いくつもの顔を持つ神
大物主神というと、第10代崇神天皇時代に流行った疫病の元になった祟り神で、その後三輪山に祀ったという話はよく知られている。 しかし、その前段階の話はあまり知られていないように思うけどどうだろう。 大物主神と大国主神は同一なのか別なのか? もともと皇孫を永遠に守るように命じられた大物主神はどうして祟り神となったのか? 大己貴神の前に現れておまえの幸魂奇魂だといった神は本当に大物主神なのか? 大物主と事代主神の系譜の重なりは何を意味するのか? そのあたりを紐解くべく、まずは『日本書紀』から見ていくことにしよう。
『日本書紀』での初登場場面
大物主神の名前が最初に出てくるのは大己貴神の国作りの場面なのだけど、それが唐突すぎて戸惑いを感じる。 『日本書紀』八段は高天原での乱暴狼藉によって葦原中国に追放された素戔鳴尊(スサノオ)が八岐大蛇(ヤマタノオロチ)を退治する話で、退治がすんで奇稻田姫(クシイナダヒメ)と婚姻し、ふたりの間に大己貴神(オオナムチ)が生まれ、素戔嗚尊は根の国に去った(遂就於根国矣)というのが本文の内容になっている。 八段の一書は第六まであって、素戔嗚尊の異伝や素戔嗚尊が去った後の話を補足している。 その中の一書第一では五世孫を大国主神(オオクニヌシ)とし、一書第二では六世孫を大己貴命(オオナムチ)とし、一書第六は大国主神の別名として、大物主神、国作大己貴命(クニツクリシオオナムチ)、葦原醜男(アシハラシコオ)、八千戈神(ヤチホコ)、大国玉神(オオクニタマ)、顯国玉神(ウツシクニタマ)を挙げる。 一体どれを信じればいいのか。 本文は素戔嗚尊の子を大己貴神としているのに、異伝では何世か後の子孫とし、あげくには大国主も大己貴も大物主さえ全部ひとりのことをいっているのだとしている。 ここで気になるのは、大国主は”神”で、大己貴は”命”になっている点だ。大物主もやはり”神”だ。 意識して書き分けているなら意味があるのだろうけど、その違いはよく分からない。 更に混乱はこの後も続く。
大己貴の幸魂奇魂は大物主神?
一書第六は大己貴命と少彦名命(スクナヒコナ)の国作りの話なのだけど、その途中で少彦名命が常世郷(常世国)へ行ってしまって途方に暮れているところに海の彼方から光りながら神がやってきて、吾がいなければおまえの国作りは成らなかっただろうといい、大己貴命がその神に汝は誰かと問うと、汝の幸魂奇魂(さきみたまくしみたま)だと神は答えた。 なるほど幸魂奇魂かとすぐに納得した大己貴命は、その神にどこに住みたいかと訊ねると三諸山(みもろやま)に住みたいというので宮を作ったとする。 これが大三輪(おおみわ)の神で、この神の子に甘茂君(カモノキミ)、大三輪君(オオミワノキミ)、また姫蹈鞴五十鈴姫命(ヒメタタライスズヒメ)がいるとも書いている。 ここでは大物主神の名は出てこないものの、三諸山(三輪山)の神なので大物主神のことだろうというが一般的な解釈だ。 ただ、これは一考の余地があるので後ほどもう少し考察したいと思う。
あと、姫蹈鞴五十鈴姫命といえば初代神武天皇の皇后なので、それが本当だとすると大己貴命が天皇の母方の祖という位置づけになる。 ただ、別伝承として事代主神が三嶋の溝樴姫(ミゾクイヒメ/玉櫛姫)を娶って生まれたのが姫蹈鞴五十鈴姫命という系譜も紹介しているので、このあたりは全体的にいろいろと混乱が見られる。 幸魂奇魂についても後回しにしたい。
国譲りに従ったカシラのひとりとして
時は流れて国譲りのときがやってきた。 『日本書紀』九段一書第二は少し変わった異伝で、ここでも大物主神が意外な形で出てくる。 經津主神(フツヌシ)と建御雷神(タケミカヅチ)の説得(脅しとも)を一度は拒否した大己貴神だったが、高皇産靈尊(タカミムスビ)が厚遇を約束したことで納得し、国譲りを承諾した。 その去り際に岐神(フナト/クナト)を自分の代わりとして薦め、經津主神は岐神を先導役にして各地を巡り、逆らうものは斬り、従うものには褒美を与えた。 そのとき従ったカシラ(首渠)の中に大物主神と事代主神がいたと『日本書紀』はいっている。つまり、この異伝では大己貴神と大物主神は別であり、事代主神は大己貴神の子ではないということになる。 高皇産靈尊のもとに引き出された大物主は、裏切らないようにと高皇産靈尊の娘の三穗津姫(ミホツヒメ)と婚姻させられ、八十萬神(やそよろずのかみ)を率いて永遠に皇孫(すめみま)を守るよう命じられたという。
大物主神は崇神天皇に祟ったのか?
