『古事記』と『日本書紀』の熱量の違い
『古事記』では小名毘古那神(スクナビコナ)、『日本書紀』では少彦名命(スクナヒコナ)と表記され、大国主神とともに国作りをした神として描かれる。 『古事記』は大国主神についてかなり詳しくあれこれ書いているのに対して、『日本書紀』はあまり興味がなかったのか、素戔嗚尊が八岐大蛇を退治する第八段の一書の中で簡潔に記しているだけだ。 この態度というか熱量の違いが何を意味しているのはよく分からないのだけど、スクナヒコナの扱いについても記紀では差が感じられる。 まずは『古事記』から見ていくことにしよう。
『古事記』しか書かなかったこと
大国主神について『古事記』は、大穴牟遅神(オオナムチ)、葦原色許男神(アシハラシコオ)、八千矛神(ヤチホコ)、宇都志国玉神(ウツシクニタマ)という別名を挙げて、主に前半を大穴牟遅神、後半を大国主神と呼んでいる。 系譜については、須佐之男命(スサノオ)から6世孫を大穴牟遅神(大国主神)とする。 にもかからわず、須佐之男命の娘の須勢理毘売命(スセリヒメ)と婚姻したことになっているので、このへんの理解がちょっと難しい。 兄たちに二度殺されて二度生き返ったり、須佐之男命からの試練をくぐり抜けたり、あらたに沼河比売(ヌナカワヒメ)や多紀理毘売命(タキリヒメ)たちと婚姻したりと、大忙しの大穴牟遅神の元へ小名毘古那神がやってくる。
大国主神が出雲の御大の御前にいたとき、波立つ上に天之羅摩船(あめのかがみぶね)に乗って鵞(ひむし)の皮を剥いだ服を着て帰り来た神がいた、と書いている。 原文では「大國主神 坐出雲之御大之御前時 自波穗 乘天之羅摩船而 內剥鵝皮剥爲衣服 有歸來神」となっている部分だ。 いろいろ疑問というか突っ込みどころが多いのだけど、まず天羅摩船とは何かということだ。 通説ではガガイモの実を割って作った舟とされるのだけど、ガガイモやガガイモの実を実際に見たことがある人は少ないだろうから(私もない)なかなかイメージしづらい。 キョウチクトウ科のつる性多年草で、写真で実を見ると(wiki)、確かに細長い舟形のような形をしている。 古名をカガミまたはカガミグサといい、羅摩船の羅摩はガガイモを漢字で表記したものということになる。 しかし、”天”が付いている点が重要で、天というからには高天原とか天一族が絡んでいる可能性がある。 天のカガミ族が送ってきたとなると、何かを暗示しているように思える。 鵞は蛾のことで、蛾の皮を剥いだ服を着ていたというのが一般的な解釈なのだけど、この点もその通りだとは思えない。 鵞は我に鳥と書くことからも虫というより鳥ではないのか。現代はガチョウのことを鵞鳥と書く。 出雲大社(web)には素鵞社(そがのやしろ)があり、蘇我や須加などとの関連も考えられる。 木の実の舟に乗って蛾の皮を着ているということからスクナヒコナは小人のように思われているけど、それも違うような気がする。 『古事記』があえて小人の印象を与えようとしたのであれば、そこには何らかの意図がある。
それから、”帰り来た神”という言い回しも非常に気になる。 原文には”有歸來神”とあり、帰来は帰ってきたとしか解釈できないのではないかと思うけど、だとすれば小名毘古那神はもともと出雲の人で、どこかへ行っていたのが帰ってきたということなのか。 ただし、いつも書くように記紀の舞台設定は仮のもの(フィクション)なので、出雲の御大の御前を出雲の美保岬と決めつけてはいけない。
