ニントクテンノウ《仁徳天皇》

2020年1月20日

ニントクテンノウ《仁徳天皇》

『古事記』表記 大雀命
『日本書紀』表記 大鷦鷯天皇、大鷦鷯尊
別名 聖帝、難波天皇
祭神名 仁徳天皇・大鷦鷯尊
系譜 (父)応神天皇
(母)仲姫命/中日売命(応神皇后)
(兄)菟道稚郎子
(異母兄)大山守命など
(后)葛城磐之媛
(妃)八田皇女(後に皇后)、日向髪長媛、宇遅之若郎女、黒日売
(子)大兄去来穂別尊(履中天皇)、住吉仲皇子、瑞歯別尊(反正天皇)、雄朝津間稚子宿禰尊(允恭天皇)、酒人王、大草香皇子、草香幡梭姫皇女、橘姫皇女(雄略天皇皇后)
属性 第16代天皇
後裔 天皇家
祀られている神社(全国) 宇佐神宮や石清水八幡宮などの若宮から勧請した全国の若宮八幡宮
祀られている神社(名古屋) 若宮八幡社(栄)(中区)、若宮八幡社(豊)(南区)、菅田神社(天白区)、津賀田神社(瑞穂区)、神明社(中山町)(瑞穂区)、若宮八幡社(小塚町)(中川区)、八幡社(長須賀)(中川区)、熊野社(権現通)(中村区)、若宮八幡社(西米野町)(中村区)、若宮八幡社(元鳴尾町)(南区)、八幡社(闇之森八幡社)(中区)

 まず特筆すべきは、『古事記』と『日本書紀』とではその人物像がかなり違っているという点だ。
『古事記』は父親の応神天皇ゆずりの女好きで女性を追いかけるか歌を詠うか酒を飲むかくらいしかしていないのに対して、『日本書紀』では政治的な成果をかなり上げたように描かれている。
『日本書紀』だけを読めば立派な事跡を残した天皇と思えるのだけど、『古事記』と読み比べると取って付けたようなわざとらしい印象がぬぐえない。
 高いところに登って国見をすると民家から食事を用意する煙が上がっていないから、民は貧しい暮らしをしているのだろうと三年間税を免除したという逸話は『古事記』にも書かれていて、そこから仁徳の漢風諡号を与えられたのだろうけど、『古事記』ではそれくらいしかやっていない。
 死後に与えられる諡(おくりな)というのは、文字通りその人物像を表すとは限らない。現代人の戒名が本人以上に立派であるように、天皇の諡も大げさだったり逆説的だったりするのではないかと思う。たとえば聖徳太子がそうであるように、立派すぎる名前を与えられるというのは少しあやしいかもしれない。応神、仁徳もそうだったのではないか。
『日本書紀』は生まれつき容姿端麗で賢く、慈愛に満ちていたなどと褒め称えているけど、どうしてそこまで仁徳天皇を持ち上げる必要があったのか。

 応神天皇が存命中の皇子時代、大雀命/大鷦鷯尊(後の仁徳)は、弟の宇遅能和紀郎子/菟道稚郎子に皇位を譲る約束をさせられている。異母兄の大山守命もそうするようにと応神天皇に言い含められていた。
 しかし、応神天皇崩御の後、大山守命はその決定を不服として反乱を起こした。
 その動きを察知した大雀命は宇遅能和紀郎子に知らせ、宇遅能和紀郎子は大山守が乗る船の船頭に化けて、大山守を宇治川に突き落として殺した(『日本書紀』は大山守殺しを菟道稚郎子がやったとは書いていない)。
 その件が関係しているのかどうか、宇遅能和紀郎子は皇位につくことを固辞し、兄の大雀命も応神天皇の命には逆らえないということで即位は断り、月日が流れてしまう。
 ついに宇遅能和紀郎子が自殺することとなり、結局は大雀命が即位することになったというのが『古事記』の話だ。
『日本書紀』は菟道稚郎子は菟道(うじ)に宮を置き、大鷦鷯尊は難波に宮を作って、互いに譲り合って3年の間天皇位が空位だったと書いている。『日本書紀』が仁徳天皇寄りに書かれたとすると、この3年間は宮が菟道にあって菟道稚郎子は天皇として即位しており、それを大鷦鷯尊が奪ったのではないかという推測ができる(あくまでも推測)。
 大雀命/大鷦鷯尊は難波の高津宮(大阪市)で天下を治めたというのは記紀で共通している。
 しかし、次の第17代履中天皇(仁徳の息子)は宮をまた大和の伊波礼若桜宮(奈良県桜井市)に戻している。応神、仁徳の2代だけ難波(大阪)に宮を建てなければいけなかったのには何か理由があったのだろう。