次に大物主神が出てくるのが有名な崇神天皇時代の疫病流行のところだ。 即位5年に疫病が流行って民の半分以上が死んでしまい、心を痛めた崇神天皇は天神地祇に祈願するも効果はなく、宮中に祀っている天照大神(アマテラス)と倭大国魂(ヤマトノオオクニタマ)の威が強すぎるのではないかと思いつき外に出して祀ることにした。 当初、天照大神は倭(やまと)の笠縫邑(さかぬいむら)に祀ったといっている。 日本大国魂神に関しては皇女の渟名城入姫(ヌナキノイリヒメ)につけたところ、皇女は髪が抜け落ちて祀ることができなかったという。 まずこの時点で崇神天皇は天照大神が天忍穂耳尊(アメノオシホミミ)に下した宝鏡奉斎の神勅(同床共殿の神勅)を破ったことになる。 天照大神が与えた鏡(八咫鏡)を自分(アマテラス)だと思って床を同じくして祀れというものだ。
記事は即位7年に飛び、まだ事態は収まらなかったようで、崇神天皇は八十萬神(やそよろずのかみ)に占いで問いかけた。 するとひとりの神が現れ、天皇よどうしてそんなに憂うのかと言うので、あなたはどこの神ですかと訊ねたところ、自分は倭国(やまとのくに)にいる大物主神だと答えた。 これは大己貴命の国作りのときに出てきた”汝の幸魂奇魂”と名乗り、その後、三諸山に住むと決めた大三輪の神のことというのが通説となっている。崇神天皇のところで出てきた神が倭国の大物主神を名乗ったからそうだろうということだ。 しかし、更に遡ると大己貴命が国譲りをしたとき大物主神は天津神に従うことにして高皇産靈尊の娘と婚姻して天孫を永遠に守るようにと命じられている。だから、普通に考えれば大物主神は疫病をもたらすようなことはしないし、天孫である崇神天皇を無条件で守らなければいけない立場にある。 考えられるとすれば、崇神天皇が天照大神の神勅を破ったことが原因と言いたかったのかもしれないけど、話としては矛盾している。
神の言葉を得た崇神天皇は沐浴齋戒して神を祀ったのに効果が表れない。 すると夢の中に大物主神を名乗る神が現れ、天皇よまだ憂うのか。国が治まらないのは吾の遺志によるものだ。吾の児の大田々根子(オオタタネコ)に吾を祀ることを命じれば国は平穏になり、外国もおのずと従うだろうと告げた。 それからしばらく経ったある夜、倭迹速神淺茅原目妙姫(ヤマトトハヤカミアサヂハラマクハシヒメ)、穗積臣(ホヅミノオミ)の祖の大水口宿禰(オオミクチスクネ)、伊勢麻績君(イセノオミノキミ)の3人の夢に大物主神が出てきて言うには、大田々根子命を大物主を祀る主とし、市磯長尾市(イチシノナガオチ)を倭大国魂神(ヤマトノオオクニタマ)を祀る主とすれば天下は治まると告げたので天皇に報告すると天皇は喜び、早速探したところ、すぐに茅渟縣(ちぬのあがた)の陶邑(すえむら)で見つかった。 3人の夢の前に探させなかったのかという指摘は置いておいて、大田々根子におまえは誰の子かと訊ねると、父は大物主大神で母は陶津耳(スエツミミ)の女(娘)の活玉依媛(イクタマヨリヒメ)ですと答えているのだけど、亦云(またいわく)として奇日方天日方武茅渟祇(クシヒカタアマツヒカタタケチヌツミ)の女ですとも書いていて、系譜についての異伝があったことが分かる。 奇日方天日方武茅渟祇は鴨王(かものきみ)のことともされ、このあたりの系譜は事代主神と重なる部分が多くてよく分からない。 なにはともあれ、大田々根子が見つかったので、物部連(もののべのむらじ)の祖の伊香色雄(イカガシコオ)を神班物者(かみのものあかつひと)にしようと占ったら吉と出て、他の神を祀ることを占ったら吉と出なかったといっている。 その後、伊香色雄が八十平瓮(やそひらか)を作って神を祀り、大田々根子を大物主神を祀る主とし、長尾市(ナガオチ)を倭大国魂神を祀る主とし、八十萬群神(やそよろずのもろかみ)も祀ったことでようやく国は鎮まったのだった。
