
何か知っている?
読み方 | うめもりざか-じんじゃ |
所在地 | 名古屋市名東区梅森坂西2-807 地図 |
創建年 | 不明(昭和44年?) |
旧社格・等級等 | |
祭神 | 天之御中主命(アメノミナカヌシ) 天照大御神(アマテラス) |
アクセス | 名古屋市営バス「梅森坂」より徒歩約13分 |
駐車場 | なし(スペースあり?) |
webサイト | |
例祭・その他 | 不明 |
神紋 | |
オススメ度 | * |
ブログ記事 |
由緒書の文章が謎
神社入り口に説明板があって、おおよその概要は知ることができるのだけど、調べてもそれ以上のことは分からない。
説明板は以下のような文章となっている。
主祭神
天之御中主命
天照大御神
御由緒
昭和四十四年に世界平和と国家安泰・衆生済度のお働きの為に下がられ、翌昭和45年に橘の会を創設するも、社殿及び境内狭小の為、平成三十年一月八日に此の地へ御遷座されました。」
今一つ意味が分からない。
主語がないので、誰が何をしたのかはっきりしない。
”世界平和と国家安泰・衆生済度のお働きの為に下がられた”のは誰なのか?
天御中主が? それとも、この神社を創設した人が、なのか。
この昭和44年を神社の創建と捉えていいのだろうか。
昭和45年に橘の会が結成されたことと、平成30年に現在地に遷したことも上手くつながらない。
元地がどこだったのかも不明で、はっきりしているのは平成30年に今のところに遷されたということくらいだ。
知ってか知らずか
祭神を天御中主(アメノミナカヌシ)としているのは興味深い。
天御中主神については神様事典に書いたので詳しくはそちらを読んでいただくとして、天御中主神を主祭神として祀っているところは少ない。
名古屋では實行教の神社の参神社(中区)で高皇産霊神、神皇産霊神とともに名を連ねているだけで、他にはない。
全国的に見ると、妙見信仰系や水天宮の系統で祀られる例がある他、新宗教などは天御中主を祀るところが多い。
『古事記』では最初に成った神として挙げられ、『日本書紀』では本文には登場せず、一書の中で高天原において天御中主尊、高皇産靈尊、神皇産靈尊が生まれたという書き方をしている。
いずれにしても造化三神の最初の神とされるのが天御中主神だ。
この天御中主神を天照御大神(アマテラス)とともに祀ったのはどんな意図だったのだろう。
なんとなくではないだろうけど、明確な理由があったのかどうか。
昭和44年が創建年だとすると、もはや戦後ではない。時代的には高度経済成長期と呼ばれる時期だ(大阪万博が昭和45年)。
この時期に神社を建てようとなったのは、梅森坂あたりが宅地開発されて民家が増えたためだったのではないかと推測する。
ただ、新たに家が建ってこの地に移り住んだ人たちがこの神社を創建したかというと、それは違和感がある。
というのも、昭和40年代に天照大神を祀る神社を新規に建てることは難しいからだ。
伊勢の神宮(公式サイト)は戦後まもなく、今後は勧請をしないと宣言した。
庭に建てる私的神社なら勝手に天照大神を祀るとしてもいいかもしれないけど、公の神社として正式に天照大神を祀るとすることはできなくなったということ。
もしそれができたとしたら、何か特別な力が働いたせいかもしれない。
橘の会というのがどういう組織なのかは分からないのだけど、知ってか知らずか橘を名乗っている。
尾張における橘は非常に重要な意味を持っていて、何も知らなかったとは思えない。
この神社に関わった人の中に何か知っている人がいたような気がする。
橘を名乗るということ
橘というのは特別な存在だ。
橘の花がというよりも、橘そのものがといった方がいいかもしれない。
尾張氏家の家紋のひとつが橘紋なのがそれを表しているし、たとえば弟橘姫(オトタチバナヒメ)なども象徴的な存在として記紀神話の中で語られている。
「天津祝詞」の中にも橘が出てくる。
「皇御祖神伊邪那岐命 筑紫乃日向能橘乃小戸乃阿波岐原尓 御禊祓比給布時尓生坐留祓戸乃大神等」
伊邪那岐命(イザナギ)が筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原で禊祓(みそぎはらえ)をして祓戸大神らが生まれたという内容だ(筑紫の日向といっても九州地方のことではない)。
田道間守(タジマモリ)が垂仁天皇に命じられて求めた非時香菓(ときじくのかくのみ)は橘だったとされる。
橘は蜜柑のことともされるのだけど、それは一種の暗示で、蜜柑=橘というわけではない。
昭和40年代に天御中主神と天照御大神を祀る神社を建てることができて橘を名乗っていることからして、やはり何かを知っていた組織としか思えない。
ただ、説明板の”天之御中主命”はちょっと問題かなと思う。
命(ミコト)は命を受ける側に付けるもので、天之御中主の場合は神、もしくは尊とすべきだろう。
梅森の地名について
