神社がある場所の住所は西福田3丁目なのだけど、社には「東ノ割秋葉社」と手書きされている。 1640年、八田村の豪農だった鬼頭景義は尾張藩主・義直の命を受けて福田新田を開発した。 続いて1643年に、戸田川を挟んで西側も開発し、西福田新田と呼んだ。 ただし、西福田新田を実質的に開拓したのは尾張藩家老の志水甲斐守で、池と川だらけだったこの土地を自分人足によって農地に変えた。 西福田新田は122町ほどの広さがあり、小さな集落がややばらけてあった。その集落ごとに鎮守を祀ったようで、それら中小の神社が今も残っている。 熱田社(西福田1)、熱田社(西福田3)、神明社(西福田4)、神明社(西福田5)、神明社(畑中)、熱田社(福屋)、御鍬神社(福屋)、秋葉社(六軒家)などがそれに当たると思われる。 この西福田3丁目にある東ノ割秋葉社もそれらのうちのひとつと考えていいだろうか。創建時期については予測するための手がかりがなく、江戸時代なのか明治以降なのかの判断がつかない。 東之割というのは明治以降の区割りで、西福田新田は西之割、上中之割、下中之割、東之割に分けられていた。 今昔マップの1920年(大正9年)を見ると、現在神社がある場所は、東之割と下中之割の境界近くの下中之割側のように見えるのだけど、場所が移されたのか、氏子が東之割地区なのか、そのあたりの事情も把握できていない。 明治中頃(1888-1898年)の今昔マップを見ると、神社横の南北の道は明治時代にすでにあったことが分かる。道に沿った黒い筋は水路だろうか。 すぐ西に集落があるから、この集落の人たちが祀り始めた神社という可能性もある。 田んぼと集落の様子は大正、昭和、戦後まで基本的には変わっていない。少しずつ民家は増えていったようだ。 1960年代には区画整理されて南北の道路も通り、現在の町割りはほぼ完成している。
社はわりと古びているものの、玉垣は比較的新しいものに見える。 日付としては玉垣に「昭和五十九年十一月吉日」とある。このときに境内の整備を行った可能性が高そうだ。遷座があったかどうかは分からない。 境内には白い玉砂利が敷かれ、ちょっといい雰囲気になっている。他の神社も採用するといいんじゃないだろうか。 この町の住民ですらもこの神社のことを認識していないくらいかもしれないけど、そこにあるというだけで安心感を与える効果があるように思える。規模は小さくても存在意義としては小さくない。
作成日 2018.10.4(最終更新日 2019.8.4)
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