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八幡神社(水北町)

何を訴えたかったのだろう

読み方はちまん-じんじゃ(すいほくちょう)
所在地瀬戸市水北町1341 地図
創建年不明
旧社格・等級等旧指定村社・十等級
祭神神功皇后(ジングウコウゴウ)
成務天皇(セイムテンノウ)
応神天皇(オウジンテンノウ)
大山祇神(オオヤマツミ)
アクセス愛知環状鉄道「中水野駅」より徒歩約30分
駐車場あり
webサイト
例祭・その他例祭 10月第2日曜日(10月15日直前の日曜日?)
神紋
オススメ度
ブログ記事

何かの訴え?

 拝殿がとても立派で、緑釉瓦(りょくゆうがわら)が美しい。
 瀬戸の水野地区でよく焼かれた施釉瓦(せゆうがわら)で、深川神社の社殿にも使われており、瀬戸らしい風景の一つだ。
 太平洋戦争の空襲で焼ける前の名古屋城天守もそうだったという。
 古い瓦屋根が好きで、ここもいいなと思って眺めながらゆっくり過ごしていたら、だんだん頭が痛くなってきた。
 首の後ろまで痛くなってきて、それ以上いられなくなってしまった。
 こういう症状はほとんど経験していないのだけど、気のせいとするにははっきりしすぎていた。
 私に対して拒絶反応を示して攻撃的になっていたのかと思ったのだけど、この神社を調べていく過程で、もしかしてと思い当たることがあった。
 私に向けて何かを訴えていたのではないかということだ。

『尾張志』(1844年)にこんなことが書かれている。

乎江(ヲエ)神社

延喜神名式に春日部郡乎江ノ神社(卜部兼永本には宇江神社とす)本國帳に従三位乎江天神(一本魚江天神とす)と見えたり

上水野村の八幡社は境内ひろく其地を宇江の山と呼ひ東に隣れる薬師堂法松院の山麓を上之山といへるも宇江の轉したる由又社地と法松院とのあはひなる江林坂も宇江林坂といふ意なる由いへり本社の七八十間南の方に直會殿のあと(今天王ノ社と申す)ありて舊社のおもかけは著(シル)けれとたしかなる傳へなければいかかあらん考ふへし
此八幡社は延寶四丙辰年瑞龍院君の御修造なり

 この水北町八幡神社が『延喜式』神名帳(927年)に載る春日部郡乎江神社の可能性を示唆している。
 まさか、それはないだろう。
 いや、待て。ないと決めつけるのは早い。

まずは情報を整理する

 上水野村の八幡が延喜式内の乎江神社かどうかの考察をする前に、まずは上水野村と神社の情報を集めて整理するのが先だ。
 八幡神社がある水北町(すいほくちょう)は江戸時代の上水野村の中心集落があったところだ。
 明和4年(1767年)の洪水で大被害を受けて、水野川の南の上水野新田の方に多くの家が移っていった。
 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、江戸時代から続く集落の様子がだいたい分かる。
 上水野村は南北に長い村で、下・中・上の中で一番面積が広かった。
 曾野町や余床町までも村域で、その北の下半田川村との間が村境だった。
 東は下品野村と接していた。
 村の中央付近を水野川が蛇行しながら西へ向かって流れ、中水野村、下水野村を通って玉野川(庄内川)にそそいでいた。
 この流路は今も大きくは変わっていない。
 川が運ぶ土砂でできた沖積地を田んぼにして、民家は山沿いにへばりつくように建ち並んでいた。
 上水野村地区で遺跡や古墳は知られていないものの、水野川流域を利用していなかったはずがなく、おそらく縄文時代にはこのあたりにも人がいただろうと思う。