梅森(うめもり)の地名について、津田正生(つだまさなり)は「正字なるべし」、つまり文字通りの意味だといっている。
『なごやの町名』は1184年(寿永3年)建てられた天神祠の近くに梅林が多かったことが由来という伝承を紹介している。
この天神というのは現在の梅森の八幡社のことなのだけど、この説には同意しない。
たとえ梅の木がたくさんあったとしても、普通は梅林といって梅森とはいわない。
森は自然の木で、林は人の手が加わっているものという区別もあるようだけど、梅の木はどれだけ多くても森とは認識しないのではないか。
梅森の地名は名東区猪高町から天白区植田あたりまで広く町名として残っていることからも、梅森天神近くだけの限定的な地名とはいえない。
『日進町 梅森の歴史』の中で興味深い異説を載せている。
梅森の冨士社で木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)を祀っており、古吟集に梅の花を”此の花”と詠じているので、コノハナ=梅の花で、それが由来ではないかというものだ。
これは一考の余地がある面白い説だ。
木花開耶姫は桜の女神というのが一般的なイメージだけど、古くは花といえば桜ではなく梅を指した(梅は中国由来という通説を個人的には信じていない)。
だとすると、木花開耶姫は本来、梅を象徴していたのかもしれない。
その梅の女神を祀る鎮守の杜(森)があったことから梅森と呼ばれるようになったというのは、遠いようで意外とアリなのかもしれないと思う。
ちなみに、名古屋最高峰の東谷山(とうごくさん/198m)も、もともとは当国山から来ている。つまり、当国の山=尾張の山というわけだ。
木花開耶姫は尾張氏の祖の天火明(アメノホアカリ)の母に当たるので、尾張にはゆかりがある。
更にいえば、梅森坂の隣は香久山という地名というのもまた意味ありげだ。
天香久山(アメノカグヤマ)は天火明の子なので、このたり一帯が尾張氏一族に関わりがあるといえそうだ。
梅森坂の変遷
梅森坂神社がある梅森坂がかつての何村に属する場所だったのかがちょっと分からない。
北の高針村の村域なのか、南の梅森村の村域なのか。
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると分かるのだけど、このあたりは丘陵地で家も道もなく、もともとは人が暮らすような場所ではなかった。
ただ、少し南の梅森台のあたりで奈良時代の窯跡が見つかっていることから、少なくとも職人の一家はこの近くに住んでいたのだろうと思う(よそからの通いでなければ)。
今昔マップは1968-1973年(昭和43-48年)に飛んでしまうので戦前、戦後の様子は分からないのだけど、昭和40年代には道ができて家がポツリ、ポツリと建ち始めていたことが見て取れる。
梅森坂神社が創建されたのもこの頃ということなのだろう(元地は調べがついていない)。
東の梅森坂2丁目は区画整理されて家が建ち並んでいる。
その南の国立療養所は今の東名古屋病院だ。
地図を辿っていくと、南の丘陵地が宅地化されて梅森台となり、梅森坂西のあたりも少しずつ家が増えて、1980年代には現在の町並みがほぼできあがっている。
幹線道路の県道219号(浅田名古屋線)が制定されたのが1959年(昭和34年)なので、その頃に拡張工事されたのだろう。
近くに鉄道駅がないので、車がないと住むには不便かもしれない。
境内の様子と境内社について
本社向かって左手の奥にもうひとつ社がある。
案内板には「二見興玉大神」と書かれている。
二見興玉といえば、鳥羽の夫婦岩のところにある二見興玉神社(公式サイト)がすぐに思い浮かぶ。
二見興玉神社は猿田彦大神(サルタヒコ)を主祭神とし、相殿神として宇迦御魂大神(ウカノミタマ)を祀っている。
ここでの宇迦御魂大神は、いわゆる稲荷神ではなく伊勢の神宮外宮の豊受大神(トヨウケ)の別名といっている。
梅森坂神社の境内社はおそらく猿田彦を祀るという意識なのだと思う。
これはなかなか意味深というか、やはり何か知っている人がやっていることだという確信を強くする。
伊勢の色合いが濃いといってもただの神明系ではなく、広い意味での伊勢神を祀っていると考えられる。
橘の会の主催者はそっち系の人なのだろう。
新興住宅地の新しい神社と思わせて、意外と奥深いのがここ梅森坂神社だ。
現在の関係者の皆さんがどの程度ご存じなのかは分からないけど、なかなかの神社だと個人的には思う。
物置小屋みたいなところをのぞいたら獅子頭が置かれていた。
お祭りの日か正月にでも獅子舞をするのだろうか。
神社というのは古い新しいにかかわらず、地域をつなぐ役割を持っている。願い事をするためだけに行くところではない。
関係のない一般人がこの神社を参拝するとは思えないけど、機会があれば一度訪ねてみて欲しい。
こういう神社もありだなと思えるのではないかと思った。
作成日 2025.3.28