万場小橋から南へ380メートルほど下った新川と用水路の間の狭いところに収まる小さな神社。 東の堤防道路は車通りが激しく、人が歩くような道ではないし、用水路の方もよそ者がうろつくようなところではないから、たまたまこの神社を見つけて訪れるという可能性は低そうだ。
創建は明治34年(1901年)と新しい。 『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。 「明治34年1月、津島神社の分霊を奉戴し町内の安全と五穀豊穣を祈った。昭和30年10月名古屋市に合併を記念に拝殿を造営し昭和50年境内地を拡め社務所を新築する」
少し南へいった吉津4丁目ある日吉神社(地図)は江戸時代の松下村の神社だった。 津島社がある吉津2丁目は松下村なのか万場村なのか微妙なところだ。 吉津1丁目・2丁目は昭和58年(1983年)に富田町大字万場の一部より成立した。3丁目から5丁目は平成元年(1989年)に富田町大字松下、春田、伏屋、万場の各一部より成った。 吉津の町名は日吉神社の吉と津島神社の津から採られたものだ。 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、吉津3丁目に当たる場所に正治松下とあり、西の服部1・2丁目に正治とある。この頃は服部村と松下村が合併して正治村と呼ばれていた。 津島神社の創建は明治34年(1901年)なので、このときはまだない。 神社の東を流れる新川は、その東の庄内川の洪水対策のために、江戸時代中期の1787年に掘られた人口の河川だ。 1920年(大正9年)の地図では、正治松下は松下に、正治は服部になっている。この頃までに周囲の村はすべて合併して富田村になった。その後、それぞれの地区は大字としてかつての村名が復活した。 すでに津島社は建っていたはずだけど、地図では描かれていない。その後のマップでも鳥居マークは登場しない。 松下が住宅地として発展したのは1960年代以降で、1970年代は吉津2丁目あたりは毎助と呼ばれていた。
明治34年に津島神社(web)から勧請したということは、祭神はすでに須佐之男(スサノオ)になっていたということだ。牛頭天王ではない。 祀ったのが新川東の万場地区の人たちだったのか、西側の松下の人たちだったかによっても意味が違ってくる。 明治の頃はまだこのあたりは農地で、神社があるのは新川の堤防下に当たる。少し北に新川に架かる橋があり、万場村と松下村は細い道でつながっていた。どちらの村にとっても村の出入り口といっていい場所だ。 村の守り神として津島の神のスサノオを選んだとすれば、五穀豊穣というよりも疫病除けの意味合いが強かったんじゃないかと思うけどどうだろう。 『愛知縣神社名鑑』に、昭和30年(1955年)に名古屋市に編入されたことを記念して拝殿が建てられたとあるから、神社としての体裁が整ったはこのときだっただろうか。
場所を考えると大勢の参拝者が訪れるわけではないだろうけど、清潔で行き届いている印象を受けた。 歴史の深い浅いが神社のすべてではない。今現在どうなっているかも重要だ。 そういう意味でいうと、この津島社はきちんと守られている感じがした。
作成日 2017.6.14(最終更新日 2019.5.29)
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