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オオタタネコ《大田々根子》

オオタタネコ《大田々根子》

『古事記』表記意富多多泥古命
『日本書紀』表記大田田根子
別名大直禰子命
祭神名大直禰子命、他
系譜(父)大物主神(子孫とも)
(妻)美気姫(『先代旧事本紀』)
(子)大御気持命(『先代旧事本紀』)
属性祭祀
後裔三輪氏(神氏、大三輪氏、大神氏)、鴨氏、神人部氏、神部氏
祀られている神社(全国)大直禰子神社(大神神社の摂社)、多太神社(奈良県御所市/web
祀られている神社(名古屋)大直禰子神社(中区)

オオタタネコの名前について


 私の名字は点なしの大田で、大田田根子(オオタタネコ)にはちょっとした親近感を抱いているのだけど、大田田根子の名前は一体どこで切るのだろう?
 大田で切ると、田+根子で、田が余る。根子は切れないだろうから、大田田の部分は大+田田と考えるのが自然だ。
 大+田田+根子で、”タタ”が名前の部分になるだろうか。


 大田田根子は『日本書紀』の表記で、『古事記』では意富多多泥古命となっている。
 これでいうと、意富+多多+泥古で、やはり”多多”が名前となりそうだ。
 意富はおそらく、大氏や多氏の”ヲホ”から来ているのだと思う。”ヲホ”は”太”や”於保”、”飯富”などとも表記する。
 この多氏は、神武天皇の子の神八井耳命の後裔というのだけど、出自がはっきりしないのと、後裔が多いことからするとひとつの血族ということではないのかもしれない。
『古事記』を編さんしたとされる太安万侶(おおのやすまろ)もこの一族だ。
 ”タタ”は”田”の字を当てているから田んぼのことというのは安易すぎる発想で、『古事記』では”多多”だから、田んぼとは限らない。
 ”たたら”といえば製鉄だけど、オオタタネコは製鉄関係の属性ではない。
 ただ、オオタタネコがいたとされる陶邑(すえむら)は5世紀頃に須恵器の一大産地だったから、何かそのへんと関係して与えられた名前とも考えられる。
 祭祀属性ということでいえば、何か祭祀にまつわる名前の可能性が高いか。



 奈良県御所市にあるオオタタネコを祀る多太神社(ただ-じんじゃ/web)は大字多田にある。ということは、”タダ”という地名が先で、大田田根子の名前はそこから来ている可能性もある。
 ”多太”はもともとは”ヲホタ”だったかもしれない。


 根子についてはよく分からないのだけど、和風諡号に”根子”がつく天皇が何人かいる。
 第7代孝霊天皇が大日本根子彦太瓊尊(おおやまとねこひこふとにのみこと)、第8代考元天皇が大日本根子彦国牽天皇(おおやまとねこひこくにくるのすめらみこと)、第9代開化天皇が稚日本根子彦大日日天皇(わかやまとねこひこおおひひのすめらみこと)となっている。
 そのあとの第10代の崇神天皇は御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと)、第11代の垂仁天皇は活目入彦五十狭茅天皇(いくめいりびこいさちのすめらみこと)で、”イリ”になる。
では古い時代の天皇が”根子”なのかというとそうではなく、第22代清寧天皇、第44代元正天皇、第50代の桓武天皇とその息子の第51代平城天皇、第52代嵯峨天皇もまた”日本根子”の和風諡号を与えられている。
 何かありそうだけど、思いつかない。単なる尊称というだけではないはずだ。


 奈良県の大神神社(おおみわじんじゃ/web)は大田田根子が大物主(オオモノヌシ)を祀ったことを創祀としているのだけど、祀った側の大田田根子も若宮社で祀られている。
 神社名としては大直禰子神社が正式なのだろうか。祭神名の表記は大直禰子になっている。
 禰子というと禰宜(ねぎ)を連想するから、字としてはこれが一番しっくりくる気がする。
 更に”直”という字からは直毘神(ナオビノカミ)を思い起こさせる。
 伊弉諾尊(イザナギ)が黄泉の国に行って穢れてしまい、禍津日神(マガツヒノカミ)が生まれ、それを禊ぎによって祓うのが神直日神(カンナオビ)、大直日神(オオナオビ)だ。
 ここから来ているとすると、大直禰子は大いに直す禰宜という意味になり、祟り神を鎮める祭祀者としての象徴名ということになるだろうか。
 個人的には大田さんちの種子さんでもちっともかまわないのだけど。