続く記述も不思議なもので、大国主神が名を問うても答えず、他の者たちは誰も知らなかったというのだ。 突然舟に乗って帰ってきた神が自分の名を名乗らず、誰もその神を知らないというのはどういう状況を示しているのか。 多邇具久(たにぐく)がいうには、久延毘古(クエビコ)が知っているはずだというので呼んで問うてみると、これは神産巣日神(カミムスビ)の子の小名毘古那神(スクナヒコナ)だと答え、そこでようやく正体が知れたのだった。 大国主神が神産巣日御祖命に申し上げるとカミムスビは確かに自分の子で、手の指からこぼれ落ちた子だという。 神産巣日御祖命は小名毘古那神に汝は葦原色許男命(アシハラシコオ)と兄弟となって国を作り固めよと命じた。 この文もいろいろと引っかかるところがある。 ポイントとしては、小名毘古那神は神産巣日御祖命の子であることと、大国主神に名を名乗らなかったということだ。 そして、自ら進んで国作りのためにやってきたわけではなく神産巣日御祖命に命じられたから大国主神とともに国作りをしたという点も見逃せない。 名を言わないということは完全に心を開いていないし、従う気もないということを意味している。 名を名乗らないパターンとしては、天孫の邇邇藝命(ニニギ)が天降る先で待ち構えていた猿田彦大神が最初誰も名を訊ねられなかったというのに似ている。 あれは高御産巣日神(タカミムスビ)に命じられた天宇受賣命(アメノウズメ)が訊ねたことで名乗ったのだけど、猿田彦大神と小名毘古那神は少し重なる部分もある。 小名毘古那神の名を明かした久延毘古は”かかし”を神格化したものとされるのだけど、『古事記』は久延毘古は山田の曾富騰(やまだのほそど)のことだと書いている。 山田についてもこれまで何度か書いているけど、尾張氏の周辺一族であり、猿田彦大神や塩椎神(シオツチノオジ)ともつながる。 久延毘古が知っているだろうと進言した多邇具久はヒキガエルのこととされ、ヒキガエルは日本中に生息するから国中のことを知っているなどとされる。 カエルといえば伊勢二見の二見興玉神社(web)を思い出す。カエルは猿田彦大神の遣いとされている。
続いて国作りについてあれこれ書かれると思いきや、「大穴牟遲與少名毘古那、二柱神相並、作堅此國。然後者、其少名毘古那神者、度于常世國也」と、大穴牟遅と小名毘古那は相並んで国を作り堅め、その後、小名毘古那は常世国に渡ったと、唐突に去って話が終わる。 国作りといっても国はすでにあるので、作り堅めたという書き方で、これは問題ない。 引っかかるのは、神産巣日御祖命が小名毘古那に対して国作りを命じたときは大国主神のことを葦原色許男命と呼び、国作りをするときは大穴牟遅になり、この後の大物主神との絡みではまた大国主神に戻っていることだ。このあたりの名前の呼び分けの意図がちょっと分からない。 それから常世国に度(渡)ったという書き方も気になる。 常世国はあの世という解釈もされるのだけど必ずしも死後の世界ではなく、海の彼方の理想郷ともされる。 垂仁天皇は多遅摩毛理(タジマモリ)に非時香菓(ときじくのかくのこのみ)を求めさせて、多遅摩毛理は常世国で見つけて戻ってきてるし、浦島太郎のモデルとされる浦嶋子も常世国へ行って戻ってくるから、常世国へ渡ったイコール死んだということではない。 小名毘古那が常世国へ渡った理由は明らかにされず、ひとり残された大国主神は途方に暮れ、そこへ大物主神がやってきて助けるという展開からすると、国堅めはまだ途中だったということだ。 小名毘古那の発言はひとつもなく、どういう目的で”戻り来て”、どういう理由で”渡った”かについては明かにされない。
以上を踏まえつつ、『日本書紀』がどう書いているかを見ていくことにしよう。
『日本書紀』が書かなかったこと
最初に書いたように、『日本書紀』は国譲り以前の大国主神について異伝の一書にちらっと書いているだけでさして興味がない風を装っている。本当に興味がなかったのか、装っただけなのかは判断が難しい。 素戔鳴尊の八岐大蛇退治について書かれた第八段の最後、一書第六にその記事はある。 ここでは大国主神の別名として大物主神、国作大己貴命(クニツクリシオオナムチ)、葦原醜男(アシハラシコオ)、八千戈神(ヤチホコ)、大国玉神(オオクニタマ)、顯国玉神(ウツシクニタマ)の名を挙げ、大物主神を同体として扱っている。 そして、大国主神の子は181柱いると、かなりとんでもないことを書いている。これは見方を変えると、大国主神というのはたくさんいますよということをいいたいのかもしれない。 これに続く原文は以下のようになっている。
