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ニントクテンノウ《仁徳天皇》

ニントクテンノウ《仁徳天皇》

『古事記』表記大雀命
『日本書紀』表記大鷦鷯天皇、大鷦鷯尊
別名聖帝、難波天皇
祭神名仁徳天皇、大鷦鷯尊、など
系譜(父)応神天皇
(母)仲姫命/中日売命(応神皇后)
(兄)菟道稚郎子、大山守命など
(后)葛城磐之媛
(妃)八田皇女(後に皇后)、日向髪長媛、宇遅之若郎女、黒日売
(子)大兄去来穂別尊(履中天皇)、住吉仲皇子、瑞歯別尊(反正天皇)、雄朝津間稚子宿禰尊(允恭天皇)、酒人王、大草香皇子、草香幡梭姫皇女、橘姫皇女(雄略天皇皇后)
属性第16代天皇
後裔天皇家
祀られている神社(全国)宇佐神宮石清水八幡宮などの若宮から勧請した全国の若宮八幡社など
祀られている神社(名古屋)若宮八幡社(栄)(中区)、若宮八幡社(豊)(南区)、菅田神社(天白区)、津賀田神社(瑞穂区)、神明社(中山町)(瑞穂区)、若宮八幡社(小塚町)(中川区)、八幡社(長須賀)(中川区)、熊野社(権現通)(中村区)、若宮八幡社(西米野町)(中村区)、若宮八幡社(元鳴尾町)(南区)、八幡社(闇之森八幡社)(中区)

仁でも徳でもない天皇

応神天皇(誉田別尊)の息子である仁徳天皇は、一般的に慈悲の人というイメージで語られることが多い。
高いところに登って国を見渡したら家々から食事を作る煙が上がっていないので貧しくて困っているのだろうと税を免除したというあのエピソードの印象が強い。
しかし、記紀をよく読むと他の場面では民に過酷な労働を強いていたり、女にうつつを抜かして奥さんと別居状態になるなど、あまり褒められたものではない姿も晒している。
そもそも、仁徳という漢風諡号(かんふうしごう)からして怪しい。仁と徳があったからその諡(おくりな)が贈られたのではなく、仁と徳がないから名前だけでもという理由で贈られたのではないだろうか。

まずは『古事記』と『日本書紀』が仁徳天皇についてどう書いているかを見ていくことにしよう。

本当に聖帝?

『古事記』は名前を大雀命(オオサザキ)としている。
『日本書紀』も字は違うものの読みは同じで大鷦鷯(オオサザキ)とする。
名前の由来については『日本書紀』に説明があるのだけど(後述)、雀と鷦鷯(さざき)の違いは小さいようで大きい。
鷦鷯は今でいうミソサザイのこととされる。だとすると雀よりも小さい10センチくらいの茶色でかわいらしい鳥だ。
大きな雀、または大きな鷦鷯とは、皮肉めいた名前ともとれる。
どうして『古事記』は雀にしたのだろう。雀の音読みはジャクとかサクとかで、サザキとは読まないのではないか。もしかすると『古事記』は大雀を”オオサザキ”と読むことを想定していないかもしれない。

とりあえず先に進めると、大雀命は難波(なにわ)の高津宮(たかつのみや)で天下を治めたという。
通説では大阪府大阪市とされているけど、いつも書くようにこれはあくまでも物語上の設定なのでそのまま受け取ることはできない。
記紀の地名は全部変えてある。そうする理由があるからだし、またそうしなければ意味がないからだ。
この後、妃や子供についてひとまとめにして書いている。
このうち、履中、反正、允恭と、3人が即位するのだけど、そのあたりについては後述とする。

大雀命の事績として、葛城部など多くの部を定めたり、大規模な土木工事を行ったりしたことが語られている。
応神天皇時代に新羅から来た秦人(はたひと)を使って茨田堤(まむたのつつみ)や三宅(みやけ)、丸邇池(わにのいけ)、依網池(よさみのいけ)を作り、難波の堀江を堀って海に通し、小椅江(おばしのえ)を堀り、墨江津(すみのえのつ)を定めたという。
さらっと書いているけどこれ、相当大がかりな大工事だ。新羅から来た秦人を使役したというけど、それも怪しいし、それだけで足りるはずもなく、かなりの数の人数が動員されたはずだ。
これは現在でいうところの公共工事に当たるわけだけど、賃金が出るわけではない義務労働だし、食事すら自主調達だったかもしれない。
働き手の男(夫や父)を取られた家も当然困ることになる。農作業や家のことは女子供や老人がやるしかない。
もはやこれだけ見ても慈悲の人とはとてもいえないのではないか。

続いて例の税を免除した話になるのだけど、これもよくよく読んでみるとそんな美談ではないことに気づく。
原文はこうだ。
「登高山 見四方之國詔之 『於國中烟不發 國皆貧窮 故自今至三年 悉除人民之課伇』」
高い山に登って四方を見渡すと煙が出ていない。民は貧しくて飯も炊けないのだろうということで3年間、課役を免除することにしたといった意味だ。
これを読んで立派な天皇さんだなと思った人はよほどのお人好しか恵まれた生活を送っている人かもしれない。
私ならこう思う。こんな貧しい暮らしを強いられているのは天皇のせいではないか、と。
原因を作ったのは大雀命天皇であり、先代の品陀和氣命(応神天皇)だ。
もしこの通りだったとしたら、相当恨まれていただろう。
何もしないよりましとはいえ、3年の使役免除くらいでどうにかなるだろうか。
自分のこととして考えてみて欲しい。日々食べるものにも困るほど貧窮している状況に陥っている中で、3年間税と強制労働を免除されたとして3年後に生活が劇的に好転しているだろうか? 3年の間は助かったとしても、3年後にまた元の困窮生活に戻るだけだ。
給付金さえ与えておけば庶民は黙るだろうという間抜けな政治家の浅はかな政策と似ている。
3年後に再び国見をすると国中から煙が上がっているのを見て民は豊かになったと判断してまた課役を再開したという。
そうなったら元の木阿弥だと思うのだけど、このことがあってこの時代は聖帝の世と呼ばれているといっている。
とてもそうは思えない私はひねくれすぎているだろうか。

大雀命と女たち

続いて大雀命の浮気グセと皇后(大后)の石之日賣命(イワノヒメ)の嫉妬の話が始まる。
この話が長ったらしいというかしつこい。なんで日本の歴史書で天皇と皇后の醜聞めいた夫婦喧嘩話をこうも詳しく書く必要があったのか。
書いたからには、そこにはやはり裏があると思わざるを得ない。これはワイドショーのネタのようなものではない。
ここでは”歌”というものが一つキーワードとなっている。
歌の伝統は速須佐之男命(スサノオ)に始まり、倭建命(ヤマトタケル)が引き継ぎ、歴代の天皇がそれを受け継いだ。現代においてもそうだ。
『古事記』の中では、この仁徳天皇のところから歌が多くなる。恋愛の歌に関してはここが始まりといっていい。
それにも何か理由があるのだろう。

大雀命の女好きは今に始まったことではなく皇太子時代からだった。
父親の品陀和氣命(応神天皇)が日向国(ひむかのくに)の諸県君(モロガタノキミ)の娘の髪長比売(カミナガヒメ)が美しいというのを聞いて呼び寄せたところ、その姿を見た大雀命が自分が欲しいと言い出して建内宿禰(タケウチノスクネ)に天皇に頼んでくれと命じ、天皇はその願いを聞き入れて大雀命に髪長比売を与えたというのだ。
なんだこの親子、と思う。女を何だと思っているのか。
新嘗祭(にいなめさい)の翌日に行われた豊明節会(とよのあかりのせちえ)の場で与えたというから、何かもう少し意味があるのかもしれないのだけど。

天皇になってからはまず最初に、吉備の海部直(アマベノアタイ)の娘の黒日売(クロヒメ)が登場する。
容姿端正だった黒日売を側仕えさせていたところ、石之日賣命の嫉妬が激しいので黒日売は恐れて国に帰ってしまう。
黒日売が恋しい大雀命は淡道島に行くと石之日賣命に嘘をついて吉備国へ向かい、黒日売に会って歌を交わす。
この後、黒日売がどうなったかは分からない。

大雀命の関心は次の女、八田若郎女(ヤタノワキイラツメ)へと移っていった。
石之日賣命が豊楽(とよのあかり)に使うための御綱柏(みつながしわ)を採りに木国(きのくに)へ行っている最中、大雀命は八田若郎女のところに入り浸って昼も夜もいちゃついていた。
よせばいいのにそのことを石之日賣命に事細かく伝えた人間(倉人女)がいたものだから事態は悪化してしまう。
恨み怒った石之日賣命は収穫した御綱柏を海に投げ捨てると宮へは戻らず、山代(やましろ)から那良(なら)へ向かい、筒木(つつき)に住む韓人(からひと)の奴理能美(ヌリノミ)という人の家に留まることになる。
その道々でいくつかの歌を歌った。
慌てた大雀命は鳥山(トリヤマ)という舎人(とねり)を送って歌を贈ってなだめようとするも、石之日賣命の怒りは収まらず取り合おうとしない。
更に別の人間を遣いにやって歌を贈ってもらちがあかないので大雀命は直接出向いて歌を歌った。
しかし、結局仲直りはできなかった。
にもかかわらず、懲りない大雀命は八田若郎女に歌を贈る。それだけでなく、八田若郎女の名を残すために八田部(やたべ)まで定めたのだった。

