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ムラカミテンノウ《村上天皇》

ムラカミテンノウ《村上天皇》

『古事記』表記 なし
『日本書紀』表記 なし
別名 成明(諱)、天暦帝
祭神名 村上天皇
系譜 (父)第60代醍醐天皇
(母)藤原穏子
(兄)第61代朱雀天皇
(中宮)藤原安子
(子)第63代冷泉天皇、第64代円融天皇、他多数
属性 第62代天皇
後裔 天皇家、村上源氏
祀られている神社(全国) 村上帝社、村上神社
祀られている神社(名古屋) 村上社

十四皇子なのに天皇位が回ってきた

 平安時代中期の第62代天皇。
 生まれたのは926年で、父は第60代醍醐天皇、母は関白・藤原基経の娘の藤原穏子。
 醍醐天皇の第十四皇子でありながら天皇になれたのは、母が醍醐天皇の中宮(正室)だったのが大きい。それと、先代で同母兄に当たる第61代朱雀天皇に子供がいなかったからというのもある。
 醍醐天皇の本来の皇太子は、第二皇子の保明親王だった。母は藤原穏子なので朱雀、村上の同母兄に当たる。
 この皇子を推したのが伯父で左大臣の藤原時平だった。醍醐天皇と藤原時平といえば、菅原道真を無実の罪で太宰府に左遷したときの中心人物だ。
 909年に藤原時平が39歳で死去すると、人々は道真の祟りだと噂し合った。
 保明親王も即位することなく923年に21歳で死去してしまう。
 代わって皇太子に立てられたのは、保明親王の長子の慶頼王で、このとき3歳だった。
 しかし、その2年後、慶頼王はわずか5歳で病死してしまう。
 いよいよ道真の祟りのせいだということになり、皇后の穏子は怨霊を恐れて寛明親王を3歳になるまで何重にも張った几帳の中で育てていたという話が伝わっている。
 926年に醍醐天皇第十一皇子の寛明親王が皇太子とされる。
 それから4年後の930年、醍醐天皇の居所である清涼殿で行われた会議中に雷が落ちて藤原清貫をはじめ数名の死者と多数のけが人が出た。世にいう清涼殿落雷事件だ。これが道真怨霊騒ぎのクライマックスとなった。
 にわかに体調がおかしくなった醍醐天皇は寝込んでしまい、3ヶ月後には危篤となった。
 そこで寛明親王に譲位されることとなり、その7日後には崩御してしまった(46歳)。
 寛明親王が朱雀天皇として即位したのは7歳のときだ。まだ幼く、生まれつき病弱でもあったので、政治は藤原時平の弟の藤原忠平が行った。
 それにしても朱雀天皇は間が悪かった。関東で平将門が反乱を起こし、続いて瀬戸内海では藤原純友が乱を起こした。その鎮圧に手こずっている間にも、地震、洪水、飢饉、伝染病と立て続けに起こり、937年には富士山が噴火した。
 940年にようやく平将門の乱を収め、翌941年に藤原純友が討たれて反乱は鎮まった。
 こいった一連の出来事が自分の不徳によるものだと考えただろうか。子供がいなかったことから944年に同母弟の成明親王を皇太弟とし、2年後の946年に24歳で譲位してしまった。
 そうして即位したのが村上天皇というわけだ。
 ただ、朱雀上皇は譲位後に後悔して復位の祈祷を行ったという話もある。それは950年に長女の昌子内親王が生まれたことも影響したかもしれない。
 実際にどの程度復位を目指したのかは分からないのだけど、952年には出家して仁和寺(web)に入り、この年に30歳で崩御した。