大己貴命與少彦名命 戮力一心 經營天下 復 爲顯見蒼生及畜産 則定其療病之方 又 爲攘鳥獸昆蟲之災異 則定其禁厭之法 是以 百姓至今咸蒙恩頼
大己貴命と少彦名命は力を合わせ心をひとつにして天下を経営した。そして、人と畜産の治療法を定め、鳥や獣、虫の災害を防ぐ方法を決めた。それによって百姓(おおみたから)は今に至るまで恩恵を蒙っているという内容だ。
続いて大己貴命と少彦名命の回想シーンが描かれ、ふたりはこんな会話を交わしている。 吾らが作った国は善く成っているだろうかと大己貴命が訊ねると少彦名命は、ある部分は良く成っている。ある部分は成っていないと答えた。 これに対して『日本書紀』の編纂者は、このやりとりは非常に深い意味があるのだろうと書いている(蓋有幽深之致焉)。 『日本書紀』の編纂者がこんなふうに個人の感想を差し挟むことはあまりない。 この後、少彦名命は熊野の御碕へ行って常世郷に行ってしまった(遂適於常世鄕矣)といい、また曰くとして 淡嶋(あはしま)へ行って粟の茎に昇ったら弾かれて常世郷へ行ってしまったともいっている(至淡嶋而緣粟莖者、則彈渡而至常世鄕矣)。 ここで注意しなければいけないのは、常世国ではなく”常世郷”としている点だ。”郷”となると、死んであの世へ行ったというのとは違う感じだ。 これに続く文章も興味深いので引用しておくと以下のようになっている。
國中所未成者 大己貴神 獨能巡造 遂到出雲國 乃興言曰 『夫葦原中國 本自荒芒 至及磐石草木咸能强暴 然 吾已摧伏 莫不和順』 遂因言『今理此國 唯吾一身而巳 其可與吾共理天下者 蓋有之乎』
国の中には成っていないところがあり、大己貴命は独りで国を巡り、出雲国に至って独り言をつぶやく。 葦原中国はもともと荒れ果てていて岩から草木まで暴れて従わなかったのを自分が抑えて今は従わないものがなくなった。しかし、今やこの国を治めるのは吾独りになってしまった。吾と共に天下を治める者がいるだろうかと。 一体何があったのか!? と心配になるような状況だ。 国堅めとして国中をひとりで巡ったのはいいとして、誰もいないひとりぼっち状態になっている。まるでこの世の終わりにひとり取り残されてしまったSF映画の冒頭シーンのようだ。 大規模な天変地異があって、国堅めはその後の復興を描いたととれなくはない。
常世郷へ行ってしまったところで少彦名命はお役御免かと思いきや、大己貴神と大物主神とのやりとりの後、再び大己貴神と少彦名命の回想場面が描かれている。 大己貴神が国を平らげた頃、出雲の五十狹々小汀(いささのおはま)に至って食事をしていると、海から人の声が聞こえてきた。 驚いて見回すも誰もいない。すると小男がかがみの舟(白蘞皮爲舟)に乗り、ササキの羽を着て(鷦鷯羽爲衣)浪に浮かんでいた。 大己貴神がそれを手のひらに置いて玩具(おもちゃ)にしているとそいつは飛び跳ねて頬を噛んだ。 その怪しいかたちをしたものの正体を知るため天神に遣いを出すと、高皇産霊尊(タカミムスビ)が自分の子供は1,500人(座)いて、その中のひとりが非常に悪くて教育しても従わず、指の間から漏れ墜ちたものに違いない。それを愛情を持って育てなさいといった。これがすなわち少彦名命であると書いている。 なんだこの取って付けた感は。これ最初に書く話じゃないの? と思う。 ”かがみの舟”は上に書いたようにガガイモの実の皮と解釈されるのだけど、ここでは鷦鷯羽(ササキの羽)を衣にしているといっている。 