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神明社(野方)

入り交じってる

読み方しんめい-しゃ(のかた)
所在地日進市野方町清水566 地図
創建年不明
旧社格・等級等旧村社・十四等級
祭神天照大御神(アマテラス)
保食神(ウケモチ)
菅原道真(すがわらのみちざね)
アクセス名古屋市地下鉄鶴舞線「赤池駅」より徒歩約46分
駐車場あり
webサイト
例祭・その他例祭 10月第2日曜日
神紋五七桐紋
オススメ度
ブログ記事

神明から出発していない?

 かつての野方村の氏神だったのは間違いないのだけど、最初から神明だったわけではなさそうだ。
 その経緯はやや複雑で分かりづらい。

『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。

創建は明らかでない。明暦3年(1657年)西加茂郡寺部八幡社より勧請という。
明治5年村社に列格する。
祭神保食神・菅原道真は字稲荷鎮座の稲荷社と同社の末社天神社を同40年6月27日に合祀した。

 江戸時代前期の1657年(明暦3年)に、西加茂郡の寺部八幡社から勧請といっているけど、これがこの神社の創建ではない。
 もともとあった神社に、あらたに八幡を追加で勧請して祀ったのだろうと思う。
 西加茂郡の寺部八幡社は豊田市社町の寺部八幡宮のことで、平安時代に高橋荘領主の高橋惟康が京都の石清水八幡宮(公式サイト)を勧請して祀ったのが始まりと伝わっている。
 それにしても、三河国のローカルな八幡を尾張国の神社に勧請したというのは非常に珍しいケースで興味深い。こういう話は他ではほとんど聞かない。八幡を勧請するのであれば、総社的な宇佐神宮(公式サイト)や鶴岡八幡宮(公式サイト)などからするのが通常のパターンだ。石清水八幡宮からも多い。
 野方村と西加茂郡とのつながりが何かあったのだろうけど、そのあたりの事情は分からない。

 八幡が始まりではないとして、もともとは神明だったかといえば必ずしもそうとは言い切れない。
『寛文村々覚書』(1670年頃)の野方村はこうなっている。

家数 三拾弐軒
人数 百九拾五人
馬 八疋

禅宗 愛知郡岩崎村妙仙寺末寺 龍蟠山妙渕寺
 寺内壱反壱畝歩 備前検除

社三ヶ所 内 神明 米社 山之神 村中支配
 社内六反七畝六歩 前々除

 家数32軒で、村人が195人なので村の規模としては大きくない。
 馬8頭と多いのは、野方村が駿河街道(飯田街道)沿いにあって、あれこれ人馬を出させられていたからだ。
 寺は後回しにして神社を見ると、神明、米社、山之神の3社で、村中支配になっている。
 1657年に八幡を勧請したというのは社伝にそうある(あった)のだろうけど、ここでは八幡の名は出てきていない。
 1670年時点で神社は神明と認識されていたということだ。
 米社というのは初めて見る名前だ。
 これは後に保食神(ウケモチ)祀る稲荷に変わっていったのだろう。
 いずれも前々除(まえまえよけ)となっていることから、1608年の備前検地のときはすでに除地だったということで、創建は確実に江戸時代以前に遡る。

 続いて『尾張徇行記』(1822年)を見てみる。

社三ヶ所、覚書ニ神明・米社・山神社内大反七畝六歩前々除、村中支配
庄屋書出ニ、氏神八幡神明春日合一祠、境内一反一畝六歩、天神祠境内二畝、米祠境内二反一畝十歩、山神祠境内一反二畝廿四歩、イツレモ御除地

 庄屋の書上に、氏神は八幡神明春日の合一祠とあるといっている。
 ここへきて急に春日が出てきて戸惑うのだけど、江戸時代中期以降のどこかで春日神も追加されて3社合一社になったようだ。
 米社はまだ米祠のままで、天神祠が増えている。
 ただ、これも除地といっているので、古くからあったものかもしれない。

『尾張志』(1844年)はこう書く。

神明(八幡春日)相殿社 當社を村の氏神とす
稻荷ノ社 山神ノ社 天神ノ社

以上並野方村にあり

 ここでは神明をメインとして八幡、春日を相殿という扱いにしている。
 それと、米社が稲荷社になっている。
 神明社がある清水の東に稲荷という地名が残っているので、かつての米社(稲荷)はそこにあったのだろう。
 天神は米社(稲荷)の末社だったようなので、それも近くにあっただろうか。