メロドラマみたいな話

決着の付かない三角関係を放置したまま大雀命は次なるターゲットとして異母妹の女鳥王(メドリノミコ)に狙いを定める。
弟の速総別王(ハヤフサノワケノミコ)に仲を取り持ってもらおうと遣いに送ったところ、大后(石之日賣命)の性格がきついから嫌だと拒否されてしまう。現に大后を恐れて八田若郎女を娶っていないではないかと。
更に女鳥王はとんでもないことを言い出す。吾は汝の妻になりますと。
いきなりの急展開だったのに速総別王はあっさり承諾して二人は結婚してしまう。
そんなことは大雀命には言えないので当然、速総別王は報告にはいかなかった。
知らぬは大雀命ばかりで、大雀命は女鳥王が機織りをしているところへ出向いていき、誰のものを織っているのですかと問いかける歌を歌う。
女鳥王は答えて、速総別王のものですと歌にして返した。
事情を悟った大雀命は何も言わず宮へ帰っていった。
戻ってきた速総別王に対し女鳥王はこんな歌を歌う。
「雲雀は 天に翔る 高行くや 速總別 鷦鷯獲らさね」
ヒバリは天を翔るものです。ハヤブサもそうです。ミソサザイなど獲ってしまえと。
その歌を耳にした大雀命は逆に二人を殺すことに決めた。
おいおい、なんだこの、古い昼ドラみたいな話は。
天皇の仕事とか品位とかはどこへいってしまったのか。

身の危険を感じた速総別王と女鳥王は逃亡を図るも逃げ切れず。
倉椅山(くらはしやま)に登って歌を歌い、更に逃げて宇陀(うだ)の蘇邇(そに)に至ったところで大雀命が差し向けた軍によって殺されてしまったのだった。
その軍にいた山部大楯連(ヤマベノオオタテノムラジ)という将軍が女鳥王の手に巻いていた玉釧(たまくしろ)を取って妻に与えたというエピソードが続けて書かれている。
なんでそんなことを書いたんだろうと思ったら、後に山部大楯連の妻が新嘗祭の後の豊明節会に参列した際にその玉釧を手にしているのを石之日賣命が見つけ、山部大楯連は死刑になったという後日談が語られる。
ここまでの一連の話はドラマ仕立てになっている。こんな作り話を歴史書に書いても意味がないから、何らかの事実に基づいているのではないかと思える。裏の意味がきっとある。

よく分からない話が二つ

続いて語られるエピソードは不思議というか、何かぼやっとした内容で、何かありそうだけどよく分からない。
大雀命は豊楽(とよのあかり)を開くため日女島(ひめしま)を訪れたときに雁が卵を産んだ。
そこで大雀命は建内宿禰命を呼んで、そんな話を聞いたことがあるかと歌で訊ねた。
おまえほどの長生きの人間はいないからという理由だった。
建内宿禰も歌で答えて、自分は長生きだけど倭国で雁が卵を産むなど聞いたことがありません。
続けて、これは汝(大雀命)や御子の世が永久に続くシルシでしょうと歌った。
雁が卵を産むのがそんなに珍しいのか不思議に思う人もいるだるけど、一般的に雁は秋になると日本に渡ってきて越冬して春にまた北へ戻っていく渡り鳥(冬鳥)なので、日本で産卵することはない。
そもそも、渡来地は北海道や北日本で、西日本まで来ることは少ない。日女島をどこに設定しているのか分からないのだけど、倭や難波あたりだとすると姿を見ること自体が珍しかったはずだ。
それにしてもこのエピソードが伝えたかった意味や本質はどこにあるのだろう。
女絡みのドロドロした話が続いたので小休止的に一息付ける逸話を差し込んだとでもいうのか。

次が大雀命の最後のエピソードになるのだけど、これまた意味不明の内容になっている。
菟寸河(ときのがわ)の西に一本の高い木があって、その木で作った速い船を枯野(からの)と名づけた。
この船で淡路島に渡って大御水(おおみもい)を汲んで献上していたのだけど、破れて壊れてしまったので燃やして塩を焼いた。
更に、余った木で琴を作ったところ、その音色は七つ先の村まで届いたという。
そしてまた歌を歌っている。
取って付けたようなこの話も一体何だったのだろう。

聖聖っぽい話は一つだけ

大雀命は83歳で崩御し、毛受耳原(もずのみみはら)に御陵がありますという言葉で締めくくられる。
あれ? 仁徳天皇陵はどうなった? と思うのだけど、そのあたりの説明は何もない。
大林組が古代の技術を想定して計算したところ、一日2万人が働いたとして15年以上かかるだろうとしたくらいだから、相当な工事だ。
前半生で土木工事に情熱をみせた大雀命だから自分の入る古墳も気合いが入ったとも考えられるけど、そのあたりについて記紀はほとんど何も語っていない。
だいたいあの古墳は仁徳天皇のものではないという説もあって、個人的にも違うだろうと思っている。
天皇はことさら権威を示す必要はなく、それが必要なのは地方の豪族だからだ。

ここまで読んできて皆さんはどう思っただろう。
大雀命がやったいいことといえば、3年間使役を免除したくらいで、他にやったことといえば女を追いかけているか歌を歌ったくらいのものだ。
これで聖帝とは何事かと思う。
そもそも大雀命は本当に正統な天皇といえるのか、という問題がある。
時間を即位以前に巻き戻してそのあたりを見ていくことにしよう。

大雀命は皇太子ではなかった

まず親子関係について改めて見ておくことにする。それは先代の品陀和気命(ホムダワケ/応神天皇)記に書かれている。
品陀和気命は品陀真若王(ホムダノマワカ)の娘の高木之入日売命(タカキノイリヒメ)、中日売命(ナカツヒメ)、弟日売命(オトヒメ)の三柱の女王を娶ったといっている。
品陀真若王(ホムダノマワカ)は五百木之入日子命(イホキノイリヒコ)と尾張連(オハリノムラジ)の祖の建伊那陀宿禰(タケイナダノスクネ)の娘の志理都紀斗売(シリツキトメ)の子であり、ここでは書かれていないのだけど品陀真若王の妃で三姉妹の母は金田屋野姫命(カナタヤヒメ)と『先代旧事本紀』にある。
金田屋野姫命は建稻種命(建伊那陀宿禰)と玉姫(タマヒメ)の娘なので、血筋として尾張氏の色合いが強い。
高木之入日売との間に生まれたのが額田大中日子命(ヌカタノオホナカツヒコ)、大山守命(オオヤマモリ)、伊奢之真若命(イザノマワカ)、大原郎女(オオハラノイラツメ)、高目郎女(コムクノイラツメ)。
中日売命(ナカツヒメ)との間に生まれたのが木之荒田郎女(キノアラタノイラツメ)、大雀命(オオサザキ)、根鳥命(ネトリ)。
弟日売命(オトヒメ)との間に生まれたのが安倍郎女(アベノイラツメ)、阿貝知能三腹郎女(アハヂノミハラノイラツメ)、木之菟野郎女(キノウノノイラツメ)、三野郎女(ミノノイラツメ)。
結果として中日売命が生んだ大雀命が即位することになったため、中日売命が皇后(正妻)ということになったのだけど、最初からそうだったわけではなさそうだ。

この三姉妹の他に、丸邇氏(ワニウジ)の比布礼能意富美(ヒフレノオホミ)の娘の宮主矢河枝比売(ミヤヌシヤカハエヒメ)を娶って宇遅能和紀郎子(ウジノワキイラツコ)、八田若郎女(ヤタノワカイラツメ)、女鳥王(メトリノミコ)が生まれたともいっている。
女鳥王は大雀命の求婚を断って速総別王と逃げて殺されたあの人物だ。
速総別王は桜井の田部連(タベノムラジ)の祖の島垂根(シマタリネ)の娘の糸井比売(イトイヒメ)を娶って
生まれた子なので、女鳥王と速総別王は異母兄弟(姉弟?)ということになる。
他にも妃は何人かいて、子供は全部で26人としている。

これらの子供のうちの誰が帝位を継ぐかについては、宇遅能和紀郎子だとはっきり書かれている。
品陀和気命は大山守命と大雀命を呼んで問答をし、その答えによって大山守命を山海の政担当、大雀命を食国(おすくに)の政の担当と決め、宇遅能和紀郎子を天津日継(あまつひつぎ)と定めたという。
天津日継というのが要するのに帝位を継ぐ皇太子ということだ。本来であればこの宇遅能和紀郎子が天皇になるはずだった。
しかし、その決定に納得がいかなかった大山守命が宇遅能和紀郎子を殺して帝位を奪おうとしたと『古事記』はいう。
それを察知した大雀命は使者を送って宇遅能和紀郎子に知らせたため、宇遅能和紀郎子は兵を準備して大山守命を待ち構えることになった。
宇遅能和紀郎子は川渡しの船頭に化け、川の中程まで進んだところで船を傾けて大山守命を川に落とし、それに向かって潜んでいた兵たちが一斉に矢を放って射殺してしまった。
作戦勝ちとはいえかなりずるいやり方だ。
ただ、大山守命の骨(かばね)を引き上げたときに歌った宇遅能和紀郎子の歌が妙に物悲しい。
物語の内容と合ってないのでどこか別のところから歌だけ引っ張ってきたとも考えられるのだけど、それがこのときの宇遅能和紀郎子の心情を表していると思ったのだろうか。
梓(あずさ)と檀(まゆみ)で作った弓で敵を射ようと思うけど、君を思い出し、妹を思い出して悲しくなるから梓と檀を伐らないでおこうかといった内容の歌だ。