『古事記』の鵞を蛾と解釈するのが通説だけど、『日本書紀』がミソサザイ(鷦鷯)といっていることからすると、『古事記』もガチョウ(鵞鳥)と考えるべきではないのか。 ミソサザイは全長10センチくらいの小鳥ではあるけど、蛾と鳥の羽では大きさがだいぶ違う。 それはともかく、もっと重要な違いは少彦名命を高皇産霊尊の子としている点だ。『古事記』がいう神産巣日御祖命(神皇産霊尊)とは系統が違うことになる。 天之御中主神(アメノミカナヌシ)、高御産巣日神、神産巣日御祖命を造化三神とする『古事記』の記述からすると、神産巣日御祖命でも高御産巣日神でも違いは小さいようだけどやはり小さくはない。 神産巣日御祖命は女神のような扱いをされることもあるのだけど、天之御中主神系統と高御産巣日神系統との間を取り持つ第三勢力的な存在だったと聞いている。だとすると、高御産巣日神と神産巣日御祖命の両方の血統ということもあり得るのか。
いずれにしても、『日本書紀』の少彦名命の記述はいくつか不自然なところがあって違和感を拭えない。どうしてこんなふうに話を前後させたのか、その意図も読みづらい。 普通に少彦名命が海の向こうからやってきて、二人は国の出来具合について会話をして、その後、少彦名命は常世郷に帰っていったとすればよかった。にもかかわず、別れから出会いへ遡るように書いたのはどうしてだったのだろう。 『古事記』が書いている最初に名を名乗らなかった話を書かなかったのも引っかかる。
記紀以外のスクナヒコナ
神代については簡単にしか書いていない『古語拾遺』だけど、少彦名神については少し触れている。 大己貴神を大神の神の大物主神と同一視しつつ、大国主神、大国魂神を別名とするのは『日本書紀』一書に準じている。 少彦名神を高皇産靈尊の子とするのも同じだ。 病を治す方法や害虫を払うやり方などと定めたという内容も同じなので『日本書紀』をそのまま写したと考えられる。
『先代旧事本紀』は私の疑問に答えるかのように『日本書紀』の内容をきれいに時系列で書き直している。『古事記』の内容も盛り込みつつで、まとめサイトの走りといってもいいくらいだ。 ただ、合体させすぎて矛盾が生じており、久延彦がその正体を神皇産霊神(カミムスビ)の子の少彦名神と明かにした後、報告を受けた高皇産霊尊(タカミムスビ)が自分の1,500人の子のひとりだと言っていて、二人が自分の子と主張していることになってしまっている。 更におかしなこととして、少彦名命が常世郷に去った後に回想があり、そこでは大己貴命と少彦名命がふたりで葦原中国(あしはらのなかつくに)にいるとき、まだ国は水母(くらげ)のように浮き漂っていて、造り名づけたと書いている点もそうだ。 あれ? 国作りの初期段階から少彦名命が一緒にやったんだっけ? と戸惑う。 『古事記』と『日本書紀』の強引な継ぎ接ぎはやはり少し無理がある。
『出雲国の風土記』にも一ヶ所だけ少彦名神を思わせる須久奈比古命が出てくる。 飯石郡(いひしのこほり)の多禰郷(たねのさと)の郷名由来のところで、大穴持命(オオアナモチ)と須久奈比古命が天下を巡ったときに稲種(いなだね)を落したことが郷名の起源としている。 本来は種だったのを神亀3年に多禰に改めたという。 飯石郡は出雲国の南西部で、杵築大社(出雲大社)のある北西部の出雲郡や熊野大社(web)がある東部の意宇郡から離れたところに位置していることは頭に入れておいてよさそうだ。