 江戸時代前期の『寛文村々覚書』(1670年頃)の上水野村の項にはこうある。

家数 七拾六軒
人数 四百五拾六人
馬 三拾三疋

禅宗 水野定光寺末寺 小金山感応寺
 寺内五畝弐拾弐歩 備前検除

観音堂一宇 地内四町八反歩 前々除
 感応寺持分

薬師堂一宇 地内年貢地 堂守円随

社四ヶ所 内 八幡 山神 八王神 八剣宮
 社内八反歩 前々除 中水野祢宜 弥五右衛門持分


 家数が76軒で村人が456人なので、名古屋城下から遠く離れた地としては大きな村だったといえる。
 馬も33疋(頭)というから、かなり多い。
 人口が多かった理由のひとつが、上水野村に御林方奉行所があったためというのもある。
 1625年に初代藩主の義直が水野で狩りをする際の仮殿として水野家の屋敷を改築して使ったのが始まりで、後にそれを改築して御林方奉行所を作った(1667年)。
 あったのは八幡神社の南東だった。
 初代奉行として水野正勝が任じられ、このあたり一帯の林の管理や藩主の狩りの世話などをしたようだ。
 中水野村には水野代官所(1781年)が置かれていたこともあり、水野という地は尾張の東エリアの役所的な性格を持つところだった。

 この上水野村で古い神社といえば、金神社がある。
 かつては感応寺(地図)がある小金山に鎮座していた。
 この感応寺の前身を開いたのが行基という話があり、その頃にはすでに金神社があったというから、遅くとも奈良時代には遡る。
 この金神社を『延喜式』神名帳(927年)の山田郡金神社とすることに少し疑問を持っているのだけど、そのあたりは金神社(小金町)のページに書いたのでよかったら読んでみてください。
 その金神社は戦時中の昭和19年に現在地(地図)に遷された。
 名鉄瀬戸線「瀬戸市役所駅前」あたりが上水野村の南端に当たる。

 金神社以外に、八幡、山神、八王神、八剣宮が載っている。
 八幡が水北町の八幡神社で、山神は合祀されて現存しない。
 八王神は曾野町の八王子神社(地図)で、八剣宮が余床町の八劔神社(地図)だ。
 中水野祢宜の弥五右衛門の持分で、すべて前々除(まえまえよけ)なので1608年以前からあったということだ。

 寺は感応寺以外に観音堂と薬師堂があるといっている。
 観音堂は感応寺の横にあるものだろうけど、薬師堂については把握していない。
『尾張志』に「八幡社は境内ひろく其地を宇江の山と呼ひ東に隣れる薬師堂法松院」とあってこれがそうだとすると、廃寺になったか他に移されたか、今はもうないのでないかと思う。
 感応寺については金神社(小金町)のページに書いた。

 続いて江戸時代後期の『尾張徇行記』(1822年)を読んでみる。

社四区覚書ニ八幡、山神、八王子、八劔、社内八段歩前々除、中水野祢宜弥五右衛門持分
中水野社人菊田和泉太夫書上ニ、八幡社内五段歩前々除、草創年暦ハ不知、寛文九酉年 瑞龍公再営シ玉ヒ、夫レヨリ上ノ修造トナレリ
末社武内社境内ニアリ、是モ上ノ修造ナリ
山神十四社境内一ハ一段五畝步一ハ五畝歩一ハ十步一ハ五畝步一ハ十步一ハ五畝歩又一ハ五畝步又一ハ五畝歩又一ハ五畝步一ハ六畝步一ハ三畝步一ハ五畝步又一ハ五畝步一ハ一畝歩、八王寺社内一段歩、武内社内一畝十歩、天王社内十二歩又天王社内十六歩何レモ前々除

白山社内一畝歩村除、当村一色洞トイヘル所ニアリ、草創ノ由来ハ不知ト也

八幡祠、府志曰、在上水野村、延宝四丙辰年 瑞龍公造進之

 情報が多いので順番に見ていく。
 八幡に関しては草創年は不明で、寛文9年(1669年)に瑞龍公が再営したと書いている。
 瑞龍公は尾張藩2代藩主光友のことで、光友は下水野村の八幡(内田町)でも同じようなことをしている。
 そこでは年数の話はないのだけど下水野村の八幡祠を「瑞龍公命令重葺之」と『張州府志』(1752年)はいっている。
 光友というのはなかなかくせ者で、歴史の奥を知っていたようなのだけど、神社を八幡に作り替えるようなことをしている。
 大曽根の片山八幡神社にもそんな話が伝わっている。
 ちょっと分からないのは、「府志曰く」として延宝4年に「瑞龍公造進之」という部分だ。
 延宝4年は1676年で、1669年(寛文9年)に”再営”したものを1676年に”造進”はしないだろうと思うのだけど、どうなんだろう。
 ”再営”という表現が引っ掛かっていて、修造を意味するのか、再建を意味するのかが分からない。
『寛文村々覚書』は完成したのが1670年頃でも調査自体は1660年代に行われていて、そこで八幡となっているからには少なくともその頃は八幡だったと考えていい。
 ただ、最初から八幡として建てられたとは限らない。中世に八幡が流行ったときに延喜式内社のような古い神社も八幡を名乗った例は多い。

