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冨士社(長久手村)

富士祠の生き残り

読み方ふじ-しゃ(ながくて)
所在地長久手市富士浦602番地 地図
創建年1617年?(元和3年)
旧社格・等級等旧村社・十三等級
祭神木花咲耶姫命(コノハナサクヤヒメ)
アクセスリニモ「はなみずき通駅」から徒歩約17分
駐車場あり(神社右側を回り込んだ裏手)
webサイト
例祭・その他例祭 10月15日
神紋
オススメ度
ブログ記事長久手の御旗山富士社を訪れる
長久手市の冨士社を再訪する
長久手市の景行天皇社は三度目

わかんむりの冨士社の意味とは

 出だしから細かい話で申し訳ないのだけど、”わかんむり”か”うかんむり”かで、引っ掛かっている。
『愛知縣神社名鑑』に”冨士社”とあるので、正式名というか登録名は”わかんむり”の冨士社のようだ。
 しかし、神社へ行くと冨士と富士の表記が混在しており、江戸時代の書でも冨士だったり富士だったりするので、どっちが本当なんだよと思ってしまう。
 あまり気にするなと言われそうだけど、気になるものは気になる。

 たとえば、山梨県の北口本宮冨士浅間神社(公式サイト)や静岡県の東口本宮冨士浅間神社(公式サイト)は”わかんむり”を使っているし、愛知県犬山市の尾張冨士大宮浅間神社(公式サイト)もやはり”わかんむり”だ。
 山の富士山は”うかんむり”だからこちらが正字にも思えるのだけど、あえて”冨士”としているのには何か理由があったはずだ。
 ”うかんむり”ではなく”わかんむり”にするということは点を付けないということで、その理由は諸説あるのだけど、どれも後世の後付けのような説なので信じられない(点を人や神に見立てるやつだ)。
 何かもう少ししっかりした理由がある気がする。”ウ”ではなく”ワ”でなくてはならなかった理由だ。
 冨を分解すると、”ワ”、”一”、”口”、”田”になる。
 何かありそうでモヤモヤするけど、よく分からないので話を先へ進めることにする。

江戸時代創建は信じない

 この冨士社について調べると判を押したように1617年創建という情報に当たる。
 しかし、それは正しくないと個人的には考えている。
 その理由の一つは、『寛文村々覚書』(1670年頃)でこの神社が”前々除”(まえまえよけ)になっていることだ。
 これは1608年に尾張国で行われた備前検地のときすでに除地(よけち)だったということで、少なくともそのときすでに神社があったことを意味する。
 1608年の時点ですでに税などを免除する除地になっているということは、それよりだいぶ以前からあった可能性が高い。
 それを裏付けるような話が『張州府志』(1752年)と『尾張徇行記』(1820年)に書かれている。

冨士祠 在長久手村、古有祠九区、今僅存一区

『張州府志』

祠官青木重太夫書上ニ、冨士浅間祠境内南北八十間東西百四十間御除地、此祠創建年暦ハ不知

『尾張徇行記』

 かつて長久手村には9つの冨士(浅間)祠があったのだけど、江戸時代中期の1752年までにわずか1つが残るだけになっていて、その冨士社(冨士浅間社)祠官の青木重太夫の書上には創建年は不明とある、ということだ。
『尾張名所図会』(1844年)も同じようなことを書いている。
『寛文村々覚書』(1670年頃)にも「浅間ハ 当村祢宜 重太夫持分」とあるので、江戸時代前期ですでに冨士祠(浅間)は1社のみだったことが分かる。
 この社の創建が1617年だったとしたら、”此祠創建年暦ハ不知”ということにはならないはずだ。わずか50年ほど前のことだから、まだ生きている人もいただろう。