『播磨国風土記』は『出雲国風土記』ほどではないもののかなりの部分が写本で残っている風土記で、その中にも少彦名を思わせる少日子根(スクナヒコネ)と小比古尼命(スクナヒコネ)が登場する。 そのうちの神前郡(かむさきのこほり)の堲岡里(はにおかのさと)の地名由来の話がちょっと面白い。 大汝命(オオナムチ)と小比古尼命が争いになり、堲(はに)を担いで遠くへ行くのと屎下(くそま)らずして遠くへ行くのとどっちがよりできるかという話になり、数日後に大汝命がもう駄目だと根負けして屎をしてしまい、小比古尼命は笑いながらそりゃそうだといって堲をそこの岡に投げたので堲岡と呼ばれるようになったというものだ。 すごくくだらない争いでバカバカしすぎて面白いのだけど、単なる作り話と笑い飛ばしてしまうと本質を見誤る。この説話には何らかの暗示やメッセージが込められているはずだ。 ここでの大汝命と小比古尼命は共に手を携えて天下を治めたといったふうではない。普通に人間として働いている友達同士といった描かれ方だ。 おそらくは大国主と呼ばれる人物が各地に何人もいて、少彦名に当たる人物も同じだけいただろうから、それが各地にいろいろな形で物語として伝わったということなのだろう。 播磨ではスクナヒコ”ナ”ではなくスクナヒコ”ネ”だったことに何か意味があるのかは後ほどあらためて考えることにしたい。
他の風土記にもスクナヒコナとおぼしき人物が描かれている。 たとえば『伊予国風土記』逸文や『伊豆国風土記』逸文では温泉を医療として利用した話があったり、『尾張国風土記』逸文では跡々(あとあと)や登々山(ととさん)の地名由来の話にスクナヒコナの名が出てくる。 いずれにも共通するのは大国主/大己貴と常にペアになっていることだ。 風土記の大部分は失われているので、他の風土記にも同じような話がたくさん書かれていたことが推測できる。
後裔はいたのかいなかったのか
後裔について『先代旧事本紀』は鳥取連(ととりのむらじ)の祖神として少彦根命を位置づけている。 ただ、『新撰姓氏録』は天湯河桁命(アメノユカワタナ)を鳥取連、美努連の祖としており、『斎部宿祢本系帳』は天羽槌雄神(アメノハヅチ)を鳥取部連、美努宿祢の祖としていて、どれが本当なのかよく分からない。 考えられるとすればやはり、スクナヒコナはひとりではなく、違う名前で知られる人物(神)の別称ということだ。 少彦名神の妻子については記紀その他、風土記にも記述がなくはっきりしない。 ほぼ唯一といっていい伝承として、『延喜式』神名帳に能登国能登郡 能登生国玉比古神社に伝わるものがある。 この神社で祀られる多食倉長命は各地を巡って国堅めをしていた大己貴神、少彦名神と協力してこの地を治め、娘の伊豆目比売命(神市杵嶋姫命)が少彦名神に嫁いで菅根彦命(スガネヒコ)を生んだという。 この伝承をそのまま信じるのは無理があるのだけど、ここに市杵嶋姫命(イチキシマヒメ)の名前が出てくるのは興味深い。これが後々重要な手がかりになってくるので覚えておいてほしい。
ここらでそろそろ少彦名神の正体に迫りたいところだけど、結論を急ぐ前に名前についてもう少し考えてみることにしよう。
問題は”ナ”と”ネ”だ
まず、そもそも、どうしてスクナヒコではなくスクナヒコ”ナ”だったのかという疑問がある。 それと、スクナヒコ”ナ”とスクナヒコ”ネ”は同じなのか違うのかという問題もある。 何々ヒコというのはよくある名前で、サルタヒコ(猿田彦)、アメノワカヒコ(天稚彦)やカナヤマヒコ(金山彦)などがそうだ。 普通に考えればヒコ+ナだろうけど、ひと続きで”ヒコナ”という可能性もあるのか。 ヒコは一般的に地方の首長といった意味合いで付けられることが多い。 では”ナ”はどうかというと、スクナヒコナの他にはちょっと思いつかない。 もしかすると、オオナムチの大きい”ナ”とスクナヒコナの少ない(小さい)”ナ”がセットになっているということなのか。 そうではなく本来はスクナヒコネで”ネ”だったとすると、アメノコヤネ(天児屋根)やアジスキタカヒコネ(阿遅鉏高日子根)などの例がある。 ”ナ”は土地を意味する古語という説もあるのだけど、なんとなく納得できない。 『古事記』がいう訊かれても名を名乗らなかったということも、名前の秘密と何か関係がありそうだ。 ここではいったん、名前問題は棚上げとする。
少彦名信仰はいつ始まったのか?