『古事記』は簡潔で『日本書紀』はくどくどしい


 第10代崇神天皇の時代に疫病が流行り、その原因が大物主の祟りということが判明して、大物主の要望でオオタタネコを探して祀らせたところ国は平安になったということが『古事記』と『日本書紀』に書かれている。
 話の筋は同じだけど、例によって『日本書紀』は大げさというか水増しして話を膨らませているので、まずは『古事記』で基本的な物語を把握しておくことにする。


 疫病の流行によって国の民が全滅の危機に陥ってしまい、崇神天皇は嘆き、神の意志を問うために神牀(かむとこ)で眠ったところ、夢に大物主大神(オオモノヌシ)が現れて、疫病は私の意思によるもので、意富多々泥古(オオタタネコ)に自分を祀らせれば神気は起きなくなり国は平安になるだろうと告げた。
 ここではオオタタネコが何者であるかということは教えられず、場所もノーヒントだった。
 そこで天皇は四方に使者を送ってオオタタネコを探させたところ、河内の美努村(みぬむら)で見つかったので天皇のもとに連れてきた。
 おまえは誰の子かと天皇が訊ねると、大物主がが陶津耳命(スエツミミ)の娘の活玉依毘売(イクタマヨリヒメ)をめとって生んだ櫛御方命(クシミカタ)の子の飯肩巣見命(イヒカタスミ)の子の建甕槌命(タケミカヅチ)の子ですと答えた。
 誰がそこまで訊いた! とツッコミが入りそうな答えだけど、天皇はそれを聞いて歓んだといっているので、答え方は正しかったのだろう。
 この通りだとすると、大物主の6世孫ということになる。
 気になるのは、建甕槌命(タケミカヅチ)の子といっている点だ。あの国譲りで活躍して大国主から直接国を奪った人物の子ということと、その人間を大物主が自らの祟りを鎮めるために指名したことは関係があるのだろうか。
 しかし、世代を考えると矛盾するから、国譲りのタケミカヅチとは別人ということかもしれない。


 この後すぐにオオタタネコを神主として御諸山(みもろやま)に意富美和之大神(オホミワノオオカミ)を祀り、伊迦賀色許男命(イカガシコオ)に命じて、天八十平瓮を作って天神地祇の社を定め、宇陀の墨坂神(スミサカ)に赤色の楯矛を祀り、大坂神(オホサカ)に黒色の楯矛を祀り、坂の御尾(ミオ)の神と河の瀬の神に幣帛を奉ったところ、疫病は収まり、国に平安が訪れたとする。


 ここで気になるのは、オオタタネコに御諸山に意富美和之大神を祀らせたとしていることだ。
御諸山は三輪山のことで、大神神社の起源伝承なのだけど、意富美和之大神と大物主大神は同一なのだろうか?
 大物主と大国主は同一なのか別なのかという問題もあって、このあたりはけっこうややこしいことになっている。
 話をさかのぼれば、大国主が少名毘古那神(スクナヒコナ)とともに国作りをしているとき、途中でスクナヒコナが常世の国へ去ってしまって途方に暮れている大国主のところに海の彼方から光り輝く神がやってきて、自分を倭の青垣の東の山の上に奉れば国作りは上手くいくと告げたので、その通りにしたら国作りは完成したと『古事記』は書いている。
だとすると、崇神天皇時代にはすでに御諸山に御諸神は鎮まっていたわけだけど、これを大物主としていいのかどうか。
『古事記』はこの神を大物主とはいっていない。
御諸山の神となっていた大物主が何らかの理由で崇神朝に祟神として現れて、あらためて子孫であるオオタタネコが呼ばれて祀り直したということだろうか。


『古事記』はこの後、活玉依毘売のところに通ってくる男がいて、妊娠したので男の正体を探ったところ、三輪山から通ってくることが分かって、三輪山の神ということが判明したという話を書いている。


