浅井氏と井田村の氏神
読み方 | はちまん-じんじゃ(いだ) |
所在地 | 尾張旭市井田町1丁目218 地図 |
創建年 | (伝)明徳年中(1390-1394年) |
旧社格・等級等 | 旧指定村社・十一等級 |
祭神 | 誉田別命(ホムタワケ) 大山津見命(オオヤマツミ) |
アクセス | 名鉄瀬戸線「三郷駅」から徒歩約12分 |
駐車場 | なし |
webサイト | |
例祭・その他 | 例祭 10月15日(変更している可能性あり) 特殊神事 7月10日 百灯明祭(夏祭) 打ちはやし |
神紋 | |
オススメ度 | * |
ブログ記事 |
井田城主の浅井氏が創建という
江戸時代は井田村の氏神だった。
社伝によると、井田城の城主だった浅井玄蕃允が明徳年間(1390-94年)に京都の石清水八幡宮(公式サイト)から勧請したという。
井田城を築城したのも同じ時期というから、城と八幡がセットだっただろうか。
八幡神社から見て400メートルほど南西の八反田公園あたりに井田城があったようなので、神社は城の鬼門を守護する役割もあったかもしれない。
浅井玄蕃允については詳しい情報がなくてよく分からない。
1390年代といえば南北朝時代の終わりくらいで(1392年まで)、新居村を開拓した水野良春が亡くなったのが1374年なので、その少し後ということだ。
井田城と新居城は2キロちょっと離れている。
浅井氏の出自に関しては不明ながら、室町期の城主として浅井源四郎や浅井与九郎の記録があることから、井田村を統治していた一族だったと考えられる。
始まりが南北朝時代だったのか、それより以前だったかということでいうと、もっと遡りそうな気はする。
井田村があったのは矢田川と瀬戸川の合流地点の少し北西で、洪水の危険性はあるものの、土地が肥えていて人が暮らすには適した場所だったのではないかと思う。
浅井というと近江の浅井長政がよく知られている。その浅井氏と関係があったかどうかは分からないのだけど、尾張旭や瀬戸は浅井姓が多い。写真家の浅井愼平は瀬戸出身だし、あの一家は陶芸一家なので、古くから土着していただろうと思う。
尾張でいうと、一宮や稲沢に浅井の地名があるので、そちらから流れてきた可能性もある。
近江の浅井氏は”あざい”と濁るのだけど(濁らないという説もある)、尾張の浅井氏がどうかは不明。
戦国時代になると、井田城は1561年まで林三郎兵衛正俊が城主となっていたという。この林三郎兵衛正俊は織田信長に仕えて瀬戸の菱野城の城主でもあったことからすると、この頃までに尾張旭も信長の勢力下に入って浅井氏は滅ぼされたか追われたかしただろうか。
昭和53年(1989年)に行われた調査により、戦国時代の井田城は東西約66メートル、南北約67メートルの規模で、土塁と空堀があったことが分かった。
竈跡や井戸跡、多くの陶器類も見つかっていることから、生活する館でもあったようだ。
江戸時代の書
ここで江戸時代の書を見ていくことにしよう。
1670年頃にまとめられた『寛文村々覚書』の井田村の項はこうなっている。
井田村 山田庄
家数 拾四軒
人数 七拾壱人
馬 七疋社弐ヶ所 内 八幡 山神 新居村祢宜 与太夫持分
社内壱反九畝弐拾歩 前々除古城跡壱ヶ所 先年浅井源四郎居城之由、今ハ畑ニ成
『寛文村々覚書』
古城跡壱ヶ所 先年浅井与太郎居城之由、今ハ畑ニ成
古城跡壱ヶ所 先年林三郎兵衛居城之由、今ハ畑ニ成
これによると、井田村の村域には城が3つあったようで、それらは江戸時代の前期までにはすべて畑になっていた。
3つの城のうち2城は浅井氏が持ち、1城を林氏が持っていたといっている。
林三郎兵衛が井田城で、浅井源四郎は井田城主の浅井玄蕃允の弟のこととされるのだけど、戦国時代と南北朝時代では全然時代が違っているので、この伝承はあまり当てにならないかもしれない。
浅井与太郎については不明で、井田東城があったようだけど、遺構は見つかっておらず、場所もはっきりしない。
当時の家数が14軒というのは非常に少なく、小規模集落だったことが分かる。
東に隣接する瀬戸川村は更に小さく、家は6軒しかなかった。
距離も近くていっそ合併してもよさそうなのにしなかったのは、住んでいる人たちの関係性が親戚とかではなく遠かったからだろうか。
神社は八幡の他に山神があったようで、新居村の祢宜の持分になっている。
井田村には祢宜がいなかっただろうか。
瀬戸川村にも山神があったものの、井田の八幡が井田村と瀬戸川村両方の氏神になっていたという。
『尾張徇行記』(1822年)は、『覚書』の内容を書きつつ、新居村社人谷口仁太夫書上にあることを書いている。
「新居村社人谷口仁太夫書上ニ、八幡社内一段八畝二十歩前々除、勧請年紀ハ不知、再建ハ貞享三年寅年成ニアリ、山神社内一畝歩前々除、勧請年紀ハ不知、再建ハ寛文十一辛亥年ニアリ」
『尾張徇行記』
八幡と山神の創建年は不明としつつ、再建は八幡が貞享3年(1686年)、山神が寛文11年(1671年)といっている。
井田村の様子についてはこんなふうに書いている。
「小村ニテ一村立ノ所ナリ、小百姓ハカリニテ農業ヲ以テ専ラ生産トス」
『尾張徇行記』
『尾張徇行記』は家数や人数について書いていないのだけど、江戸時代を通じてあまり人は増えなかったようだ。