 何気なく書かれているけど重要な証言として、「末社武内社境内ニアリ」がある。
 これは武内宿禰(タケノウチノスクネ)を祀ったものなのかどうなのか。
 もしくは別の祭神なのか。
 これも光友の命で修造されたようだけど、本末転倒という言葉があるように、本社と末社が入れ替わることが少なからずあって、もともとの本社が末社となっていることがあるので、これもそうなのかもしれないと思ったりする。

 それからびっくりするのが山神が14もあったことだ。
 このあたりは山だらけの郷とはいえ、ひとつの村に14も山神を祀っていた例を他に知らない。
 八幡の末社以外にも独立した武内祠もあったようだし、天王社もあった。
 すべて前々除なので、江戸時代以前からあったことになる。 
 小金山の金神社は江戸時代は白山とも呼ばれていたのだけど、一色洞というところに別の白山もあったようだ。
 今思いついたけど、寛文9年(1669年)に瑞龍公が再営した八幡と延宝四年に瑞龍公造進之した八幡は別なのかもしれない。

『尾張志』(1844年)にはこうある。

天王社 八王子社 八劔社 白山社 四社上水野村にあり

 八幡がないのはどういうことだろうと思ったら、乎江神社の項で上水野村の八幡に触れているから、こちらには書かなかったということなのだろう。
 天王社は現存していないと思うのだけど、明治以降にどうなったかは追えていない。 

 最後に『愛知縣神社名鑑』を見ておく。

創建については明かではないが、延宝四年(1676)12月20日、尾張藩主光友公、故ありて再建すという。
明治5年7月、村社に列格する。同40年10月26日、供進指定社となる。
大正6年9月30日、同村鎮座の山神社を合祀した

 ここでは延宝四年(1676)といっているのだけど、それより気になるのは「尾張藩主光友公、故ありて再建すという」という含みのある言い回しだ。
 故あっての”故”とは何だったのだろう。
 ただの村社ではなく供進指定社は村社より一段格上で、等級も十等級まで上がっている。これは中水野村の三社大明神と同等だ。
 やはりこの神社、ただの八幡ではなく裏というか奥がある気がする。

上水野村についての補足

 上水野村の様子について『尾張徇行記』はこんなふうに書いている。

此村落ハ、水野川ヲ南北ニヘタテ本郷アリ、南ノ方ハ中水野村落トツツキ新田ノ内ニ農屋立ナラヘリ、又北ノ方ハ北脇島山島ト二区ニ分レ農屋建ナラヒ小百姓ハカリナリ、農業ヲ以テ専ラ生産トス、此村ハ明和四亥年洪水ニ民戸漂流セシニヨリ、其後ニ新田へ多ク農家ヲ引移スト也、地形ハ中水野村下水野村ト田面一般ニツツキ平行ナル所ナリ

支邑ハ二区アリ、曽野夜床ト云、曽野ハ本郷ヨリ北少シ東ノ方ニ行程十町アマリヘタチ村落アリ、家ハ三十戸ホトアリ、水野川ニ沿ヒユク所山奥ニ平衍ノ田面アリ、此中ニ御林奉行見習兼水野御代官水野平右衛門宅アリ、此村ヨリ西山奥ニ嵯峨タル岩石アリテ溪水ナカル、其形宛樋ノ如シ、因テ石樋ト云、奇状可賞ナリ、其北ニ少シ農屋アリ、小曽野ト云、又其奥ニ城墟アリ、夜床ハ本郷ヨリ丑寅ノ方ニ当リ、一里十町程へタチ下品野村沓掛村ヨリノ山隈ニアリ、二区ニ分レ家ハ二十戸ホトアリ