 簡潔にまとめている『古事記』に対して『日本書紀』はあれこれ話を盛り込んでいて、説明が長い。
 一般に広く知られているのは『日本書紀』の方で、アマテラスを祀るために各地をさまよって最終的に伊勢に落ち着いたという話も、崇神天皇時代の疫病流行に端を発している。


 即位5年に疫病が多発して民の半数以上が死んでしまったということから話は始まる。
『古事記』は”人が尽きそう”としているのに比べると半分以上というのは少し穏やかな表現になっている。
 ただ、この場合の”民”は大和地方ということで、日本全国ではないはずだ。新しい疫病が流行るということは、外国からの渡来人が持ち込んだ可能性が高い。
本当の原因は何であれ、大物主の祟りと考えたということは、崇神天皇側に祟られる心当たりがあったということだ。
 上の方で書いたように、第7代から第9代まで”根子(ネコ)”天皇が続き、第10代崇神と第11代垂仁は”入(イリ)”になるから、血筋か系統の問題があったのかもしれない。
 第13代景行は”別(ワケ)”になる。


『古事記』ではほどなくオオタタネコが見つかって祀りを行ってすぐに疫病は収まったような書き方になっているのだけど、『日本書紀』では最終的に収まるのは即位7年なので、3年間続いたことになる。
 即位6年になると、民は流浪し、反逆者も現れ、天皇の徳でしろしめすことは難しくなった。
 天皇の徳が足りないと悪いことが起きるというのは日本でもかなり古くからあった考え方だったのだろう。天皇を権力で考えるのは間違いで、天皇はあくまでも権威であって、民の上にあってしろしめす存在だ。政治家ではないし、武力も持たない。
 もう一つ大事なことは、祭祀王であるということだ。天皇の本分は祭祀者と言ってもいい。祭祀によって天皇は国を治めないといけない。
 そういう意味でいうと、『古事記』も『日本書紀』も間接的に崇神天皇を非常に悪く書いているという言い方ができる。
 天変地異が起きるのは天皇の徳が足りないからで、それだけでなく祟られてしまうというのは非常に問題がある。
 実際にこういうことがあったかどうかということではなく、歴史書にそう書かれてしまったという事実が重い。
 どうして祟ったのが大物主としたのかという点も重要だ。


 思い詰めた天皇は夜も眠らず朝まで神祇を祀って疫病の終焉を祈願した。
 そして思いついたのが、天照大神(アマテラスオオミカミ)と倭大国魂(ヤマトノオオクニタマ)を宮中から出して外で祀らせることだった。
 しかし、これは大変問題のある行動だったと言わざるを得ない。
 天降る瓊瓊杵尊(ニニギ)に対して天照大神(アマテラス)は三大神勅と呼ばれる神勅を下している。その中の一つ、宝鏡奉斎(同床共殿とも)に反する行為だからだ。
 この鏡を自分(アマテラス)だと思って同じ宮中で床を同じくして齋奉れとニニギに命じている。その命は天孫の子孫である天皇も当然守らなければならないものだった。崇神天皇はどうしてそれに反してしまったのか。
 皇女である豊鍬入姫命(トヨスキイリヒメ)にアマテラスの鏡を持たせて倭の笠縫邑(かさぬいむら)で祀らせ、磯堅城(しかたき)に神籬(ひもろき)を立て、同じく皇女の渟名城入姫(ヌナキノイリヒメ)に日本大国魂神(ヤマトオオクニタマ)を祀らせた。
 しかし、渟名城入姫は髪が抜け落ち、体は痩せて祀ることができなかったといっている。それは何故か? 単に神威が強すぎて制御できなかったということが言いたかったのか、それとも別の意味があるのか。
日本大国魂神は大物主のことなのか、大国主のことなのか、違う神なのかもよく分からない。


