MENU

八王子社(曽野町)

村の鎮守の神様

読み方はちおうじ-しゃ(そのちょう)
所在地瀬戸市曽野町1582 地図
創建年不明
旧社格・等級等旧無格社・十四等級
祭神多紀理姫命(タギリヒメ)
市寸島姫命(イチキシマヒメ)
多岐都姫命(タギツヒメ)
天之忍穂耳命(アメノオシホミミ)
天菩日命(アメノホヒ)
天都日子根命(アマツヒコネ)
活津日子根命(イクツヒコネ)
熊野久須比命(クマノクスヒ)
大山祇神(オオヤマツミ)
アクセス瀬戸市コミュニティバス「曽野バス停」より徒歩約5分
駐車場なし
webサイト
例祭・その他例祭 10月第2日曜日
神紋
オススメ度
ブログ記事瀬戸市曽野町の八王子社は村の鎮守だと思う

村の鎮守

 ああ、この神社好きだなと第一印象で思うことがたまにある。
 この八王子社もそういう神社の一つだった。
 特別重要な意味がある神社というわけではなく、秘めた歴史もなさそうなのだけど、佇まいや空気感がいい。
 村の鎮守として村を守り、村人から守られてきたのが分かる気がする。
 村と神社が近しい良好な関係を保っているところというのは案外少ないのだ。

曽野は支村か枝村か

 神社がある曽野町(そのちょう)は上水野村の支村の曽野と呼ばれた場所だ。
『尾張徇行記』(1822年)は「支邑ハ二区アリ、曽野夜床ト云、曽野ハ本郷ヨリ北少シ東ノ方ニ行程十町アマリヘタチ村落アリ、家ハ三十戸ホトアリ、水野川ニ沿ヒユク所山奥ニ平衍ノ田面ア リ、此中ニ御林奉行見習兼水野御代官水野平右衛門宅アリ」と書いている。
 上水野村には曽野と夜床という支邑(村)があり、曽野は本郷の1キロ(十町)ほど東にあって、家は30軒ほどあるといっている。
 今昔マップ(1888-1898年)を見ると、その位置関係を把握できる。
 水野川を上流へ遡った奥に曽野の集落があった。
 現代の地図(マピオン)を見ると、水野川の支流が何本か流れている。
 曽野の集落の中を流れているのは山千川で、山法師山を水源としていることから山法師川とも呼ばれている。
 八王子社のすぐ東を流れる細い川は名前が分からない。地図を見ると神社の北に砂防ダムがあるだろうか。
 曽野町と水北町の境を樋ヶ沢川も流れている。

 支邑とは何なのかと考えることがある。
 枝郷(枝村)といういい方をすることもあるのだけど、本郷から分かれた村というだけでなく、もともとあった集落が本村に取り込まれる格好もあったのではないかと思う。
 分村なら新しいし、吸収されたのなら古い可能性もある。
 それは神社が新しいか古いかということにも関わってくる。

江戸時代の書では

 上水野村について詳しくは八幡神社(水北町)に書いたので、ここでは神社関係に限定して見ていく。
 まずは『寛文村々覚書』(1670年頃)から。

社四ヶ所 内 八幡 山神 八王神 八剣宮
 社内八反歩 前々除 中水野祢宜 弥五右衛門持分

 この中の八王神が曽野町の八王子社なのだけど、八王子ではなく八王となっているところに注目したい。
 誤字の可能性もあるのだけど、中川区野田村の八王子神社(野田)でも八王神となっているので間違いではないのか。
 八王子と八王ではやはり違う。
 八王子は記紀神話に出てくる五男三女神のこととされることが多いのだけど、もともとは神仏習合の性格が強い。
 しかし、もっと遡ると”八”の王子から発したものだったかもしれない。八は八の国ともいえるし八の雲、八雲ともいえる。
 日本のことを大八洲国(おおやしまのくに)ということからすると、日本の神、大国主のことともいえる。
 王子というなら子だし、王なら王だ。
 つまり、八王子と八王は違うということになる。
 ただ、『尾張徇行記』(1822年)も『尾張志』(1844年)も八王子と書いているので、最初から八王子だったか、八王と八王子と厳密に区別していなかったか。

