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神明神社(定光寺町)

どうして神明を名乗っているのか?

読み方しんめい-じんじゃ(じょうこうじちょう)
所在地瀬戸市下定光寺町1313 地図
創建年不明
旧社格・等級等旧村社・十四等級
祭神伊弉諾神(イザナギ)
伊弉冉神(イザナミ)
菊理姫命(キクリヒメ)
アクセスせとコミュニティバス「定光寺町東」より徒歩約8分
駐車場なし
webサイト
例祭・その他例祭 10月第二日曜日
神紋
オススメ度**
ブログ記事

沓掛のらしくない神明社

 江戸時代の沓掛村(くつかけむら)にあった神社。
 沓掛村といっても瀬戸市民でも若い世代は分からないかもしれない。お寺の定光寺があるあたりといえば、あのへんかとなるだろう。
 戦後の昭和39年(1964年)に町名を決める際、沓掛町にするか定光寺町にするかのアンケートをとったところ、多数決で定光寺町に決まったらしい。そりゃそうかもなと思う。
 沓掛というと同じ愛知県の豊明市に沓掛村(町)があって、あちらの方がよく知られている。
 瀬戸の沓掛は、古くは「沓懸」とも書いた。

 さて、その沓掛の神明神社なのだけど、なんとも変わったところがある。
 江戸時代までは熊野・白山・神明の三社が一ヶ所に集められていた。
 拝殿にもいまだに「三社宮」と書かれた額が掛かっている。
 いつの時代に三社合同になったのかは調べがつかなかったのだけど、おそらく本体は熊野社だったのではないかと推測する。
 あるいは白山かもしれないけど、神明ではなかったはずだ。
 祭神は伊弉諾神(イザナギ)、伊弉冉神(イザナミ)、菊理姫命(キクリヒメ)と、熊野と白山が神が祀られていて、神明の天照大神(アマテラス)を祀っていない。にもかかわらず神明社を名乗ったのはどうしてなのか。
 本殿は神明造ながら、鳥居は明神鳥居だし、何より雰囲気がまったく神明らしくない。
 何の予備知識も持たずに参拝したけど、ここって神明じゃないよね、と思った。

 少し分かりづらい場所にあって道に迷った。
 205号線を東に入っていくと右手に西山自然歴史博物館というちょっと怪しげな建物が見える。もうやっていないのかもしれないけど、裏歴史を語る的な感じのところだ。
 そこを過ぎると道は狭くなり、未舗装になるので車は厳しくなる(駐車場は見当たらなかったけどどこかにあるかもしれない)。
 二叉に分かれる道があり、分岐のところに神明社の案内板があるのだけど、なんとなく右だろうと思って登っていったら山道で、全然神社の気配がなくて間違ったかなと思っていたところに散歩をしていたらしい地元の二人組がいたので訊ねると、分岐の左を行かないといけないと教えていただいた。
 その後、参拝を終えたときにもう一度会ったので少し話をさせていただいた。
 いい神社ですねと言ったのは社交辞令ではなく、実際ここはなかなかいい神社だ。古社の香りもするし、重厚な空気感もある。訪れる人も少ない無名の神社にしておくのは惜しい。もっと皆さん、訪ねていってほしいと思う。

沓掛(沓懸)の地名由来を考える

 ”くつかけ”の地名について、wikiの定光寺町のページは『角川日本地名大辞典』を引用してこう書いている。
「戦国時代には、尾張国春日部郡「下はた川 定光寺 くツかけ」として文献に名を残す」
 出典が書いていないので分からないのだけど、少なくとも戦国時代には”くつかけ”という地名が定着していたと考えてよさそうだ。

 津田正生(つだまさなり)は『尾張国地名考』の中で以下のように書いている。

 沓掛村 くつかけ 愛知郡に同名あり
 支村 半の木
【箕浦賢屯曰】舊は水野の一郷なり
【正生考】支村半の木は正木榛(はり)木の轉聲なるべし

 ここでは”沓掛”の表記になっており、かつては水野村の一部だったともいっている。
 ”くつかけ”の由来については何も書いていない。
 支村の”半の木”がどこのこといっているのか認識できないのだけど、そちらについては正木榛(まさきはり?)の”榛の木”から転じたものだという。