 そんなこんなで解決を見ないまま年が明けて即位7年の春2月。
 いよいよ神の怒りが自分に向けられているのではないかと思った崇神天皇は占いによって神意を問うことにした。
 天皇は神淺茅原(かむあさじはら)まで出向いていって占ったところ、倭迹々日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメ)が神がかりになって告げるには、どうして国が治まらないことを憂うのか、私をよく祀れば国は平安になるだろうというので、あなたはどの神ですかと訊ねると、自分は倭国にいる大物主神であるという答えが返ってきた。
 そこで天皇は教えの通りに祀るも効果はない。天皇自ら沐浴齋戒して身を清めて祈ってもやはり駄目で、これ以上どうしたらいいのですかと神に泣きついた。
 その晩、夢の中に大物主が現れ、自分の子の大田々根子に祀らせれば国は安らかになるし、海外の国も従うだろうと告げた。
 倭迹速神淺茅原目妙姫(ヤマトトハヤカミアサヂハラマクハシヒメ)と穗積臣の遠祖の大水口宿禰(オオミクチスクネ)、伊勢麻績君(イセノオミノキミ)の三人までが同じ夢を見て天皇に報告したため、このお告げは正しいということになりオオタタネコを探したところ、すぐに渟縣(チヌノアガタ)の陶邑(すえむら)で見つかった。
 報告を受けた天皇はそこまで出向いていき、おまえは誰の子かと訊ねると、父は大物主で母は陶津耳(スエツミミ)の娘の活玉依媛(イクタマヨリヒメ)ですと答えた。
更に奇日方天日方武茅渟祇(クシヒカタアマツヒカタタケチヌツミ)の娘ですとも言っている(この奇日方天日方武茅渟祇の娘というのがよく分からない。母が奇日方天日方武茅渟祇ということなのか、オオタタネコは自分を娘といっているのか)。
 そこで天皇は占いによって物部連の祖先の伊香色雄(イカガシコオ)を選んで八十平瓮を作らせ、オオタタネコを大物主を祀る祭主とした。
 更に長尾市(ナガオチ)を倭大国魂神(ヤマトノオオクニタマノカミ)を祀る祭祀者と決めた。
 その他、天社、国社、神地、神戸を定めると、ようやく疫病は収まり、国は平安になったという。


 以上の文脈からすると、やはり大物主と倭大国魂神は別の神ということだろうし、大物主の祟りと倭大国魂神の祟りは別の理由と考えられる。
 宮中から外に出されたアマテラスはどうして祟らなかったのか?
 この一連の記事は分かるようで分からない。


 大己貴命=大国主=大物主?


『日本書紀』の中で大物主は大己貴命(オオナムチ)の国作りのところと、国譲りのところで二度出てくる。
最初は第八段一書第六で、大己貴は少彦名命(スクナヒコナ)とともに国作りをしていたのだけど、途中でスクナヒコナが常世の国に去って困っていると、海の彼方から光り輝く神がやってきて、それが大物主だったという場面だ。
 話としては『古事記』と同じなのだけど、大きな違いは、大物主が裏で助けていたから国作りができたといっている点と、大物主は自分はおまえ(大己貴)の幸魂奇魂(さきみたまくしみたま)だといっている点だ。
幸魂奇魂についてはいろいろな解釈があってはっきりしないのだけど、大己貴はその言葉に納得して、あなたはどこに住みたいかと訊ねると日本国(やまとのくに)の三諸山(みもろやま)に住みたいというので宮を作ったとしている。


 国譲りについて書かれた第九段の一書第二で、大己貴は天神に国を譲ることを承知して去るに当たって岐神(フナト)を差し出したといっている。
『古事記』ではイザナギが禊ぎをしたときに生まれた道俣神(チマタ)のこととされ、『日本書紀』では猿田彦命(サルタヒコ)と同一視している。
 經津主神(フツヌシ)はその岐神を道案内として葦原中国の平定の仕上げを行い、そのとき従った国神として大物主神と事代主神(コトシロヌシ)の名前を挙げている。
 その後、高皇産靈尊(タカミムスビ)は大物主に対して、おまえが国神を妻とするなら反逆の心を疑ってしまうから、自分の娘の三穗津姫(ミホツヒメ)とめとわせ、八十萬神を率いて永遠に皇孫を守り奉れと命じている。
 本文ではないにしろ、この伝承というのは無視できなくて、大物主は国譲りが成った時点で皇孫の守護者に任じられていたということだ。
 それがどうして崇神天皇に祟ったのか? もう少し限定的に言うなら、何故、『古事記』、『日本書紀』の編纂者たちはそういう物語を書いたのか、ということだ。
 暗に崇神天皇の血筋か系統を問題視していたということではなかったのか。


 オオタタネコが祭主なら女性ではないのか?