 では、1617年創建という話がどこから出てきたのかだ。
 一つの可能性として、1934年(昭和9年)に出版された『長久手村誌』(淺井菊壽編)が考えられる。
 この中で、「駿州冨士浅間社先達重太夫、元和3年(1617)巳六月当社を創建す」と書かれている。
 浅井家に伝わっている話なのか、神社の社伝なのかは分からないのだけど、今出回っている情報の元はこれかもしれない。
 しかし、上で見てきたように、1608年にはすでにあったはずで、江戸時代までに9社あった冨士祠が1社になっていたことからしても、創建あるいは創祀は江戸時代以前に遡ると考えられる。
 この冨士浅間社の先達・重太夫というのは江戸時代を通じて祠官だった青木重太夫(代々)だろうし、1617年に何かを行ったのだろうけど、そのときに駿河から浅間を勧請して祀ったのが始まりというのはやはり違うように思う。
 ”駿州冨士浅間社先達”と長久手村とのつながりはよく分からない。

牧家と冨士

『長久手市史』の中で『那古野府城志』が書いていることとしてこんな話を紹介している。
 牧下野守義長の息子の与三左衛門尉長清は愛知郡長湫(ながくて)の人で、前津小林四千石を領したので城を築いてそちらに移っていき、富士山に七度登って願掛けをしようとしたものの三度で断念し、近くに富士塚を七丘築いてそこに登って代わりにしたというものだ。
 このあたりの話は名古屋編の富士浅間神社(大須)三輪神社(大須)のところでも書いたのだけど、この牧長清がもともと長久手(長湫)の人だったというのは知らなかった。
 牧長清は戦国時代の人で(1570年没)、織田信長の妹を正室にしていた。父の牧長義も信長の父の信秀の妹を妻にしているので、この頃の牧家は織田家とかなり近しい関係だったようだ。
 牧家と富士のつながりはよく分からないのだけど、長清が富士に対して思い入れを持っていたと推測することはできる。
 長久手に9つあったという富士祠も、この牧家が関わっているかもしれない。
 牧家は景行天皇社の修造のところでも名前が出てきているから、そちらとの関わりもある。
 1617年に冨士社を創建したという青木重太夫と牧家は何か関係があるのではないかと思う。

長久手合戦と富士

『寛文村々覚書』に「仏ヶ根山ニ長久手合戦之刻、権現様御馬立場在」とあるのが、現在冨士社がある場所に当たる。
 この当時は仏ヶ根山と呼ばれていたようだ。
 長久手合戦を簡単に説明すると、1582年に信長が本能寺の変で亡くなった後、後継者の座を巡って秀吉と信長次男の信雄の間で戦いが起こり、信雄が家康に助力を求めたことで秀吉と家康の対決という構図になった。
 一般的には小牧長久手の戦いと呼ばれている。
 膠着状態を脱するべく、先に動いたのは秀吉側だった。家康が留守の岡崎を密かに攻めようと出発したのを嗅ぎつけられて白山林の戦いで壊滅的な打撃を受けた。
 その後。舞台は長久手に移る。
 桧ケ根の戦いで秀吉側が一矢報いたものの、決着は付かず、最終的には秀吉が和睦を申し入れて信雄がそれを受けることで終結に至った。
 その舞台の一つとなったのが、ここ仏ヶ根山で、家康方がこの小山に陣取って金扇の馬印を立てて待ち構え、それを見た秀吉方の堀秀政隊は退却していき、そのことで後に御旗山と呼ばれるようになった。
『尾張名所図会』は富士ヶ根といっているので、そうとも呼ばれたようだ。
 この冨士祠が江戸時代以前からあったとすると、長久手合戦のときにはすでにあった可能性が高い。
 それはもしかすると、富士祠ではなく別の神を祀る祠だったかもしれない。
 1617年に青山重太夫がそれを富士祠としたとも考えられる。

 戦国時代というと、大名や武将は何をやっても許されるようなイメージを持っているけど、そんなことはない。
 彼らはそんな暴力集団ではないし、それぞれの領地の管理責任者でもあるのだから、他の村や村人に対して無茶苦茶するということもない。
 いくら戦争とはいえ、他人の土地なのだからそれなりに仁義は通さないといけない。好き勝手は許されないということだ。
 陣を張るにしても許可を取るか話し合いはあったはずで、仏ヶ根山にしてもそうだっただろう。
 それはつまり、長久手の責任者とか牧家と家康は友好関係、または協力関係にあったということだ。
 秀吉も尾張出身だからもちろん尾張の王は認めていたのだろうけど、三河の王である家康(松平)と尾張の王は手を結んでいたはずだ。
 そうでなければ家康が天下を取るなどということはあり得ない。
 こういう裏つながりの関係性はあまり表には出ないけど、どの時代でも必ずある。
 遡れば武田信玄も絡んでくることで、はっきりとは見えないのだけど、何か秘密めいた鍵が見え隠れしている。
 尾張の片隅の長久手にある小さな冨士社からそこまで話を広げると笑われそうだけど、歴史というのは意外なところで意外なつながりがあって、真相を知ると笑えなかったりする。