『延喜式』神名帳(927年)に載る式内社の中で大国主神(大己貴神)とともに少彦名神を祀るとしている神社は少なくない。しかし、最初からそうだったとは限らず、平安時代中期の時点でそうだったかどうかを確かめるすべもない。 少なくとも少彦名やそれを思わせる社名の神社は載っていないというのは事実としてある。 しかし、古くから天神と呼ばれた神社で少彦名神を祀る神社がけっこうあって、天神イコール菅原道真とされるようになる前は天神といえば少彦名神のことと考えられていたともされる。 少彦名はそこまで広く信仰の対象となっていかといえばそうとも思えないのだけど、少彦名信仰最大の疑問は杵築大社(出雲大社)で祀られていないということだ。
現在の島根県で少彦名神を祀る神社はわりとある。大国主神(大己貴神)との抱き合わせ的なところだけではなく、手間天神社、阿羅波比神社、加多神社、常世神社、天神神社(松江市)、日野目天神社などでは単独、または主祭神として祀られているので、まったく無視されているわけではない。 しかし、肝心の出雲大社ではまったく祀っていないとはどういうことか。本殿だけでなく境内社でもだ。 そこから考えられるのは、まず少彦名神は出雲地方の神ではないということと、出雲国、少なくとも出雲郡における貢献はなかったということではないだろうか。 あるいは、祀れない理由が何かあったかだ。 申し訳程度でも境内社で祀っておけば下手な疑いを掛けられずに済んだものをあえて祀らなかったのであれば何か理由があったのではないかと勘ぐりたくなる。 大国主神との国作りがたとえ作り話だったとしても、『古事記』、『日本書紀』の内容は無視できなかったはずだ。なのに祀らなかった。 そこにやはり何らかの事情があったと考える方が自然に思えるけどどうだろう。
全国的に見ても、少彦名を祀る神社の総本社といったものは存在せず、本拠地がどこかもはっきりしない。 傾向としては西日本や四国にやや多いというのはあっても、関東にもそこそこあって、中部にも少しあるから、極端な偏りはない。あえていえば、東北や北陸にはほとんどないかごく少ないといった程度の傾向だ。 式内社とされる神社の中で少彦名命を主祭神として祀っているところでは、茨城県ひたちなか市の酒列磯前神社(さかつらいそさきじんじゃ/web)、群馬県高崎市の小祝神社(おぼりじんじゃ/web)、東京都調布市の布多天神社(ふだてんじんしゃ/web)、東京都稲城市の穴澤天神社(あなざわてんじんしゃ/web)、滋賀県近江八幡市の沙沙貴神社(ささきじんじゃ/web)、静岡県藤枝市の飽波神社(あくなみじんじゃ/web)、大阪府大阪市住吉区の生根神社(いくねじんじゃ/web)、和歌山県和歌山市の淡嶋神社(あわしまじんじゃ/web)、兵庫県淡路市の志筑神社(しづきじんじゃ/web)などがある。 京都府京都市の五條天神社(web)大阪府大阪市の桑津天神社(くわづてんじんじゃ)、大阪府豊中市の服部天神宮(はっとりてんじんぐう/web)も古い神社で少彦名命を主祭神とする。 これらの神社が創建時から少彦名神を祀っていたかどうかは定かではない。 しかしながら、『古事記』、『日本書紀』が書かれた奈良時代以降、大己貴神と少彦名神は病気や害虫駆除の神という認識が一般に広まった可能性があることを考えると、少彦名神に対する信仰は思うより古いのかもしれない。 『日本書紀』の中で、神功皇后は角鹿から還った誉田別皇子(応神天皇)を迎えるにあたって酒を出して歌を歌ったという記事がある。 この御酒(みき)は我(神功皇后)ではなく常世にいる少彦名神が豊壽(とよほ)きし酒であるといった内容の歌だ。 酒造りの神といえば大物主神の印象が強く、少彦名が酒の神としてはあまり広まらなかったようだけど、島根県出雲市の佐香神社(さかじんじゃ/web)で祀られる久斯神(くすのかみ)は酒の神とされ、少彦名神の別名ともされるので、酒神としての認識も少しはあったのかもしれない。 ただしここは、京都府京都市の松尾大社(まつのおたいしゃ/web)からの勧請とされるので、もともとは大山咋命を祀っていたかもしれない。
記紀の意図は何だったのか