 沓掛にしても沓懸にしても、”くつ”の音と”沓”の字は共通している。
 沓は足に履く靴のことだけど、”かさなりあう”という意味も持っている。
 ”水”+”日”ではなく、”水”+”曰”なら成る字で、”水曰(いわ)く”、水がしゃべるようにという意味から重なるという意味に転じたとされる。
 ”掛”と”懸”は同じではないけど似ていて、どちらも”掛ける”という意味だ。懸は吊すとかぶら下げるというニュアンスが強い。
 ただ、沓掛村を”重なって引っ掛ける村”と解すると意味が通らない。
 字が先か音が先かでいえば音が先だろうから”くつかけ”で考えるべきだろうけど、それはそれでよく分からない。
 無理矢理こじつければ、”傀儡(くぐつ)”とか、”九頭竜(くずりゅう)”とかを連想させなくもない。
 木の神とされる久久能智神/句句廼馳(ククノチ)もさすがに遠すぎるか。
 ここはいったん保留にするしかない。

沓掛村について

 沓掛村について江戸時代の尾張の地誌がどう書いているか見てみよう。
 まずは『寛文村々覚書』(1670年頃)から。

沓懸村

家数 三拾軒
人数 百五拾九人
馬 参疋

社三ヶ所 熊野権現 白山 如来堂
 山神弐両社
 社内年貢地 村支配

 家数が30軒で村人が159人なので、規模は大きくない。
 ただ小村というほど小さくもない。
 神社は熊野権現、白山、如来堂と、山神2社の計5社とある。
 ここには神明がないので、やはり本体は熊野権現か白山だっただろうと思うのだけど、如来堂を神社の中に入れているのが引っ掛かった。
 大日如来=天照大神ということで、これが後に神明になったのかもしれない。
 すべて年貢地で村が支配しているというのも気になる点だ。
 除地ではなく祢宜もいなかったということだ。

 次に『尾張徇行記』(1822年)を見てみる。

沓懸村

社三区覚書ニ熊野権現、白山、如来堂、山神二社共ニ境内年貢地村支配
当村社人加藤円太夫書上ニ、氏神熊野権現、神明、白山三社境内東西四十間南北三十間村除、勧請ノ年紀ハ不知、元ハ林ノ山上ニ鎮座アリシカ、寛文二壬寅年今ノ地へ遷座アリ、元ハ村支配ナリシカ明和七寅年ヨリ父円太夫代社人持ニナル

観音堂庄屋書上ニ、境内十間四方、此堂草創ノ由来ハ不知、元禄年中暴風ニテ転倒シ、一旦定光寺塔頭龍沢庵へアツケオキ、宝永二酉年ニ至リ、堂宇再建シテ如元観音像ヲ安置セリ、境内ハ村除也

山神三社覚書ニ境内一ハ五間四方ニツハ三間四方ツツ皆村除ナリ

此村落ハ三区ニ分ル、西島中切東洞ト云、其内定光寺東ノ洞ニアルヲ東門前トイヒ、西ノ洞ニアルヲ西門前ト云、此村落ノ内屋敷地三段三畝十歩ハ、昔時定光寺へ御参詣并御作事等ノ課役ノ為ニ、万治三子年ヨリ除地ニ賜ハリ、又家十戸営ム程ノ竹木飯米ナト賜之造作スト也、今東西五戸ツツニ区ニ分レリ、一戸三畝十歩ツツニ当レリ、此村田畝鹿豕ノ害アリテ貧村ナリ、元ヨリ細民ハカリニテ殊ニ質朴ナル所也、定免三ツ七分五厘ナリ

 情報が多いので順番に見ていく。
 この時点(1822年)で熊野権現と神明と白山になっていたことが分かる。
 面白いのは、もともとは村支配だったのを江戸時代中期の明和7年(1770年)に「父円太夫代社人持ニナル」という部分だ。
 何らかの不都合があったのか必要に迫られたのか、代理で父円太夫が社人になったらしい。これは祢宜ではなく村人の誰かが社人になったということで、おそらく名目上のことだけだっただろうと思う。
 勧請年については不明ながら、もともとはもっと山の上の方にあったものを寛文2年(1662年)に今の地に遷座したことも知ることができる。
 なので、除地ではなく年貢地の扱いになったのだろう。

 観音堂が今でもあるのかどうかは把握してないけど、元禄年(1688-1704年)に暴風で倒れていったん定光寺塔頭の龍沢庵に預けて、宝永2年(1705年)に再建して観音像を安置したと書いている。
 これは村除という扱いだったようだ。
 山神は3社に増えていて、こちらも村除になっている。