反逆者がいなくなったところで宇遅能和紀郎子が即位したということにならないことを我々はもう知っている。天皇になったのは宇遅能和紀郎子ではなく大雀命だった。
それはこんな経緯があったからだ。

美談ではない

大雀命と宇遅能和紀郎子は互いに天下を譲り合い、海人(あま)が大贄(おおにえ)を献上(貢)しようとしたら兄弟ともに辞退するものだから海人は行ったり来たりで疲れて泣くことになった。
そうこうしているうちに宇遅能和紀郎子が早くに亡くなってしまったため、大雀命が天下を治めることになったのだという。
しかし、この話をそのまま受け取る人はいないだろう。宇遅能和紀郎子が帝位を大雀命に譲る理由もないし、最初から帝位につく気がないなら父の品陀和気命に後継者指名されたときに断ったはずだ。
もし帝位につきたくない理由があったとすれば大雀命との関係性においてということになる。当然、そこには争いがあったと考えるべきだろう。
宇遅能和紀郎子の急死というのも何かあったことを匂わせる。
『古事記』はこのあたりのことをさらっと書いているけど、『日本書紀』はもっと詳しく書いているので、後ほどそれも見ていくことにする。

無関係に思える逸話

とにもかくにも、大雀命が天下を治めるということになるわけだけど、応神記の不思議なところというか違和感として、この後に新羅王の子の天之日矛(アメノヒホコ)が渡って来てああしたこうしたという話を詳しく長々としていることだ。
これを朝鮮半島の新羅国王子と考えるとミスリードされてしまう。
新羅(シラキ)は尾張(愛智)のことといっても信じられないだろうけど、天之日矛は”天”を冠しているから天の一族に違いない。
一見無関係に思える話をここに入れているということは、応神(品陀和気)と仁徳(大雀命)の両方にかかっていると考えるべきだ。
上にも書いたように大雀命の母方は尾張氏系の血筋で、大雀命と宇遅能和紀郎子との間を取りなそうとした海人は”アマ”であり、”天”だということに気づかなければならない。
この皇位継承問題には尾張氏が深く関わっているということだ。
尾張氏の家に、応神と仁徳は裏切り者という話が伝わっている。あくまでも尾張氏側から見てそうだったということなのだろうけど、その元凶は武内宿禰(タケウチノスクネ)にある。
この時代の帝位というものがどういう性質のものだったのかは分からないけど、独立豪族が主導する時代の終わりの始まりだったといういい方はできるかもしれない。

天之日矛の話に続いて秋山之下氷壮夫(アキヤマノシタヒオトコ)と弟の春山之霞壮夫(ハルヤマノカスミオトコ)が伊豆志神の娘の伊豆志袁登売神(イズシオトメ)を取り合って兄弟喧嘩した話が語られる。
これまたよく分からない話で、なんでここでそんな話を書いたのだろうと不思議に思うのだけど、一つには兄弟ということが鍵になっている。
これまでも兄弟で帝位を争った例はいくつもあるものの(海幸と山幸もそうだった)、兄弟間で帝位を引き継いだことはなかった。
それは仁徳天皇(大雀命)以降、唐突に兄弟間の即位が始まる。仁徳天皇の後は、皇子の履中、反正、允恭の三人が帝位についている。
これは非常に大きな変化というか改革といえる。
没年齢についても、応神の110歳以降は70代や80代といった現実的なものになっていく。
『古事記』は上中下の三巻に分かれていて、中巻は品陀和気命(応神天皇)で終わり、下巻は大雀命(仁徳天皇)から始まる。
これは偶然ではないし、分量の問題でもない。『古事記』の作者(太安万侶は表向きだけ)の意識として、品陀和気命と大雀命との間には断絶があるというのがあったのだろう。
品陀和気命までは神話に属していて、大雀命以降は実際の歴史ということだったのかもしれない。
古事記、”ふることふみ”ということでいえば、飛鳥、奈良時代の人たちにとって豊御食炊屋比売命(第33代推古天皇)までが歴史という認識だっただろうか。

続いて『日本書紀』を読んでいくことにしよう。

『日本書紀』の設定は無理がある

応神天皇紀の最初の方に皇后や妃とその子供たちの系譜があり、高城入姫(タカキノイリヒメ)、仲姫(ナカツヒメ)、弟姫(オトヒメ)に関しては『古事記』とほぼ共通している。記紀がここまで同じというのもちょっと珍しい。共通の元情報だったのだろう。
『古事記』との違いは、即位2年に仲姫を皇后に立てたとしていることだ。
しかし、これは仲姫の子の大鷦鷯が後に即位したからで、最初からそうだったとは思えない。
応神天皇の名を譽田天皇(ホムタノスメラミコ)とし、別伝承として角鹿(つぬが)の笥飯大神(ケヒノオオカミ)と名を換えたのでもともとは來紗別尊(イザサワケ)だったという話を紹介している。
皇太子は『日本書紀』もはっきり菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)だといっている。
大山守命(オオヤマモリ)と大鷦鷯尊に、年長の子と年少の子のどちらがかわいいと思うかを訊ねたというエピソードも『古事記』と共通する。
菟道稚郎子の立太子が即位40年といっているので、子供たちはそれぞれけっこうな歳になっている。
そもそも、譽田天皇が即位したのは母親の神功皇后(氣長足姫尊)が摂政即位69年に100歳で崩御した後なので、ほとんど皆おじさんというかおじいちゃんだ。
譽田天皇は即位41年に110歳で崩御したといっているから、この後、大山守命や大鷦鷯尊と菟道稚郎子は70代とか80代とかで皇位継承争いをしたことになってしまう。更に即位後に皇后を立てて子が生まれてなんて話は非現実的すぎる。
この話は一体、どんな設定なんだと思ってしまう。

『日本書紀』の白々しさ

大鷦鷯天皇(仁徳天皇)については、「幼而聰明叡智 貌容美麗 及壯仁寛慈惠」と、褒め殺しくらい持ち上げている。そこからしてかなり怪しいと思わなくてはいけない。
譽田天皇が崩御した後、菟道稚郎子は帝位を大鷦鷯尊に譲ろうとし、大鷦鷯尊はそれを受けず譲り合ったという話も『古事記』と同じだ。『日本書紀』の方がより詳しく書いている。
菟道稚郎子は自分は弟だし天皇の器ではないという理由で辞退し、大鷦鷯尊は先帝の遺志に背くわけにはいかないと固辞したということになっているのだけど、これもどうなんだろうと思う。
そうした中、大山守皇子が反乱を起こすという展開も共通している。
しかし、それを察知した大鷦鷯尊が菟道稚郎子に知らせて大山守皇子は逆に討たれて死んでしまう。
小さくない違いとしては、菟道稚郎子が直接手を下したことにはなっていない点だ。兄殺しをしたかしていないかの違いは大きい。
菟道稚郎子は菟道に、大鷦鷯尊に難波に分かれて暮らして事態が進展しないまま帝位の空白期間は3年に及んだ。
そんなことをしているから国が荒れて民の暮らしが貧しくなってしまうのだ。
これではらちがあかないと、菟道稚郎子は自殺(自死)したと『日本書紀』は明確に書いている。
それを聞いた大鷦鷯尊が驚いて駆けつけると、菟道稚郎子は突然息を吹き返した。
なんだこの展開はと、読者は驚かされるのだけど、どうして死んでしまったんだとかなんとかやりとりがあり、菟道稚郎子は帝位をお願いします、それと同母妹の八田皇女(ヤタノヒメミコ)をよろしく頼みますと言い残してまた死んでしまったのだった。

お話としては『古事記』よりも『日本書紀』の方が面白いというかよく書けている。『古事記』の話を元に『日本書紀』の作者が膨らませて面白おかしく語っている感じだ。
しかし、白々しいというか見え透いている部分も多々あって、しかもそれを隠そうとしていない。
大鷦鷯尊はあくまでも帝位を辞退したのに菟道稚郎子が自殺してしまったので仕方なく即位したというのもそうだし、八田皇女(八田若郎女)を妃にしようとしたのは菟道稚郎子が死に際に残した遺言だから当然そうしなければいけないということにしている。死人が生き返って頼むと託したのだからそれは重い。
『日本書紀』はたとえ見え透いていても大鷦鷯尊を褒めて持ち上げる必要があった。故人を悪くいわないというだけでなく、大鷦鷯尊の記事は鎮魂の意味合いも込められているからだ。