「用水ハ狩宿川ヨリ引来レリ、南ニ山口川アリ」という記述から、今の瀬戸川を狩宿川と呼び、矢田川を山口川と呼んでいたことが分かる。
『尾張志』(1844年)は、「八幡社 井田村にあり 末社山神あり」とだけ書いている。
この頃までには山神は八幡の末社扱いになっていたようだ。
少し補足
『愛知縣神社名鑑』でもう少し情報を補足しておく。
「創建は明徳年中(1390-4)浅井の某城主がこの地に氏神として祀る。貞享三年(1686)八月、井田村、瀬戸川村の氏子により社殿を建て替え、宝永七年(1730)十一月、御屋根葺替えの棟札が残る。
『愛知縣神社名鑑』
明治5年村社に列格する。
昭和13年8月、拝殿を改築、同年9月23日、供進指定社となる。
同37年3月、本殿銅板に葺替え、同61年7月20日祭器庫を建造境内の整備を行う。」
神社の言い伝えの明徳年中(1390-1394年)を創建年としつつ、創建者については井田城主の浅井某としている。
貞享3年(1686年)の再建は井田村だけでなく瀬戸川村の氏子も関わっていたようだ。
小さな村の小さな神社だったにもかかわらず、昭和13年(1938年)に供進指定社になっている。
正式には”神饌幣帛料供進神社”しんせんへいはくりょうきょうしんじんじゃ)といって、地方公共団体から神饌幣帛料の供進を受けたことを意味する。
この資格を得るには、古くからある神社で神職が常駐していないといけなかったので、戦前までの八幡社はなかなかの神社だったということだろう。
昭和37年に本殿の屋根を銅板に葺き替えたとあるから、それ以前は檜皮葺だっただろうか。茅葺きではないと思うけど。
絵図と今昔マップで辿る井田村の変遷
井田村の絵図は寛政5年(1793年)、天保15年(1844年)、不明(嘉永2年(1849年)か)の3枚が残っている。
いずれも簡略なもので、絵師の手によるものではなさそうだ。
寛政5年の絵図を見てみる。
中央北寄りに民家が集まっていて、”口内”とある。
その東に氏神と山神がある。
民家があるのは今の井田集会所や井田公園があるあたりで、住所でいうと井田町1丁目に当たるところだ。
その南は矢田川近くまで”本田”が広がっている。
その本田の南西と北西の2ヶ所に”古城”とある。
北西の方が井田城で、南西が瀬戸川城だろう。
おやっ? と思ったのが、集落の西、古城の北に大きな木と”山神”が描かれていることだ。
更にその南西にもやや大きめの木と”弁天”がある。
江戸時代の書には載っていないものの、そういう社があったということだ。
天保15年の絵図を見ると、寛政5年から少し変わっている点がある。
中央の田んぼは”御本田 八反田”となっており、その南は”御見取所”となっている。
これは新たに開拓した田んぼか畑で、納税前、納税の見込みがある田畑といった意味だと思うのだけど、約50年前の絵図では本田だったのに見取所になってしまった理由が分からない。
別の場所のことかもしれない。
南西に描かれていた”古城”が消えている。
それから、大きな木と山神だったところは”御日墓”になっている。
そんな巨木はとっくになくなっているけど、これだけ大きく描かれているということは、江戸時代は井田村のシンボル的存在だったのではないだろうか。
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、この頃までに井田村と隣の瀬戸川村はほとんど同一化していて、三郷とある。
明治11年(1878年)に井田村と瀬戸川村と瀬戸川を越えた狩宿村が合併して三郷村になった。
狩宿村だったところは狩宿三郷となっている。
明治に入って民家はけっこう増えた。
ただ、南は田んぼが広がり、北はほぼ未開拓の山地というのは変わっていない。
この後、明治38年(1905年)に瀬戸自動鉄道が開通して、村の北に三郷駅ができたことで、村は大きく様変わりすることになる。
まず北の未開地が開発されて宅地となり、村の中心は北へと移っていった。
鉄道路線が通ったことで瀬戸街道は南に付け替えられた。
南の田んぼエリアに工場が建ったのは1960年代以降で、旭中学の分校の旭東中が開校したのは昭和51年(1976年)なので、田んぼ風景が急速に失われたのはこの時代だ。
それでも、かつての稲葉村地区は今もまだ田んぼがけっこう残っている。
不明な点も残しつつ
いくつか不明な点や疑問なども残しつつ、井田村と八幡の歴史をなんとなく掴めたような気がする。
ただ、一番分からないのは、浅井氏がどうしてこの地に城を構えたのかということだ。
浅井氏にとってこの地が先祖伝来の土地だったからかもしれないけど、そもそも浅井家は南北朝時代の武家だったのかどうかも定かではない。
南北朝時代の終わりに、こんな地方でも争いは起きていたのだろうか。
本当に浅井氏が八幡を祀ったのであれば、武家的といえなくはない。
鎌倉以来、武家が八幡を祀るのはスタンダードなことだ。
しかしながら、井田城以前に井田村があったとしたら、また話は違ってくる。
村の守り神として別の神が祀られていたかもしれないし、もしかするともっと古い神社かもしれない。
南北朝時代まで何もなかった土地にいきなり城を3つも建てるというのは、ちょっと考えづらい。
ここまで見てきた以上の史料や情報がないので想像するしかないのだけど、個人的な感触として、井田の八幡の起源はかなり遡るような気がしている。
作成日 2024.4.28