 簡単に要約するとこうだ。
 水野川の南北両方に本郷が分かれていて、北には北脇島と山島の二区がある。
 明和4年(1767年)の洪水で家が流されてしまったため、多くが新田(川南)の方に移っていった。
 支邑が二区あり、曽野と夜床といった。

 曽野は今の曽野町で、家は30軒ほど、夜床は今の余床町(よどこちょう)で二区分かれていて家は20軒ほどあったようだ。
 ”嵯峨タル岩石”というのはよく分からないのだけど、溶岩石のたぐいだろうか。”奇状可賞ナリ”といっているので、奇岩風景が広がっていたようだ。
 ”夜床”の地名由来が気になるところだけど、明治の今昔マップではすでに余床になっている。

祭神から考えるこの八幡の本質

『愛知縣神社名鑑』によると、祭神は神功皇后(ジングウコウゴウ)、成務天皇(セイムテンノウ)、応神天皇(オウジンテンノウ)、大山祇神(オオヤマツミ)となっている。
 並び順に意味があるのどうか判断がつかないのだけど、応神天皇が3番目で、先頭に神功皇后が来ている。
 2番目は成務天皇だ。
 大山祇は大正時代に山神を合祀したものだから、ここでは考えない。

 それにしてもこの祭神の顔ぶれをどう捉えたらいいのだろう。
 瀬戸ペディアは玉依姫命(タマヨリヒメ)まだ加えていて、ますます混乱する。
 この玉依姫命はどこから来たのか。

 まず、神功皇后について言うと、山口村の八幡社(八幡町)でも名前が挙がっていた。
 古くからあった山口天神に、鎌倉時代初期に山田重忠が神功皇后を祀って八幡を創建したという話がある。
 そのときもどうして神功皇后だったのだろうと不思議に思った。
 神功皇后は応神天皇の母であり、仲哀天皇の皇后でもあったとされる人物だ。
『日本書紀』では天皇と同じ扱いで書かれており、大正時代に外されるまでは第15代天皇とされていた。
 なので、神功皇后を祀ること自体はおかしなことではない。
 しかし、何故、神功皇后だったのかだ。
 もし、この八幡が最初から神功皇后を祀っていたとすれば、それがこの神社の本質ということになる。

 あと、成務天皇を祀るとしているのもどういうことなのか。
 隣の中水野村にかつて高倉社があって、瀬戸ペディアはその祭神を成務天皇だといっている。
 これもどこからの情報なのか分からないのだけど、一ヶ所ではなく二ヶ所から成務天皇の名前が出てくるとなると無視できない。
 第13代成務天皇は第12代の景行天皇のの第四皇子(母は美濃の八坂入媛命)で、日本武尊の異母弟に当たる。
 第14代が日本武尊の子の仲哀天皇で、第15代応神天皇から見た成務天皇は大叔父になる。
 広く言えば成務天皇も八幡ファミリーと言えなくもないけど、やはり関係性としては遠い。
 それと気になっているのは『尾張徇行記』にある武内社の存在だ。八幡の末社の他、独立した武内社もあるといっている。
 これが武内宿禰を祀ったのであれば、武内宿禰は景行から成務、仲哀、応神、仁徳まで仕えた伝説の大臣とされているので何らかの関わりが考えられる。
 それにしても、成務天皇が祭神となっていることはよく分からないとしか言えない。
 玉依姫命についてはもっと分からない。

乎江神社の可能性はあるのか その1

 この上水野村の八幡が『延喜式』神名帳(927年)にある乎江(ヲエ)神社かどうかについてあらためて考えることにしたい。
 しかし、結論から言うと、その可能性はほぼない。ゼロではないかもしれないけど、ほぼゼロだ。
 それはもう、場所の問題に尽きる。

 個人的に、古代の郡境は地理で線引きするような明確なものではなく集落単位だったはずで、それゆえ飛び地があったと考えている。
 違う勢力(一族)がサンドイッチするように土地を治めていたという話も聞いている。
 それにしても、水野郷の上郷だけを春日部郡とするのは相当無理がある。
 現在の春日井市の一部は山田郡だった可能性が高いとも思っているけど、春日部郡から見て山田郡のこの場所だけが飛び地の春日部郡だったというのはちょっとないのではないか。