『尾張徇行記』の該当部分を抜き出してみる。

社四区覚書ニ八幡、山神、八王子、八劔、社内八段歩前々除、中水野祢宜弥五右衛門持分
中水野社人菊田和泉太夫書上ニ、八幡社内五段歩前々除、草創年暦ハ不知、寛文九酉年 瑞龍公再営シ玉ヒ、夫レヨリ上ノ修造トナレリ
末社武内社境内ニアリ、是モ上ノ修造ナリ
山神十四社境内一ハ一段五畝步一ハ五畝歩一ハ十步一ハ五畝步一ハ十步一ハ五畝歩又一ハ五畝步又一ハ五畝歩又一ハ五畝步一ハ六畝步一ハ三畝步一ハ五畝步又一ハ五畝步一ハ一畝歩、八王寺社内一段歩、武内社内一畝十歩、天王社内十二歩又天王社内十六歩何レモ前々除

白山社内一畝歩村除、当村一色洞トイヘル所ニアリ、草創ノ由来ハ不知ト也

八幡祠、府志曰、在上水野村、延宝四丙辰年 瑞龍公造進之

 このあたりも八幡神社(水北町)に書いたのでそちらを読んでいただくとして、八王子に関していうと、ここでは”八王寺”になっている。さすがにこれは誤字だろうと思う。
 もう一つ大事なのは、すべての神社が前々除(まえまえよけ)になっていることだ。これは1608年に行われた備前検地以前から除地になっていたということで、創建は江戸時代以前に遡ることを意味する。
 そこから考えられるのは、曽野は江戸時代に本郷から分かれた支邑ではなく、江戸時代以前からあった可能性が高いということだ。
 集落の規模は不明だし、どんな神を祀っていたのかも分からないけど、とにかく集落があり、何らかの社が古くからあったといっていいと思う。
 それが中世なのか、古代まで遡るのかは分からない。
 八王子もしくは八王は、それほど新しくないのではないかという推測はできる。

 最後に『尾張志』も見ておく。

天王社 八王子社 八劔社 白山社 四社上水野村にあり

 天王は『寛文村々覚書』には載っていないのだけど、前々除となっているので江戸時代になって祀られたものではない。
『尾張徇行記』の乎江(ヲエ)神社の項に八幡の「七八十間南の方に直會殿のあと(今天王ノ社と申す)ありて」という記述があり、これがそうだとすると直會殿が天王になったということだ。

曽野に古寺があった?

 瀬戸ペディアに「曽野の礎石」の話が載っている。
『瀬戸の文化財』からの引用のようだけど、内容は以下の通りだ。

 瀬戸市曽野町の水田の中に「作石(つくりいし)」と呼ばれてきた花崗岩の巨石がある。
 この四角形の巨石は、縦180センチ、横190センチ、厚さ47センチで、上面の中央部には径57センチ、深さ6センチの浅い円形の孔が穿ってある。
 三味線胴形の張り出しもあり、瀬戸市史編纂監修者からは白鳳期の古代寺院の塔の心柱の礎石であるという見解が出されている。
 近くに「穴の宮」の地名はあるが寺院を示す遺構・遺物は全く見られず、そうした伝承もない。
 しかし、周辺には花崗岩の切り出し場もあり、この場所の近くで作られた礎石が残されたという見解もある。
 近くの住民の中に「作石(さくいし)」姓が残る。
 いずれにせよ、寺院の礎石であるとすれば、千余年前の寺院建築の一端を示すものとなり、瀬戸の古代を考える上で貴重な資料である。

 白鳳期というと、645年の大化の改新から710年の平城京遷都までの期間で、この頃尾張でもいくつかの寺院が建設されたとされる。
 名古屋でいうと、尾張元興寺跡(願興寺)( 中区正木)、古観音廃寺跡( 昭和区塩付通)、極楽寺跡(昭和区村雲町)、鳴海廃寺跡(緑区鳴海町)、西大高廃寺跡(緑区大高町)、小幡廃寺跡(守山区西新)などが知られている。
 瀬戸市内ではこういった古代寺院の存在は知られていないものの、旧石器時代から人が暮らしていた土地ということを考えるとない方がおかしいくらいだ。
 曽野がそうだったとは限らないけど、たった一つでも証拠となり得るものがあるのなら、その存在の可能性はある。
 花崗岩の産地だったことは間違いないようだから、それを切り出して加工する技能集団がいただろう。
 作石の字や作石姓はその後裔と考えられるし、瀬戸の隣の長久手には延喜式内社とされる石作神社(岩作村)もある。
 現実的に考えれば、ここに古代寺院があったというよりも、石作の技能集団がいて、ここから切り出した石を各地に運んだという可能性が高いだろうか。曽野の礎石はその忘れ形見のようなものかもしれない。