野方村について

 野方村の成立について『日進村誌』は、祐福寺開山の達智上人に従って美濃国大垣から市川家などがこの地にやってきて開いたのが始まりで、康応年間(1389-1390年)のことだと書いている。
 しかし、この話は正しくない気がする。
 そもそも祐福寺の創建は達智上人ではなく、下野国の宇都宮頼綱で、1191年(建久2年)のこととされ、達智上人を美濃国から招いたのは明知城主の小野田長安と傍示本城主の加藤時利で、それが1389年(嘉慶3年/康応元年)とされる。
 ただ、ここでいう市川家というのは後に野方村の庄屋を務めることになる市川家のことで(旧市川家住宅については後述)、その一族が野方村を開いたということはあり得るかもしれない。
 もしこれが本当であれば、ちょっと無視できない話になる。
 というのも、東郷の祐福寺というのはなかなかの名刹で、室町時代には後小松天皇や後柏原天皇の勅使が派遣されたり、足利義教が宿泊したり、桶迫間の戦いでは今川義元が泊まったりという寺なのだ。
 織田信長や徳川家康、江戸時代には徳川義直より寺領安堵の墨印を与えられていることからしても、時の為政者によって手厚く保護されてきた歴史がある。
 その祐福寺の達智上人が関わっているとなると、野方の重要度が増すことになる。
 しかしながら、野方の歴史がこんなに浅いかというと、個人的な感覚としては疑問だ。野方はもっと古いのではないかと思う。

 野方村について津田正生は『尾張国地名考』でこう書いている。

野方村(加清音)

【寬紀日】野を起して畑に開拓をいふ

 野を起こして畑にしたから野方といっているけど、これはまったく当たっていないと思う。
 野を起こしたなんてのはどこも全部そうで、そんなことをいったら日本国中が野方やそれに類する地名だらけになってしまう。
 自分に当てはめて考えれば分かる。どこかよその土地からやってきて苦労して土地を耕して畑を作って、ようやく生活の基盤もできて集落として格好がついたとき、我々は野を起こして頑張ったからここを野方と呼ぼうなんて思うだろうか? どう考えても思わない。
 地名や集落名といったものはそんな単純な理由では付かないし、いっときの誰かの思いつきがそのまま継続することもない。
 実際の由来は分からないにしても、野方の地名由来は他にちゃんとあるに違いない。

 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)で地形を確認してみる。
 野方集落の中心は、かつての駿河街道沿いで、現在でいうと県道58号線の北、東島がそうだ。
 駿河街道南の定納にも少し民家があり、野方三ツ池公園があるところには名前の通り三つのため池があった。
 集落の西北の西島に野方新田があり、天白川をはさんだ北の後口は野方高上とある。
 神明社があったのは田んぼの中の農道沿いで、樹林マークが描かれているので鎮守の杜といった感じだったのだろう。
 川についていうと、東から流れてきた天白川と岩崎川が集落の北で合流し、南からの折戸川が神明社の西で天白川に注いでいる。
 折戸川の川筋が真っ直ぐになっている以外は昔の流路がそのまま残っている。
 土砂が運んだ土地は肥沃で農作物を育てるにはよかっただろうけど、水害の被害はけっこうあったのではないだろうか。
 特に神明社があるあたりは危険な気がする。

 野方村の様子について『尾張徇行記』はこんなふうに書いている。

此村ハ伊奈街道筋ニアリ、三瀬戸ニ分ル、東嶋本郷後上(カウシヤウ)ト云、竹木茂り村立大体ヨシ、農事ノミヲ以テ生産トス

 当時は本郷、東嶋、後上という呼び方をしていたようで、竹林が茂っていて村立は良いといっている。
 少し意外なのは、飯田街道を伊那街道といっていることだ。
 伊那というと御嶽山の東に伊那市があるように、信州の地名だ。
 一般的に伊那街道というと、東山道から発展した道で、信州方面のことをいうことが多い。
 名古屋でいうと、名古屋城と家康がいた駿府を結ぶ道で、駿河街道とも呼ばれていた(飯田街道の呼び名が定着するのは明治以降とされる)。
 もう少し細かくいうと、名古屋城下から赤池までを駿河街道と呼び、赤池で分岐する一方を挙母街道、もう一方を伊奈街道と呼んでいたようなので、野方のこのあたりを伊奈街道というのは間違っていない。