この一連の話をどう捉えるべきかを考える前に『古事記』その他がどう書いているか見ておくことにしよう。
『古事記』に前段部分はない
『古事記』は大国主神が国作りをしているところで何故か急に大穴牟遅(オオアナムチ)という名に変わり、すぐにまた大国主神に戻っている。どうしてなのかよく分からないまま話を進めると、共に国作りをしていた小名毘古那神(スクナヒコナ)が常世国に行ってしまってひとりでどうしたらいいのかと嘆いていると、海から光る神がやってきて我を能く治めれば共に国作りをするしそうでなければ国も治まらないといい、大国主神がどこに祀ればいいのか訊ねると倭の青垣の東の山の上に祀れと告げた。 ここでも名前は名乗っていないものの、御諸山の上に坐す神ということで大物主神と解釈されている。
崇神天皇のときに疫病が流行って民が尽きそうになったときに大物主神が現れるという展開は同じなのだけど、『日本書紀』と比較するとかなり簡略した話になっていて、系譜の違いも見られる。 崇神天皇は神床(かむとこ)に坐していると大物主大神が夢に現れて、意富多々泥古(オホタタネコ)に我を祀らせれば国は平安になると告げた。 そこで使者(駅使)を四方にやって探させたところ河内の美努村(みののむら)で見つかり、汝は誰の子かと問うと、大物主大神が陶津耳命(スエツミミ)の女の活玉依毘売(イクタマヨリビメ)を娶って生んだ櫛御方命(クシミカタノミコト)の子の飯肩巣見命(イヒカタスミノミコト)の子の建甕槌命(タケミカヅチノミコト)の子だと答えている。 ん? と思うのだけど、とりあえず読み進める。
天皇はこれで天下は平和となり民も栄えるだろうと詔し、意富多々泥古命を神主として御諸山に意富美和之大神(オホミワノオオカミ)を祀った。 更に伊迦賀色許男命(イカガシコオ)に天八十平瓮(あめのやそひらか)を作って天神地祇を祀り、宇陀(うだ)の墨坂神(すみさかのかみ)に赤色の楯矛を祀り、大坂神に黒色の楯矛を祀り、坂の御尾神と河瀬神を祀ると疫病は治まり、国は平安になったという。
『古語拾遺』と『先代旧事本紀』では
『古語拾遺』は、「大己貴神 一名大物主神 一名大国主神 一名大国魂神者 大和国城上郡大三輪神是也」と、 大己貴も大物主も大国主も同じ神として、大和(倭)の大三輪の神としている。 大国主の国作りのところで幸魂奇魂云々という話はなく、崇神天皇のところでも大物主や大田々根子は出てこない。
『先代旧事本紀』は概ね『日本書紀』に準じているのだけど一部違いもある。 経津主神と武甕槌神によって大己貴神の国譲りは成り、その後従った神として大物主神と事代主神の名を挙げ、 高皇産霊尊の娘の三穗津姫を妻として皇孫を永く守れと命じられたというのは『日本書紀』九段一書第二の丸写しだ。 大己貴神は素戔烏尊と奇稲田姫の子とするのは『日本書紀』九段本文と同じなのだけど、別名として八嶋士奴美神、大国主神、清之湯山主三名狭漏彦八嶋篠、清之繋名坂軽彦八嶋手命、清之湯山主三名狭漏彦八嶋野の名を挙げるのは独自の伝承だ。 ”清之湯山”(すがのゆやま)というのは地名だろうか。”八嶋”の部分が名前だろう。ヤシマヌだったり、ヤシマジだったり、ヤシマデだったりする変化は何か意味があるのだろうけど、よく分からない。ウマシマジ(宇摩志麻遅命)・ウマシマデ(可美真手命)と似ている。 