 村は西島・中切・東洞の三区に分かれていて、もともと細民ばかりで質素な村だった上に鹿や猪に作物を食い荒らされてますます貧村となっていると書いている。
 江戸時代はどこの村も多かれ少なかれそういうことがあったはずなのにどうしてあえてそのことを書いたのには理由がある。それはこの場所が少し特殊な場所だったせいだ。
 そのことは後述するとして、何にしてもこの村は定光寺の存在が大きく、定光寺抜きには語れない。

 最後に『尾張志』も見ておく。

沓掛むら

白山社 熊野社 神明社 三社とも沓掛むらにありて同地也

『尾張志』だけは沓懸ではなく沓掛と表記している。
 表現として引っ掛かったのは、白山、熊野、神明の三社は「同地也」といういい方だ。
 3柱の神を一つの社殿で祀るのではなく、境内に3つの社があったということなのだろう。
 後から追加した境内社ではなく、同格または同列の3社があったということだろうか。
 もしくは、もともと別のところあった社を集めたとも考えられる。
『尾張徇行記』がいう山の上にあったものを1662年(寛文2年)に里近くに移したということも絡んでいそうだ。

定光寺ありき

 定光寺は紅葉の名所として名古屋や近郊の人間には知られた存在で、訪れたことがあるという人も少なくないと思う。
 歴史に興味がある人なら、尾張藩初代藩主の徳川義直の廟所があることも知っているだろうか。
 寺伝によると、室町時代初年(建武の新政の最終年)の1336年(建武3年)に、覚源禅師(平心處齊)が水野郷を訪れて、領主だった水野致国と美濃国小田の山内入道に請われて臨済宗建長寺派の寺院として創建したのが始まりという。
 しかし、そんなに新しいだろうかと個人的には疑問を抱く。
 丹羽郡中小口というところに定光寺という地名があって、もともとの定光寺はそこにあった真言宗の寺だったという話もある。
 丹羽郡小口には延喜式内社の小口神社もあり、古くから集落があったと考えられる。
 小口神社は『延喜式』神名帳(927年)の山田郡にも同名の神社が載っており、山田郡の小口神社は不明とされる(山口八幡社は個人的に違うと思っている)。
 瀬戸のどこかに小口神社があったとしてもおかしくはなく、定光寺とも絡んでいるようないないようなだけど、なんとなくつながりを感じる。

 山号を応夢山(おうむさん)といい、これは山の名前でもある。
 本尊は延命地蔵願王菩薩で、本山の鎌倉建長寺(公式サイト)も本尊は地蔵菩薩なので、それにならっただろうか。
 禅寺は釈迦如来が多いので、地蔵菩薩は少し珍しい。
 最盛期は七堂伽藍を有する大寺院だったそうだけど、火事や地震などで何度も伽藍を焼失し、古くからの建物は残っていない。
 現存最古は天文三年(1534年)に再建された本堂で、これは国の重要文化財に指定されている。

 尾張藩初代藩主の義直は水野のあたりがお気に入りで、何度も訪れて狩りをした。
 定光寺もお気に入りの場所のひとつで、没後にここに廟所を作るよう遺言して、その通りになった。
 尾張藩藩主の菩提寺は東区の建中寺(浄土宗/公式サイト)なのだけど、義直だけは定光寺に眠っている。
 そのため、歴代の尾張藩主は定光寺を訪れることが多く、瀬戸街道から分かれて定光寺へと至る道は御成道(おなりどう)や殿様街道と呼ばれていた。
 藩主が水野で狩りをすることもあり、そのため水野の住人たちは作物を動物に食い荒らされても無闇に駆除したりできなかったのだ。
 それにしても、江戸時代までは瀬戸にも普通に野生の鹿がいたというのは少し驚く。
 狼もたくさんいて、年間に何人も狼に襲われて命を落としていた。
 狼はもっとも身近にいて危険な生きものだった。
 それも絶滅してしまうのだから、時の流れというのは恐ろしくもあり、残酷でもある。

沓掛集落について

 沓掛は山に囲まれた集落ながら、西を流れる玉野川(庄内川上流)や集落の中を流れる蛇ケ洞川、東沓掛川、定光寺川、杁ケ洞川などによって削られた谷で、それなりに平地がある土地だ。
 とはいえ、JRの定光寺駅から定光寺へ向かう登り坂はとんでもない傾斜で、常人では絶対に自転車では登れない。下りもものすごいスピードが出て死ぬかと思う。
 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、江戸時代から続く地形や集落の様子が感じられる。
 上に書いたように集落は東島(東ノ洞)・中島(中ノ切)・西島(西ノ洞)の3つに分かれているのも見て取れる。
 集落から見て定光寺は北の外れで、神明神社は東の外れの山の中ということになる。
 どちらへ行くにもそこそこ距離があって登りなので大変だ。定光寺の階段もわりとしんどい。