そろそろ締めくくりの時間がやってきた。 もう一度最初に立ち返って考えてみるに、記紀はどうして少彦名神を小人のイメージで描いたのだろうという素朴な疑問を抱く。 おそらくは印象操作であり、ミスリードでもある。 その意図するものや暗示するところは何なのか? どうして国堅めを途中で投げ出して去っていったのか? 普通に考えれば何らかの原因で死んだということだ。そのいきさつを書けなかったのには理由がある。 出雲大社(杵築大社)で祀られなかったのもそのあたりが原因としてあったかもしれない。 そういえば最近、少彦名さん見かけないけどどうしました? と人に訊かれて、常世に去ってしまったんですよ。などというやりとりを思い浮かべると、ひそかに殺してどこかに埋めるなり海に沈めるなりした事件性を思わせる。 その後の少彦名の消息は知れない。
少彦名神は大己貴神(大国主神)の国作りを手伝ったという語られ方をすることがあるけどそうではない。共に国作りをしたと記紀その他はいっている(大穴牟遲與少名毘古那、二柱神相並、作堅此國)。つまり、補佐ではなく対等な関係、パートナーということだ。 しかも、『古事記』は神産巣日御祖命の子とし、『日本書紀』は高皇産霊尊の子としてるということは天津神の子だから、国津神の大己貴神よりも少彦名神の方が立場は上ということになる。 『古事記』では神産巣日御祖命は少彦名神に葦原色許男命と兄弟となって国を作り固めよと命じたといっている。これは天津神の神勅であり、いわば絶対命令だ。それを何の理由もなく途中で放り出してどこかへ去ってしまうとは考えにくい。 少彦名神が殺されたのだとしたら、その犯人は誰かということになる。 一番疑わしいのは大己貴神だけど必ずしもそうとは限らない。天津神の子を殺したとしたらタダでは済まない。 杵築大社では少彦名神を祀らず、沈黙を守っている。つまり黙秘して口を閉ざしている。 他に容疑者がいるかというと、これはもう天津神の誰かだろう。大己貴神に黙っとけよと命じられる人物だ。 大胆な推理をいってしまうと、少彦名神は天若日子(アメノワカヒコ)なのではないか? ほとんどの人はそんな馬鹿なと相手にしないかもしれないけど、それなりに根拠はある。
高御産巣日神と天照大御神は天津神が葦原中国を治めるに当たって天菩比神(アメノホヒ)を遣わすも、大国主神の側について帰ってもこないし報告さえしない。仕方ないので他に誰かいないか神々に訊くと、思金神(オモイカネ)は天津国玉神(アマツクニタマ)の子の天若日子(アメノワカヒコ)がいいと提案して承諾される。 天津国玉神が誰の子かは示されていないものの、大国主神(大己貴神)の別名の宇都志国玉神(ウツシクニタマ)を連想させる。 天の国玉と”写し”の国玉はひとりの人物の表と裏とも考えられる。 天若日子も大国主神の娘の下照比売(シタテルヒメ)を娶って葦原中国で暮らして8年も音沙汰がない。 そこで雉(きじ)の鳴女(ナキメ)を遣わして問いただすと、天佐具売(アメノサグメ)がこの鳥の鳴き声は不吉だから射殺してしまうがいいといい、その言葉を聞き入れた天若日子は天津神からさずかった天之波士弓(あめのはじゆみ)と天之加久矢(あめのかくや)を使って殺してしまった。 するとその矢は天照大御神と高木神(タカギ)のところに届き、高木神がもし邪な心を持っていたら天若日子は死んでしまうだろうと言挙げした上で矢を投げ返すと、矢は寝ている天若日子の胸に刺さって天若日子は死んでしまった。 それを見た妻の下照比売の鳴き声が高天原の天津国玉神たちの元まで届き、天津国玉神やその妻たちは葦原中国に降りていって葬式をすることになる。 そこへ弔問客として現れたのが阿遅志貴高日子根神(アジスキタカヒコネ)だった。 阿遅志貴高日子根神は大国主神と宗像三女神の多紀理毘売命(タギリヒメ)の間の子とされる人物だ。 その阿遅志貴高日子根神を見た天津国玉神と妻は私たちの子は死んでいなかったと手足にすがって哭き悲しんだ。なぜなら、天若日子と阿遅志貴高日子根神は”容姿がそっくり”だったからだ。 死人と間違われたと怒った阿遅志貴高日子根神は持っていた十拳剣(大量または神度剣)で喪屋を破壊して足で蹴飛ばした。これが美濃国の喪山(もやま)になったという。
