神社と同じく”こがね-じんじゃ”と呼ばれている。
 もともとは独立した神社で、昭和58年(1983年)に遷されるまでは200メートルほど北東にあった(地図)。
 古くは大将宮とか大将軍社などと呼ばれていて、方位神である大将軍から来ているのか、ここを本拠としていたとされる山田重忠が関わっているのか結論は出なかったのだけど、いずれにしても名前も読みも同じということで何か関係があるのではないかと考えた。
 ひょっとすると、あちらの金神社が延喜式内の金神社という可能性もなくはない。
 上に書いたように、『尾張国内神名帳』で金天神が尾張戸天神の前に来ていて、尾張戸天神が小幡の神社だとすると、北区の山田というのは位置的にしっくりくる。
 少し東には守山区金屋という地名もある。
 ただ、だからといって上水野の金神社(白山)が古くないといっているわけではない。カミマツリの始まりということでいえば古墳時代よりも遡るかもしれない。
 とはいえ、古ければ必ず式内社になるわけでもない。
『延喜式』神名帳に載っているということは、国の機関である神祇官が管轄していたということで、いわば国立の神社が延喜式内社ということだ。
 出雲国の例をとると、奈良時代前期の733年に編纂された『出雲国風土記』には神祇官社が184社、それ以外が215社載っており、それから200年近く経った『延喜式』(927年)では187社と、わずか3社しか増えていない。
 ここから読み取れるのは、延喜式内社(官社)の多くが奈良時代以前にはすでにあって、それは時代を経てもあまり増減はなかったということだ。
 もちろん、すべての国が出雲国と同じではないだろうけど、大きくは違っていないだろうと思う。
 官社以外は時代を経るごとに増えていったのは間違いない。尾張国の場合は延喜式内社が121社だけど、神社総数でいえばその数倍はあったはずだ。

 で、結局何が言いたいかというと、もし上水野村の金神社が尾張金連命を祀るために創建された神社だとしたら、官社になっただろうかということだ。
 尾張氏の遠い祖神ではなく、何代か前の当主を祀るいわば尾張氏のプライベート神社が官社にふさわしいかというと、ちょっと疑問だ。
 もちろん、熱田社を初めとした熱田関係の神社の多くが官社とされていたし、瀬戸でいえば深川神社大目神社も官社だったから、金神社もそこに入っていてもおかしくはない。
 ただ、祭神の問題がやはりどうしても引っ掛かる。これが天火明だったり八王子だったりしたら、こんな疑問は持たなかった。

上水野の位置について

 上水野村といっても、土地勘のない人はどのあたりにあるのか分からないと思う。瀬戸市民ですら、あのあたりかなとぼんやり思い浮かぶだけで行ったことはないという人は大勢いるんじゃないだろうか。何か用事がないと行かないところだし、特別な用事があるような場所でもない。
 名古屋市民の私はなおさらのこと、行く前は水野ってどこだっけ? といった感じで、行ってみて、帰ってきて、地図を再確認して、ようやく位置を把握できたくらいだった。
 名鉄瀬戸線の尾張瀬戸駅から見て3.5キロほど北西へ行ったところが、かつての上水野村だ。

 瀬戸市内の遺跡分布については大目神社のページにまとめておいたのでそちらを参考にしていただくとして、水野地区のことをいうと、縄文時代後期の内田町遺跡が知られている。
 この遺跡からは方形周溝墓の一部や集落跡も見つかっており、縄文時代後期にはすでに人が暮らす集落があったと考えられる。
 内田町遺跡は後の村でいうと下水野村に当たる。上水野から見て水野川を3キロほど下ったところだ。
 上水野村のエリアでは遺跡が見つかっていないものの、だからといって人が暮らしていなかったとは限らず、下水野にいて中水野や上水野にいなかったとも考えにくい。
 瀬戸市全域の遺跡を俯瞰すると、時代が進むにつれて奥地から平地への人の流れが見られるから、上水野の更に奥ほど早くから人が暮らしていた可能性を考えていいと思う。

