
日進の総氏神はどうして白山神だったのか
読み方 | はくさん-ぐう(ほんごう) |
所在地 | 日進市本郷町宮下519 地図 |
創建年 | 不明 |
旧社格・等級等 | 五等級・旧郷社 |
祭神 | 菊理姫命(キクリヒメ) 大己貴命(オオナムチ) 伊弉册命(イザナミ) 大山祇神(オオヤマツミ) 木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ) 稲田姫命(イナダヒメ) |
アクセス | 名鉄バス「白山」より徒歩約5分 |
駐車場 | あり |
webサイト | 公式サイト |
例祭・その他 | 例祭 10月第1日曜日(旧10月10日) |
神紋 | 十六葉菊紋 |
オススメ度 | ** |
ブログ記事 |
本郷村について
ちょっとはっきりせず引っ掛かっていることがある。
この白山宮があったのは本郷村だったのかどうかという点だ。
『尾張徇行記』(1822年)その他はいずれも本郷村にあるといっているので間違いなさそうなのだけど、場所だけを考えると本郷村の外のようにも思える。
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、本郷の集落からはだいぶ離れた北東にあり、藤嶋西山の集落に隣接している。
標高78メートルの小山の名前は知らないのだけど、この山の中腹あたりに白山宮は建っている。
どうやら白山宮の境内が本郷村と藤嶋村の境界で、記録に残っているだけでも天明4年(1784年)、文化9年(1812年)、文政4年(1821年)に境界争いがあったようだ(『日進町誌』)。
白山宮はこのあたり一帯の総氏神とされていたのだけど、神社があるのが村内か村外かでは大違いで、互いに譲れなかった気持ちは理解できる。
途中で境界線が変わったのかどうかは分からないけど、最終的には本郷村の側ということになったのだろう。現住所も本郷町になっている。
津田正生(つだまさなり)は『尾張国地名考』の中で、「本郷村(ホムゴウ) 同名的郡内にもあり」としつつ、岩崎村の項で【近藤利昌日】として「木郷より岩崎迄四ヶ村はもと一鄕なりとぞ」と書いている。
『尾張徇行記』には、「本郷ハ里人云、本郷岩崎藤島藤枝四ヶ村ノ旧村ナレハカク云ナリ」とあるので、本郷、岩崎、藤嶋、藤枝はかつてひとつの郷で、その中の中心、もしくは発祥は本郷村だったという認識があったのだろう。
その中の総氏神がこの白山宮というわけだ。
本郷村についてもう少し詳しく見ておくと、『寛文村々覚書』(1670年頃)ではこうなっている。
家数 17軒
人数 194人
馬 3疋
四村の元郷(本郷)だったにもかかわらず、家は17軒で村人が194人、馬が3頭ということはかなりの小村だ。
どうしてこんな小規模だったのか、理由はよく分からない。
同じ時期の岩崎村の方がずっと人も家も多い。
『尾張徇行記』はこんなふうに書いている。
此村ハ小百姓ハカリニテ其内庄屋幸助屋ツクリヨシ、村立竹木少シ、三瀬戸ニ分ル、石根西島山神島ト云、
コレヨリ三州足助へユク道アリ、村ノ南西ノ方ニテ米ノ木川岩崎川落合ヘリ
小百姓ばかりで竹林が少なく、石根・西島・山神島の3つに分かれているといっている。
”三州足助へユク道”は足助街道のことで、飯田街道とも呼ばれていた。
『尾張名所図会』(1844年)は、「当郡南西の方に同名の村あるゆゑ、ここを藤島本郷といふ」と書いている。
南西にあるもうひとつの本郷村は今の中川区で、神明社(小本)が氏神だった。
本郷村の神社
続いて本郷村の神社について見てみる。
『愛知縣神社名鑑』は以下のように書いている。
創立年代は不詳であるが、境内に古墳があることから古い年代に求めることができ、加賀国白山のご分霊を勧請した近郷無双の古社である。
大永三年(1523)本郷城主、丹羽若狭守氏清(天文七年岩崎へ移城)が始めて祭祀を奉修し、爾来、湯立、笹おどり、棒の手、馬の塔(献馬)の神事が氏子によって伝承され、「白山の馬まつり」として人々に親しまれ、普く有名になった。
