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岩割瀬神社(鹿乗町)

”いわりぜ”って何だろう

読み方いわりぜ-じんじゃ(かのりちょう)
所在地瀬戸市鹿乗町1353 地図
創建年不明
旧社格・等級等旧無格社・十四等級
祭神須佐之男命(スサノオ)
アクセスせとコミュニティバス「鹿乗町公民館前」より徒歩約24分
駐車場なし
webサイト
例祭・その他例祭 10月15日直前の日曜日(要確認)
神紋
オススメ度
ブログ記事

これはもはや廃社なのか?

 なんか、荒れてるな、というのが第一印象だった。
 まず外観の写真を撮り、入り口のフェンスを開けようとして、ん? 開かない?
 鍵が掛かっている?
 押したり引いたりしてみたけど、フェンスは開かない。
 固く閉ざされた入り口フェンスの前に立ち尽くして思う。

 ここはもう、廃社なのか? と。

 すぐ横を通っている県道15号線は道幅の狭い対面道路ながら交通量がけっこうある。
 名古屋北東部から多治見方面への抜け道として利用する人が多いのだろう。
 片側は谷を流れる庄内川、もう一方は山が迫り、これ以上道幅は広げられない。当然、歩道はない。
 神社はこの道路沿いの斜面にへばりつくように建てられている。
 入り口のフェンスの先に登り階段があって、鳥居や社号標は建っていない。
 木製の案内板のようなものは倒れていて、何が書かれていたか読み取ることができない。
 もう少し引いた位置から写真を撮ろうと二歩、三歩と下がると車にひかれる。
 これではどうにもならないと諦めた。

 ネットに2010年代に撮られた写真が載っていて、その頃すでに本社は崩壊している。
 上の写真に写っている拝殿はまだなんとか姿を保っているものの、だいぶガタガタになっているので長くは持たないかもしれない。
 なにより神社として呼吸している感じがない。
 廃社の手続きはまだとしても、もうこの神社は生きていないだろうと思う。
 それとも、お世話をする人がいてかろうじて命脈を保っているだろうか。

 フェンスを強引にこじ開けたり、乗り越えたりしてでも参拝するぞという気になれなかったので、入り口から遙拝するだけになってしまったのが、ちょっと心残りだった。

下水野村の枝郷

 神社がある鹿乗町(かのりちょう)は、江戸時代の下水野村(しもみずのむら)で、その下水野村の枝郷(支村)の岩割瀬(いわりぜ)集落にあった神社だ。
 水野村は上・中・下の三村に分かれていて、下水野は愛知県上鉄道の「中水野駅」(地図)の西側が村域になる。
 北端は鹿乗町交差点があるあたりで、南の境はイオンがあるあたりまでだ。
 西は下志段味と隣接していて、東谷山の東半分は下水野村に属していた。

 水野の地名について、津田正生(つだまさなり)は『尾張国地名考』の中でこう書いている。

水野村(みづの) 上中下の三村あり
支村六 園洞(そのほら) 餘床洞(ヨどこほら) 並に上水野支なり 稻込(いなこめ) 片落(かたおとし) 並に中水野支 岩割瀬(いわりぜ) 入尾(いりを) 並に下水野村支

正字水沼(ぬ)なり古言に沼をぬといひ野も亦ぬといふより誤れり

 もともとは水沼が正しくて、それが水野に転じたというのが津田正生の主張だ。
 庄内川などが氾濫するとすぐに沼のようになったから水沼と呼ばれたというのだけど、この説には賛同できない。
 水野の地名はずっと古くからあったはずで、こういう地形由来の地名は中世以降のところが多いから、”みづの”という音から考えないといけない。
 それが”みぬ”だったとしても水沼からではないだろう。
 何か確信があるわけではないので、ここはいったん保留とする。

 岩割瀬(いわりぜ)という地名はけっこう珍しい。
 ”いわりせ”ではなく”いわるぜ”と濁るのにも何か理由があるはずだ。
 梶田義賢『水野のあゆみ』は「玉野川(庄内川)に橋がなかった頃、岩を割り水中に投げた飛石で川を渡ったので、岩割瀬の地名がついたと聞くが、真偽は確かではない。」と書いているけど、これはどう考えても後付けの作り話で、そんなわけはない。
 このあたりの庄内川は水深があって川幅も広いから、岩を割ってそれを飛び石にして渡るなんてことは不可能だ。
 玉野橋(かつては岩割瀬橋)が架かる前は岩瀬の渡しがあって船で渡っていたといわれている。
 じゃあ、”いわりぜ”の由来は何なんだと問われると、答えることができない。
 集落誕生の経緯や神社なども絡めて、最後にもう一度考えることにしたい。

