
元は神明宮なのか
読み方 | こうふうえん(?)-じんじゃ |
所在地 | 名古屋市名東区梅森坂3-341-7 地図 |
創建年 | 不明 |
旧社格・等級等 | |
祭神 | 不明(天照大御神?) |
アクセス | 名古屋市営バス「東名古屋病院」より徒歩約9分 |
駐車場 | なし |
webサイト | |
例祭・その他 | 不明 |
神紋 | |
オススメ度 | * |
ブログ記事 |
由緒書の文章が謎
場所が非常に分かりづらい。
グーグルマップには載っているものの、マピオンには表記されない。
グーグルマップも神社に続く道が描かれていないのでどこから行けばいいのか分からない。
どう見ても地図上では東名古屋病院の敷地内で、病院に関係のない人間が勝手に入っていっていいものかどうか確信が持てなかった(今も持てない)。
市内編をやっているときにこの神社の存在は知っていて、実際に出向いてもいった。
北側の道路(梅森坂第10号線)の方から入る入り口があるんじゃないかと探すも見つからず。東側にも入り口がなく、結局あきらめて帰るしかなかった。
時は流れて日進市編を始めよう地図を見ているとき、この神社のことを思い出した。
梅森坂神社の近くでもあり、もう一度チャレンジしてみようと思った。今回ばかりは病院に乗り込むと心を決めていた。とがめられたら説明すれば大丈夫だろうと。
正面入り口から入ってそのまま自転車で進み、なんとなく北の方へ行ったら病院の裏手の関係者しか通らないような場所になって不安を覚えつつ奥を目指した。
これは実際ダメな道で、正しくは(?)入って正面を進み、いったん右に折れてそのまま病院道路を進んで奥の駐車場を目指すのが正解ルートだと思う。この道なら車でも歩いてでも行けるはずだ。
ただ、神社へ行くために病院の駐車場に停めていいかというとまずいような気がする。
この神社は病院の神社というわけではなさそうだからだ。
朽ちつつある
上の写真からも神社の荒れっぷりの一端が感じ取れると思う。
古びているのを通り越して朽ちている。
鳥居はボロボロになり、額は地面に落ちてしまっている。
ここまで朽ちている神社はあまりない。むしろ廃社にならずに残っていることを褒めたいというか喜びたい。
個人的にこういう朽ちかけ神社は好きだったりする。時の積み重ねが感じられる。
人工物だった神社が自然に飲み込まれて一体化する様子は、ある種の未来予言の趣がある。
未来は光り輝くピカピカの世界なのではなく、その先には人工物と自然が溶け合う荒れ果てた光景が広がることになる。
そこに人間の姿はおそらくない。
この神社の氏子さんがまだいるのかどうか分からないし、誰が管理しているのかも不明だけど、町中ではない分、生き残ることができたのだろう。
本社前に張り紙があって何が書かれているかと読んでみたら、病院長の名前で賽銭は遠慮してくださいとあった(近くの白山宮に寄進したとある)。
ということは、東名古屋病院が一応管理しているということになるのだろうか。
それにしてはお世話をしている様子がないし、場所が場所だけに参拝者もごく少ないに違いない。
病院に入院している人が散歩がてらに訪れたりするのだろうか。


神明宮らしい
参道途中にある手水舎の水は当然出ないのだけど、鉢にはこんな文字が刻まれている。
「文化拾三年
丙子
奉献神明宮
村中安全」
文化13年は江戸時代後期の1816年に当たる。
当時この神社が神明宮と呼ばれていたことが分かる。
この手水鉢が寄進されたのが1816年には違いないのだけど、このときが創建とは限らない。
それでも、江戸時代にはすでにあったことは間違いなさそうだ(鉢だけ他から持ってくるということがまったくないわけではないけど)。
最初に書いたように、この光風園神社があるのは東名古屋病院の敷地内だ。
この東名古屋病院の前身のひとつは梅森光風園という療養所だった。現在の社名はそこから名を取っているということになる。
しかしながら、梅森光風園ができたのは昭和15年(1940年)なので、社名変更はその後ということになるのだろう。
手水鉢の銘を信じるなら江戸時代にはすでにあって神明宮といっていたのを戦中または戦後に今の光風園神社に改めたという流れなのだと思う。
分からないのは神社がある梅森坂が江戸時代の何村の村域だったかだ。
北の高針村なのか、南の梅森村なのか。
梅森村の中心は日進市梅森台の梅森八幡社(地図)があるあたりで、高針村は名東区高針の高牟神社が中心だった。
梅森坂はその中間の丘陵地で、どちらとも判断がつかない。
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると植田村地とあるので、植田村の可能性もあるのか。
ただ、植田村はだいぶ西の方なのでちょっとどうなんだろうと思う。
『尾張徇行記』(1822年)を見ると、高針村と植田村には神明があり、梅森村にはない。
地誌にある神明が現在の光風園神社かどうかについてはなんとも判断がつかない。可能性としてはなくはないのか。
梅森坂と東名古屋病院の変遷
あらためて東名古屋病院の変遷について書いておくと、梅森光風園の前に大正11年(1922年)に創設された名古屋市立八事療養所があった。
その後、昭和15年(1940年)に梅森光風園が名古屋市療養所としてできた。これは主に結核患者のための療養所という性格のもので、それだけこのあたりが人里離れた郊外だったということだ。
昭和22年(1947年)には八事療養所、療養所梅森光風園とも国立となる。
その後、結核患者が減り、梅森光風園はその役割を終え、八事療養所と統合して国立療養所東名古屋病院として再出発することになった。これが昭和43年(1968年)のことだ。
この流れを頭に入れつつ、もう一度今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見てみる。
東名古屋病院があるあたり一帯は手つかずの丘陵地だったことが分かる。民家などはなかっただろうし、ほとんど手つかずの林だっただろう。
続く1920年(大正9年)の地図でも状況はほとんど変わっていない。
地図は1968-1973年(昭和43-48年)まで飛んでしまうので昭和初期から戦中、戦後の変遷が分からないのだけど、昭和40年代にはこのあたりは大きく様変わりした。
東名古屋病院北の梅森坂2丁目のあたりは区画整理されて家が建ち並んでいる。
病院は国立療養所となっている。
その後も順調に開発は進み、土地は削られ、道路が通り、家がどんどん増えていった。
なんだかSimCityで街が発展していく様子を早送りで見ているみたいだ。
光風園神社の立ち位置は?
梅森坂の発展を見てきて、あらためて光風園神社の立ち位置について考えてみる。
1816年(文化拾三年)神明宮の銘が入った手水鉢からして、病院よりも前にあったのは間違いないだろう。
ただし、場所が最初からここだったとは断定できない。今昔マップには鳥居マークが描かれない。
しかしながら、光風園神社というからには療養所と無関係とは思えない。
光風園ができたのが昭和15年(1940年)だから、この社名になったのはそれ以降ということになるだろうか。
光風園神社が先にあって療養所がその名を取ったということはないと思う。
それにしても、よく分からないというのが印象というか結論だ。
この場所が何村だったのかを把握できていない(個人的に)ところも厳しい。
賽銭を日進市の白山宮に納めたということは、白山宮と何か関係があるだろうか。
とりあえず今分かるのはここまでということで保留として、日進市編の白山宮のところで何か情報が得られたら追記したい。
作成日 2025.4.1