四季近郷集を著わした社家小塚甚太夫知隆が天保十二年末社猿投社を勧請建立してから、近郷十五ヶ村参加の警固祭が始まり、三州猿投神社の大祭に対比して小猿投祭と呼ばれ、盛況を極めたが、現今は中絶している。
明治5年郷社に列し、同40年七月藤枝より浅間社・山神社・日割社を合祀。同年十月幣帛供進指定を受ける。
古墳というのは境内入り口近くにある白山第1号墳のことなのだけどそれは後回しとして、古墳があるくらいだから神社は相当古いとしながら、初めて祭祀を行ったのは岩崎城主の丹羽若狭守氏清で、1523年(大永3年)とするというのは矛盾がある。
戦国時代に至るまで祭祀が行われていなかったというのはあり得ない。
丹羽氏清は1521年(大永元年)に本郷城の3代目城主となり、1538年(天文7年)に岩崎城に移ったとされる(『張州府志』等)。
丹羽氏清が白山宮とどの程度関わったかは分からないのだけど、白山宮自体の歴史は実際かなり古いはずだ。
問題は何故白山だったのかだけど、それは後ほどあらためて考えることにしたい。
江戸時代の地誌ではどうなっているか、まずは『寛文村々覚書』の本郷村の項を見てみる。
社 壱ヶ所 山之神 社内四畝歩 前々除
当村祢宜 甚大夫持分
社は1社で山之神といっている。
白山が書かれていないのは、岩崎村の項で書いているからだろう。
そこにはこうある。
社 壱ヶ所 白山権現 本郷村祢宜 甚大夫持分
社内 松林共ニ壱町歩 前々除
是ハ本郷村・藤島村・藤枝村・岩崎村四ヶ村之氏神也。
本郷村の祢宜の持分で、本郷村、藤島村、藤枝村、岩崎村4村の氏神とする。
山神は後の白山宮に合祀されて残っていない。
『尾張徇行記』にはこうある。
白山祠 覚書ニ社内松林共一町前々除、是ハ本郷藤島藤枝岩崎四村ノ氏神也、本郷村祢宜甚太夫持分
府志曰、白山祠在本郷村、大永三年九月十日丹羽若狭守氏清始修祭祀、至今不絶、本郷岩崎藤島藤枝四村民行祭事
祠官小塚甚太夫書上ニ、境内九反七畝十五歩御除地、摂社 神明稲荷秋葉香良洲明神
荒土、別山神社内五畝、山神三社境内四畝ツツ、イツレモ御除地
『愛知縣神社名鑑』がいう丹羽氏清が初めて祭祀を行ったという情報の出所は『張州府志』(1752年)のようだ。
しかし、江戸時代中期にはすでに”至今不絶”、途絶えているといっている。
境内社に、神明、稲荷、秋葉、香良洲の祠があるとも書いている。
荒土、別山神というのがよく分からないのだけど、『尾張志』を見ると分かることがある。
山神はこのときまでに3社に増えていたようだ。
『尾張志』はもっと詳しく書いている。
白山社
本郷村にあり菊理媛ノ命大己貴ノ命伊弉冊尊三坐を祭るといふ當社は本郷岩崎藤島藤枝四村の惣本居神にて近村無双の古社なり
古棟札あり甚古きは字形消て讀得かたく時代しられす大工小嶋彈左衛門
奉造立當庄守護所本願散白
于時文永十一年甲成九月十八日
大工藤原小番大夫宗次
尾州山田庄八事北迫岩崎鄉願主敬白
□癸已九月六日 子キ 八十七とありて年号の文字消たりこの札は文永のよりも今少し古代のものと見ゆるにつきて癸巳とある支干をもて文永以前をおせば天福元年に當るもし又其已前の癸已なる時は高倉天皇の承安三年也
山田庄号及八事北迫といふ名目のやや古きを思ふへし八事北迫といふ事は康正二年の□錢引付にも見えたり
さて大永三年九月十日丹羽若狹守氏清はじめて祭祀を修せられたるより今に至るまで四村の里俗祭事を勤る事たえす相承す
末社に神明社 稲荷社 秋葉ノ社 香良洲ノ社あり社人を小塚甚太夫と云別山ノ社 白山の社より西の方荒土(クワウツチ)とい ふ地にあり伊弉冊尊を祭る
山ノ神ノ社 三所あり村内本田稻場橿木など呼地にあう
この四社も同村にあり
祭神について初めて書かれていて、菊理媛命、大己貴命、伊弉冊尊三坐を祭るといっている。
この顔ぶれは現在に続いているのだけど、いつからそうなったかは分からない。最初からとは思えない。