 鹿乗町(かのりちょう)という現在の地名もなかなか意味深で気になるところだ。
 鹿が乗る、鹿に乗るとなれば鹿島神を連想させる。

遺跡から見る水野郷

 瀬戸市全域の発掘調査がどの程度進んでいるのかは分からないのだけど、現在まで知られている範囲でいうと、上品野や赤津などから旧石器時代の遺物が見つかっており、その後の縄文時代の遺跡からしても、品野や赤津が古く、水野はやや遅れて人が暮らし始めた土地という見方ができそうだ。
 もちろん、現在知られているところだけで決めつけるのはよくなくて、そのあたりの含みは必要ではある。
 中水野駅前の内田町遺跡は縄文時代後期のものと考えられており、中世に至るまで継続して人が暮らしていたことが分かっている。
 ここは庄内川支流の水野川流域で、肥沃な土地で水の便がよかったのだろう。
 中水野駅北西の内田町1丁目で6世紀後半と考えられる荏坪古墳(えつぼこふん)も見つかっている。
 東谷山と水野郷の関係性をどう考えるかというのが問題ではあるのだけど、東谷山の山頂には4世紀前半まで遡る可能性のある尾張戸神社古墳(円墳)があり、その上に延喜式内とされる尾張戸神社が祀られている。
 もう少し引いた視点から、庄内川対岸の玉野や高座山まで含めて考えるべきだろうけど、話が広がりすぎるのでここではやめておく。

 平安時代の後期にこの地にやってきた平景貞が築いたとされる入尾城(いりおじょう)については、その跡地に立っている八幡神社(鹿乗町)のところで書くことにしたい。
 水野郷にあったとされる大平山城と一色山城についても、それぞれの地域の神社と絡めて紹介する。

鹿乗町と玉野のこと

 岩割瀬神社があるあたりは庄内川と山に挟まれていて、ほとんど平地がない。
 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見てもそれは分かる。
 わずかな平地に家が数軒描かれていて、この状況は江戸時代からほとんど変わっていなかっただろうと思う。
 現在においてもこの状況は続いている。

「水野の郷 今/昔」(web)は「岩割瀬の住民が庄内川対岸の荒野を開拓して移り住み、玉野という新しい郷を築き上げたと言われています。」と書いているのだけど、これはちょっとどうなんだろうと思う。
 再び今昔マップを見ると分かるけど、玉野は庄内川が大きく蛇行している沖積地で、農地に適した広い平地もあって、ずっと手つかずだったのは考えづらい。
 そのあたりについては、いずれ春日井編であらためて考えることにしよう。

 鹿乗町(かのりちょう)の由来については、ちょっと面白い話がある。
『角川日本地名大辞典』の中で紹介している話で、庄内川対岸の高蔵寺(こうぞうじ・天台宗)に、本尊の薬師如来は深淵より白き鹿に乗りて上がらせ給ふ霊像であり、鹿乗が淵と名付けられたところから来ているという縁起が伝わっているという。
 白い鹿というと、鹿島神の武甕槌(タケミカヅチ)が白い鹿に乗って大和(奈良)にやってきて春日大社(公式サイト)が建てられたという有名な縁起を思い起こさせる。
 それとは別に、薬師如来と白い鹿も縁があるようで、この話には何らかの根拠というか下地があるように思う。
 東谷山の神は対岸の高座山に鎮まった後に東谷山に移ったという言い伝えがあり、そのあたりも何か関係していそうな気がする。
 ただ、鹿乗という字に引っ張られすぎると本質を見失いそうで、”カノリ”という音の方が鍵を握っているともいえる。
 カ・ノリなのか、カノ・リなのか、カ・ノ・リなのか。
 何か思いつきそうで思いつかない。

