タケミカヅチ《武甕槌》

2019年12月28日

タケミカヅチ《武甕槌》

『古事記』表記 建御雷之男神・建御雷神
『日本書紀』表記 武甕槌・武甕雷男神・建雷命
別名 建布都神(タケフツ)、豊布都神(トヨフツ)・鹿島神
祭神名 建御雷命・他
系譜 (父)天之尾羽張神(アメノオハバリ/伊都之尾羽張)・火之迦具土神(カグツチ)(『古事記』/『日本書紀』一書)、 熯速日神(ミカハヤヒ)(『日本書紀』本文)、甕速日神(『古語拾遺』)
(子)天足別命(アメノタルワケ/天児屋命)
属性  
後裔 藤原氏
祀られている神社(全国) 鹿島神社(茨城県鹿嶋市)、春日大社(奈良県奈良市)、真上神社(秋田県男鹿市)、古四王神社(秋田県秋田市)、志波彦神社鹽竈神社(宮城県塩釜市)、椋神社(埼玉県秩父市)、大原野神社 (京都府京都市)、吉田神社(京都府京都市)、枚岡神社(大阪府東大阪市)
祀られている神社(名古屋) 八幡社春日社合殿(元中村)(中村区)、春日神社(大須)(中区)、八王子神社春日神社(北区)、神明社(荒子)(中川区)、鹽竈神社(西日置)(中川区)、味鋺神社(北区)
 伊弉諾尊(イザナギ)・伊弉冉尊(イザナミ)の神生みの場面において、『古事記』では出てこず、『日本書紀』一書(第六)のみがタケミカヅチについて書いている。
 火の神・軻遇突智(カグツチ)を産んだときイザナミは身を焼かれて死んでしまい、怒ったイザナギがカグツチを斬り殺したとき剣の鍔からそそいだ血から生まれたのがタケミカヅチという。
 最初に甕速日神(ミカハヤヒ)が生まれ、これがタケミカヅチの先祖といっている。あるいは、甕速日神に次いで熯速日神(ヒノハヤヒ)が生まれ、その次に武甕槌神(タケミカヅチ)が生まれたともいうとしている。
 それに先だって剣の刃からしたたる血が天の安河のほとりにたくさんある岩となり、これが経津主神(フツヌシ)の先祖だと書く。
 次に登場するのが葦原中国平定の場面だ。『古事記』ではこのときが初登場となる。
 地上を平定するために遣わした天菩比(アメノホヒ)と天若日子(アメノワカヒコ)が失敗し、今度は誰にしたらいいかと天照大神(アマテラス)は思兼神(オモイカネ)たちに相談したところ、天尾羽張神(アメノオハバリ)がよいだろうということになるのだけど、アメノオハバリはそれなら自分の子のタケミカヅチの方がいいでしょうと推薦したため、アマテラスはそれを聞き入れ、天鳥船神(アメノトリフネ)を添えてタケミカヅチを地上に派遣した。
 出雲の国に降り立ったタケミカヅチとアメノトリフネは、大国主神(オオクニヌシ)に国譲りを迫る。十握剣を波の上に逆さに立ててその剣にあぐらをかいたというシーンはよく知られる。
 オオクニヌシは息子たちに訊いてほしいと言うので、まず八重事代主神(コトシロヌシ)に問うたところあっさり了承してコトシロヌシは隠れてしまった。
 次に建御名方神(タケミナカタ)に訊ねたところ、自分と力比べをしようではないかというのでタケミカヅチは戦うことになるも、勝負はあっけなくタケミカヅチの勝ちとなり、タケミナカタは諏訪まで逃げていき、国譲りを了承してここからもう出ませんと誓いを立てたとしている。
 国譲りの場面において『古事記』ではフツヌシが登場しない一方、『日本書紀』ではフツヌシが主役として描かれる。
『日本書紀』本文ではアマテラスではなく高皇産霊尊(タカミムスビ)が神々を集めて地上に派遣する神選びを主導している。そこでは皆がフツヌシがいいでしょうというのでそうなろうとしていたところ、タケミカヅチがちょっと待ったをかける。どうしてフツヌシだけが丈夫(ますらお)で自分は丈夫ではないのかと激高するので仕方なくという感じでフツヌシとともに派遣されることになる。
 この後の展開も『古事記』とは違っていて、大己貴神(オオアナムチ)に国譲りを迫ると子のコトシロヌシに訊ねてほしいというところまでは同じなのだけど、この後タケミナカタは出てこない。このあたりの微妙な違いは何かを暗示しているかもしれない。
 タケミカヅチがもう一度登場するのは、神武東征の場面だ。
 神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコ)が大和入りできずに熊野で大苦戦しているとき、アマテラスとタカミムスビ(高木神)がタケミカヅチに手を貸してやるといいというと、タケミカヅチは平定のときに使った横刀を下せば事足りると答え、高倉下を通じて(夢のお告げで)カムヤマトイワレビコに渡されると敵はひとりでに切り倒されてしまったと『古事記』は書いている。
『日本書紀』はこのあたりはあっさりとした短い記述で、展開はほとんど同じながらタカミムスビは登場しない。
 このとき遣わされた剣は「ふつのみたま」で、後に石上神宮(web)で祀られることになる。
 タケミカヅチというと、常陸国一宮の鹿島神宮(web)の祭神としてよく知られている。ただし、どうして関東の古社で無関係とも思えるタケミカヅチが祀られることになったのかはよく分かっていない。古くは香島の天の大神といい、『常陸国風土記』にもタケミカヅチの名は登場しない。『古事記』、『日本書紀』に鹿島神宮についての記述はない。
 奈良の春日大社(web)は768年に鹿島の神を奈良に呼んで祀ったとしており、『古語拾遺』(807年)に「武甕槌神云々、今常陸国鹿島神是也」とあり、『延喜式』(927年)の「春日祭祝詞」に「鹿島坐健御賀豆智命」とあることから、遅くとも8世紀には鹿島の神はタケミカヅチという認識となっていたことが推測できる。
 藤原氏の氏神ともされたため、全国の春日神社系の祭神ともなっている。
 名古屋ではどういうわけか、タケミカヅチを祀る鹿島社系の神社が一社もない。現存していないだけではなく、江戸時代の書にも鹿島社は見覚えがないので境内社以外に独立した神社としてはほとんどなかったのではないかと思う。
 中村区の八幡社春日社合殿(元中村)、中区の春日神社(大須)、北区の八王子神社春日神社で祀られる他、中川区の神明社(荒子)、中川区の鹽竈神社(西日置)、北区の味鋺神社で祭神として名を連ねている。

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