神社に伝わる棟札は非常に古いもので字もかすれてよく読めないとしつつ、書かれている内容を写している。
ただ、この棟札は年代がおかしいとかいろいろ問題があって、偽物という話もある。
天福元年なら1233年、承安三年なら1173年なのだけど、創建はともかく、そこまで古い棟札が伝わるかどうか。まったくない話ではないだろうけど。
別山社というのが白山宮の西の荒土(こうつち)という場所にあったようだ。
祭神は伊弉冊尊(イザナミ)といっている。
『愛知縣神社名鑑』は明治40年に藤枝にあった浅間社・山神社・日割社を合祀したといっているのだけど、日割社というのが非常に気になる存在だ。
現在の祭神の顔ぶれからして、稲田姫命(イナダヒメ)を祀っていたのだろうけど、すごく唐突な感じがする。
現在、熱田神宮の境内社として日割御子神社があり、そこの祭神は天忍穂耳尊(アメノオシホミミ)とされている。
日割の御子が天忍穂耳尊とするならば、日割の神は天照大神(アマテラス)ということになるだろうか。
あるいは、誓約(うけひ)で生まれたとするなら素戔嗚尊(スサノオ)とも考えられる。
稲田姫は素戔嗚尊が八岐大蛇から救ったことになっているので、遠回りだけどつながらないこともない。
それにしても、日割社は気になるというか引っかかりを覚える。
本郷岩崎の歴史と遺跡
名古屋の遺跡分布については姉妹サイトの名古屋遺跡マップのトップにある遺跡マップを見ていただくとおおよその傾向が分かると思う。
北は庄内川流域から守山丘陵にかけて、西は熱田台地、中央は南から笠寺台地、瑞穂台地、御器所台地のあたり、南は鳴海丘陵から大高にかけて遺跡が密集している。
ただしこれは現在までに表に出ている分に限られることに留意する必要がある。
この遺跡マップの最も不自然な点は、南部の最重要河川である天白川流域にほとんど遺跡がない点だ。
これはないのではなく知られていないだけで、知られていないということは隠されていることに他ならず、隠すということはそれだけ重要ということだ。
根拠もなく想像でいっているわけではなく、そういう話を聞いている。
今昔マップを引いて見ると分かることがある。
名古屋城下から西と南が平地で、東は全体に丘陵地ということだ。
丘陵地を削って川が流れ、その土砂でできた沖積地を農地として開墾し、集落を作った。
縄文時代の人たちがどこから来たのかを推測するのは難しいのだけど、川は非常に重要だったはずというのは容易に想像できる。水がなければ暮らしていけないし、農作物も作れない。
遺跡からすると縄文人は平地よりも山地を好んだように思えるのだけど、実際のところは分からない。海辺の方が住むには都合がよかったかもしれない。
それにしても、縄文や弥生の人たちが天白川に目を付けなかったはずがない。
日進というのは天白川とその支流が作った土地で、生活を営むのに適している。
古墳時代以前の遺跡は見つかっていなくても、遅くとも弥生時代には人が暮らしていたはずだ。それはもう、絶対といっていい。
白山神社の古墳や岩崎城の古墳、竹ノ山古墳群などはごく一部で、実際は数多くの古墳もあったに違いない。
本郷村の本郷は元郷という意味であれば、もっとも古い集落のひとつと考えていいのではないか。
集落があれば必ずカミマツリは思われる。
白山宮はその延長線上にあると考えるのは間違っていないと思うけどどうだろう。
いつ誰が白山を祀ったのか
名古屋の白山はどこも古いところが多い。それも相当古い。
そのうちのいくかは古墳の上に祀られている。
守山区小幡の白山神社や市場の白山神社、中区新栄の白山神社などがそうだ。
尾張旭市稲葉村の白山林にあった白山社は非常に重要な神社だったと思う。一度廃絶になり、近代になって本地ヶ原神社として復活した。
春日井市味美にある白山神社も、もともとは古墳の上に乗っていた。
一般的に白山の神は白山比咩とされ、加賀一の宮の白山比咩神社(公式サイト/石川県白山市)を総本社とする。