 金神社が最初にあったのは、上水野村の集落からだいぶ山の方に行ったところで、集落の中心からは500メートルほど離れている。水野川沿いではないということだ。
 縄文から弥生時代のこのあたりがどんなふうだったのかは想像がつかないのだけど、それにしても山の上の方だ。
 集落近くにあって日常的に参拝するような場所ではなかったと思う。
 この山を特別視していて、この場所に祀ることに意味があったのだろう。

『尾張徇行記』(1822年)は上水野村についてこう書いている。

此村落ハ、水野川ヲ南北ニヘタテ本郷アリ、南ノ方ハ中水野村落トツツキ新田ノ内ニ農屋立ナラヘリ、又北ノ方ハ北脇島山島ト二区ニ分レ農屋建ナラヒ小百姓ハカリナリ、農業ヲ以テ専ラ生産トス、此村ハ明和四亥年洪水ニ民戸漂流セシニヨリ、其後ニ新田へ多ク農家ヲ引移スト也、地形ハ中水野村下水野村ト田面一般ニツツキ平衍ナル所ナリ

 村の中で水野川が大きく蛇行しているのだけど、右岸の北側と左岸の南側は川で隔てられてはいても両方が本郷だったようで、明和4年(1767年)の洪水で被害を受けて、多くの農家が南の新田側に移っていったらしい。
「民戸漂流」というから、相当な洪水被害だったのだろう。
 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、江戸時代から続く集落の様子が分かる。
 上水野村の支村として曽野と夜床があるといっているので、上水野村の村域は相当広かった。

遷座と現在地

 そろそろ話を現在地に戻したい。
 最初に書いたように、現在の金神社は名鉄瀬戸線「瀬戸市役所前駅」から見て250メートルほど北の高台にある。
 現在地に遷されたのが昭和19年(1944年)というから戦時中のことだ。
 瀬戸ペディアによると、「昭和の初めに上水野の南東の安戸地区(現在の小金町)から遷座の熱望があり、紆余曲折を経つつ昭和19年(1944)にようやく遷座された」とのことだ。
 遷座の話は昭和の初め頃からあって、その後あれこれあってようやく昭和19年に実現したということらしい。
 しかし、戦時中で余裕があるとも思えないこの時期だったのはどういう訳だったのだろう。
 一つ考えられるのは、自分たちの地区から出征していく兵士を見送るための神社を必要としたということだ。
 この時期にそういう目的で建てられた神社もあった。
 ただ、それがどうして上水野にあった金神社だったのかだ。
 こういう話は住民の希望でどうこうなるものではなく上の方が決めることで、一般レベルではうかがい知れない事情があったりする。

 瀬戸ペディアにあるように、この場所はかつて安戸と呼ばれていた。
 旧住所でいうと、大字上水野字安戸なので、ここもかつての上水野の村域に入るだろうか。
 小金町の成立は昭和32年(1957年)だから、金神社の遷座が先で地名は後になる。
 それにしても、どうして「こがね-ちょう」ではなく「おがね-ちょう」だったかがやはり気になる。
 金神社を地元の人たちは「おがねさん」と呼んでいるそうだから、通称として”おがね”と呼んでいたのをそのまま町名にしたということだろうか。
 それとも、”おがね”にした別の理由があるのか。
 現在は水南連区に属している。

 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、北の丘陵地と南の瀬戸川との間の狭い土地に民家が集まっている様子が見て取れる。
 現在の町名でいうと、下陣屋町から京町、追分町のあたりだ。
 金神社は集落から離れた北の丘陵の頂上附近に位置している。
 集落の中に建てる余地がなかったのか、高台に建てることに意味があったのか。
 その後、集落だった場所に瀬戸電気自動車の鉄道が開通(明治38年)したことで田んぼは潰され、民家が激増していくことになる。
 昭和40年代以降には南北に通じる道も通され、丘陵地も宅地化されていった。