菟道稚郎子はどうして太子でも王でも尊でもなく”郎子”(いらつこ)とされているのか?
郎女(いらつめ)は他にもたくさん出てくるけど、皇太子やそれに準じる立場の人間で郎子呼ばわりされているのは菟道稚郎子しかいない。
郎子、郎女というのは親しみを込めた呼び方で、菟道稚坊っちゃんといったところだろうか。
菟道稚郎子は譽田天皇のお気に入りではあったけど、皇太子にはふさわしくないと、記紀は暗にいっている。
それも、大鷦鷯尊を持ち上げるためだっただろう。
皇后の嫉妬に関しても、皇后を悪者に仕立てつつ、嫉妬されるくらい魅力のある人物だったということをいいたかったのだと思う。
女問題も、女好きではなく女に好かれたからだとしたかったのだろうか。
だいぶ無理があるけど。
大鷦鷯尊をどうして褒めて鎮めなければならなかったかについてはまた後ほど。

名を替えるということの意味

続く話は『日本書紀』だけが書いて『古事記』にはないものなのだけど、ちょっと変わっていて意味深だ。
大鷦鷯尊の鷦鷯の名前の由来についてで、それはこんなことがあったからだという。
天皇(大鷦鷯尊)が生まれたとき、産殿(うぶどの)に木菟(つく)が飛び込んできた。
不思議に思った誉田天皇(応神天皇)は翌日、武内宿禰を呼んで、これはどういう兆しだろうかと訊ねた。
すると武内宿禰は、実はうちの子供も昨日生まれて、そのとき産殿に鷦鷯(さざき)が飛び込んできたのですと答え、これはきっと天からの印に違いないから、それぞれの子に鳥の名前を付けて取り替えましょうと言ったというのだ。
何だろうこの話はと引っかかる。木菟は今でいうミミズクのことで、鷦鷯は上にも書いたようにミソサザイのこととされる。
それぞれの子に鳥の名前をつけるのはいいとして、どうしてそれを交換する必要があったかについては説明がない。
誉田天皇も、もともと來紗別尊だったのを角鹿の笥飯大神と名を換えたという話を上に書いた。
親子揃って名を換えるというのは普通のことではないし、そのどちらにも武内宿禰が絡んでいるのも偶然ではない。皇子時代の誉田天皇を角鹿に連れて行ったのも武内宿禰だった。
名は体を表すという言葉あるように、もしかするとここでは人間の交換があったのかもしれない。
あるいは、それに類することを暗示している。
住吉大社(大阪府大阪市/web)に伝わる縁起書『住吉大社神代記』に、仲哀天皇が崩御した夜に、氣長足姫尊(神功皇后)と住吉大神が密事(俗に夫婦の密事を通はすと曰ふ)という記述がある。
ここに武内宿禰の名は出てこないものの、神託を得るための神事で沙庭(審神者)を務めたのが武内宿禰だったことを考えると(『古事記』)、住吉大神の代わりをしたのが武内宿禰で、そのとき身ごもった子が誉田天皇だった可能性が考えられる。誉田天皇の生物学的な父親は武内宿禰ということだ。
名を替える=人が入れ替わるということは、武内宿禰が天皇に成り代わったことを暗に示しているのではないか。
誉田天皇は武内宿禰の子であり、その子と武内宿禰の子の木菟がもう一度入れ替わったということかもしれない。
だとすると、仁徳に相当する人物は二人いたことになり、表の仁徳と裏の仁徳がいたということかもしれない。

皇妃と子供たち

『古事記』のところで書かなかった大鷦鷯尊の皇后や妃と子供についてここでまとめておきたい。
系譜とは記紀はほぼ同じだ。
皇后は石之日賣命/磐之媛命(イワノヒメ)で、『古事記』は葛城(かつらぎ)の曾都毘古(ソツヒコ)の娘としている。
二人の間に生まれた子は男子四人で、長子の大江伊邪本和氣命/大兄去来穗別天皇(オオエノイザホワケ)が履中天皇に、次が墨江中津王/住吉仲皇子(スミノエノナカツノミコ)で、次の蝮水齒別命/瑞歯別天皇が(タジヒノミズハワケ)が反正天皇に、次の男淺津間若子宿禰命/雄朝津間稚子宿禰天皇(オアサヅマワクゴノスクネが允恭天皇として即位することになる。
四兄弟のうち、住吉仲皇子だけが即位できなかったのは、兄の去来穂別が妃にしようとしていた黒媛(羽田矢代宿禰の娘)を去来穂別になりすまして犯してしまったのがバレて、去来穂別を殺そうとするも失敗し、最後は自分の近習の刺領巾(サシヒレ)によって殺されてしまったからだ。

妃について『日本書紀』は日向髮長媛(ヒムカノカミナガヒメ)だけを挙げ、後の記事で皇后との諍いの元となる八田皇女(ヤタノヒメミコ)が出てくる。
『古事記』はそれに加えて宇遲能若郎女(ウジノワカイラツメ)を挙げる(母違いの妹)。
最初に側仕えさせた黒日売は国に帰ってしまったので妃という扱いにはなっていないだろうか。

支持率は最低

続いて大鷦鷯尊の事績についての記事になる。例の3年の間は課役を免除するというあの話なのだけど、さらっと読むと読み飛ばしてしまいそうな重要なことが書かれている。原文は以下の通りだ。
「朕聞 古聖王之世 人々誦詠德之音 毎家有康哉之歌 今朕臨億兆 於茲三年 頌音不聆」
古(いにしえ)の聖王たちの世では人々が徳をたたえる声を上げ、家々では平和(康)の歌を歌っていたのに自分が即位して3年になってもそういった声は聞こえない、といった内容だ。
これが即位4年の記事なのだ。まったく支持率が低くてどうにもならない状態だったことがうかがえる。それはそうだろう、譲り合うか争うかして3年も政治的空白を作ったのだから民の気持ちも離れようというものだ。しかも、即位して3年経ってようやく気づくぼんやりさ。
慌てて3年間税や労働を免除したからといって急に人々が天皇の徳をたたえるようになるとは思えない。ましてや聖なる王などとはとてもいえない。
『日本書紀』を読む人たちはなんでこんな簡単なことに気づかないのだろう。いまだに仁徳天皇は徳のあった天皇だと思っている人が大部分なのではないか。
『日本書紀』は大鷦鷯尊を持ち上げるふりをして一方では貶めている。匂わすどころかはっきり書いてしまっている。
素直に読めば、この人はダメだなと思うのが普通じゃないだろうか。

3年の間、天皇は自分の宮が傷んでも直そうとせず、3年後に民は豊かになり、天皇をたたえる声があちこちで上がるようになって飯を炊く煙もたくさん登るようになったといっている。
高台に登ってそれを見た天皇は朕は満足であるとご満悦の様子だけど、本当にそうだったかどうかは分からない。
宮は荒れ放題、蔵も空っぽでどうにかしてくださいという臣下たちの言葉にも耳を貸さず、即位10年にようやく課役を復活させて宮を直したという。
この天皇、根本的に政治オンチなんじゃないか。

すっかり気をよくした大鷦鷯尊は大がかりな土木工事を始める。『古事記』では順番が逆で、最初に土木工事をして、その後、課役免除という流れだったので、ここでも『日本書紀』の作為が見える。
治水工事によって収穫が増えたり、公共事業としての側面があったとはいえ、ここで民たちに多大な負担を掛けてしまったらまた元に戻ってしまいそうだけど、そういったことは書かれていない。
その後も池を掘ったり、橋を架けたりといった公共工事が即位14年まで続く。
それがひと段落したようで、即位16年についについに本領を発揮し始める。

女の問題が持ち上がる

それまで聖人ぶっていた大鷦鷯尊が突然、こんなことを言い出した。
朕は宮女の桑田玖賀媛(クワタノクガヒメ)を愛したいのだが皇后(磐之媛)の嫉妬がひどくて会うことさえできないまま何年も経ってしまった。このまま年を取らせてしまうのはかわいそうだから、せめて臣下の誰かがこの女をもらってくれないだろうかと。
すると、播磨国造の祖の速待(ハヤマチ)という人物がただひとり手を挙げた。
よし分かったおまえに与えようということになり、玖賀媛に速待を添えて故郷の桑田へ送り出したのだけど、
その道中で玖賀媛は病気になって死んでしまったのだった。
そもそも、玖賀媛はこの話には乗り気ではなかったとも書いている。
思いやりがあるようなないようなよく分からない話だけど、とにかく、ここで皇后の嫉妬のことが前フリとして触れられているということだ。

6年後の即位22年、大鷦鷯尊は皇后にお伺いを立てた。
八田皇女を妃にしようと思うけどどうだろうと。
菟道稚郎子が自殺して大鷦鷯尊が駆けつけたときに一時的に生き返ってまた死ぬ間際に妹を頼みますと遺言したあの女性だ。
それを即位22年まで放置していたのもどうかと思うけど、とにかくここでそれが議題に上がってきたということだ。
対する皇后の磐之媛の答えはノーだった。
なんとか説得しようとして歌を何首も歌うも、最後まで皇后は首を縦には振らなかった。
しかしながら、古代の天皇が豪族との結びつきを強めるためにも妃を何人も持つのは当たり前のことで、嫉妬は悪いことを超えて罪でもあっただろうから、この話は単に男女間の嫉妬どうこうということではない。当然ながら裏があるということだ。
そこはやはり、大鷦鷯尊の出自や背後にいる勢力が関係しているということなのだろう。

