同じ人? 別人?
保食神(ウケモチ)と倉稲魂神(ウカノミタマ)は同一なのか違うのか? まずそこが問題だ。同一視する説もあれば別とする考え方もある。 現在の稲荷社では、ウカノミタマを祭神とするところとウケモチを祭神とするところに分かれている。それはそれぞれの神社による事情もあるのだけど、単に呼び方の違いなのか、別物なのかは、実際のところよく分からない。
『古事記』と『日本書紀』との設定の違い
ウカノミタマは『古事記』、『日本書紀』とも出てくるのに対して、ウケモチは『古事記』には出てこず『日本書紀』の一書にだけ登場する。 ウケモチの系譜については語られず、五穀を生み出した食物神としての話が書かれている。 ウカノミタマは『古事記』と『日本書紀』では系譜が違っており、その活躍は描かれない。 『日本書紀』ではウケモチと月夜見尊(ツクヨミ)の挿話とそっくり同じものが『古事記』では速須佐之男命(スサノオ)と大気津比売神(オオゲツヒメ)の話として語られている。 これは一体どういうことなのか? オオゲツヒメはウカノミタマと同一とされることもあり、ウケモチとオオゲツヒメで同じ話が伝わっているということは、結局全部同一人物ということになってしまうのか。 ウカノミタマは神宮の外宮(web)の祭神である豊受大神(トヨウケ)と同一ともされるから、伊勢の外宮の神は稲荷神ということになりかねない。 そういう理解で本当にいいのだろうか?
『日本書紀』の一書第十一にはこうある。 天照大神(アマテラス)は弟の月夜見尊(ツクヨミ)に、葦原中国にいる保食神(ウケモチ)という神を見てくるよう命じる。 ツクヨミがウケモチのところへ行くと、ウケモチはツクヨミをもてなすために、陸を向いて口から米飯を吐き出し、海を向いて口から魚を吐き出し、山を向いて口から獣を吐き出し、それらを月夜見尊に出した。 するとツクヨミは、吐き出したものを食べさせるとは汚らわしいと怒り、ウケモチを斬ってしまった。 ツクヨミは戻ってアマテラスに報告すると、アマテラスは怒り、おまえは悪い神だ。もう顔も見たくないといい、それ以降、昼(太陽)と夜(月)が分かれたのだと。 アマテラスは天熊人(アメノクマヒト)をウケモチのところへやると、ウケモチはすでに死んでいたものの、屍体の頭から牛馬、額から粟、眉から蚕、目から稗、腹から稲、陰部から麦・大豆・小豆が生まれており、アメノクマヒトがそれを持ち帰るとアマテラスは喜び、民が生きてゆくために必要な食物だといってこれらを田畑の種とした。 それらを天狭田に蒔くと秋になって実り、蚕を口に含むと糸が引き、養蚕も始まったとしている。
ここで語られているのは、神の死によって五穀が生まれたことや昼と夜ができたきっかけの出来事で、これらを他国の神話と比較して類型的なものだとするのが一般的な説なのだけど、個人的にはそういう紋切り型の解釈には賛同できない。 まず、一番の疑問は、ツクヨミは何をしにウケモチのところへ行かされたのか、ということだ。 ウケモチは食物の神だからそれを徴収するためにツクヨミが派遣されたみたいに思いがちだけど、それはまったく違う。 使いの理由は何も書かれておらず、ウケモチは食事でツクヨミをもてなそうとしただけだ。それをツクヨミは斬り殺してしまった。 アマテラスが怒ったのも無理はないとしても、怒られたツクヨミからしても戸惑っただろう。それで二度と会わないと言われたらなおさらだ。 気の毒なことに、『日本書紀』におけるツクヨミの登場はこの場面しかない。一回の出番で印象は非常に悪いものとなっている。 それに、『古事記』ではスサノオとオオゲツヒメの話だったのを、『日本書紀』はどうしてツクヨミとウケモチに変える必要があったのか。 話の前段としての設定も違っていて、『古事記』では高天原でさんざん罪を犯して地上に追放されたスサノオは食物をめぐんでもらおうと大気津比売神(オオゲツヒメ)に頼んだということになっている。 オオゲツヒメは鼻や口や尻から食べ物を出して調理して出したとも書いている。 『日本書紀』は口から吐き出したものをそのまま机に並べたとしているので、ここにも違いがある。 ただし、スサノオもやっぱり汚いと怒ってオオゲツヒメを殺してしまうという展開は共通する。 オオゲツヒメの死体から五穀が生まれたというのも同じではあるのだけど、神産巣日御祖命(カミムスビミオヤノカミ)がそれらを取ったということになっていて、これはちょっとよく分からないというのはある。 カミムスビといえば造化三神の一柱で、世代的にはもっとずっと古い神で、ここで登場するのは非常に唐突なことだ。 以前も何度か書いているけど、『古事記』と『日本書紀』で食い違いがある場合は、『古事記』の方が伝承をそのまま書いている可能性が高いと思っていい。『日本書紀』が嘘をついているというか、より作為的なのは確かだろう。 死から五穀が生まれて民に分け与えられたという物語を単純に考えれば、親から子供たちへ遺産が相続されたということかもしれないし、それらが民に分け与えられたともいえるのではないか。 ただ、その場合でも、スサノオをツクヨミに変えた理由はよく分からない。もっと何か裏というか事情があっただろうか。
結局、誰と誰が同一人物なのか?