ここでは大己貴神の別名に大国主神を挙げているものの、大物主神を別名とはしていない。 大己貴神と少彦名神の国作りの場面では、海から光ながらやってきた神を”幸魂・奇魂・術魂としている点も独自のものだ。”術魂”(ばけみたま)というのは他には出てこない。 大己貴命の幸魂奇魂術魂を名乗る神にどこに住みたいか訊くと日本国(やまとのくに)の青垣の三諸山だというのでそこに宮を建てて祀ったというのは『日本書紀』、『古事記』ともに共通している。 結局、『先代旧事本紀』の中に大物主神は出てこない。 そもそも崇神天皇紀がごく少ない分量で、疫病が流行ったとか大田々根子がどうしたという話がまったく書かれていない。
『日本書紀』と『古事記』の違い
以上、ざっと大物主に関係する『日本書紀』、『古事記』その他の該当部分を見てきたのだけど、いくつか気になる違いがあるのでそのあたりをまとめておこうと思う。 まず、『日本書紀』の大己貴神と『古事記』の大国主神は本当に同一なのかという点についてだ。 大己貴神の別名として『日本書紀』も大国主神の名を挙げているし書かれている事柄も共通するから同じだろうとは思うのだけど、”大きな国の主”と”大いなる己の貴さ”とではずいぶん意味合いが違う。 『古事記』が別名として挙げる大穴牟遅神からすると、”オオナムチ”は縮まった読み方で、本来は”オオアナムチ”なのかもしれない。 ただ、だとしても『日本書紀』がいう大己貴神の名前の意味はよく分からない。 大己貴神/大国主がスサノオの子なのか数世代後なのかについては大国主のところで検討することにする。
名前と同一問題でいうと、大己貴神/大国主神と大物主神は同一なのかどうかということがやはり重要だ。 更にいえば、大三輪の神を大物主神と決めつけることも問題だと思う。 少なくとも、大己貴神/大国主神の前に現れて汝の幸魂奇魂を名乗る神は自分を大物主神とはいっていない。 崇神天皇時代に現れた神は自らを大物主神だと称していても、それが”本物の”大物主神とは限らない。 『日本書紀』は大田々根子が祀ったと書いているものの場所についての記述がなく、『古事記』は意富多々泥古命が神主となって御諸山に意富美和之大神を祀ったといっている。 このたりの微妙は言い回しというか違いが私の中に引っかかりとしてある。 大己貴命の前に現れた幸魂奇魂は三諸山に住みたいといったので宮を作って祀ったのに(『日本書紀』)、意富多々泥古命を神主として御諸山に意富美和之大神を祀った(『古事記』)というのは話として矛盾しないだろうか。 大己貴命/大国主時代にすでに三諸山(御諸山)に祀られていた幸魂奇魂が大物主神なら、崇神天皇時代にあらためて三諸山(御諸山)に祀る必要はないのではないか。あらためて大田々根子/意富多々泥古命を神主として祀り直したとも考えられるのだけど、『古事記』はそれを”意富美和之大神”といっていて、大物主神とはいっていない。 『古事記』と『日本書紀』をごちゃ混ぜにしてはいけないのは分かっているのだけど、モヤモヤは残る。
その他、小さな違いではあるのだけど、大田々根子が見つかった場所の違いがある。 『日本書紀』は茅渟縣(ちぬのあがた)の陶邑(すえむら)といい、『古事記』は河内の美努村といっている。 茅渟縣の陶邑は現在の堺市、河内国美努村は八尾市と考えられており、直線距離で10キロ以上も離れているから同じ地区とはいえない。 ただ、何度も書いているように『古事記』、『日本書紀』の舞台は設定なので、出てくる地名にはあまり固執しない方がよさそうだ。
大三輪側から見る大物主神