目指したのは旧勢力支配からの脱却

誉田別尊(応神天皇)の皇后で大鷦鷯尊(仁徳天皇)の母は仲姫で、尾張氏の血族だということは上にも書いた。
大鷦鷯尊の皇后の葛城磐之媛は名前からも分かるように葛城の一族だ。
父は建内宿禰の子の葛城襲津彦なので、建内宿禰の孫に当たるわけだけど、この系譜は少し疑った方がいいかもしれない。
ただ、葛城氏は尾張氏から分かれた一族なので尾張氏系ではある(葛城が尾張に移って尾張氏を名乗ったというのはまったくのデタラメ)。
仲姫の姉の高城入姫と妹の弟姫も、ともに大鷦鷯尊の妃になったと記紀はいっているけど、これは本当かどうか分からない。同母三姉妹が一人の皇妃になるというのはかなり珍しいというか、あまり普通のことではない。
いずれにしても、尾張氏系の皇妃の子が帝位を継ぐというのは正当性から見ても当然の成り行きだったはずだ。すんなりそうなっていたら問題はなかった。
しかし、誉田別尊が後継者に指名したのは菟道稚郎子だった。

菟道稚郎子の菟道は京都宇治のあの宇治を象徴している。実際に宇治にいたとかではなく、宇治に関係が深い存在だったということだ。
逆に菟道稚郎子とのゆかりから菟道(宇治)という地名がついたのかもしれない。
菟道稚郎子の母はというと、『古事記』は宮主矢河枝比売(ミヤヌシヤカハエヒメ)、『日本書紀』では宮主宅媛(ミヤヌシノヤカヒメ)となっているのだけど、いずれも丸邇氏(ワニウジ)、和珥臣(ワニノオミ)の祖の布礼能意富美/日觸使主(ヒフレノオミ)の娘としている。
丸邇氏(和珥氏)は奈良盆地東北部に勢力を持っていた一族と一般的にはされているけど、もともとは丹羽(にわ)の者たちだ。それは尾張の二宮に当たる。ニワをひっくり返してワニと称した。
宮主矢河枝比売(宮主宅媛)の他の子は上に書いたように八田若郎女と女鳥王で、考えてみると大鷦鷯尊はこの三人に妙に執着している。
そこにやはり宅媛の存在があったはずで、丸邇氏(和珥氏)との関係もある。
これは想像なのだけど、大鷦鷯尊は尾張氏や旧勢力から逃れて独自の権力基盤を築こうとしたのかもしれない。宮を倭から難波や河内方面に移した(物語の設定上)のもその表れといえる。
だから、自分の後継者にも尾張氏系ではなく和珥氏系の菟道稚郎子を選んだのではないか。
実際に菟道稚郎子は即位していた可能性もある。
『山城国風土記』逸文には菟道稚郎子を思わせる宇治天皇についての記事もある。
もしそうだとすると、大鷦鷯尊は菟道稚郎子から帝位を奪ったことになる。
つまり、譲り合いではなく奪い合いだったということだ。
そこに高城入姫の子の大山守も絡んでいる。
ちょっと気になるのは、大山守の兄の額田大中彦皇子(ヌカタノオオナカツヒコ)の存在だ。
名前からすると、三河の額田にゆかりのある人物で、大中彦というのは正統後継者を思わせる。
しかし、後継者争いには参戦しなかったのか、ずっと後の記事でちらっと出てくるだけだ。
闘鶏(つけ)というところで狩りをしたとき、山の上から窟(むろ)を見つけてあれは何だと訊ねると氷室ですというので、夏にそこの氷を天皇に献じたという内容だ。
今ひとつ意味というか意図がよく分からないのだけど、何かいわんとしているのだろう。
何にしてもこのあたりの人間関係は思う以上に複雑だ。

ついに別居、そして死

八田皇女を妃にしたいと言い出したのが即位22年で、次の記事は即位30年に飛んでいるのだけど、大鷦鷯尊は
皇后不在の間隙を縫って八田皇女を宮に引き入れた。
皇后は紀国の熊野岬で御綱葉(みつなかしわ)を採りに行っていたときということもあって(神事のためのもの)、怒った皇后は御綱葉を海に投げ入れ、宮には戻らなかった。
この後、大鷦鷯尊は人を遣いにやり、歌を贈って必死の説得を試みるも、皇后は山背(やましろ)の筒城岡(つつきのおか)の南に宮を作ってついに別居となってしまったのだった。
それでも諦めなかった大鷦鷯尊は更に人を送り、歌を歌っている。その歌も懇願から次第に脅しめいてくるのだけど、磐之媛の決意は変わらなかった。
八田皇女を妃として宮に入れるのはいいけど私は一緒にいたくないというのが皇后の最終回答となった。
即位35年、磐之媛命は亡くなったと『日本書紀』はいう。
その3年後の即位38年、八田皇女を皇后とした。
なんだかんだあったけど、これでようやく穏やかな日々が訪れるかと思いきや、懲りないのが大鷦鷯尊で、また女でやらかすことになる。

女を取られて逆ギレ

八田皇女を皇后として2年後の即位40年。雌鳥皇女(メドリノヒメミコ)を妃にしようと、隼別皇子(ハヤブサワケノミコ)を遣いに出したところ、隼別皇子は密かに雌鳥皇女を娶って報告しなかった。
大鷦鷯尊が自ら雌鳥皇女のところへ赴くと、雌鳥皇女が隼別皇子の服を織っているよと女人が歌っているのを耳にしてしまう。
事情を悟った大鷦鷯尊はそういうことかと二人を一度は許したものの、こんな話を聞いて許せず二人を殺すことにする。
隼別皇子が雌鳥皇女に膝枕をしてもらいながら鷦鷯と隼ではどっちが速いかと訊ね、隼ですと皇女が答えると、そうだろう、自分の方が先んじているのさ。
更には隼別皇子の舎人(とねり)が鷦鷯なんて隼が獲ってしまえと歌っているのを聞いて大鷦鷯尊は完全にキレてしまった。
吉備品遲部雄鯽(キビノホムチベノオフナ)と播磨佐伯直阿俄能胡(ハリマノサエキノアタイアガノコ)を派遣して自分たちを殺そうとしていることを知った二人は伊勢神宮に逃げようとするも、途中の伊勢の蔣代野(こもしろのの)で殺されてしまったのだった。

話の内容は『古事記』と同じなのだけど、いくつか大きな違いがある。
一つは時期で、『古事記』では皇后の石之日賣がまだ現在で、八田若郎女は態度を決めかねているときだったのに対して、ここでは磐之媛亡き後、八田皇女が皇后になっている。
そしてもう一つの大きな違いは、隼別皇子がすべて主導したことになっている点だ。
『古事記』では皇后の嫉妬を恐れた女鳥王は大鷦鷯尊妃になることを拒否し、遣いに来た速総王に対してあなたの妻になると勝手に決めてしまっている。速総王に鷦鷯を討ってしまえとけしかけたのも女鳥王だった。
時期の違いが重要なのは、八田皇女が皇后になった後となると、雌鳥皇女は八田皇女の同母妹に当たり、その妹が殺されてしまうのは八田皇女にとって非常につらいことになってしまうからだ。
なので、八田皇女は殺されるのは仕方がないにしても身ぐるみ剥ぐようなことだけはしないようとお願いして大鷦鷯尊もそう命じたという話になっている。
しかし、命令を無視した雄鯽(オフナ)たちは雌鳥皇女の足玉手玉を自分のものにしてしまい後で発覚することになる(『古事記』では死刑だったのが、ここでは阿俄能胡が土地を献上して死罪を免れている)。

以上の部分は『日本書紀』を先に読むと、これで成立している話だけど、『古事記』を先に読むと『日本書紀』に作為めいたものを感じる。
『日本書紀』の作者たちは編纂中におそらく完成形の『古事記』を見ていないだろうけど(『古事記』からの直接の引用がない)、雌鳥皇女の話をここに入れたというのは何らかの意図があったということだ。
伊勢神宮(web)に逃げようとしたという設定も暗示的だ。
石上神宮(web)もそうだけど、古代において有力な神社は聖域というか治外法権があってそこに入り込みさえすれば助かるということがあったようだ。

日本武尊軽視の意味

この後は特に事件らしい事件は起こらないまま歳月が流れていったようだ。
百済や新羅絡みの話とか、茨田堤(まむたのつつみ)で雁が子供を産んだ話とか、蝦夷(えみし)が叛いたので鎮圧したといった内容だ。
その中で一つ興味深いエピソードが語られる。
即位60年に白鳥陵守(しろとりのみささぎもり)たちを役丁(えよほろ)にしようとして大鷦鷯尊が自ら出向いていったところ、陵守(みささぎもり)の目杵(メキ)が忽然と白鹿に化けて走り去っていった。
それを見た大鷦鷯尊はこんなことをつぶやいた。
この陵はもともと空だから陵守をやめて役丁にしようとしたのだ。しかし、今の怪しい者を見たからには陵守を動かすのは無しにすると。
そして、この陵守を土師連(はじのむらじ)に授けたという。