 もう一度、『尾張志』を引用して読んでみる。

乎江(ヲエ)神社

延喜神名式に春日部郡乎江ノ神社(卜部兼永本には宇江神社とす)本國帳に従三位乎江天神(一本魚江天神とす)と見えたり

上水野村の八幡社は境内ひろく其地を宇江の山と呼ひ東に隣れる薬師堂法松院の山麓を上之山といへるも宇江の轉したる由又社地と法松院とのあはひなる江林坂も宇江林坂といふ意なる由いへり本社の七八十間南の方に直會殿のあと(今天王ノ社と申す)ありて舊社のおもかけは著(シル)けれとたしかなる傳へなければいかかあらん考ふへし
此八幡社は延寶四丙辰年瑞龍院君の御修造なり

 ここで根拠となっているのは地名だ。
 境内地のあたりを宇江の山といい、隣接する薬師堂のあたりの上之山は宇江から転じたもので、江林坂ももともとは宇江林坂といっており、近くには直會殿の跡もあるというのが理由として挙げられている。
 乎江と宇江を同じとしていいのかという問題もあるのだけど、宇江という地名があるから宇江神社もあると考えるのは少し安易ではないのか。

 とはいえ、私の頭痛と首痛を彼らの切実な訴えと受け取るなら(勝手な思い込み)、そうむげにもできない。
 少なくとも、あのとき頭痛を感じていなければここまでしっかり考察することはなかった。乎江神社の話を紹介しつつ、それはないと簡単に片付けていただろう。
 もう少し考察、検討を続けよう。

乎江神社の可能性はあるのか その2

 上水野村を春日部郡とするには無理があるとして、では山田郡ならどうかと考えてみる。
『延喜式』神名帳の山田郡には19社が載っている。

 片山神社 大目神社 羊神社 深川神社 川嶋神社 小口神社 伊奴神社 金神社 和爾良神社 多奈波太神社 綿神社 澁川神社 太乃伎神社 尾張神社 別小江神社 大井神社 坂庭神社 尾張戸神社 石作神社

 確定とされているところはあるものの、個人的には半数かそれ以上は違っているのではないかという感触を持っている。
 史料から得た情報だけでなく、伝承や現地で自分が得た感覚からそう感じる。
 山田郡の中で上水野村の八幡が該当するものがあるかというと、可能性としては充分にあると思う。

 平安時代末頃に作られたとされる『尾張国内神名帳』にはいくつかの写本があるのだけど、その中でも古いとされる「熱田座主如法院蔵本」には24社が載っている。
 この掲載順がある程度位置を示しているのではないかとこれまでにも何度か書いてきた。順番に書き出してみると以下のようになっている。

【従三位上】 羊天神 坂庭天神 澁河天神 大檐天神 金天神 尾張戸天神 深河天神 大井天神 大目天神 石作天神 桁幡天神 尾張田天神 大江天神 和田天神 片山天神 河嶋天神 和示天神 小口天神 【三位】 川原天神 夜檐天神 伊奴天神 牟久杜天神 山口天神 實々天神

「伴信友校訂本」でも顔ぶれに違いはない。一部順番が入れ替わっているのと字の違いだけだ。

羊天神 坂庭天神 澁河天神 大檐天神 金天神 尾張戸天神 大目天神 大井天神 深河天神 石作天神 桁幡天神  尾張田天神 大江天神 和田天神 片山天神 川島天神 和爾天神 小口天神 川原天神 夜檐天神 伊奴天神 牟久杜天神 山口天神 實々天神

 上水野村のこのあたりを”宇江(ウヘ)”といったというのであればそれに近い社名を選び出してみる。
 大江天神(ヲウヘ)、大井天神(ヲホイ)、別小江神社(ワケヲエ)あたりがそうだろうか。
 春日部郡には魚江天神(ウホヘ/イホヘ)もある。
 ”ウヘ”と”ヲヘ”を一緒とするのは乱暴すぎるのだけど、乎江(ヲエ)とも近いことから、音の響きとして近いものはある。