大三輪神イコール大物主説を大三輪側から見ていくことにする。 大物主神を祀る神社といえば、奈良県桜井市の大神神社(おおみわじんじゃ/web)が有名だ。三輪山を神奈備として祀ったことに始まる日本最古の神社のひとつともいわれる。 『延喜式』神名帳(927年)に「大神大物主神社 名神大 月次相嘗新嘗」とあり、古くから大物主神を祀っていたのは間違いない。 しかし、最初から大物主神を祀る神社として創建(創祀)されたと断言はできない。『古事記』、『日本書紀』にあわせて奈良時代に祭神を大物主神に変えた可能性はある。 そもそも三輪山をご神体としていたのに山の神の性格を持たない大物主神を祀るのは不自然だ。記紀も三諸山の神は光りながら海からやってきたといっている。 『日本書紀』の異伝では大己貴神が国譲りを承諾した後に従った神とされていて、出雲の神ではなく、大和国の地主神でもない、どこからよそから来た神ということになっている。 海から来たというと外国から来たと思いがちだけど必ずしもそうではない。別の土地から来た場合も渡来といえる。
大物主神を祀る神社
というわけで、大物主の正体はよく分からないのだけど、少なくとも平安時代前期までには大和国で祀られていたことは事実で、その信仰がかなり広がりを見せていたことは『延喜式』神名帳に大物主系神社が少なからずあることからもうかがい知れる。 中世になると山岳信仰とあいまって真言宗系の両部神道(りょうぶしんとう)の一つ三輪神道として発展していくことになる。 その後全国に勧請され、大神神社、神神社、三輪神社、美和神社などの社名で祀られるようになり、現在に到っている。 兵庫県尼崎市の大物主神社(web)のように大物主の名を冠するところもある。 香川県仲多度郡の金刀比羅宮(web)は明治の神仏分離令を受けてそれまでの金毘羅大権現を大物主神に改めたので新しいと思いがちだけど、もともと象頭山に大物主神が行宮(あんぐう)を営んだ跡を祀った琴平神社が起源という説もあり、意外と古いのかもしれない。 名古屋にも大物主系神社はわりと残っていて、大部分は三輪社系と金刀比羅系に分かれる。 中川区の三輪社(榎津)、中区の三輪神社(大須)が大神神社系の神社で、東区の金刀比羅神社(泉)、熱田区の金刀比羅社(白鳥)、中川区の金刀比羅社(西宮神社)、西区の金刀比羅社(菊井)が金比羅系神社だ。 名東区の痔塚神社、中川区の国玉神社・八劔社合殿でも大物主命を祀っているものの、その由緒はよく分からない。
三輪山伝承が伝える大物主神
大物主神の系譜の前に三輪山伝説について触れておいた方がよさそうだ。奈良県桜井市にある箸墓古墳(はしはかこふん)に関する話だ。 邪馬台国の女王卑弥呼の墓ではないかともいわれるこの古墳の被葬者は、公式には第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメ)の墓とされている。 倭迹迹日百襲姫は『日本書紀』崇神天皇紀に出てきており、未来を見通す力で四道将軍のひとり、大彦命(オオヒコ)を助け、のちに大物主神の妻になったという。 この神は夜にしか訪れず姿を見られないので朝までいてほしいと頼んだところ、神は蛇の姿になっていたので驚いて叫んだため大物主神は恥をかかされたと三輪山に帰ってしまい、後悔した倭迹迹日百襲姫は泣き崩れた拍子に箸が陰部を突いて絶命してしまった。 倭迹迹日百襲姫は大市に葬られ、人々は箸墓と呼ぶようになったというものだ。 この墓は、大坂山(奈良県北葛城郡の二上山?)から箸墓まで人々が並んで石を手渡しで運んで日中は人が作り夜は神が作ったという不思議な伝承が残っている。なんだかピラミッド建造を思わせるような話だ。 それにしても、これもまたおかしな話で、大物主神は高皇産靈尊の娘の三穗津姫を妻にもらって皇孫を永遠に守るように命じられたのに、山を下りて天皇の皇女の元に通って大丈夫なのかと心配になる。 そもそも、大物主神は国譲りのときの神で、第7代孝霊天皇皇女では世代が全然合わない。