何が面白いかというと、白鳥陵を空っぽだと言っていることだ。
白鳥陵は日本武尊(ヤマトタケル)の墓で、『日本書紀』は能褒野(のぼの)で亡くなった後、能褒野陵から白鳥になって飛び立ち、大和国琴弾原(ことひきのはら)にしばらくとどまったのでそこに陵を造ったところ、そこからも飛び出して河内国旧市邑(ふるいちのむら)にとどまったのでそこにも陵を造り、最後は白鳥になって天に上っていったとしている。
ここではどの白鳥陵を想定していたのかは分からないけど、白鳥陵を軽視するような態度は決して良いことではない。
天皇家は日本武尊の祟りを恐れてずっと鎮めてきた。昭和天皇の大喪の礼で日本武尊を悼む歌を歌っていたことからもそれはうかがえる。
『続日本紀』の大宝2年(702年)8月8日条には、「震倭建命墓 遣使祭之」(ヤマトタケルの墓が震えたので遣いを送って祀らせた)とあり、迷信レベルではない現実の危機意識を持っていたということだ。
応神天皇(誉田別尊)が記紀のいうとおり仲哀天皇(足仲彦尊)の子とすると、仲哀天皇は日本武尊の子なので、大鷦鷯尊から見て日本武尊は曾祖父に当たる。
そんな直接の祖先の墓をないがしろにしたりするだろうか? ひいじいさんの墓なんて空っぽなんだから墓守は百姓にしてしまえなんてのはあまりにも乱暴すぎる。
大鷦鷯尊は日本武尊の後裔ではないと『日本書紀』の作者は遠回しにいっているように私には思えるけどどうだろう。
日本武尊の血筋ではないのなら、どこかで入れ替わりが起こっているということだ。

もう一つの入れ替わりの暗示

もう一つ、見逃せない話が書かれている。
即位62年の両面宿儺(りょうめんすくな)についての記事だ。
内容はというと、飛騨国に宿儺という人物がいて、体は一つなのに顔が二つ(両面)、手足はそれぞれあり、膕(よほろ)と踵(くびす)がない。
左右に剣を佩(は)き、四つの手に弓矢を持っていて力が強く、俊敏に動く。
天皇の命に従わず、民から略奪しているので、和珥臣(わにのおみ)の祖の難波根子武振熊(ナニワノネコタケフルクマ)を派遣して殺したというものだ。

普通に読むと何のことかよく分からないと思うけど、あえてこの記事を仁徳天皇紀に差し込んだというのが意味深だ。
飛騨には両面宿儺信仰と呼ぶべきものが色濃くあって、ある種、地元のヒーローのような扱いをされている。
多くの寺を開基したとか、位山(くらいやま)に坐す神といったものだ。
飛騨一宮水無神社(web)の本来の祭神は両面宿儺という説もある。
この話は国譲りの物語の変形であり、殺しとなりすましの話だ。
だから、これを大鷦鷯尊のところで書いている。
殺しとなりすましと飛騨の山といえば、あの話が思い浮かぶ。
天稚彦(アメノワカヒコ)と味耜高彦根神(アジスキタカヒコネ)のあれだ。
天稚彦は天津神が放った返矢(かえしや)に射られて命を落とし、弔問に訪れた味耜高彦根神は妻子も見間違うほど”顔がそっくり”だったと『日本書紀』は書いている。
死者と間違われたことに味耜高彦根は怒り、十握劒(とつかのつるぎ)で喪屋(もや)を斬り倒すと天から落ちて山になった。それが美濃国(みののくに)の喪山(もやま)だといっている。
この話と両面宿儺はちょっと違うと思うだろうけど、読む人が読めばこれってあの話の変形だよねと気づくようになっている。
味耜高彦根はどうして天稚彦とそっくり(相似)だったのかといえば、天稚彦の顔の皮を剥いでそれを被っていたからだといったら信じるだろうか。
だからこそ、味耜高彦根は両面だといえる。
飛騨の国は”ヒタ”の国だ。ヒタは日立とも書き、合わせると音になる。オト、ヲトといえば、オトヨやオトヒメ、オトタチバナヒメなどが浮かび上がる。
ヒタの国は大事なものを隠すために守られた。そこから”ひた隠し”という言葉が生まれている。
ヒタは襞(ひだ)でもある。
つまり何が言いたいかというと、大鷦鷯尊は入れ替わってますよということを伝えるために『日本書紀』の作者がこの話をここに入れたということだ。
ダメ押しというか念押しというか、『日本書紀』は『古事記』と比べてその意思を強く感じる。

鳥に仮託した昔話

即位67年10月5日に、大鷦鷯尊は河内の石津原(いしつのはら)に出向いていき、そこを陵地(みささぎのところ)に定め、10月18日に築造を始めたという。
そのときこんな不思議なことが起きたといっている。
陵作りに参加していた役民(えたみ)のところに鹿が飛び込んできて死んでしまったので調べてみると耳から百舌鳥(もず)が飛び出してきた。
その百舌鳥は鹿の耳から入って肉を食っていたというのだ。
鹿といえば、白鳥陵の陵守を解任しようとしたら白鹿になって逃げたので取りやめにしたというあの話にも出てきた。
鹿は何かの象徴だろうし、その鹿を殺したのが百舌鳥というのも何かの暗示に違いない。
仁徳天皇紀はやたら鳥が出てくる。
鷦鷯、木菟、隼、女鳥、雁、そして百舌鳥。
この物語全体が一つの昔話のようになっている。
それぞれの鳥にはそれぞれに対応する人物または勢力がいたはずだ。
そういえば、高皇産靈尊が天稚彦の元に派遣したのは無名雉(ナナシキギシ)だったし、天稚彦の葬儀を担当したのは川雁(または川鴈)、雀、鴗(かわせみ)、鵄(とび)、烏(からす)たちだった。
更にここには鷦鷯もいて、担当は哭者(なきめ)だとしている。
哭者は泣女、哭女とも書き、文字通り葬儀で泣く役割だ。
大鷦鷯尊の話が天稚彦の話に掛かっているとすれば、大鷦鷯は大いなる哭者という名前が与えられていることになる。

権威のなさの裏返し

宮内庁が仁徳天皇陵として比定する百舌鳥耳原中陵は一般には大山古墳(大仙陵古墳)として名が通っているけど、百舌鳥耳原中陵の名前の由来は上の話から来ている。
しかし、大山古墳を仁徳天皇陵とすることには疑問が呈されている。そもそもあれは天皇陵として大きすぎる。
天皇というのは存在が権威そのものだから、ことさら権威を示してみせる必要はない。
天皇を権力と考えるのは間違いだ。天皇に権力はない。権力を持っていたのは豪族だったり朝廷だ。
いってしまえば天皇は、お内裏様、お代理様でしかない。
日本では権威と権力を切り離したことで天皇制が持続した。権力は入れ替わっても権威は入れ替わらない。人が入れ替わるだけだ。
もし大鷦鷯尊が大山古墳を築かせたとしたら、それは権威のなさの裏返しだ。権威がないからあれほど大きなものを造らせて権威を示す必要があったといういい方ができる。むしろそれが事実かもしれない。
即位の経緯の怪しさや、即位してから3年も徳をたたえる声がなかったということからしても、正統な天皇として認められていなかった可能性もある。

陵を造り始めて20年後の即位87年に大鷦鷯尊は崩御し、百舌鳥野陵に葬られたという。
崩御したのが1月16日で、葬られたのが10月7日といっているから、殯(もがり)の期間は約9ヶ月だったことになる。
これは特別長くもないけど短くもない。長いと天武天皇のように2年以上も殯が行われた例もある。
一般的に問題がない天皇ほど殯の期間は短く、問題があると長くなる傾向がある。
大鷦鷯尊の9ヶ月はやや微妙なところか。

以上が『古事記』、『日本書紀』が描いてみせた大鷦鷯尊像だ。
続いて他の資料に目を通しつつ、仁徳の諡号と若宮信仰について考えてみることにする。

記紀以外に情報は少ない

『古語拾遺』は天皇に関する記述が少なく、飛びとびになっているのだけど、仁徳天皇(大鷦鷯尊)についても何も書いていない。
神功皇后(磐余稚櫻朝)、応神天皇(輕嶋豊明朝)と来て、履中天皇(後磐余稚櫻朝)に飛んでいる。
仁徳天皇など存在していなかったかのような扱いだ。
仁徳を無視してさほど重要とは思えない履中天皇について書いているのは何故なんだろう。
斎部広成の選択基準がよく分からない。

『先代旧事本紀』も天皇記は分量が少ないものの、こちらは記紀の天皇はすべて網羅している。
天皇本紀が神武天皇(神日本磐余彦天皇)から神功皇后(気長足姫命)まで。
神皇本紀が応神天皇(誉田皇太子尊)から武烈天皇(小泊瀬稚鷦鷯尊)まで。
帝皇本紀が継体天皇(男大迹天皇)から推古天皇(豊御食炊屋姫天皇)までとなっており、推古天皇で終わるのは『古事記』に準じている(『日本書紀』はこの後の舒明天皇から持統天皇まで)。