 中世までは中水野村の支郷という扱いだったようだけど、中水野村から分かれたとは限らない。
 むしろ水野よりも沓掛の方が先という可能性もなくはない。
 沓掛の集落がいつ頃できたのかを推測するのは難しい。
 地内から半ノ木、月山古窯などの鎌倉から戦国時代にかけての古窯址が見つかっていることから、遅くとも鎌倉時代には人が暮らしていたのは確かだ。
 それがどこまで遡るかとなると、なかなか難しい。
 最大遡れば縄文ということになるだろうけど、現在までに縄文の遺跡は見つかっていない。
 ただ、大規模開発されていない土地なので知られていないだけという可能性はある。
 集落があれば必ず神社と寺はあるので、それでいうと神明神社につながるカミマツリは縄文に起源を見るかもしれない。

 今昔マップの昭和以降を辿ってもほとんど変化がない。このあたりは瀬戸市内でももっとも変化の少ない場所といういい方ができる。
 広い道路が開通したということもなく、大きな建物といえば集落の外れにゴルフ場の定光寺カントリークラブ(1980年/昭和55年)ができたくらいだ。
 村名(町名)の変遷を書いておくと、明治22年(1889年)の市町村制施行の際に下半田川村と合併して掛川村となり、明治39年(1906年)に下品野村、上品野村と合併して品野村になった。
 その後、大正13年(1924年)の町制施行で品野町大字沓掛となり、昭和34年(1959年)に瀬戸市に編入された。
 沓掛から定光寺町になったのは昭和39年(1964年)のことだ。
 2024年現在の住人数は120世帯254人なので、江戸時代前期の30軒159人と比べても大きく増えていない。

あらためて神明神社を考えてみる

『愛知縣神社名鑑』はこの神社についてこう書いている。

創建については明かではないが、正徳6年(1716)6月再建すると伝える。
明治5年5月村社に列格する。

 これといった情報は得られない。
 そこでネットを当たってみると面白い情報があった。

 瀬戸・尾張旭郷土史研究同好会が出した『郷土史研25周年誌ー瀬戸・尾張旭の寺社・街道・地名ー』の中に詳しく書かれているようだ(この資料自体は私は未確認)。
 長くなるけどそのまま引用させていただく。

 沓掛の神明神社は旧沓掛村(現 定光寺町)の氏神で、旧社格は村社です。
 神社名鑑に創建時期は明らかではないと記されているが、沓掛村社人圓太夫が天保8年(1837)に「寛文2年(1662) 11月に山上より現地に遷座」 と記した書き留めが残されていると伝わっています。

 寛文2年に水野村から沓掛村が分村しているので、 新しい村の創立を祈念して氏神が遷宮されたと思います。
 その後、正徳6年(1716)6月に再建した棟札が残っています。
 伊勢神宮系の神明社の場合は天照大神を祭ることが一般的ですが、神社名鑑および東春日井郡誌には当神社の祭神が伊弉諾尊、 伊弉冉尊、 菊理姫尊の3柱と記され、天照大神が祭られていないにもかかわらず神明神社の社号となっています。

 寛文村々覚書や尾張徇行記には熊野権現、 白山、 如来堂の3社が相殿として記されているが、張州雑志には熊野権現祠と白山権現祠に加えて神明祠が記されています。

 春田直広著「沓掛史話」には「終戦近くまで社殿賽銭箱の上に三社宮と彫琢(ちょうたく)した扁額が掲げられていて、明治生まれの古老たちは当社を三社宮と呼んでいた。
 しかしながら、三社宮の社号は古書には見えず、白山・熊野神社を祀るとなっているから、三社宮の呼び方は通称に過ぎなかったものと思われる。
 そこで明治維新の際に神明神社の社号に改められたようで、我々の世代は神明神社の社号しか知らない。
 沓掛村の鎮守社は、もともと白山社 熊野社・如来堂であった。
 すなわち、 白山社の祭神は伊弉冉命と伊弉諾命と菊理姫命、熊野社の祭神は伊弉冉命と伊弉諾命、然るに如来堂の祭神は不在で神仏名不祥である。

