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真清田弘法


弘法大師空海と龍神石の伝承を伝える



真清田弘法

読み方ますみだ-こうぼう
所在地名古屋市千種区法王町1丁目1 地図
創建年不明
旧社格・等級等不明
祭神不明
アクセス地下鉄東山線「覚王山駅」から徒歩約10分
駐車場 あり(日泰寺境内)
その他 
オススメ度

 覚王山日泰寺(かくおうざんにったいじ/Web)の境内に鳥居を持つふたつの社が祀られている。
 日泰寺入り口の外から行かないと行けないので日泰寺の外かと思ったら敷地としては境内に当たるようだ。ただし、管理をしているのは日泰寺ではなく外部の人らしいので、日泰寺とは無関係といえばそうなのかもしれない。
 正式名なのかどうかは分からないのだけど、真清田弘法(ますみだこうぼう)と呼ばれている。社なのに弘法とは? 真清田といえば尾張国一宮で現在の一宮市にある真清田神社(Web)を当然連想する。
 この社にまつわる伝承を詳しく書こうとすると長くなる。詳細な調査をしてサイトにまとめている方がいるのでそちらを読んでもらった方が話が早い。
 真清田神社の神体石と覚王山日泰寺の真清田弘法(外部サイト)
 とはいえ、丸投げというのもどうかと思うので簡単にまとめてみたいと思う。



 始まりは龍神石と呼ばれるひとつの石だった。
 真清田弘法に「真清田弘法大師縁記」と題して次のように書かれた案内板がある。



「御神殿に奉安せるは昔弘法大師巡錫の砌り尾張一の宮真清田神社に崇納し奉る念持石にして真清田神社の御神体なり
 明治維新廃仏毀釈の際神社より分離し爾来竊に護持し其の縁由により真清田弘法と称すれども本地には難陀跋難陀の二大竜王也経に曰く此の二大竜王は首上に七頭竜あり通力自在にして我を念ずる者は願いに応じて衆生を利益し給う
 其の誓願に曰く
 一には命欲を離れて我を祈念する者は福を受くること佛に等し
 二には瞋恚を離れて我を念ずる者は寿を迎えて保つこと佛の如く成らむ
 三には愚癡を離れて我を祈念する者は楽を受くること佛の願に等し」



 一宮市の真清田神社には『神池麗水と龍神信仰』と題する案内書がある。



「平安時代(弘仁年間810年)には、弘法大師が雨乞の祈願をされ、その際八頭八尾の大龍は天に逆い自らを犠牲にして、降らせてはならない雨を降らせ、人々に恵みを与えた換りに命を断ち、この神池深くに御鎮まりになられた話は、あまりにも有名であります。時を同じくして、弘法大師より龍の頭の如き天然石で、水晶が白き歯の如く並んでいる龍神石を奉納になられ、現今八龍神社に奉祀されております」



 要約すると、弘法大師空海が雨乞いのために龍神に願ったところ、天に逆らって空海の願いを聞き届けて雨を降らせた龍神は自らの命を犠牲にすることになり、その化身ともいうべきなのが龍神石で、その石を空海は尾張を訪れた際に真清田神社に奉納した、ということだ。
 その石を祀る社がどうして日泰寺境内と真清田神社の二ヶ所にあるかというと、明治の神仏分離の際に真清田神社から出されたものが巡りめぐって日泰寺に辿り着き、それが真清田弘法なのだけど、ふたたび真清田神社に戻されることになり、今は真清田神社境内社の八龍神社で祀っているということになる。
 流失したのが明治2年(1869年)、日泰寺に持ち込まれたのが昭和5年(1930年)、真清田神社に戻されたのが昭和61年(1986年)で、真清田神社に八龍神社が建てられたのが平成元年(1989年)のことだ。
 話の流れだけ聞けばそう複雑なことではないのだけど、いくつか引っかかる部分があるにはある。
 そもそも龍神石とは何で、空海にまつわる伝承はどこまで事実を反映したものなのか。



 真清田神社の歴史は古く、初代神武天皇時代とも、第10代崇神天皇時代ともいわれる。
 その成り立ちや祭神については不明な点が多く、よく分からない神社だ。
 尾張国を代表する神社である熱田神宮Web)が三宮で、真清田神社がどうして一宮なのか?(二宮は犬山市の大縣神社/Web
 祭神については現在は尾張氏初代の天火明命(アメノホアカリ)となっているけど、これは江戸時代末にそうしただけで、それ以前は大己貴命(オオナムチ)国常立尊(クニノトコタチ)などとされていた。
 ではアメノホアカリは後付けで根拠がないかといえばそうともいえない。祭神が定まらないのは支配者が入れ替わったせいとも考えられる。
 もともとは尾張氏がアメノホアカリ(もしくは尾張氏が祀る古い神)を祀って建てたのが、別の勢力によって乗っ取られて違う神を祀るようになった可能性がある。
 創建の言い伝えとして初代神武天皇という話があることにそのあたりが表れているように思う。
 実際の創建(創祀)はそれよりも更に古いのではないか。それを神武時代としたということは、乗っ取ったのは物部系かもしれない。
 このあたりの話を深追いすると長くのでここではやめておく。
 話を龍神石に戻すと、本社裏手に盛り土をしてそこで祀っていたという話がある。