もとは天王

 長い前置きを経て、ようやく岩割瀬神社の話になる。
『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。

創建については明らかではない。古くより鎮守の神として信仰あつく、明治6年据置公許となる。

 ”古くより鎮守”の”古く”がいつくらいを想定しているのかは分からないのだけど、岩割瀬の集落ができた時期とこの社が祀られた時期はイコールのはずだ。
 古ければ縄文時代だし、新しければ中世のいつかということになるだろうか。
 祭神は須佐之男命(スサノオ)となっているけど、江戸時代までは天王だった。
 氏子5戸は昭和時代のことなので、今はもっと減っているかもしれない。
 氏子がこれくらい少ないと維持は難しいというか無理っぽい。

 続いて江戸時代の尾張の地誌を確認してみる。
 まずは『寛文村々覚書』(1670年頃)から。

下水野村 枝郷 岩淵瀬

家数 弐拾九軒
人数 百四拾九人
馬 拾壱疋

薬師堂一宇 是ハ東谷山之内ニ有。
 中水野・中志談味祢宜 弥五右衛門・市之助持分

社六ヶ所 内 八幡 天王 山之神 権現三社
 社内四反式畝歩 東谷山之内 前々除
 右ノ 弥五右衛門持分

 下水野村全体では家数が29軒で、村人が149人となっており、小村の部類に入る。
 馬が11疋(頭)は多い方だ。農作業用というよりは街道筋で馬継をしていたのかもしれない。

 神社は6社。八幡が内田町の八幡神社で、天王が岩割瀬の岩割瀬神社ということは分かるのだけど、山之神と権現三社は現存していない。
 中でも権現三社が気になる。何権現だったのか。
 入尾城跡にある鹿乗町の八幡神社は載っていないようだ。
 薬師堂が東谷山の中にあるといっているけど、これは現存するのだろうか。
 白い鹿が薬師如来に乗ってきたという伝承と関わりがあるのかないのか。
 いずれも前々除(まえまえよけ)になっているので、1608年の備前検地のときはすでに除地だったということで、江戸時代前からあった神社ということになる。

 続いて『尾張徇行記』(1822年)の神社関連を見てみる。

社四区覚書ニ、八幡、天王、山神、権現三社境内四段二畝歩東谷山ノ内前々除、中水野村祢宜弥五右衛門持分

中水野村社人菊田和泉太夫書上ニ、神明村内一段一畝歩、八幡社内二段三畝歩、田辺権現社内二段五畝歩、山神社内二段三畝歩、天王社内二段一畝歩何レモ前々御除地、此五社勧請ノ由来ハ不伝ナリ

八幡祠、府志曰、在下水野村、祀応神天皇、国常立尊、宇賀神 瑞龍公命令重葺之

「八幡、天王、山神、権現三社」を社四区といっているので、権現三社を一つの神社と捉えていたようだ。
 三社を一ヶ所で祀るというのは、沓掛村の神明・白山・熊野のパターンに似ている(神明社(定光寺町))。
 唐突に神明が出てきてちょっと戸惑うのだけど、田辺権現という見慣れない神社に気持ちがいく。これが『寛文村々覚書』がいう権現三社なのだろう。
 それにしても、田辺権現というのは聞いたことがない。
 田辺は氏名なのか地名なのか、別の由来なのか。
 田辺というと、紀州熊野に田辺という地名があって、現在は闘雞神社(とうけいじんじゃ/公式サイト)と称する神社はかつて田辺の宮と呼ばれており、熊野三社権現を祀っていたから、その関係社かもしれない。

『張州府志』(1752年)に「天王祠 岩割瀬に在り 八月十四日神楽湯供」とあるそうなので(私は未確認)、スサノオ(牛頭天王)系の古い神社を思わせる。

『尾張志』(1844年)はどうなっているかというと、こうなっている。

神明社 八幡社 山神社 天王社 四社ともに下水野村にあり

 神明社が筆頭になり、権現三社が消えている。
 しかし、なくなったわけではなく、大正7年(1918年)に田辺社が内田町の八幡神社に合祀されたというから、その時期まではあったようだ。
 このとき一緒に神明と山神も合祀されたらしい。

