タジマモリ《田道間守》

タジマモリ《田道間守》

『古事記』表記 多遅摩毛理、多遅麻毛理
『日本書紀』表記 田道間守
別名  
祭神名 田道間守・他
系譜 (祖)天日槍
(父)清彦
属性 菓子
後裔 三宅連(三宅氏)
祀られている神社(全国) 兵庫県豊岡市の中嶋神社(web)、和歌山県海南市の橘本神社(web
祀られている神社(名古屋) 田道間守社(白山神社(榎白山)内/西区)

 記紀とも第11代垂仁天皇に、常世国(とこよのくに)にあるという非時香菓(ときじくのかくのみ)を取ってくるように命じられたとしている。
『日本書紀』垂仁天皇3年3月条に、新羅王子の天日槍(アメノヒボコ)が渡来して持参した7つの宝物を但馬国(兵庫県の北の日本海側)に納めて神宝としたとある。
 またある書によるとという形で別の話が書かれている。それによると、アメノヒボコは初め播磨国(兵庫県南西部)にいて、垂仁天皇が使者を派遣しておまえは何者だと尋ねると自分は新羅国の主の子ですと答え、持っていた宝を献上し、天皇がアメノヒボコに播磨国の宍粟邑(しさはのむら)か淡路島の出浅邑(いでさのむら)の好きな方にいていいと言うと、自分は各地を巡って好きな土地を選びたいというので天皇は許し、近江国の北の吾名邑(あなむら)から若狭国を通って但馬国に到り、そこに住むことに決めたという。
 出嶋(いづし)の太耳(フトミミ)の娘の麻多烏(マタオ)をめとって、但馬諸助(タジマノモロスケ)が生まれ、諸助から但馬日楢杵(タジマノヒナラギ)が生まれ、日楢杵から清彦(キヨヒコ)が生まれ、清彦から田道間守(タジマモリ)が生まれたといっている。
 垂仁天皇90年春2月1日、天皇はタジマモリを常世国(とこよのくに)に派遣して非時香菓(ときじくのかくのみ)を探させた。これは今の橘(たちばな)のことだという。
 99年秋7月1日、天皇は纒向宮(まきむくのみや)で亡くなり、冬12月10日菅原伏見陵(すがわらのふしみのみささぎ)に葬られた。
 翌年の景行天皇元年3月12日、タジマモリは非時香菓を八竿八縵(やほこやかげ)を持って戻ってきた。しかし、垂仁天皇はすでに崩御したと聞き、「命を受けて遠くの絶域まで行き、万里の波を越えて遥かに遠くの川を渡り、ようやく神仙の秘区(常世国)へ辿り着くことができました。その間10年も経ってました。天皇のおかげでどうにか帰ってこられたのに天皇が生きていなければ自分に何の意味があるでしょうと嘆いて、天皇の陵の前で叫び泣いて自殺したという。
 田道間守は三宅連の始祖とも書いている。
『古事記』も話としては同じなのだけど、系図が違っている。
 それによると、アメノヒボコが但馬にとどまって、多遅摩の俣尾(マタオ)の娘の前津見(マヘツミ)をめとって多遅摩母呂須玖(タジマモロスク)が生まれ、その子が多遅摩斐泥(タヂマヒネ)、その子が多遅摩比那良岐(タジマヒナラキ)、その子が多遅麻毛理(タヂマモリ)・多遅摩比多訶(タヂマヒタカ)・清日子(キヨヒコ)とする。
『日本書紀』ではタジマモリの父とされたキヨヒコ(清彦)は『古事記』ではタジマモリの弟となっている。
 この系図のつながりで、多遅摩比多訶が由良度美(ユラドミ)をめとって生んだ子が高額比売命(タカヌカヒメ)で、これが神功皇后(オキナガタラシヒメ)の母に当たるといっている。要するに神宮皇后は新羅国の血筋だということだ。
 問題となるのは、非時香菓/橘とは何を示しているか、ということだ。

 記紀ともに、非時香菓は今の橘なりと書いている。「今」というのは記紀が書かれた奈良時代前期のことだ。そして、奈良時代の橘が現代の橘と同じとは限らないことに注意しなければならない。
 我々が思っている橘は、ミカンの原種のようなもので、別名をヤマトタチバナなどといい、九州から三重県あたりまでの海岸に近い山に自生している。
 垂仁天皇が求めた常世の国にあるとされる非時香菓と橘(ヤマトタチバナ)はあきらかに別のものだ。タジマモリが10年もかけて苦労して見つけて持ち帰ったというのもそれを表している。
 たとえばそれは中国とかインドとかにあったのではないかと考えるのだけど、ヤマトタチバナは大陸や朝鮮半島などには生えていない。では大陸原産の橘が日本にあるかといえばそれもない。
 そもそも垂仁天皇はどうして晩年になって非時香菓を欲したのか。不老長寿の薬という説もあるのだけど、そんなことは記紀には書かれていない。命じられたのが天日槍(アメノヒボコ)の末裔とされるタジマモリだったのは偶然ではない。タジマモリは10年もかけて非時香菓を求めてどこで何をしていたのか。
『古事記』は縵八縵・矛八矛を持ち帰って、縵四縵・矛四矛を大后に献じて、縵四縵・矛四矛を天皇の御陵の戸に献り置いたと書いている。縵八縵・矛八矛というのは、葉のついた枝と葉を取った枝をそれぞれ八枝という意味だ。その理由もよく分からないのだけど、何かを暗示しているのだろう。
 非時香菓の「ときじく」は国または場所を表していると考えていいだろうか。菓は果実という意味だろうから、「ときじく」にある香りの高い果実といったところだ。
 記紀はどうしてそれをあえて「今の橘」と書いたのか。奈良時代において橘というのはいろいろな意味で人気があった。『万葉集』には橘を詠ったものが多くあり、田道間守についての歌もある。
 奈良時代前期に県犬養三千代(あがたいぬかいのみちよ)という女官がいた。壬申の乱で活躍した犬飼大伴の娘で、藤原不比等の後妻となって光明子を生み、元明天皇から橘宿禰姓を賜って橘三千代ともいった。元明天皇は『古事記』が完成したときの女性天皇だ。
 この後の時代、橘を家紋にする家も増える。橘というのは単なる植物というだけではない、何か特別な意味を持つものだったのだろう。
 タジマモリは三宅連の祖と記紀は書いている。三宅(みやけ)は天皇直轄地の屯倉から来ているという説がある。県犬養三千代の家も屯倉を管理する家だった。
 このあたりの関係性は、渡来系の秦氏とも深く関わっている。京都御所はもともと聖徳太子の側近、秦河勝の屋敷があった場所だ。そこには右近橘と呼ばれる橘がある。
 タジマモリというのは、考えられている以上に重要な鍵を握るキーパーソンかもしれない。
 アメノヒボコが但馬を本拠としたことから、タジマモリは但馬守というのが一般的な説ではあるのだけど、タヂマはタチバナから転じたのではないかとする説もある。
 三宅氏が祖神として祀った他、香菓を持ち帰ったことから菓子の神、菓祖神とされ、兵庫県豊岡市の中嶋神社(web)、和歌山県海南市の橘本神社(web)などで祀られている。
 各地の境内社としてタジマモリを祀っているのは、中嶋神社からの勧請が多いとされる。
 名古屋では、タジマモリを主祭神として祀る神社はないものの、西区の白山神社(榎白山)に田道間守命を祀る田道間守社がある。

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