政治より文化

 こうした父や兄たちとは違って村上天皇はおおむね平穏な人生を送った。政治にはあまり関わらず、歌と女性を愛し、多くの女御(側室)を持ち、たくさんの子供にも恵まれ、42歳まで生きた。
 在位中、事件らしい事件も起きていない。ひとつ大きな出来事としては、内裏が史上初めて焼け落ちるということがあったくらいだ(これはこれでけっこう大ごとなのだけど)。
 949年に関白の藤原忠平が死去すると、以降は摂関を置かずに親政を行った。それは後の時代に天暦の治と呼ばれて天皇が政治を主導した理想とされることになるのだけど、実際に政治を行っていたのは、摂関家の藤原実頼・師輔の兄弟で、村上天皇はお飾り的な存在に過ぎなかった。
 大きな事件はなかったとはいえ、律令制度の崩壊が始まっていた時期で、地方の乱れはひどくなる一方で、朝廷の財政も承平天慶の乱で苦しくなっていたため、倹約に努めざるをえなかった。お金が足りないときは藤原忠平が私財を出すほどだったという。
 村上天皇の文化面での貢献は小さくなかった。父・醍醐天皇を尊敬していたのか対抗心を燃やしていたのか、『後撰和歌集』の編さん(951年)を行ったり、内裏歌合を催したり(960年)、自らも歌を詠い、琴や琵琶を弾いたりした。
 著作に儀式書の『清涼記』や日記の『村上上天皇御記』(『天暦御記』とも)がある。
 村上天皇の人となりを伝える逸話としてよく紹介されるのが『大鏡』や『拾遺集』に書かれた「鶯宿梅」の故事だ。
 内裏の清涼殿の前にあった梅の木が枯れてしまったので代わりの梅を探してくるように命じるもなかなか見つからない。都の外れでようやくいい梅が見つかり、それを内裏に移すとなったとき、家の主が何かを書いた短冊を枝に結びつけてこのままお持ちくださいと言う。
 移された梅を見た村上天皇はたんへん喜んだのだけど、短冊を見つけてあれは何かを問いかけると家の主の話を聞かされ、短冊を持たせたところこんな歌が綴られていた。
「勅なればいともかしこし鶯の 宿はと問はばいかが答へむ」
 勅命だから仕方がないけど、この梅に巣を作っていたウグイスが自分の宿はどこへ行ったと訊かれたら何と答えたらいいでしょう、といった意味の歌だ。
 調べたところ、この主人は紀貫之の娘の紀内侍で、梅の木は紀貫之が大事に育てていたものだということが分かり、村上天皇は申し訳ないことをしてしまったものだと言った、という話だ。

嫉妬深い奥さんとたくさんの女たち

 もうひとつの逸話として伝わるのが、中宮の藤原安子が嫉妬深い女性だったというものだ。
 多くの女御を持っていた村上天皇だったのだけど、藤原芳子というお気に入りができたとき、隣り合う部屋で村上天皇と藤原芳子がいちゃついているのに嫉妬した藤原安子はお付きの女房に命じて壁の隙間から土器を投げつけたというのだ。
 それに怒った天皇だったのだけど、直接安子には言えないものだから、参内していた安子の兄弟の伊尹と兼通を叱って謹慎させたところ、今度は安子が怒って謹慎を取り下げさせたという。
 安子の父は藤原師輔で、子供の頃からお嬢さん育ちで気が強かったようだ。
 村上天皇は自身が歌や楽器に精通しているということもあって、才色兼備の女性が好みだったという。
 子供の数は多く、女官との間の子供も入れると男女合わせて20人以上いた。安子との間にも3男4女がいたから、夫婦仲は悪くなかったのだろう。
 このふたりの間の子供が第63代冷泉天皇、第64代円融天皇として即位することになる。

同時代の人たち

 村上天皇と同時代で天皇に関わりがある人物としては、安倍晴明、小野道風、空也上人などがいる。
 小野道風は尾張国上条(愛知県春日井市)出身とされる人物で、愛知県近辺では書の達人としてよく知られている。藤原佐理、藤原行成とあわせて「三跡」と称されている。
 醍醐天皇、朱雀天皇、村上天皇に仕えた小野道風は正四位下内藏頭まで昇った。
 晩年、自分を山城守に任じて近江の権守を兼任させてほしいという奏上を村上天皇に送っている。
 安倍晴明は40歳の頃、村上天皇に占いを命じられたという話がある。
 まだ天文得業生という学生だったにもかかわらず、わざわざ天皇が直接指名したということは、身分は低いながらもその道では名前が通っていたということだろう。
 空也上人の福茶の話は京都や関西ではよく知られているのではないかと思う。
 疫病の流行を憂う空也は十一面観音像を彫ってそれを車に乗せ、京の町を曳いて回っていた。
 その観音の供え物としていたお茶を飲んだ病人の多くが快復し、また空也が開いた六波羅蜜寺(web)に供えていたお茶を病気で寝込んでいる村上天皇に届けて飲ませたところ病気が治ったということで、めでたいお茶、福茶と呼ばれ、それを正月や節分などに飲む風習が生まれた。