 正徳6年(1716)に社殿が再建され、三社が合祀されて一社に統一されても祭神はそのままで、 統合後の社号はなく従前の三社宮の通称で呼ばれていた。

 明治以降は神明神社として祭祀されたが、祭神は不在のままで祭神と社号が一致していない」と記述され、現在でも幣殿入口の扁額には「三社宮」の文字が彫刻されています。

 東春日井郡誌には「村中にあった山神社3祠、 津島社2祠を合祀した」とあたかも神舎合祀令を遵守したかの如く記されているが、当神社境内には津島社のみが祭られ山神社の祠はなく、今でも元の三か所に山神叢祠が建っており、合祀は名目上の表現で実情は合祀されなかったものと推察されます。

 定光寺公用分類便覧に 「明和7年寅 (1770) 6月沓掛村氏神の神明・熊野・白山3社を1つの社殿に祭り、是までは表向きの社人と申す者が居なかったので、今般、 円太夫を表向き社人にするよう願い出た」と記され、神明神社へ向かう手前300mほどの場所に円太夫神霊祠が建てられています。
 この小祠には神職を勤めた村祢宜役の神主位牌6枚が納められています。
 定光寺公用分類便覧に記された円太夫は3代目神職の加藤円太夫と推定され、寛政元年(1789) に没しています。
 3代目円太夫より前の神職は公認社人ではなく、単なる村祢宜役にすぎなかったことがわかります。

 加藤家は世襲で神職を勤めたので、 円太夫神霊祠は加藤家の屋敷神として、その末裔の方々によって祭られています。
 6代目神職を勤めた加藤伊織が天保10年(1839) に没し、 それ以降は村中に神職を継ぐ者はなく、他所の神官に神事が委ねられました。

 最初からこの文章を載せておけばほとんど事足りたと思うのだけど、自分で史料に当たることは無駄ではない。
 史料の内容を知った上でこの文章を読むとなるほどと思える。
 一部ちょっと違うと思うのは、『寛文村々覚書』も『尾張徇行記』も”相殿”とは書いていない点だ。
 ”社三ヶ所”や”社三区”とあるから、少なくとも社は3つあったということで、1つの社に三柱の神を祀る相殿ではない。
『尾張志』も「三社とも沓掛むらにありて同地也」と書いているように、江戸時代末まで3つ社が同じ場所にあったと考えるべきだ。
 その後、1つの社に3柱を祀って”三社宮”と呼ばれるようになったのは明治以降のはずだ。

 神明が加わったのは『寛文村々覚書』の1670年頃から『張州府志』ができた1752年の間の可能性が考えられるけど、そう決めつけるのはよくないかもしれない。
 上に書いたように如来堂が神明に名を変えた可能性もある。神仏習合時代は天照大神と大日如来を同一視する思想もあった。

 社家を加藤家が務めたというのもなかなか興味深い。
 陶祖と呼ばれた加藤四郎左衛門景正(藤四郎)や磁祖の加藤民吉に代表されるように、瀬戸は加藤姓が多い。
 熱田にもよく知られる加藤家(加藤図書助など)がいて、広くいえばこれらの加藤家と親族かもしれない。
 もともとの氏神(鎮守)が熊野や白山だというなら、そこには必ず尾張氏か関係氏族が関わっているので、そもそも沓掛の集落はこの地を開拓した尾張氏の後裔の可能性が高い。

「寛文2年に水野村から沓掛村が分村」というのは確かな史料があるのだろうか。
『尾張徇行記』も書いているように、この年(寛文2年/1662年)に山の上から遷したというから、分村にともなって里に移したというのはあり得ることだ。
 ただ、『寛文村々覚書』は明暦年間(1655-1658年)に行われた調査を元にしていて、完成したのは1670年頃でも、データ自体はもう少し古かったはずで、1662年の分村が『寛文村々覚書』にすぐに反映されただろうかという疑問を抱く。
 一方で、1844年完成の『尾張志』で、定光寺を水野村にあるといっている。
 同じ年の1844年完成の『尾張名所図会』では定光寺を「沓掛村にあり」といっていて混乱する。

 以上ように、沓掛村(沓懸村)も、神明神社も、ちょっとよく分からないところがある。
 大きな謎を秘めているという感じではないのだけど、ちょっと不思議な感じが残った。

作成日 2025.1.15

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