オオタタネコ《大田々根子》
オオタタネコ《大田々根子》 |
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『古事記』表記 | 意富多多泥古命 |
『日本書紀』表記 | 大田田根子 |
別名 | 大直禰子命 |
祭神名 | 大直禰子命・他 |
系譜 | (父)大物主神(子孫とも) (妻)美気姫 (子)大御気持命 |
属性 | 祭祀 |
後裔 | 三輪氏(神氏、大三輪氏、大神氏)、鴨氏、神人部氏、神部氏 |
祀られている神社(全国) | 大直禰子神社、多太神社(奈良県御所市/web) |
祀られている神社(名古屋) | 大直禰子神社(中区) |
記紀ともに崇神天皇の段で登場する。 『日本書紀』によると、崇神天皇5年から6年にかけて疫病が流行って民の半分が死んでしまい、朝夕天神地祇に祈るも効果がなく、宮中に祀っていた天照大神(アマテラス)と倭大国魂神(ヤマトノオオクニタマ)を外で祀ることにした。皇女の豊鍬入姫命(トヨスキイリヒメ)に天照大神を倭(やまと)の笠縫邑(かさぬいのむら)に祀らせ、渟名城入姫命(ヌナキイリヒメ)に倭大国魂神を祀らせたとする。しかし、渟名城入姫は髪が抜けて体が痩せて祀ることができなかったという。 崇神天皇が占いによって原因を探ると、倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトビモモソヒメ)が神憑りして告げるには、自分は倭国の域(さかい)にいる神で大物主神(オオモノヌシ)だと名乗った。そのお告げに従って祀るもやはり効果がなく、今度は崇神天皇の夢にオオモノヌシが現れ、災いの原因は自分の意志にあるもので自分の児(こ)の大田田根子(オオタタネコ)に自分を祀らせれば平穏になるだろうと言った。 早速探させたところ、茅渟縣(ちぬのあがた)の陶邑(すえむら)で見つかったので、天皇が自ら出向いてってオオタタネコに、お前の両親は誰かと尋ねた。オオタタネコが答えるに、父は大物主大神で、母は陶津耳(スエツミミ)の娘の活玉依媛(イクタマヨリヒメ)だと言った。 更に言うには、奇日方天日方武茅渟祇(クシヒカタアマツヒカタタケチヌツミ)の娘ですという。 原文では「亦云奇日方天日方武茅渟祇之女也」とあるのだけど、これがどこに掛かっているのかがよく分からない。ここでいう「女」というのは娘という意味のはずなので、大田田根子は奇日方天日方武茅渟祇の娘で女性なのかと思ったりもする。天照大神と倭大国魂神を祀ったのが豊鍬入姫命と渟名城入姫命という女性だったことからしても、オオタタネコが女性という可能性もあるのではないか。 武茅渟祇(タケチヌツミ)は鴨神の建角身(タケツヌミ)のことという説があり、だとすれば、オオタタネコの母方は鴨氏ということになる。 崇神天皇8年に、天皇はオオタタネコに大神を祀らせたとする。 『古事記』も内容はほぼ同じなのだけど、意富多々泥古(オオタタネコ)は大物主大神の5世孫としている点に違いがある。 その系図としては、大物主大神が陶津耳命の娘の活玉依毘売をめとって生んだのが櫛御方命(クシミカタ)で、その子が飯肩巣見命(イヒカタスミ)、その子が建甕槌命(タケミカヅチ)、その子が意富多々泥古とする。 その他の違いとしては、オオタタネコが見つかったのは河内の美努村(みぬむら)といっている。 『先代旧事本紀』地祇本紀は、大田々禰古命(亦名大直禰古命)は、出雲の神門臣(カムトノオミ) の娘の美気姫(ミケヒメ)をめとって一男、大御気持命(オオミケモチ)を生んだと書いている。 この大御気持が三輪氏や鴨氏などの祖とされる。 大物主を祀る大神神社(奈良県桜井市/web)の創祀は大国主(オオクニヌシ)と少彦名(スクナヒコナ)の国作りのときにさかのぼる。途中でスクナヒコナが常世に去ってしまって困っていると大物主が現れ、自分は大国主の幸魂奇魂で大和国の東の山の上に祀れば国作りに協力するというので御諸山(三輪山)に祀ったのが大神神社の始まりという。 記紀ともにオオタタネコがどこで大物主を祀ったかについては書かれていないのだけど、大神神社の祭主となったと考えていいだろうか。 オオタタネコを祭主とするに先だって高橋邑(奈良県天理市か)の活日(イクヒ)を大神の掌酒(さかびと)とし、オオタタネコが祭主となったとき、活日は自ら神酒(ミワ)を捧げて歌を歌った(『日本書紀』)。 この神酒(みき)は我が神酒ならず 倭(やまと)成す 大物主の 醸みし神酒 幾久 幾久 奈良県桜井市の大直禰子神社 (大神神社摂社/web)、奈良県御所市の多太神社(web)などでオオタタネコが祀られている。 大阪府堺市の陶荒田神社はオオタタネコが創祀の神社と伝わる。 名古屋では、中区の大直禰子神社が大直禰子命を祀るとしているのだけど、ここは江戸時代は「おたからねこ」などと呼ばれた神社で、明治になって生き残りのために祭神を大直禰子命とした可能性が高い。 三輪社系としては、中区の三輪神社(大須)、中川区の三輪社(榎津)がある。 |