 奈良県桜井市の大神神社(Web)神官の遠山正雄が 『尾張地方のイハクラに就いて』(1932年)と 『愛知県一ノ宮国幣中社真清田神社本殿の後方にありしもの』(1935年)の中で龍神石について触れている。
 それによると、古くから本殿後ろの森の中の土壇上に祀っていたのだけど、神主家の人間が持ちだして家で祀っていたところ不幸が続いたため、他人に譲り渡し、それがあちこち巡った後、日泰寺に持ち込まれて祀られたというのだ。
 その中の気になる記述として、古図には社の前に三ツ鳥居が描かれているという点だ。
 三ツ鳥居は明神鳥居の両脇に小型の鳥居がくっついた形をしている特殊なもので、大神神社系の神社にあるものだ。三輪鳥居とも呼ばれる。
 もしそれが本当に三ツ鳥居だとすると、その龍神石は大神神社の神である大物主神(オオモノヌシ)を祀る神という認識だった可能性が高い。龍神石と空海とオオモノヌシはどこかで結びつくだろうか。あるいは、空海よりも後の時代に建てられたものなのか。
 真清田神社によると、龍神石はもともと現在もある厳島社の境内社として祀られていたというのだけど、別の境内社の三明神社で祀っていたという話もある。
 何やら”三”というのがひとつのキーワードとしてありそうだ。



 龍神石は真清田神社の案内にあるように「水晶が白き歯の如く並んでいる」といった姿をしているらしい。江戸時代は水精石とも呼ばれていたともいうから、実際に水晶なのかもしれない。
『真清田神社江戸時代の神寶と流出』には、「龍の頭の如き天然石で、総高凡一尺、奥行一尺三寸位、頭部高凡五寸五分、下唇長く正面へ凸出し、一寸乃至二寸の水晶が、白き歯の如く並んでいる」と書かれている。
 真清田神社に戻ったなら神職の人が見ているだろうに、詳しくは語られない。真清田神社に問い合わせても分からないという回答とか。
 空海が手に入れる以前は別の場所で祀られていたという話もあるから、龍神石自体かなり古いものとも考えられる。
 それにしても空海は本当に尾張国を訪れたのかどうかというのも引っかかる点のひとつだ。空海の伝説は日本全国にたくさんあってすべてが本当であるはずもなく、どこまでが事実なのかは知るよしもない。
 尾張国と空海の関わりでいうと、熱田社から持ち出した剣を龍泉寺(Web)の境内に埋めたという伝承がある。まったくの作り話とも思えないから、それに類することがあったのではないかと思う。
 空海というと大昔の人という印象を持っている人が多いと思うけど、古代寄りか現代寄りかといえば現代に近い人だ。9世紀というと最近でもないけど大昔でもない。
 真清田神社創建云々というのは紀元前とか紀元後すぐの話なので、空海が生きた時代から見ても大昔の出来事だ。平安時代までには真清田神社も幾多の変遷を経ている。



 日泰寺は明治の終わりから大正にかけて建てられた新しい寺だ(明治36年に建て始めて大正7年に完成)。
 インドがイギリスの植民地だった1898年(明治31年)、イギリス人地方行政官のウイリアム・C・ペッペが自分の荘園で石の櫃(ひつ)を発見して開けてみたところ、金銀財宝や水晶壷に入った人骨などが出てきた。
 そこに書かれた古代文字を解読したところ、釈迦のものだということが分かり、世界中が大騒ぎになった。それまで釈迦は伝説上の人物で実際には存在しないとされていた。
 骨はいったんイギリスに持ち込まれ、その後、仏教国だったシャム(今のタイ)の王室に寄贈されることになった。
 それを聞いた仏教国はうちにも分けて欲しいと申し出たうちのひとつに日本も入っていた。
 分骨が決まると日本でも大騒ぎとなり、どこに寺を建てるかで大揉めに揉めて京都と名古屋の一騎打ちとなり、最終的には名古屋が勝利して日泰寺が建てられることになった(当時タイはシャムといっていたので日暹寺(にっせんじ)という名前だった)。
 このあたりの詳しいいきさつについては以前ブログに書いた。興味ある方は読んでみてください。
 名古屋はもっと日泰寺のことを全国に宣伝してもいいんじゃないか(ブログ記事)



 現在の真清田弘法には社が2つある。向かって左がやや大きく、右は小さめだ。
 龍神石を祀るためなら一社でいいのに二社ある理由はよく分からない。
 龍神石を真清田神社に返したなら社はもう空っぽなのではないかとも思うのだけど、二社あることからしても龍神石以外にも何かを祀っているのだろう。
 日泰寺は上に書いたように仏舎利を祀るために明治の終わりに建てられた寺だから神仏習合とはまったく関係ない。鎮守社を祀る理由もない。
 宗派もなく檀家も持たない特殊な寺で、各派が持ち回りで管理している。
 龍神石と水精石は別物ではないかという説もあるだけど、その点についてもよく分からないとしか言いようがない。
 ただ、こういった伝承というのは必ず何らかの歴史を伝えていて、単なる作り話や嘘ということではない。空海の名前が出てくるのも、何らかの関わりがあるということだ。



 日泰寺というのはその成り立ちから来るのだろう、お寺臭というのがごく弱い無味無臭の空気感を持っている。本堂の中はさすがにお寺感が強いのだけど、境内は普通の建物の敷地とほとんど変わらない。良くも悪くも緊張感がない。
 日泰寺は日本で唯一の公式な仏舎利を祀る寺だ。それは京都にも奈良にもない。
 にもかかわらず、知名度がものすごく低い。愛知県外の人がどれくらい知っているのだろう。名古屋市外の人ですら知らない人が多いのかもしれない。もう少し有名になってもよさそうなものだと思うのだけど、日泰寺はあれでいいのかもしれないと思い直す。
 何かの折に日泰寺を参拝したときは真清田弘法にもちょっと寄っていってください。こんな歴史があることに思いをはせながら。




作成日 2020.10.8


ブログ記事(現身日和【うつせみびより】)


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