 名古屋北部の庄内川沿いが古墳や遺跡の密集エリアであるように、名古屋南部の天白川沿いも遺跡密集地区なのに隠されていて表に出ていない。
 日進市内には縄文、弥生の遺跡はないことになっているけど、土器類などは弥生も縄文も出土しているのだから、遅くとも弥生時代には天白川沿いに人がいたのは間違いない。
 野方、浅田、赤池、本郷あたりの歴史はかなり遡ると個人的には考えている。
 野方集落が弥生時代にはあったとしても全然驚くことではない。

寺その他について

 野方村の寺について『寛文村々覚書』をあらためて引用すると以下の通りだ。

禅宗 愛知郡岩崎村妙仙寺末寺 龍蟠山妙渕寺
 寺内壱反壱畝歩 備前検除

 龍蟠山妙渕寺は”りゅうばんざん みょうえんじ”と読むのだと思うけど、曹洞宗の寺だ。
 岩崎村の妙仙寺末寺だといっている。
 妙仙寺はいろいろな変遷を経て、現在は日進市岩崎町小林に現存している。
 備前検除なので、1608年の備前検地の際にあらたに除地になったということだ。

『尾張徇行記』はもう少し詳しい。

妙淵寺 府志曰、在野方村、号龍蟠山、曹洞宗、属岩崎妙仙寺、界内在薬師堂一宇
覚書ニ寺内一反一畝備前々除
当寺書上ニ、境内一反一畝除地、天正元癸酉年岩崎村妙仙寺四世日山和尚草創也
薬師堂ハ修験不動院境内ニアリ、境内二畝内一畝ハ前々除、一畝ハ年貢地

阿弥陀堂一宇、庄屋書上ニ天明七未年春日井郡大森村薬師堂ヲ譲リ受、コレヲ阿弥陀堂ト改、境内一畝年貢地

聖人塚 府志曰、在野方村西、俗伝有比丘入定於此、然不知其人如何

 妙淵寺をここでは”淵”と表記している(『寛文村々覚書』の”渕”は異字体で、”淵”が正字)。
 あと、前々除と書いているけど、ここも『寛文村々覚書』と違っている。前々除ならけっこう古いということになるので、この違いはけっこう大きい。
 天正元年は1573年で、織田信長などがいた時代だ(武田信玄が死去した年)。
 岩崎村妙仙寺四世の日山和尚が草創といっているけど、これは信じていいだろうか。
 その他、不動院に薬師堂があったり、大森村から譲り受けた薬師堂を阿弥陀堂に改めたものがあったようだ。
 野方村の西には聖人塚というものがあって、比丘が入定した地という言い伝えがあったらしい。
 入定(にゅうじょう)は禅定(ぜんじょう)に入るという意味で、真言宗の思想なのだけど、比丘(びく)は比丘尼(びくに)の男版をいう。これが事実なら、修行者が瞑想したまま死去した場所ということになる。
 実際は古墳かもしれないけど、もっと新しい何かの塚かもしれない。

 旧市川家住宅(公式サイト)は日進市が管理公開している住宅で、国の有形文化財に指定されている。
 1709年(宝永6年)、木綿問屋を営み、後に野方村の庄屋も務めた市川藤蔵が分家独立したとき植田村に建てた家屋(主屋)で、1769年(明和6年)に野方村の現在地に移築されたとされる。
 市川家が日進市に寄贈した。
 木金土日の9時から16時まで一般公開されている(無料)。

混ざっている感

 ここまで見てきて純神明でないことは分かったのだけど、もともと誰がどんな神を祀ったのが始まりかについてはまったく分からないということになる。
 ひとつ、大きな手掛かりとなるのが神紋が五七桐紋ということだ。
 五三桐紋なら尾張氏が関わった古い神社の可能性があるけど、五七桐紋なのでそうではないかもしれない。
 三河側の影響を受けた神社のようにも思える。

 春日がいつ勧請されて合一されたかについても調べがつかなかった。
 一応は神明を前面に出しつつも神明らしさが感じられない。
 鳥居は神明鳥居ながら、本殿を神明造と呼んでいいかどうか。
 覆屋に囲われていてよく見えないのだけど、千木と鰹木はありつつ、屋根は簡易版の流造のようで、一般的な神明造とはいえない。
 社殿全体は尾張造の名残も少し見て取れる。
 ここ神明といってるけど神明じゃないよねというのが現地での個人的な感想だった。

 別に神社の正体が明確である必要はない。
 長い歴史の中でいろいろな要素が入り交じり、上書きされて、現在に至っている。
 大事なのは今もこうしてここに在るということだ。
 昔も今も、この神社が野方の神社であることに変わりはない。

作成日 2025.4.30


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