仁徳天皇(大鷦鷯尊)についてはそれなりに書いているものの、内容は『古事記』と『日本書紀』のまとめ記事のようになっていて独自性はほとんどない。
まず菟道稚郎子皇子と大鷦鷯尊の帝位の譲り合いの話から始まる。
記紀との違いとしては、額田大中彦皇子が倭の屯田と屯倉を勝手に自分のものにしようとしたというエピソードが語られる点だ。その部分は『先代旧事本紀』のオリジナルで、額田大中彦皇子も帝位争いに加わっていた可能性を示唆している。
続いて大山守皇子が反乱を起こして失敗した話があり、ここでは菟道稚郎子皇子が船の渡守に化けて大山守を殺したという『古事記』の伝承を採る。
菟道稚郎子皇子の死は自然死ではなく自殺とするのは『日本書紀』に倣っている。
大鷦鷯尊が3日後に駆けつけて遺体にまたがって泣き叫びながら弟の名を呼ぶと、菟道稚郎子皇子はにわかに生き返り、後のことと妹の矢田皇女を頼みますと言い残してまた死んだという展開も『日本書紀』と同じだ。
大鷦鷯尊の名前の由来話も書いている。同じ日に生まれた武内宿祢の子の鷦鷯と木菟の名を替えたというあれだ。
後は、矢田皇女を妃にしたいと言ったら皇后の磐之媛命に反対されて皇后と別居状態になり、磐之媛命が筒城宮で亡くなると矢田皇女を皇后にしたといった話が短い箇条書きのように書かれ、即位83年に崩御して百舌鳥野陵に葬ったと記す。

仁徳の二重性

応神天皇と仁徳天皇の親子関係を完全に否定することはできないまでも、何か裏がありそうだという感じは強くある。
同じ話が応神天皇と仁徳天皇のそれぞれの事績として書かれていることから、一人の人物を二人に分けたという説があるけど、それはない。ここでそんなことをしても意味がないし、記紀の作者たちがやっている隠蔽工作はそんな単純なものではない。
『播磨国風土記』逸文に”難波高津宮天皇の御世”と”大雀天皇の御世”が出てくることを考えると、仁徳に相当する人間は二人いた可能性がある。
風土記も後世に改ざんはされているけど、真実が漏れ出している部分が少しある。
それぞれの関連については言及されていないのではっきりしたことは分からないのだけど、難波高津宮天皇は穏やかな性格として描かれ、大雀天皇はきつい人物として語られている。
難波高津宮天皇は歌を歌い、酒宴を催し、大雀天皇は出雲や意伎(おき)など5国の国造を呼び出して罰したといっている。
応神天皇亡き後、二人が争ったのか、順番に即位していたのかはなんともいえない。
ただ、仁徳には何らかの二重性が常に見え隠れしているといういい方はできると思う。

隠された悲劇性

記紀を読む限り、仁徳天皇(大鷦鷯尊)に悲劇性は感じられない。
しかし、何らかの隠された事実があるのではないかと思う。
漢風諡号に”徳”と付けられた天皇は皆よくない死に方をしている。
第4代懿徳天皇(いとく)については伝わっていることが少なすぎてなんともいえないのだけど、第36代孝徳天皇、第48代称徳天皇、第55代文徳天皇、第75代崇徳天皇、第81代安徳天皇、第84代順徳天皇と抜き出してみるとなるほどと思うのではないか。
天皇ではないけど聖徳太子もそうだ。
更に、怨霊として最も有名な第82代後鳥羽院(後鳥羽天皇)がもともと顕徳院だったとなると、ダメ押しのように感じられる。
孝徳天皇は難波長柄豊碕宮に都を移したところ、皇太子の中大兄皇子の反対にあい、中大兄皇子が祖父母や子供たち全員を連れて倭に戻ってしまい、新都に一人取り残された翌年に死去。暗殺説もある。
称徳天皇は孝謙天皇の重祚(ちょうそ)だけど、例の道鏡事件を起こした天皇だ。道鏡を重用して帝位まで譲ろうとして猛反発を食らって道鏡は失脚。その後は失意の内に亡くなった。
文徳天皇はお飾りの天皇として即位した後、伯父の藤原良房との争いに明け暮れ、31歳で急死。毒殺も疑われている。
崇徳天皇は保元の乱に敗れて讃岐に流され、舌を噛んだ血で呪いの経を書き、死ぬまで髪や爪を伸ばして最後は天狗になったともいわれる。三大怨霊の一人ともされる天皇だ。
安徳天皇はよく知られるように、源平合戦で西へ逃げる途中の壇ノ浦で二位尼たちとともに入水自殺をした。そのときはまだ7歳だった。
順徳天皇は父の後鳥羽上皇とともに承久の乱の責任を負わされて佐渡に配流。21年後に死去。絶食による自殺だったとされる。
聖徳太子の悲劇性については長くなるので省略するけど、『日本書紀』が必要以上に褒めて持ち上げているのは怪しくて、その点で仁徳天皇との共通性がある。
諡というのは死者の霊を鎮めたり慰めたりするために贈るもので、現代の戒名とはまったく性質を異にするものだということを理解しておく必要がある。
漢風諡号(かんふうしごう)は760年頃に淡海三船(おうみのみふね/大友皇子のひ孫)が神武から元明まで一括して付けたとされているのだけど(『釈日本紀』に引用された『私記』にそうあるだけ)、個人的にはそんなわけはないと思っている。
元号がそうであるように、こういうのは裏でもう決まっていることだ。

仁徳天皇がよくない死に方をしたのではないかと考えるもう一つの理由は、”若宮”で祀られているためだ。

若宮の始まりは仁徳天皇?

仁徳天皇を祀る神社は、若宮八幡と称するところが多い。
八幡神と習合した応神天皇の皇子(御子)なので若宮だと説明される。
しかし、これはおかしな話で、天皇は全員が天皇の子なのだからそれなら全員若宮で祀られていいはずなのにそうはなっていない。若宮と称されるのは仁徳天皇だけだ。
若宮というのはもともと、祟り神を鎮めるために祀られたものだった。
非業の死を遂げたり、人柱とされた人間が祟らないように大きな神格の下に置いて若宮として祀った。
若宮社というのはそういう性質の神社だということだ(名古屋総鎮守の若宮八幡社ももともとは若宮だった)。
仁徳天皇も恨みを持つような死に方をしたから若宮で祀られたと考えるのは突飛な発想ではない。
もしかすると、若宮信仰の始まりが仁徳天皇だったのかもしれない。
仁徳天皇(大鷦鷯尊)が殺されたとか祟ったとかいった話はどこにも書かれていない。
しかし、『古事記』や『日本書紀』が必要に以上に持ち上げ、仁徳という諡を贈ったことを考えると、何か事情があったと思えてならない。
悪いことをしたから殺されたというよりも、何らかの犠牲になったのだろうか。
怪しい感じというのは、仲哀天皇、神功皇后、武内宿禰のあたりからずっとあって、応神天皇、仁徳天皇の存在はその延長線上にある。
皇位継承争いといった単純な話ではなく(そんなことは常にあった)、もっと何かややこしいことが起きていたのだろう。内憂外患で、内側だけでなく外側の問題もあったはずだ。
大鷦鷯尊だけがどうしたこうしたということでもない。

八幡神と若宮

八幡神社の総本宮は大分県宇佐市の宇佐神宮(web)というのが通説となっている。
それは否定しないのだけど、八幡神(やはたのかみ)はずっとずっと古い根源神なので、八幡神の始まりを宇佐神宮などと考えるのは間違いだ。もちろん、八幡神は九州の地方神でもない。
八幡神と応神天皇の習合については応神天皇の項で書くとして、宇佐神宮の社伝によると欽明天皇時代の571年に宇佐の地に譽田天皇が現れたので祀ったのが始まりとする。
『延喜式』神名帳(927年)の豊前國宇佐郡(ぶぜんのくにうさのこおり)を見ると、八幡大菩薩宇佐宮、比賣神社、大帯姫廟神社の三社があり、それぞれ名神大社となっている。
現在の宇佐神宮はこの三社をまとめて、八幡大神、比売大神、神功皇后を祭神としているのだけど、平安時代中期はそれぞれ独立して祀っていたことが分かる。
ここに仁徳天皇(大鷦鷯尊)の名はない。

宇佐神宮の境内摂社に若宮神社があり、ここで大鷦鷯命を祀っている。
社伝によると、平安時代前期の824年に八幡大神が現れて自分の子女を祀る社を建てよと託宣を下したのが始まりという(創建は852年)。
これが事実であれば、大鷦鷯命を祀る若宮の始まりはこのときといういい方ができるかもしれない。
若宮八幡が全国的に祀られるようになるのは鎌倉時代以降のことだろうと思う。
それは石清水八幡宮(web)と鶴岡八幡宮(web)の存在が大きい。