大物主神と賀茂氏と事代主神
神と人との婚姻で大物主神絡みでいうと、神武天皇の皇后となった富登多多良伊須須岐比売命(ホトタタライススキヒメ)の話がある。 『古事記』がいうには、神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ)が神武天皇として即位したあと、皇后を探して見つかったのが富登多多良伊須須岐比売命、またの名を比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)だった。 母は三島湟咋(ミシマミゾクイ)の女の勢夜陀多良比売(セヤダタラヒメ)で、その美しさに惚れた大物主神は丹塗矢(にぬりや)に化けて勢夜陀多良比売が大便をしているときに溝から流れて女陰(ほと)を突き、驚いた姫がその矢を持ち帰って床の脇に置くとたちまち麗しい男になり、それが大物主神で、二人は結ばれ、富登多多良伊須須岐比売命が生まれたというものだ。
丹塗り矢伝承というと賀茂氏のものがよく知られている。 『釈日本紀』に引用された『山城国風土記』逸文に、賀茂建角身命(カモタケツヌミ)の女の玉依日賣(タマヨリヒメ)が瀬見の小川(鴨川)で遊んでいるとき川上から流れてきた丹塗矢を持ち帰って床に置いておいたら孕(はら)んで男子を生んだというものだ。 これが賀茂別雷命(カモワケイカヅチ)で、上賀茂神社(賀茂別雷神社/web)、下鴨神社(賀茂御祖神社/web)の創祀の話としても伝えられている。 ただし、ここでは丹塗矢に化けたのは火雷神(ホノイカヅチ)ということになっている。
神武天皇の皇后についていうと、『日本書紀』は事代主神と三嶋溝橛耳神(ミシマノミゾクヒミミ)の女の玉櫛媛(タマクシヒメ)を娶って生んだ子の媛蹈韛五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメ)だと書いている。 事代主神のところでも書いたのだけど、大物主神と事代主神は天皇も絡んで系譜で重なる部分が多く、賀茂氏や三嶋氏とも深くつながっている。婚姻関係などによって各氏族の歴史が混ざってしまったようだ。
酒の神としての一面
大物主神は酒の神ともされる。 大田々根子が大神の神を祀るにあたって酒が必要ということで、高橋邑の活日(イクヒ)を大神の掌酒(さかびと)に任命し、神酒を醸して崇神天皇に献上する際、こんな歌を歌ったと『日本書紀』はいう。
この神酒(みき)は我が神酒ならず 倭(やまと)成す 大物主の 醸みし神酒 幾久 幾久
これは自分(活日)が醸したのではなく大物主神が醸したのだといった内容だ。 ”醸(か)みし神酒”といっているから、古代の口嚼み酒をいっているのかもしれない。 このことから大物主神は酒の神ともされた。 酒蔵の軒先などに吊ってある杉玉は大神神社が起源といわれている。
大物主神の系譜について