 崇神天皇即位8年の記事にもう一度オオタタネコが出てくる。
 夏4月16日に高橋邑の活日(イクヒ)を大神(大物主の社)の掌酒(さかびと)とし、冬12月20日にオオタタネコに大神を祀らせたとしている。
 そして、そのとき歌った歌が載っている。


 この神酒は我が神酒ならず
 倭成す 大物主の 醸みし神酒
 幾久 幾久


 この酒は人が作ったものではなく大物主が作った酒だという意味だ。
 古代の酒造りは人が米を噛んで唾で発酵させる口噛酒(くちかみざけ)だったというから、そういう意味からしても、オオタタネコは女性だったのではないかと思える。


『古語拾遺』は記紀に準じる


『古語拾遺』(斎部広成/807年)は、崇神天皇がアマテラスの鏡とともに宮中にあった草薙剣も一緒に持ち出して祀ることにしたとし、このとき忌部が石凝姥神(イシコリドメ)と天目一筒神(アメノマヒトツ)の子孫に命じて鏡と剣の形代を作らせ、それが代々天皇を継承するときの剣鏡になったと書いている。


『先代旧事本紀』は何故何も書かなかったのか?


『先代旧事本紀』の崇神天皇の記事は注目に値する。
『古事記』、『日本書紀』が書いているような疫病の流行や大物主の祟りなどの話は一切なく、鏡を宮中から出して祀ったということも何も書いていない。
 崇神天皇に対しては好意的で、天神地祇をよく祀り、寛容で慎み深く、何事にも分別があったとしている。
ひょっとすると、記紀の記事は丸々嘘というか作り話なのではないか。
『先代旧事本紀』の中で崇神天皇は良くも悪くも際立っていない。これしか読んでいなければ印象に残らない天皇のひとりとなっていた。
『先代旧事本紀』が崇神天皇について何か隠し事をしなければいけない理由は思い至らないから、案外こちの方が真相に近いのではないかと思えたりもする。


 後裔について


 後裔について『古事記』は、意富多々泥古命(オホタタネコ)は神君(ミワノキミ)と鴨君(カモノキミ)の祖先といっている。
『日本書紀』は三輪君(ミワノキミ)の始祖とあり、字は違うものの、認識としては一致している。


『先代旧事本紀』は「地祇本紀」の中で都味歯八十事代主(ツミハヤエコトシロヌシ)の九世の孫として大田々禰子(またの名を大直禰子)について書いている。
出雲神門臣(カムト) の娘の美気姫(ミケヒメ) をめとって一男・大御気持命(オオミケモチ)が生まれたとする。
 上にも書いたように、『先代旧事本紀』は崇神天皇時代の大物主の祟りによる疫病のことを書いていないので、オオタタネコと大物主を結びつける必要はない。ただ、どうしてコトシロヌシの子孫としたのかはよく分からない。
 もし、大物主=大国主という認識なら、コトシロヌシは大物主の子となるから、大物主から数えて10世孫としてもよかった。
 ただ、個人的には大国主と大物主を同一とするのはいろいろと無理があると思っていて、このあたりについてはとりあえず保留としたい。


『新撰姓氏録』には、大国主命五世孫の大田々根子命の後として神人(摂津国神別)と、大物主神五世孫の意富太多根子命の後として三歳祝(未定雑姓大和国)が載っている。
 ここでは大物主と大国主は同一として扱われている。


 オオタタネコを祀る神社


 オオタタネコを祀る神社としては、上に書いたように、大神神社摂社の若宮社(大直禰子神社)や奈良県御所市の多太神社がある。
 多太神社は『大和志料』によると、オオタタネコの孫の大賀茂津美命(オオカモツミ)が祀ったのが始まりとする。
 大賀茂津美命の後裔に賀茂朝臣や鴨部祝がいるとされるので、どこかで賀茂氏と結びついたようだ。