一色城について

 曽野町内にはかつて、一色山城、あるいは水野城と呼ばれる城があった。
 場所はこのあたりで、遺構も少し残っているようだ。
 それにしても、どうしてここだったのだろう。
 曽野の集落からはかなり離れた山奥で、八王子社から見ても北西約800メートルほどに位置している。
 守るにはいいかもしれないけど、すごく不便そうだ。
 長期の籠城線は想定していなかったということか。

 一色は今は”いっしき”と読んでいるけど、かつては”いしき”といったところが多い。
 1つの色ではなく、”いし-き”だったかもしれない。
 地名としては日本全国に見られることから、共通認識があったのだろうと思う。
 一色姓もある。
 名古屋では中川区や名東区などに地名があり、三河(西尾市)の三河一色大提灯まつり(諏訪神社祭礼)はよく知られている。一色のうなぎも有名だ。
 瀬戸の曽野の一色山城がどうして一色なのかはよく分からない。城主だった水野氏と関係があるのかないのか。

 いつ誰が築城したのか、詳しいことは伝わっていない。
 下水野の入尾城は1129年に平影貞が水野郷にやってきて、本元の乱(1156年)の頃に築いたとされ、瀬戸では最古級の城と考えられている。
 この一族が水野氏を名乗り、水野郷一帯を治めるようになったとされるので、一色山城もその流れの中で築かれたものだろうか。
 城主として水野高康、有高親子、大金太郎重高などの名が挙がる。
 大金重高は尾張源氏の山田重忠配下の者で、1214年に品野城を築城したとされる。
 1221年の承久の乱ではこの一族も山田重忠に従って参戦し、敗戦後に各地に散らばったという。
 この後裔に当たる水野良春は南北朝時代に南朝の武士として活躍した後、先祖の志段味に戻り、新居(尾張旭市旭)を開拓した。
 戦国時代までには廃城となっていたのを、織田信秀に仕えた磯村左近清玉が改修して居城としたという。
 磯村左近清玉は1534年に品野城の松平家重や落合城の戸田家光らとの戦い(勝負ヶ沢)で戦死したそうなのだけど、そのときのエピソードが伝わっている。
 感応寺の和尚と碁を打っていたときに松平たちが攻めてきたという知らせを受けた磯村左近清玉は、慌てず騒がずそのまま碁を続け、打ち終わってから戦場に赴き討ち取られたらしい。
 カッコイイんだかよくないんだか、笑ってはいけないけど笑える話だ。話はだいぶ盛られているかもしれないけど。

曽野の変遷

 あらためて今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見てみる。
 山千川とその北を流れる支流に沿って山の麓に家が建ち並び、川沿いの狭い平地を農地にしていたようだ。
 八王子があるのは集落の北、山に少し入ったあたりだ。
 南に広がる集落を見下ろす格好で、自然というか理にかなった場所にある。
 曽野の集落に寺はなかっただろうか。地図を見る限りなさそうだから、多くは本郷の感応寺の檀家だったかもしれない。

 地図で変遷を辿っても、現在に至るまで大きな変化は見られない。集落を貫く県道208号線が整備されたくらいだ。
 曽野町が誕生したのは昭和39年(1964年)のことだった。
 令和2年(2020年)の調査では109世帯273人となっている。

現地の印象とまとめ

 最初に書いたように、この神社にはいい印象を持った。好きなタイプの神社だ。
 有名神社や立派な神社もいいのだけど、こういう村の鎮守的な神社もいいものだ。大事に守られてきた感じがするのは気持ちいい。
 曽野の集落を作った人たちがどうして八王子(八王)を祀ることに決めたんだろうと思うと、少し考えてしまうし、曽野の地名由来なども気になるといえば気になるのだけど、今回はあまりあれこれ考察する気持ちになれなかった。ここはそういう神社じゃないような気がする。
 上水野の八王子はけっこうよかったなという記憶だけで充分かもしれない。

作成日 2025.2.10

HOME 瀬戸市