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ダドクケノカミ《蛇毒気神》

ダドクケノカミ《蛇毒気神》

『古事記』表記  
『日本書紀』表記  
別名  
祭神名  
系譜  
属性  
後裔  
祀られている神社(全国)  
祀られている神社(名古屋)  

牛頭天王と頗梨采女の娘?

 起源不詳の牛頭天王の付け足しの娘的な位置づけの神で、その正体は不明。
 中世縁起が作られる過程で牛頭天王が素盞男/須佐之男と習合し、その中で物語が膨らんでいって生み出された神なのだろう。
 牛頭天王は祇園精舎の守り神とされるも、インドや中国で信仰された形跡がなく、日本独自の神仏習合神とされる。
 牛頭天王の妻は頗梨采女 (はりさいじょ/はりさいにょ)で、ふたりの間には七人の王子がいた。
 安倍晴明が編纂したという説もある陰陽道書の『簠簋内伝』(三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集)にはこんな話が書かれている。
 牛頭天王が日本に帰るために七王子とともに海を渡っている際、海上に頭の赤い毒蛇が現れ自分もあなたの王子だ、何故捨てるのかと言い、牛頭天王は見に覚えがないと答えたものの、頗梨采女が乳水を搾り出すと七王子と同じようにその毒蛇の口にも入ったため、王子の列に加わることになったというのだ。
 その王子(毒蛇)こそ蛇毒気神で、七王子が生まれたときに池に捨てた胞衣(えな)と月水(経血)から生まれたとしている。
 愛知県津島神社(かつての津島牛頭天王社/web)に伝わる祭文「牛頭天王島渡り」にも同じような話が書かれているという。
 かつては胞衣(えな)には不思議な霊力があると考えられていたことから生まれた話なのだろうけど、何故か王子とされながらも姫としての性格が強い。七王子とは別の生まれ方をしているということで半ば独立した存在として語られることも少なくない。
 信濃国分寺(web)所蔵の「牛頭天王之祭文」には、「牛頭天王 婆梨采女 武荅天神 八王子 蛇毒気神王等之部類眷属愛愍垂納授ヲ給ヘト敬白 再拝々々」とあり、八王子とは別に眷属(けんぞく)の代表として蛇毒気神王の名を挙げている。
 別の「祇園牛頭天王御縁起」(京都大学所蔵/web)においても、蛇毒気神王は八王子とは別とする。
 津島神社(津島牛頭天王社)の祭礼の天王祭において、鉾持ち衆が持つ十本の布鉾は、牛頭天王、蛇毒気神、八王子に献上するものとされていた。

八俣大蛇のことという説

 牛頭天王と頗梨采女の子とする話とは別に、八俣大蛇(ヤマタノオロチ)のことだとする説も昔から語られてきた。
 一条兼良は『日本書紀纂疏』(1455-1457年)の中で、「蛇毒気神、疑ふらくは是、八岐大蛇の化現か」と書いている。
 八俣大蛇を退治したのは素盞男で、素盞男は牛頭天王と習合しているので、深い関わりがあるには違いないけど、もし蛇毒気神=八俣大蛇というのであれば、牛頭天王と蛇毒気神は敵対する同士ということになってしまう。
 神仏習合思想が深まり、中世縁起が作られる中で話がごちゃまぜになってしまったということは考えられる。

祇園社と津島牛頭天王社

 蛇毒気神を古くから祀っていた神社に、祇園社と津島牛頭天王社がある。それは同時に牛頭天王を主祭神として祀ってきた神社でもある。
『二十二社註式』には祇園社の東間で蛇毒気神を祀るとあり、 沙竭羅龍王の娘で今御前であると書いている。
 祇園社の由緒には蛇毒気神が祀られたという記録はなく、明治以前は中の座に牛頭天王、東の座に八王子、西の座に頗梨采女を祀るとしていた。
 ただ、平安時代末に成立したとされる『扶桑略記』や『本朝世紀』に、延久二年(1070年)に祇園社の火事で蛇毒気神の神像が消失したという記事があることからすると、遅くとも平安時代後期までには祇園社で蛇毒気神が祀られていたのは間違いないのだろう。それは八王子とは別と考えなければならない。
 この蛇毒気神像を新造することになったとき、なかなか決まらず占いや陰陽師の意見を聞いてようやく決定し、作る際は僧侶10人が7日間大般若経を転読したという。それくらい重視されていたということだろう。
 ところで、『二十二社註式』にある「今御前」というのが気になる。今御前は第二夫人、もしくは後妻といった意味だろうか。
 沙竭羅龍王は八大龍王のうちの一尊なのだけど、頗梨采女も沙竭羅龍王の子とされているので、頗梨采女と蛇毒気神は父を同じくする姉妹であり、牛頭天王の本妻と第二夫人でもあるということか。
 だとすると、八王子からはだいぶ離れてしまうし、八俣大蛇ともつながらなくなる。
「赤山大明神事」(赤山禅院/京都市/web)によると、牛頭天王の十種の变化の第四が蛇毒気神王であるという。