 大阪府堺市の陶荒田神社(すえあらたじんじゃ)は、オオタタネコが祖先を祀るために建てたと伝わっている。
 ここは『日本書紀』がいうところのオオタタネコが見つかった渟縣の陶邑に当たる場所だ(『古事記』では河内の美努村)。
 ここで須恵器が作られていたのは5世紀くらいで、その後、生産地は尾張と美濃地方へと移っていった。
 現在の祭神は高魂命、劔根命、八重事代主命となっており、オオタタネコは入っていない。
 具体的な神社創建としては、荒田直が剣根命を祀ったのが始まりともいう。


 大神神社の摂社・狭井神社(狭井坐大神荒魂神社)で春に鎮花祭(はなしずめのまつり)という祭りが行われる。
 古くは朝廷の神祇官が行う国家的な祭祀だった。
 花が散る頃に疫病をまき散らすという考え方があって、それを鎮めるための祀りだった。
 これはオオタタネコが大神の神を祀りで鎮めたことに由来するとされる。


 名古屋では、中区の大直禰子神社が大直禰子命を祀るとしているのだけど、ここは江戸時代は”おたからねこ”などと呼ばれた神社で、明治になって生き残りのために祭神を大直禰子命とした可能性が高い。


 古史古伝や歴史書の編纂者たちが伝えたかったこと


 最後にひとつ、突拍子もない話を書いておきたい。
 いわゆる古史古伝の代表的なもののひとつに『ホツマツタヱ』という書があり、これの最終的な編集者がオオタタネコだったという話がある。
 なかなかに突飛な話ですぐには受け止めきれないのだけど、ここでオオタタネコの名前が出てくるということは何か意味がありそうだ。
 前半部を書いたのは櫛甕魂命(クシミカタマ)とされ、これは大物主の別名ともされる。
 内容の真偽はともかくとして、大和の三輪地方に独自の古い伝承があって、それが『ホツマツタヱ』として結実したという言い方はできるのではないかと思う。
 上にも書いたように、『古事記』を編さんしたとされる太安万侶は、”ヲホ氏”で、”ヲホ”タタネコもその祖先に当たる可能性がある。
『古事記』を実質的に世の中に出したのは、第二回日本紀講筵(にほんぎこうえん/812年)の博士を務めた多人長(おおのひとなが)だったかもしれない。
 多人長は名前からも分かるように、”ヲホ氏”で太安万侶の子孫とされる。
 これらのことからすると、”ヲホ氏”は古い歴史を語り継ぐ一族だったのではないかという推測ができる。
『古事記』、『日本書紀』が成立して歴史が一本化されるまではそれぞれの家に伝わる多種多様な歴史や古伝があったはずで、それらを全部嘘だとか作り話だと決めつけるのはそれはそれで無理がある。どの書や伝承にも本当のことがあり、そうじゃないことがある。『古事記』や『日本書紀』も例外ではない。


 オオタタネコについては、『古事記』、『日本書紀』が祟った大物主を鎮めたと書き、『先代旧事本紀』は何も書いていない。
 書かれていることよりも書かれていないことに真実がある場合もある。
 あるいは、オオタタネコなる人物はまったく実在しない架空の人物像という可能性もある。
 だとすれば、どうして記紀はこんな作り話を歴史書の中に書いたのか。
 特に『日本書紀』の場合、ある種の玉突き事故のようなことが起きていて、ひとつの嘘や作り話が別のところに波及して、そっちも直さなくてはいけなくなって、そこを直すとまた別箇所に矛盾が出て、そっちでも嘘をつかないといけないということがあちこちで起きている。多重事故状態で収拾が付かなくなっている部分がある。
 これをどうにかこうにか収めるのに40年もかかってしまった。その努力と執念には頭が下がるけど、内容を丸呑みしてしまうのは危険で、すべてにおいて注意深く読む必要がある。
 偽の調書に合わせて証拠をねつ造したり、煙のない所に付け火をして回ったりということもしている。
 それを了解した上で、彼らが伝えたくても伝えきれなかった隠された伝言を読み取らなくてはいけない。
 歴史書の編纂者たちの誠実さといったものは信じていいと思っている。



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