どうしてこの話から少彦名と天若日子と同一といえるか疑問に思うだろうけど、ここにはいくつかの符号が隠されている。はっきり書けなかったので匂わせるにとどめたか、こういうに書いておけば分かるだろうと考えたのか。 この記事によると、天若日子殺しの犯人は高木神ということになる。高木神は一般的に高御産巣日神のこととされるのだけど、だとするとどうしてここで急に高御産巣日神から高木神になったのか。天若日子殺しの犯人として高御産巣日神を名指しするのがはばかられたのか。 天若日子の死を聞いて唐突に登場した阿遅志貴高日子根神が天若日子と瓜二つだったというのも何かを暗示している。顔がそっくりだったというだけで親が我が子を見間違えるはずもない。 アジスキタカヒコネの名前を分解すると、アジスキ-タカヒコ-ネになり、アメノ-ワカヒコとはタカヒコネ-ワカヒコの関係になる。 アジスキタカヒコネは”ネ”がつく神名の数少ないうちのひとりだ。 少彦名/少名毘古那神をほとんど誰も疑わずに”スクナヒコナ”と読んでいるけど、少/少名を”スクナ”と読むとはどこにも書いていない。現代人の感覚では少ないの”スクナ”だから違和感はないのだけど、少や少名を”スクナ”と読むのは間違いではないのか。記紀が描いた小人のイメージに引きずられているともいえる。 『古事記』は少名毘古那神【自毘下三字以音】と注釈している。これは、毘古那は音で読みますと指定しつつ、少名を音では読まないといっているということだ。 少の読み方にはいくつか例があるのだけど、たとえば少童と書いてワタツミと読んだり、少宮と書いてワカミヤと読んだりする。 だとすれば、少彦名は”ワカヒコナ”になるのではないか? ワカヒコという名の神、それはつまり、アメのワカヒコだといっているととることもできる。 あるいは、上にも書いたように少彦名は少彦根ともいわれていて、阿遅志貴高日子根神の”タカヒコネ”に通じる。 ワカヒコネがタカヒコネになったと考えたらどうだろう。 少彦名が天若日子だとしても、天若日子と阿遅志貴高日子根神は同一ではない。しかし、そっくりではある。 それはつまり、天若日子=少彦名の地位や名前などを乗っ取ったのが阿遅志貴高日子根神なのではないか。 だからアジスキは両面宿儺(りょうめんすくな)という言い方ができる。ふたつの面(かお)を持つ”スクナ”だ。 少彦名こと天若日子殺しの犯人はズバリ、阿遅志貴高日子根神だと言い切ってしまおう。 高木神は高御産巣日神のことではなく、阿遅志貴高日子根神のことではないのか。 付け加えると、大国主=大国玉であるなら、少彦名=天若日子と大国主=大国玉は親子関係であり、母は別ながら大国主=大国玉の子である阿遅志貴高日子根神は母違いの兄弟となり、兄弟殺しということになる。 天若日子には別の名前がある。それは、天火明(アメノホアカリ)である。 ここで上に書いた能登生国玉比古神社の伝承がつながってくる。少彦名神は市杵嶋姫命を娶って菅根彦命を生んだといっている。 京都丹後一宮の籠神社(このじんじゃ/web)の祭神であり、長く社家を務めている海部氏(あまべうじ)の祖でもある彦火明命(ヒコホアカリ)の妻が市杵嶋姫命なのだ。
ひとつの物語のふたつの視点
国譲りの話と国作り(国堅め)の話は視点を変えたひとつの物語だということに気づけば、あながち根拠のないものではないと思ってもらえるかもしれない。 高天原から葦原中国を見たのが国譲りで、葦原中国から見た話が国作りという見方ができる。 大国主からしたら少彦名=若日子がやってきて共に国作りをすすめていたのに高天原の阿遅志貴高日子根神に少彦名が殺されてしまって国譲りを迫られ、それに従わざるを得なかった。逆らったら少彦名と同じように殺されてしまう。少彦名殺害についても口をつぐむしかなかった。そのため祀ることもできなかった。 これが事件の真相だと声高に主張するつもりはもちろんない。ひとつの歴史推理ものとして楽しんでいただければ。 ただし、まったくの思いつきで書いているわけではないのです。
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