『日本書紀』にはひとつ、やや唐突に思える話が書かれている。
 大臣の武内宿禰の子供と大鷦鷯尊(仁徳天皇)が同じ日に生まれたというのだ。
 大鷦鷯尊が生まれるときに産屋に木菟(ツク=ミミズク)が飛び込んできて、武内宿禰の子が生まれるとき産屋に鷦鷯(サザキ=ミソサザイ)が飛び込んできた。
 不思議な因縁であり、何かの兆しに違いないから、それぞれの鳥の名前を交換して子供に付けようということになった。そのため、皇子は大鷦鷯となり、武内宿禰の子供は木菟宿禰になったというのだ。
 名前の交換で思い出すのが、応神天皇と気比大神との名前の交換の話だ。
 皇子時代の応神天皇(誉田別)が武内宿禰に連れられて角鹿(つぬが)の笥飯大神(けひおおかみ)を参ったとき、去来紗別神(イザサワケ)が名前の交換を持ちかけて、皇子はそれ以来、誉田別という名になったという。
 誉田別は武内宿禰と神功皇后との子という話があり、武内宿禰の子供と仁徳(大鷦鷯尊)が同じ日に生まれたという話はどこかでつながっていそうだ。『日本書紀』の作者は当然それを意識していたはずだし、それを読んだ当時の人たちは何が言いたいのか分かったに違いない。

 大鷦鷯天皇は即位後、石之日賣命/磐之媛命(イワノヒメ)を皇后とし、後の履中天皇、反正天皇、允恭天皇(もうひとりは住吉仲皇子)を生んだということは記紀で共通している。
 この皇后がとても嫉妬深い女性だったことも記紀が書いているのだけど、別居したあとの展開が違っている(後述)。
 ここで少し問題となるのは、石之日賣命/磐之媛命が葛城氏の出という点だ。
 葛城氏は武内宿禰の系統とされ、この後しばらく女系は葛城氏が重要な地位を占めることになる。
 日向から髮長比賣/髮長媛を、吉備から黒日売を妃に迎えていることも気になる。
 髮長比賣との間に生まれた幡梭皇女は後に第21代雄略天皇の皇后になっている。
 宮の場所や后・妃からも、応神、仁徳のところでそれまでとは違う流れが始まったように思える。

 嫉妬深かった磐之媛の目を盗んで大鷦鷯天皇はあちこちの女性に手を付ける。皇后が留守中を狙って浮気をしたり、きれいな女性がいると聞くとそばに呼び寄せたりした。
 中でもお気に入りは八田若郎女/八田皇女だったようだ。これは皇位を譲り合った弟の菟道稚郎子の妹に当たる。菟道稚郎子が死に際に妹を妃にしてやってくれと頼んだというのだけどあやしい。
 黒日売は皇后の嫉妬が激しすぎて吉備に逃げ帰ってしまったものの、八田若郎女は皇后が留守の間に招き入れていちゃついていたのを皇后に知られてしまい、皇后は激怒した。
 ふたりは仲直りのための歌を交わすものの、ついには修復ならず、別居状態になってしまったようだ。
『古事記』ではそのあたりはぼかされているのだけど、『日本書紀』では即位35年に磐之媛皇后は筒城宮で亡くなったといっている。2年後に乃羅山に皇后を葬り、翌年には八田皇女をあらたな皇后とした。
 これ以外にも何人かの女性といざこざを起こしている。

『古事記』が語る大雀天皇の事跡としては、新羅から来た秦人に命じて池や堤、港などを整備させたというものがある。仁徳陵や応神陵が突然巨大化したのは、こういった渡来人の土木技術や知識が入ってきたためだ。
『日本書紀』を見ると、少なくとも治世の前半は真面目にあれこれ取り組んだことになっている。
 都の民の税を3年免除し、皇居は傷んでボロボロになっても直さず、治水や開墾を進めて民の暮らしを豊かにし、新羅だけでなく高麗、百済とも交流を持つなど、政治に励んだ様子がうかがえる。
 しかし、後半はやはり皇后との夫婦げんかや女性問題の記事ばかりになってしまう。
 あとは歌を詠っているくらいだ。
 新羅はたびたび刃向かってきたので、兵を差し向けたりした。蝦夷も背いてきたので鎮圧した。
 その他の出来事としては、白鳥陵(日本武尊の墓)の騒動や飛騨国の両面宿儺の話などが気になるところではあるのだけど、ここでは書ききれない。
 即位87年に崩御し、百舌鳥野陵/毛受耳原に葬られた。
『日本書紀』では110歳となり、『古事記』は83歳と書いている。
 陵は宮内庁によって大仙陵古墳/大山古墳(大阪府堺市)に治定されている。
 墳丘長約525メートルは現存する古墳では最大で、世界的に見てもクフ王のピラミッドや秦の始皇帝墓陵と並ぶ最大級の墳墓となっている。

 仁徳天皇は八幡神と同一視された応神天皇の皇子ということで、八幡宮の若宮で祀られるようになっていった。
 現在の若宮八幡宮は、宇佐神宮、石清水八幡宮、鶴岡八幡宮などの若宮を勧請したものが多い。
 名古屋では名古屋総鎮守の若宮八幡社(栄)(中区)の他、若宮八幡社(豊)(南区)、菅田神社(天白区)、津賀田神社(瑞穂区)、神明社(中山町)(瑞穂区)、若宮八幡社(小塚町)(中川区)、八幡社(長須賀)(中川区)、熊野社(権現通)(中村区)、若宮八幡社(西米野町)(中村区)、若宮八幡社(元鳴尾町)(南区)、八幡社(闇之森八幡社)(中区)で祀られている。

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