ハイリスク・ハイリターン

 その正体はかなり謎めいていてはっきりしないのだけど、とにかく強い力を持つ神と信じられていたのは確かなようで、徳川家康の四男で清須藩主の松平忠吉は、蛇毒気神に病気平癒の祈願をして回復したので社殿を建てたという話がある。それが今の富部神社のことで、江戸時代は富部蛇毒神天王、蛇毒神社などと呼ばれていた。
 清須なら津島牛頭天王社の方が近いはずなのに、どうして遠く離れた呼続あたりの蛇毒気神に祈願したのだろう。それだけ強い力があると信じたからか、病状が切迫していたということもあっただろうか。実際、社殿を建てた翌年には忠吉は亡くなっている。
 そのあたりの詳しいことは富部神社のページに書いた。
 名古屋で蛇毒気神ゆかりの神社というと、おそらくここだけで、他は知らない。天王社や八王子社はたくさんあったのに、蛇毒気神社はなかったのか。
 津島牛頭天王社には蛇毒神社という境内社があって、八俣大蛇を祀っていたとされる。現在は荒御魂社と名前を変えて須佐之男命の荒魂を祀るとしている。
 祇園社は明治の神仏判然令で祭神を牛頭天王から素盞男尊に、頗梨采女から素盞男の妻の櫛稲田姫命に、八王子から素盞男と天照大神との誓約(ウケヒ)から生まれた五男三女神に変え、社名も八坂神社(web)とした。
 かつて蛇毒気神が祀られていたとされる東御座には、素盞男の妻の神大市比売命と佐美良比売命を八王子とともに祀っている。

毒蛇なのかダドクケなのか

 それにしても蛇毒気神とはまた穏やかではない名前だ。毒蛇の神格化なのか、蛇の毒気を持った神という意味か。
 日本における毒蛇というと、マムシ、ヤマカガシ、ハブがいる。日本にも古くから蛇神信仰というのはあったのだけど、毒蛇信仰とは違う気がする。害虫であるネズミを食べてくれるといった良い面から発した信仰ではなかったかと思う。それが龍神信仰と結びついていった。出雲地方には龍蛇信仰というものもある。
 牛頭天王や祇園社にイスラエルやユダヤの影響が見られるというのはよく言われることで、確かにそれは完全には否定できない部分がある。だとすると、蛇毒気神というのもインドよりもっと西の地方から持ち込まれた信仰だったのかもしれない。
 日本人のユニークなところは、自然崇拝といいながらも、自然そのものに祈るのではなく、その自然を司っている存在に祈るという点だ。海に向かって祈るのではなく海神に祈り、山に祈るのではなく山神に祈るといったことで、川でも木でも石でもそうだ。それがやがて人格神となっていき、名前がつけられ、後から物語が付け加えられていった。
 蛇毒気神というのも、辿っていくと毒蛇に祈ったのではなく、毒蛇が司っていた何かに対する信仰から発したものだったのではないだろうか。中世縁起において海に現れたというのも何かヒントがありそうだ。陸上の毒蛇から発した信仰ではないように思う。女性の神格がつけられたのも何か意味があるはずだ。
 何故、「じゃどくけ」ではなく「だどくけ」と読ませるのか? そこもずっと引っかかっている点で、蛇毒気の字よりも先に「ダドクケ」という音から来ている可能性を考えてもよさそうだ。

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