石清水八幡宮(京都府八幡市)は859年に大安寺(奈良県奈良市/web)の僧の行教(空海の弟子)が宇佐八幡宮の神託を受けて清和天皇が石清水寺の境内に祀らせたのが始まりとされる。
若宮がいつ祀られたのかはよく分からないのだけど平安時代にはすでにあったという。
若宮が全国に広まったのは鎌倉幕府と鶴岡八幡宮のためだ。
鶴岡八幡宮は鎌倉幕府を開いた源頼朝が建てたと思っている人が多そうだけど、もともとは河内源氏2代目の源頼義が前九年の役の戦勝祈願をした石清水八幡宮護国寺(もしくは壺井八幡宮)から勧請して鎌倉の由比郷鶴岡に鶴岡若宮として祀ったのが始まりだ。
ただしこれは、八幡神を新たに祀るという意味での若宮だっただろうから、源頼義や頼朝が仁徳天皇(大鷦鷯命)を意識していたわけではないはずだ。
それが時代が進むにつれて、若宮八幡といえば八幡の若ということで仁徳天皇を祀るというように変化していったのだろう。
つまり、一般民衆レベルで仁徳天皇を祀る目的で若宮や若宮八幡が建てられたわけではないということだ。
もともあった若宮も、八幡神が流行った中世以降に若宮八幡と名を変えて仁徳天皇を祀るようになっていった。
ただ、上に書いたように仁徳天皇(大鷦鷯命)が怨霊化する可能性があってそれを鎮めるために若宮として祀ったのが始まりという可能性は捨てきれない。

記紀による死の違い

大鷦鷯尊の死については『古事記』と『日本書紀』ではけっこう違っている。
『古事記』は丁卯年八月十五日に83歳で崩御と書いている。
仁徳天皇時代は4世紀末から5世紀初め頃と考えられているので、丁卯年が正しければ427年ということになるだろうか。その前後でいうと、367年か487年なので早すぎるか遅すぎる感じがする。
83歳というのはけっこうリアルな年齢だ。
一方の『日本書紀』は即位87年の春正月戊子朔癸卯に崩御といっている。
これは399年1月16日に当たり、年齢としては110歳ということになる。
年も年齢も季節も違うということは何か理由があるのだろう。
どちらも信用できないといえばそうなのだけど。

違和感だらけの皇子問題

大鷦鷯尊亡き後、帝位を継いだのは伊弉本和気王/去来穗別天皇(イザホワケ)というのは記紀で共通している。
母親は大鷦鷯尊の皇后の石之日賣命/磐之媛命(イワノヒメ)で、漢風諡号でいうと履中天皇(りちゅう)ということになる。
立太子について『古事記』は何も書いていないものの、『日本書紀』は大鷦鷯天皇の即位31年に15歳で皇太子となったと書いている。
しかしこれはあまりにも現実離れした話だ。
110歳まで生きした先代の譽田天皇の崩御後に菟道稚郎子と3年も帝位を譲り合って、即位2年に磐之媛命を皇后に立てて、即位31年に長子が15歳では計算が合わない。一体何歳のときの子という設定なんだ。
しかも、この後立て続けに住吉仲皇子、瑞齒別天皇、雄朝津間稚子宿禰天皇が生まれたことになっている。
このうち、3人が即位したというのもちょっと信じがたい。これまでの親子間相続の慣例を破って突然兄弟相続になって、それを同母兄弟で独占したとなれば異常事態だ(住吉仲皇子は去来穗別の妃候補を寝取ったのがバレて殺された)。
履中、反正、允恭の在位期間は短く設定されているものの、それでもだいぶ無理がある。
嘘に嘘を重ねた結果、どう頑張っても辻褄が合わなくなってしまっている。
もしかすると最初からそのあたりの正確性についてはあまり考慮していなかったのかもしれない。
『日本書紀』は歴史を伝えることと歴史を隠すことの相反する命題を抱えていたので、作者たちもそれは苦労したに違いない。
三兄弟の後について少し書いておくと、允恭の後は允恭の子の安康天皇(穴穂天皇)が継ぎ、その安康天皇は眉輪王に暗殺され、その眉輪王や天皇候補を殺しまくって即位したのが雄略天皇という流れになる。
どこまで本当かは分からないけど、血なまぐさすぎて気が滅入るような話だ。

もう一人の皇子の行く末

大鷦鷯尊と皇后の磐之媛命との間の四兄弟の他に、妃の日向髪長媛(ヒムカノカミナガヒメ)との間にもう一人皇子がいたと記紀はいう。
『古事記』は波多毗能太郎子(ハタノオオイラツコ)、または大日下王(オオクサカ)、『日本書紀』は大草香皇子とする人物だ。
この皇子も数奇な運命を辿った。
安康天皇(允恭天皇の第二皇子で大鷦鷯尊の孫)が弟の大泊瀬稚武皇子(後の雄略天皇)と大草香皇子の妹の草香幡梭姫皇女(ハタビノヒメ)を婚姻させよるとしたとき、大草香皇子は承諾して証として家宝の押木珠縵(おしきのたまかつら)を使者の根使主(ネノオミ)に渡したのに、根使主はその押木珠縵が欲しくなって自分のものにするため、大草香皇子は承諾しなかったと嘘の報告をした。その結果、大草香皇子は安康天皇によって殺されてしまう。
話はここで終わらない。
安康天皇はあろうことか、大草香皇子の妻だった中蒂姫(ナカツタラシヒメ/『古事記』では長田大郎女(ナガタノオオイラツメ))を皇后(正妻)にしてしまう。最初からそれが狙いだったのではないかと疑ってしまうような行為だ。
父を殺され、母を奪われた大草香皇子と中蒂姫の子の眉輪王は恨みを募らせ、酒に酔って寝ていた安康天皇を刺し殺してしまう。そのとき眉輪王は幼年だったと『日本書紀』はいう。
更に殺人の連鎖は続き、今度は大泊瀬稚武皇子(雄略天皇)がその眉輪王を殺す事態になる。
円大臣(ツブラノオオオミ)の家に逃げ込んだ眉輪王を円大臣もろとも焼き殺してしまったというのだ。
こうして大草香皇子の後裔はここで途切れることになった。

仁徳はいなかった可能性

仁徳に相当する人間は二人いたのではないか。それが入れ替わって表と裏になったのではないかというここまでの推測をひっくり返すようだけど、仁徳天皇は実在しなかったという可能性についても考えてみたい。仁徳朝などというものもなかったかもしれない。
そう思わせる理由の一つは『新撰姓氏録』(815年)にある。
誉田天皇(応神天皇)の後としては皇子の稚渟毛二俣王や大山守王がいるものの、大鷦鷯尊(仁徳天皇)の後裔は載っていない。
天皇以外の傍流(分家)がいなかったといえばそうなのかもしれないけど、皇子の履中、反正、允恭の後裔もいないとなると、ちょっとどうなんだろうと考えてしまう。
『新撰姓氏録』に載る天皇後裔は飛びとびだからいなくておかしくないといえ、仁徳と三皇子がごっそり抜けているとなると少し違和感がある。
平安時代前期の京、畿内にいなかっただけで地方にいたということはあるか。

仁徳天皇の実在性を疑わせるもう一つの理由は八幡信仰との関わりにおいてだ。
上にも書いたように、八幡神とされた応神天皇(誉田別尊)の御子神なので仁徳天皇を若宮八幡で祀ったというのが通説となっているのだけど、では若宮八幡の総本社はどこかとなるとはっきりしない。
今現在、全国には多くの若宮八幡社があり、その大部分は仁徳天皇を祀るとしている。
しかし、三大八幡ともされる宇佐神宮、石清水八幡宮、鶴岡八幡宮のどこでも仁徳天皇を祀っていない。
八幡神と若宮を切り離したといえばそうなのだけど、それにしても八幡の若だから若宮八幡と呼ばれたとすると、八幡宮における仁徳天皇の冷遇ぶりに違和感を覚える。あるで存在していなかったような態度にも感じられる。

仁徳天皇はやはりいた

結局のところ仁徳天皇はいたのかいなかったのかでいえばそれに相当する人はいたはずということになる。
少なくとも応神天皇(に相当する人物)と雄略天皇(に相当する人物)との間をつなぐ人間が必要不可欠なわけで、それをいなかったとしてしまうと生物学的につながらなくなってしまう。
ただ、仁徳天皇の皇子で即位したとされる履中、反正、允恭あたりはかなり怪しいし、怪しさでいえば仲哀、神功皇后あたりからすでにだいぶ怪しい。もっといえば、景行から日本武尊のあたりからすでに怪しさ全開で、それを言い出したらきりがない。
大事なのは、『日本書紀』が語る物語が日本国の正史とされたという事実だ。それは充分に重みがある。
1300年以上もそれが通ってきた今、そのことを否定することはできないし、否定しても意味がない。
とはいえ、事実は事実としてあるのもまた事実だ。
応神、仁徳あたりの時代は大きな転換期で、様々な勢力が入り乱れてそれぞれの思惑がぶつかった時代だったのだろう。いろんなことがありすぎて記紀にはとても書き切れなかったに違いない。
もし仁徳天皇について何か意見を持ったり語ろうとするのであれば、今一度『古事記』、『日本書紀』を丁寧に読み直すことをおすすめしたい。民の税を免除した聖帝というだけではないことが書かれているのを知ることになる。
天皇を一般人レベルで語るのは間違いだと個人的には思っているのだけど、天皇も人の子で、正しいだけの存在ではないということはできる。
仁徳天皇って本当はどんな人だったんだろうなと思いをはせることは無駄ではない。
忘れないでいて思い出すことが供養となり、鎮魂にもなる。

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