全国の白山社は白山比咩神社から勧請したとしているところが多い。
しかし、それは本当だろうか。個人的にはちょっと疑わしいと思っているし納得していない。
白山の神が女神と考えられているのはその通りだと思う。神社によっては菊理姫命(キクリヒメ)を祭神としたり、伊弉册命(イザナミ)を祀ったりしているので、やはり女神という認識なのだろう。
ここ日進本郷の白山宮も、江戸時代後期には菊理媛命、大己貴命、伊弉冊尊の三坐を祀るという意識があった(『尾張志』)。
この後出てくる古墳との関係もあるのだけど、なんといっても一番の問題は、いつ誰がここに白山を祀ったかということだ。
どうして白山だったのか。
本郷から岩崎にかけての総氏神とするくらい重要な神社が何故白山だったのだろう。
一番最初に祀った人たちの中に女神という意識があったのかどうか。
あったとしたらそれはイザナミだったのかキクリヒメだったのか、あるいは全然別の神だったのか。
白山第1号墳は誰なのか
白山第1号墳は白山宮の南鳥居から入って少しいった右手にある。
標高78メートルの小山の麓に近い。
白山宮本殿はそこから上った小山の中腹あたりに建っている。
この位置関係が最初からだったのか途中で変わったのかは分からないのだけど、古墳の位置に少し違和感がある。
直径14メートルほどの円墳は6世紀頃のものと推定されており、昭和の調査で金環、鉄製直刀、装飾須恵器などが出土した。
古墳の被葬者が女性首長という例がどれくらいあるのかは分からないのだけど、なんとなく女性っぽくはない。
ここよりも大事なのはたぶん本殿の裏手だ。
何やらただならぬ気配を感じたので、本当に重要な主は本殿裏に埋葬されているのかもしれない。
おそらく小山全体が聖地で、全域を発掘調査したら遺跡や遺物が見つかるだろうと思う。絶対やらないだろうけど。
古墳と白山がまったく無関係だとは思えない。
古墳の被葬者を祀っている可能性もある。
あるいは、古墳時代以前からこの小山で何らかのカミマツリが行われていて、その場所に古墳を築造したのかもしれない。
だとすれば白山宮の起源は弥生時代や縄文時代に遡ることになる。
もともとは白山ではない別の社名や神だったとしてもおかしくはない。
龍谷寺について
白山宮の東隣に龍谷寺(公式サイト)という寺がある。
隣接していて行き来ができるくらいなので神宮寺的な寺かと思ったらどうやらそうでもないようだ。
公式サイトは以下のような縁起を載せている。
龍谷寺の開基は、藤原則武と伝えられ、1520年ごろに三州篠原永沢寺3世心月宋光大和尚が三州の城主渡辺守綱の助力を得て伽藍を整備し、開山しました。
現在第38世法覚隆真大和尚に至るまで約500年にわたり、お釈迦様の教えを受け継いでいます。
コトバンクは以下のように書いている。
雲興山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦牟尼仏。阿弥陀如来と弥勒菩薩とを脇侍とする。創建は明らかでないが、永正元年(一五〇四)中興の開山心月によって再建され、境内に衆寮・地蔵堂・観音堂・鐘楼・鎮守社があった(尾張志)。一説に藤原則武の開基で、永享九年(一四三七)宗光により再興、のちに渡辺半蔵守綱の援助をえて完成したといわれる(日進村誌)。
藤原則武がどういう人物なのかはよく分からないのだけど、創建は室町時代か、それを遡るか。
渡辺半蔵守綱の助力を得て1520年に中興したというのはあり得ない。渡辺守綱が生まれたのは1542年で、若い頃から家康の家臣として活躍し(徳川十六神将のひとり)、尾張藩では付家老になった人物だ。
三州篠原永沢寺は豊田市に永澤寺として現存している。
最初の方で書いたように本郷村と藤嶋村の境界が白山宮の東だったので、龍谷寺は藤嶋村に属していたことからすると、白山宮と龍谷寺は隣り合っているだけで直接の関係性はなかったのかもしれない。
(つづく)
作成日 2025.5.18