ウカノミタマについてはウカノミタマの項に書いたので、そちらを読んでいただくとして、結局のところ、ウケモチとウカノミタマは同一なのか違うのかと、もう一度問いかけてみる。 他にも登場人物として、オオゲツヒメとトヨウケがいる。 ひとつ推測できることは、同一というより別名ではないかということだ。 保食(ウケモチ)は食物の象徴名っぽいし、大気津比売神(オオゲツヒメ)は個人名っぽい。 倉稲魂神(ウカノミタマ)も象徴名だろう。 豊受(トヨウケ)はなんともいえない。どちらかというと象徴名だろうか。 ではこれらはすべてオオゲツヒメが元になっているのかといえば、そうと言い切るだけの根拠もない。 このうちのどれらは役職名だったり集団名だったりするのかもしれない。保食のオオゲツヒメといったようなことだ。 だとすると、ウケモチもウカノミタマもたくさんいるということになり、同一といえば同一だし、別といえば別ということにもなる。
ウケモチを祀る神社について
最初に書いたように、稲荷神社の中でウケモチを祭神としているところがある。 名古屋でいうと、稲荷社(八百島)、東区の稲荷社(義市稲荷)、守山区の生玉稲荷神社、熱田区の寶田社(八番)が主祭神としている他、中村区の七所社(岩塚)、西区の伊奴神社で祭神に名を連ねている。 稲荷神社の祭神はもともとは稲荷大神だったし、神仏習合していた時代は吒枳尼天(ダキニテン)という認識もあったはずだ。 明治の神仏分離の際にウカノミタマではなくあえてウケモチとした神社にはどんな意図と思惑があったのか。 それは今となっては知りようもないことだけど、気になるといえば気になる。 尾張は三河の豊川稲荷(web)の影響を少なからず受けただろうから、他とは少し事情が違うかもしれない。 神道系の稲荷はウカノミタマで、仏教系の稲荷はウケモチといった単純な分け方はできそうにない。 守山区の生玉稲荷神社ではウカノミタマとウケモチを別神として両方祀っていることからしても、そもそもウカノミタマとウケモチは別という認識があっただろうか。
全国に目を向けると、歴史のある稲荷神社のひとつに兵庫県多可郡の糀屋稲荷神社(web)がある。 推古天皇時代の593年創建とされており、もともとは稲荷山延命寺快智院という寺だった。 ここでも稲蒼魂命(ウカノミタマ)と保食命(ウケモチ)を分けて両方を祀っている。 日本三稲荷を自称する宮城県岩沼市の竹駒神社(web)や、埼玉県東松山市の箭弓稲荷神社(712年創建/web)なども古く、ウケモチだけを祀っている。 もともと何の神を祀っていたかは不明ながら現在は主祭神の一柱としてウケモチを祀っている静岡県静岡市の建穂神社(web)は『延喜式』神名帳(927年)に載る古社だ。 愛知県豊川市の犬頭神社は『延喜式』や『今昔物語』に記述があり、ウケモチを主祭神とする。 その他、ウケモチを祀る神社に、亀山八幡宮(長崎県佐世保市/web)、金立神社(佐賀県佐賀市/web)、岩内神社(北海道岩内郡/web)、玉崎駒形神社(岩手県奥州市/web)、保食神社(岡山県倉敷市)などがある。
徳島県名西郡神山町にある上一宮大大粟神社(web)は大宜都比売命(オオゲツヒメ)を祭神している。 阿波国一宮の論社とされる古社で、社伝によると、大宜都比売神が伊勢国丹生の郷(現 三重県多気郡多気町丹生)から馬に乗って阿波国に来て、この地に粟を広めたという。 勢和村丹生は父の故郷で私自身もゆかりの深い土地なのだけど、この話は知らなかった。 丹生といえば丹生大師(web)が有名で、隣接して延喜式内社の丹生神社がある。ただし、丹生神社の祭神は埴山姫命(ハニヤマヒメ)とされていて、オオゲツヒメが祀られていたという話は聞いたことがない。 丹生といえば丹生都比売(ニュウツヒメ)という女神もいるけど、オオゲツヒメと同一とは考えにくい。 どこかでつながっていそうではあるけど、よく分からない。
個人的には、やはりウカノミタマとウケモチは別と考えたい。ルーツそのものが違うのではないかとも思う。 ウカノミタマは食物の中でも稲の性格が強いし、ウケモチは五穀なので、田んぼと畑の違いのようなものがある。 同一なら同一でも全然かまわないのだけど。
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