長久手城のこと

 長久手合戦の話が出たのでついでに長久手城について少し書いておく。 
 長久手城は景行天皇社と冨士社の南、城屋敷2408番地(地図)あたりにあった。
 今は地形が変わってしまってよく分からないのだけど、かつては香流川や香桶川、天王川に囲まれていて、守りに適した場所だったのだろうと思う。
 築城はわりと古く、永享年間(1429-41年)あたりと考えられている(もっと古いとも)。
 大きさは史料によってまちまちながら、2,300平米とか2,700平米くらいで、外周の土塁まで入れると6,000平米くらいあったともいわれる。
 中央の堀を挟んで西と東に分かれていたようだ。
 城主として左近太郎家忠、斎藤平左衛門、加藤太郎右衛門忠景などの名が伝わっている。
 加藤忠景は家康側についており、長久手合戦では日進の岩崎城の丹羽氏重を助けに行って戦死し、そのときに長久手城も焼かれて廃城になったとされる。
『寛文村々覚書』は「古城跡 先年、加藤太郎右ヱ門居除之由、今ハ百姓屋敷ニ成ル」とし、『張州府志』は「長湫城 加藤太郎右衛門居之、今為民家 今村東城屋敷ト云所ニアリ其跡畠二反七畝歩アリ」と書いている。
『郷土ながくて』がかなり詳しく書いているので、興味ある方はそちらをお読みください。

冨士社と周辺の変遷

『愛知縣神社名鑑』は「明治5年7月28日、村社に列格した。」と書いている。
 おやっ? と思う。
 というのも、同年同日、長久手村の景行天皇社も村社に列格しているからだ。
 一村に村社は一社というのが原則で、一村に二つの村社というのはあまりない。例外的な措置ということだ。
 それだけこの冨士社が特別だったということで、考えられるとすれば長久手合戦で家康ゆかりの地だったからか、そもそもこの土地または社が特別なものだったかだ。
 両社は西浦と東浦それぞれの神社だったとはいえ、距離はわずか370メートルほどしか離れていない。村人の利便性を考慮してのものではない。
 やはりこの神社は何かあると思わざるを得ない。
 その他、村にあった熊野社(権現)、金神(氏神)、山神4社は明治5年に景行天皇社に合祀された。

 冨士社は昭和45年(1970年)に大改修をしたものの、昭和60年(1985年)に焼失(何があったんだ?)。
 現在の社殿は平成3年(1991年)に再建されたものだ。

 長久手村の絵図や変遷については景行天皇社のところで書いたので、ここでは繰り返さない。
 冨士社周辺だけに絞って見てみると、このあたりは1980年代まであまり大きな変化がなかったようだ。
 今昔マップの1992-1996年でがらりと様子が一変しているから、1990年の初めあたりに区画整理されて家が増えていったらしい。
 2005年に開通したリニモの「はなみずき通駅」までは歩いて15分から20分くらいだから、やや微妙ではあるけれど、住宅地としてはなかなか悪くなさそうだ。
 歩き時間や乗り換え時間を入れても、栄や名駅まで1時間以内で通えるのは魅力だ。

 以前撮った写真と今回の写真を見比べて気づいたのだけど、登っていく石段の途中にあった古い鳥居がなくなっていた。
 老朽化して撤去したのかもしれないけど、あの鳥居は神明鳥居だった。
 戦後の再建で社殿や鳥居の形式はぐちゃぐちゃになってしまったのだけど、冨士社なのに神明鳥居なんだと、ちょっと引っ掛かった。
 長久手の神社は途中で神明が被さってきているところがあって、この冨士社もそんな影響を受けたのかもしれない。
 


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