 では場所から考えたらどうだろう。
『延喜式』神名帳の並び順には法則がなさそうなのだけど、『尾張国内神名帳』は北から時計回りに並んでいるように思える。
 後半はけっこうグダグダな感じになるのだけど、前半は北区から守山区、尾張旭、瀬戸、長久手という順に並んでいる。
 この中で特に問題となるのが瀬戸エリアと思われる部分だ。
 大檐天神 金天神 尾張戸天神 深河天神 大井天神 大目天神
 大檐天神(ヲノキ)は西区の大乃伎神社とされるのだけど、個人的には疑っている。
 具体的にどことはいえないのだけど、場所的には守山区のどこかの可能性が考えられる。
 金天神は上水野の小金山にあった金神社(小金町)というのもちょっと信じていなくて、尾張戸天神も守山区と瀬戸市にまたがる東谷山山頂にある尾張戸神社のことではないかもしれない。
 疑い出すとキリがないのだけど、最も疑わしいのは深河天神と大目天神に挟まれた大井天神だ(「伴信友校訂本」では大目天神 大井天神 深河天神の順になっている)。
 この大井天神は北区にある大井神社地図)とされているのだけど、庄内川よりもずっと北にあることで山田郡ではないのではないかという説がある。
 それをいえば、そこより更に北に位置する小牧市の尾張神社(地図)も山田郡尾張神社ではないということになる。

 この大井天神が怪しい。
 怪しいというか、場所の法則性があるとすれば、瀬戸市内のどこかということになる。
 品野は旧石器時代の遺物や縄文時代の遺跡が多数見つかっていることからも分かるように古くから人が暮らしてきた土地だ。
 水野で知られる一番古い遺跡は縄文後期の内田町遺跡だけど、実際は品野と同じくらい古い歴史を持っていてもおかしくはなくはない。
 水野川流域では多数の古墳が見つかっている。
 赤津も品野同様古いものの、瀬戸村はそれより新しい。
 瀬戸村と赤津村に延喜式内社があるのなら、品野や水野にあっても不思議はない。というよりも、むしろない方が不自然だ。
 そう断定できる具体的な根拠はないものの、品野や水野には歴史的に埋もれた神社があるのではないかと私は考える。
 それが上水野村の八幡だったとしても驚かないし違和感はない。
 あるいは、中水野の三社大明神社もそうかもしれない。
 個人的には上品野の稲荷神社を推したいと思っているのだけどどうだろう。

まとめに代えて

 式内社論争というのは昔からあった。
 応仁の乱以降、長い戦国時代の中で焼失した神社や失われた社伝は少なくない。
 江戸時代になって人々の心に余裕が生まれ、神社についても見直される中、『延喜式』神名帳に載っている神社はどれなのかということが議論されるようになった。
 その頃までにすでに失われた延喜式内社も相当数あったに違いないのだけど、不明とされる神社はうちだとか、いやうちがそうだといった争いがあちこちで起きた。
 名古屋でいうと片山神社片山八幡神社との間でどちらが山田郡片山神社かという争いが明治まで続いていた。
 最終的には片山八幡神社が引く形で決着が着いたのだけど、たぶん納得はしてない。
 個人的には片山神社が大好きながら、延喜式内社でいうと片山八幡神社の方ではないかと考えている。

 こういった当事者間同士だけでなく無関係な第三者も口を挟むとますますややこしいことになる。
 尾張では天野信景(あまのさだかげ)や津田正生などが盛んに論じていた。
 津田正生は独自すぎる自説を披露していて、それはないだろうと思いつつ、もしかしてあるかもと思わせる主張もある。
 私などがああだこうだ言っても影響力はないし意味がないといえばそうなのだけど、考察、推測するくらいはしてもいいのではないかと思っている。

 今回の上水野の八幡が乎江神社かどうかについても、そんな馬鹿なと笑い飛ばしてしまえばそれまでだけど、可能性を探ることは無駄ではないはずだ。
 一石を投じるというか、問題提起はできたと思う。
 私の身に起きた頭痛と首痛が神社の訴えのようなものだったとしたら、なんとか役目を果たせたのではないだろうか。
 瀬戸の品野や水野には延喜式内社もしくはそれに準じるような古社が必ずあったと考えている。今もその流れを汲む神社はあるはずだと、確証はないけど確信めいた強い思いはある。
 そういう視点を持った上であらためて瀬戸の神社を俯瞰したとき、これまで見えていなかったものが見えてくる気がする。
 瀬戸の歴史は考えている以上に奥行きがある。

作成日 2025.2.6

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