ここであらためて大物主神の系譜について整理しておこう。 まず大己貴神の国譲りのときに従って高皇産靈尊の娘の三穗津姫と婚姻している。 二人の間の子は知られていないものの、奈良県磯城郡の村屋坐弥冨都比売神社(むらやにいますみふつひめじんじゃ/web)で大物主神とともに祀られている他、静岡県静岡市の御穂神社(web)や京都府亀岡市の出雲大神宮(web)では大国主神/大己貴命の后神として主祭神となっている。 それはつまり、三穗津姫の後裔を自認する一族がいたということを意味すると考えていい。 大己貴神の国作りのときに海から光りながらやってきた幸魂奇魂の神を大物主神とするならば、甘茂君(カモノキミ)、大三輪君(オオミワノキミ)、姫蹈鞴五十鈴姫命(ヒメタタライスズヒメ)などが後裔ということになる(『日本書紀』)。
崇神天皇時代に現れて自分を祀れといった大物主神についていえば、見つけ出された大田々根子は自分は大物主大神と活玉依媛の子だと答えている(『日本書紀』)。 『古事記』は、活玉依毘売(イクタマヨリビメ)の元に毎晩通ってくる男がいて妊娠したことを知った両親が誰か訊ねると娘は知らないと答え、それなら着物の裾に糸を刺しておけばいいと教え、その通りにすると糸が三巻だけ残り、糸を辿っていくと三輪山の社に着いたので三輪山の神だと分かったという話を書いている。 これが三輪の由来で、意富多々泥古命は神君(ミワノキミ)、鴨君(カモノキミ)の祖ともいっている。 しかし、『古事記』の中の意富多々泥古命は違う証言をしている。 上にも書いたように、自分は大物主大神が陶津耳命の女の活玉依毘売を娶って生んだ櫛御方命の子の飯肩巣見命の子の建甕槌命の子だと答えているのだ。 これは一体どういうことか。大物主神の子ではなく玄孫(やしゃご)だといい、しかも建甕槌命(タケミカヅチ)の子とは何事か。 建甕槌命は天之尾羽張(伊都之尾羽張)の子という話もあるのだけど、そもそも時代が全然違う。上に書いたように国譲りのときの神だ。 考えるほどに頭が混乱して分からなくなるので放置するしかない。 『日本書紀』は母についての異伝として奇日方天日方武茅渟祇(クシヒカタアマツヒカタタケチヌツミ)の女という話も紹介しており、これは鴨王(かものきみ)のこととされ、そうなると事代主神の系譜とも重なってきてますますややこしくなる。
子についての補足として、『古事記』は子の比売多多良伊須気余理比売が神武天皇の后になったといっているので、大物主神は神武天皇の義理の父ということになる。 大田々根子は賀茂氏や三輪氏などの祖とされながら子については知られていない。なんとなく女性なんじゃないかという気もする。
『新撰姓氏録』に載る関係者でいうと、大国主命五世孫 大田々根子命の後の神人(摂津国神別)と大物主神五世孫 意富太多根子命の後の三歳祝(未定雑姓大和国)がいる。 ここでも大国主と大物主は同一のような扱いになっている。 賀茂氏は必ずしもひとつの家から出た氏族というのではないのだろうけど、『新撰姓氏録』の中では賀茂県主(山城国神別)は神魂命(カミムスビ)孫 武津之身命(タケツヌミ)の後を自称している。
まとまりを欠く大物主神像
以上見てきたように、まとめようとしてもまとまらないのが大物主神だ。 一個人から発しているのか、総体名なのか、役職名なのかもよく分からない。単に多面性があるというだけでなく、時代を超え、役割を超えて現れる神出鬼没な性格を持った神だ。 事代主神と重なる部分は確かにある。賀茂氏との関係が深いのも間違いない。ただ、大国主神と同一とするのは最後まで抵抗がある。大国主神とはその性格も役割もまったく違っていて、大国主神の一面が大物主神というのも違う気がする。 これだけ書いてもまだモヤモヤが残ってしまったので、引き続き大物主神に関しては気に留めておくことにする。何か気づいたことなどあれば追記したい。
|