結びに代えてあらためて”金”について考える

 天野信景(あまののぶかげ)は『本国神名帳集説』(ほんごくじんみょうちょうしゅうせつ)の中でこんなことを書いている。

金は可禰と訓べし 祭神物郡氏金連歟 山田庄上水野村小金山に在す、今白山と称す

 混乱が増すから無視しようと思ったのだけど、とりあえず触れるだけは触れておく。
 金は”かね”と読むべきで、祭神を物郡金連かも、といっている。
 確かに『先代旧事本紀』の「天孫本紀」に宇摩志麻治命十三世孫物都金連が出てくるし、物部氏の系図には”金”のつく人物が複数いる。
 十五世も金連だったり、金古連や金弓などもいる。
 更にやっかいなことに、目連とか目子連とかもいて、そうなると、あれ? 赤津の大目神社ってそっち系なの? と思ったりもしてくる。
 私としてはすっかり尾張氏系神社と考えているのに、物部を持ち出されてしまうと、もはやお手上げになってしまう。
 とりあえずこの問題はこれ以上追求せず、保留としたい。

 それから、もう一つ先送りしてきた問題がある。
 八王子神社(共栄通5)のとこで書いたように、今村の金井明神の件だ。
『尾張徇行記』は府志曰く(『張州府志』1752年)として次のように書いている。

金井明神祠、在同村、杞安閑天皇、社伝曰、延喜神名帳所載、 金神社是也、按同郡小金山神社、是乃式内金神則今此社亦移祀之者歟

 これは今村の記事で、今村に金井明神というのがあって、安閑天皇を祀っており、社伝ではこの社が延喜式神名帳の金神社といっているという内容だ。
 その上で、同郡(山田郡)の小金山にある金神社(白山)を遷して祀ったものかもしれないとも書いている。
『尾張志』も同じことを書いているのだけど、そちらの方が分かりやすい。

金井明神ノ社
同村にありしが今廢す安閑天皇を祀れり社傳に延喜神名帳に載る金神社是也といへり
按するに同郡小金山神社は即式内金神社なれは此社も亦それをうつし祭れるもの歟

 要するに、延喜式内は小金山の白山(金神社)で、今村の金井明神はそちらから勧請して祀ったものだろうと推測しているということだ。
 ただ、個人的に気になったのは今村の金井明神が安閑天皇を祀るとしている点だ。
 安閑天皇は継体天皇の子で、母は尾張連草香の娘の尾張目子媛なので、尾張とはゆかりが深い。
『真清探當證』が伝える継体天皇の秘話が事実だとすると、そちらの方でもつながってくる。
 安閑天皇は蔵王権現と習合して祀られるようになった例もあるのだけど、和風諡号を「広国押武金日天皇」といい、”金”が入っていることから金神として祀られた可能性も考えられる。
 尾治金連を祀る尾張氏の神社と、安閑天皇を祀る神社でいえば、安閑天皇の神社の方が神祇官管轄の官社にふさわしい気がするけどどうだろう。
 ただし、金井明神は「同村にありしが今廢す」といっているように江戸時代後期には廃社になっていたようで、これ以上追いかけることはできない。

 この金神社についてよくわからないまま見切り発車で書き始めて、なんとか最後まで辿り着くことができて今は安堵している。
 もとよりすべて分かるようになるとは思っていないし、結論が出るようなものでもない。
 それでも、考察、検討するための材料はある程度提出できたのではないかと思う。
 津田正生は調べられるだけ調べて考えても分からなかったことについては、後世の人なおよく考えて糺すべしという言い方をしていた。
 私もバトンを受け取った一人として、できるだけのことはしたつもりだ。
 そして私も津田正生にならってこの言葉で締めくくりたい。
 後世の人なおよく考えて糺すべし。

作成日 2024.11.10

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