あらためて下水野村と岩割瀬のこと

『尾張徇行記』は下水野村について以下のように書いている。

此村落ハ、南ノ方エビツルケ根ノ麓ニ本郷アリ、北ノ方ニ水野川アリ、昔時ハ此本郷水野川ノ北ノ方ニアリシカ、明和四亥年ノ洪水ニコトコトク家漂流セシニヨ リ、其後今ノ新田へ皆家ヲ移シ、山下ニ軒ヲ連ラヌ、小百姓ハカリ也、農事ヲ専ラ生産トス貧村也、水野川ノ北山ノ麓ニ農屋アリ、是ヲ四屋ト云、又東谷山東ノ 麓ニ村落一区アリ、是ヲ十軒屋ト云、是ハ往昔大森村ヨリ中志談味村ノ諏訪ノ原へカカリ、夫ョリ此地ヲ歴テ定光寺へノ山路アリシカ、此間二人家ナキコトヲ瑞龍公イカカト思食、本郷ヨリ農屋十戸移サシメ玉ヒ、其トキ御除地七段余ヲ賜ハルト也、今ハ二十戸ホトモアリ

 もともとの本郷は水野川の北にあったのが、明和四年(1767年)の大洪水で家屋などが流されたため、水野川の南に移ったというようなことが書かれている。
 この明和四年の大洪水は尾張各地に大被害をもたらして、矢田川の流路が変わったりもした。
 これを機に集落が移ったという話もたくさんある。
 移った後の本郷集落は現在の本郷町のあたりだ。
 本郷以外にも四屋や十軒屋などがあるといっている。
 四屋は今の内田町の北(愛知環状鉄道の四谷トンネルに名を残す)で、十軒屋は今の十軒町だ。
 十軒屋については、大森や志段味方面から定光寺へ向かうまでの道沿いに民家がないのはどうかと尾張藩2代藩主の光友(瑞龍公)が言い出して、本郷から10軒を移させたらしい。
 十軒町のあたりは今も広い田んぼが残っている。

 岩割瀬についても書いている。

支邑ヲ入尾嶋岩淵瀬ト云、入尾嶋へ玉野川ノ東岸水野川落合南ノ方ニアリ、農屋十戸ホトアリ、ココニ城墟アリ、前ニ記ス、玉野川ニ渡船アリ、冬ハ仮橋ヲカクルナリ、篠城庄中ノ人水野陣屋へ多クココヲ経歴ス、岩淵瀬ハ入尾島ノ東玉野川ノ辺リ山ノ麓ニアリ、農屋三戸アリ

「岩淵瀬ハ入尾島ノ東玉野川ノ辺リ山ノ麓ニアリ、農屋三戸アリ」
 入尾の東の玉野川(庄内川)あたりの山の麓で、農家が3軒あると。
 江戸時代後期の時点で農家が3軒しかないのに、それでも支邑扱いだったということは、何かこの地が特別視されていたのだろうか。
 今昔マップを見ても、なんで好き好んでここに家を建てて住もうと思ったんだろうと、不思議に思う。
 いつ頃の時代にどんな人たちがここに集落を作ったのだろうと考えてみても、上手く想像できない。
 岩割瀬の住民たちが対岸の玉野を開拓したという話が本当であれば、大部分はあちらに移っていったということだろうか。
 玉野橋を渡った玉野に、この地で命を落としたとされる南朝の後醍醐天皇のなか媛を祀る社や碑があり、その関係者が隠れ住んだのかと思ったりもするけど、根拠があるわけではない。

結局分からなかった岩割瀬

 ここまで書き進めながらずっと、岩割瀬の意味や由来を考えていたのだけど、結局思いつくことはなかった。
 ”イ・ワリ”だと思うのだけど、じゃあ”ゼ”はなんだということになる。
 清音の”セ”ではなく濁音の”ゼ”なのも意味があるはずだ。
 ”いわりぜ”を変換すると”岩rize”になった。何かのグループ名みたいだ。
 ここが”瀬戸”ということと何か結びつきがあるのかないのか。
 ”イ”を”割る”の意味だとしたら、”イ”が何を意味するのか。
 近くの”入尾(イリオ)”とも何か関連があるような気もする。
 入尾は尾張の人間が入ったとも取れる。
 ”イ”はイサナキ・イサナミの”イ”だ。
 ”イワリ”が別の音から転じたものとすると、もはやお手上げということになる。

作成日 2025.1.20

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