村上天皇と藤原師長

 生前の直接的なつながりではないのだけど、村上天皇と藤原師長を描いた『絃上』(『玄象』)という能がある(作者不詳)。
 太政大臣で琵琶の名手でもあった藤原師長は、もはや日本には自分を超えるような琵琶の弾き手はいないと、さらなる名手を求めて唐へと旅立つ。
 旅の途中、須磨の浦で出会った老夫婦に一夜の宿を借りることになる。
 その夜、家の主の求めに応じて師長が琵琶を弾き始めるとにわかに雨が降り出した。そこで主人は姥に苫(とま/菅や茅などで編んで作ったもの)を持ってこさせ、板屋に葺いた。どうしてそんなことをするのかと訊ねると、静かに聴くためですと答えた。板を打つ雨音に演奏がかき消されないようにするためだ。
 これは心得のある人物に違いないということで逆に師長が老夫婦に一曲所望すると、老夫婦は琵琶と琴で合奏を始めた。それがあまりにも見事で、師長は自分ほどの弾き手は日本にはいないとうぬぼれていた自分を恥じ、老夫婦に正体を訊ねると、村上天皇と梨壷女御だと答えた、という話だ。
 その後、村上天皇は龍神に命じて琵琶の名器・獅子丸を竜宮から持ってこさせて師長が授けた。
 その獅子丸を師長が弾くと、村上天皇の霊は天に戻っていき、師長も唐行きをやめて琵琶を携えて帰途についたのだった。

醍醐寺と佛陀寺は朱雀・村上兄弟合作

 京都の醍醐寺(web)は、朱雀天皇と村上天皇が父・醍醐天皇の菩提を弔うために建てた寺だ。
 佛陀寺(web)も朱雀・村上天皇開基の寺で、もともとは京都御苑の東南にあったものを、豊臣秀吉が現在地に移した。

在位中の崩御で後継者争いが起きる

 967年、在位のまま崩御。42歳だった。
 通常、いよいよ危ないとなったとき、天皇は皇太子に生前譲位する習わしだったのが、村上天皇はそれをしなかった。一説では冷泉天皇となる憲平親王の精神状態に不安を抱いていて最後まで譲位の決断ができなかったためともいわれる。
 憲平親王の母は、藤原師輔の娘・中宮安子で、その意向で生後間もなく皇太子とされた。
 18歳で即位したものの、やはり精神面を危ぶまれ、すぐに後継者選びが始まったのだけど、そこで皇太子の争いが起こり、政変(安和の変)にまで発展してしまう。
 結局、969年に同母弟の守平親王に譲位することとなり、円融天皇として即位した。
 ただ、そこから長生きして62歳で崩御した。

村上の諡号は陵から

 村上の追号は、御陵とされた村上の地から採られたものだ。
『日本紀略』に山城国葛野郡田邑郷北中尾に葬られたという記事があり、京都府京都市右京区鳴滝宇多野谷にある円墳が村上陵として宮内庁によって治定されている。

村上源氏の祖

 村上天皇皇子の致平親王、為平親王、具平親王は臣籍降下して、それぞれの後裔は村上源氏と呼ばれるようになる。
 このうち、具平親王の子孫の中院流が、久我家や中院家をはじめとする10家の堂上家を輩出して栄えた。これらの一族が政治でも大きな影響力を持つことになる。
 後の時代でいうと、北畠氏(伊勢大河内氏、木造氏、田丸氏、星合氏)、本間氏、佐々木氏などが村上源氏の流れを汲むとされる。

村上天皇を祀る神社

 村上天皇を祀る神社としては、神戸市須磨の村上帝社がある。
 これは能『絃上』の舞台となった地で、伝承に基づいて地元の人間が村上天皇を祀ったのが始まりとされる。
 師長が琵琶を埋めたとされる琵琶塚もある。
 その他に村上天皇を祀る神社もいくつかあるようで、岐阜県高山市奥飛騨温泉郷村上にも村上神社がある。
 創建のいきさつは不明というのだけど、地名にもなっているくらいだから、村上源氏の一族が祀ったものかもしれない。
 名古屋で村上天皇を祀っている神社はひとつで、南区にある村上社がそれだ。
 ここの主役は大楠で、大楠を祀っているのかと思ったら村上天皇を祀っているという。
 この神社のいきさつもよく分からない。村上天皇と何らかのつながりがあるのだろうか。

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