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石作神社(岩作村)

長久手の中心

読み方いしづくり-じんじゃ
所在地長久手市岩作宮後17番地 地図
創建年(伝)834年(承和元年)
旧社格・等級等旧郷社・七等級
祭神建真利根命(タケマリネ)
応神天皇(オウジンテンノウ)
菊理媛命(キクリヒメ)
天照大御神(アマテラス)
大山津見神(オオヤマツミ)
伊邪那美神(イザナミ)
木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)
大山咋神(オオヤマクイ)
武甕槌神(タケミカヅチ)
王辰爾(オウシンニ)
大己貴神(オオナムチ)
アクセスリニモ「はなみずき通駅」から徒歩約40分
名鉄バス「長久手市役所」から徒歩約8分
駐車場あり
webサイト公式サイト
例祭・その他秋の例祭 10月10日前後の日曜日
特殊神事 おまんと(警固祭)
神紋五七桐紋
オススメ度**
ブログ記事石作神社と色金山
長久手の石作神社を再訪していい神社だと思う
三度目の長久手市岩作の石作神社

古くからの長久手地区の中心

 石作神社があるのは江戸時代まで岩作村(やざこむら)と呼ばれた地区で、当時の岩作村は現在の長久手市の中央を南北に縦断するような村域だった。
 西の長久手村と東の大草村、前熊村、北熊村を分断するような格好になっているのだけど、どうしてこんな村域になったのか、理由はよく分からない。
 北の長久手市役所があるあたりから南東のモリコロパークの南3分の1くらいまで岩作村に当たる。
 猿投グリーンロードの開通や、リニモが通ったことで長久手の重心はやや南寄りになったものの、昔も今も岩作が長久手の中心であることに変わりはない。
 その岩作の氏神であり、長久手地区の総社的な位置づけにあるのが石作神社だ。

岩作と石作

 岩作は難読地名で、名古屋の人間でも読めない人はけっこういるんじゃないかと思う。
 字面だけ見たらどう考えても”やざこ”とは読めない。
 神社の方は石作と書いて”いしづくり”と読ませるのでそれはそれでややこしい。

 歴史的に見ても、”岩作”と”石作”は混在していて、読み方も定まらなかったようだ(戦国時代に石作から岩作になったという話もある)。
『尾張徇行記』(1820年)は岩作村について「地名考云、岩作(ヤザゴ)ヤハイハノ約ル也、作字或ハ借ニテ裂ノ義歟、神代ニ岩裂根裂(イハサネサク)ノ神モアレハ也、或ハ作ハ即(ヤハリ)ヅクリノ下略ニテ岩作(イハザコ)トイフ義モ知エカタシ」と書いている。
 この「地名考」というのは津田正生(つだまさなり)の『尾張国地名考』のことで、こんなふうに書いている。

岩作村(ヤザコ)
 也座古とよむべし伊波を約て耶(や)なり 佐古は坂の轉聲なるべし 或は神明より出る地名歟
 神代に石拆神(いはさくのかみ)根拆(ねさく)の神あり又按に也坐古と以波坐記とはもと同語なるべし
 此例猶他にもあり矢田に山田江松に榎津のごとき皆地脈を引有

『尾張国地名考』

 ”やざこ”の”や”は”いは”(岩)の略で、”さこ”は”さか”(坂)から転じたというのが津田正生の主張だ。
 あるいは、神明(石作神社のこと)が先で、そこから地名が来ているのかもしれないともいっている。
 石拆・根拆の神は伊弉諾(イザナギ)が迦具土(カグツチ)を斬ったときに血から成った神として記紀に出てくる。
 このイワサク・ネサクの”サク”と関連があるのではないかという考えはけっこういい線を突いているかもしれない。

 津田正生は『尾張国神社考』の中で次のように書いている。

和名抄 山田郡石作郷(やざこのさと)

 正生考 延喜式和名抄ともに、今本に”いしつくり”と假名を施(つけ)たるは後世鎌倉以来のあやまり也
 (中略)
 岩作(やざこ)、長久手、岩崎、前熊、北熊、大艸(おほくさ)、本地、猪子石なとの村々は、舊(もと)は一圓(ひとくるわ)成べし。
 そもそも岩作の地名は、正字岩崎、岩坂より轉(めぐ)りて耶坐古となれり。
 石岩古へ通用、他所(わき)の石作の字(もじ)とは、其例別(ためしこと)なり、往昔の一郷後世に或は四五ヶ村、又は十二三に別るる故を以一圓(ひとくるわ)の村名の内に呼聲(よぶこえ)は異(こと)にし其義(こころ)同じ物ありき

『尾張国神社考』

 ”和名抄”こと『和名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう)は、承平年間(931-938年)に源順(みなもとのしたごう)が編纂したとされる辞書で、この中で各国の郷名が書かれており、尾張国山田郡石作が出てくる。
 訓がないため読み方は不明ながら、尾張国中島郡石作郷には”以之豆久利”と訓が付いていることからすると、平安時代は”いしつくり”と呼んでいた可能性が考えられる。
 ただ、石作と岩作は字こそ似ているものの”いしつくり”が”やざこ”に転じるかと考えると、それはなさそうな気もするから、すべての石作が同じと考えない方がいいかもしれない。
 石作(岩作)をもともとは”いわさく”と呼んでいて、それが”やざこ”に転じたと考える方が納得がいく。

 津田正生は、岩崎または岩坂から岩作に転じたという説を唱えているわけだけど、その例として、矢田村と山田村、河村と河和(かふわ)、國府宮(こうのみや)村と子生輪(こふり)、江松(えまつ)と榎津(えなつ)、高木と瀧村、大谷と大足(おほたり)村を挙げる。
 その上で、今(江戸時代)石作を”いしつくり”と呼ぶのは鎌倉時代以降の誤りだともいっている。

 個人的には、岩迫/石迫(いわさこ)の可能性も考えていいのではないかと思う。
 ”迫”は迫(せま)るとか通るといった意味の言葉で、迫間と書いて”はざま”と読ませる例もある。
 ただ、正倉院文書にある『智識優婆塞貢進文』の中で、「尾張国山田郡石作郷戸主日下部建安万呂」(750年)とあるので、石作という郷名(地名)は奈良時代にはすでに定着していたと考えられる。
 となると、平安時代前期の834年(承和元年)創建という石作神社は地名から社名が来ているということになりそうだけど、事はそう単純ではない。

石作神社は石作氏から来ているのか?

 岩作村の石作神社が地名の石作郷から採られたと言い切れない理由は、別の場所にも石作神社があるからだ。
『延喜式』神名帳(927年)に載るだけでも6社の石作神社があり、そのうち4社が尾張国に集中している(長久手岩作は山田郡で、他は中島郡、葉栗郡、丹羽郡)。
 尾張国の4社はいずれも建真利根命(タケマリネ)を祭神としており、兄弟社のような関係と考えられる。少なくとも偶然社名が同じだったとは考えられない。
 そうなると、岩作村の石作神社も地名から社名が来ているとは決めつけられないことになる。
 では、石作とは何か、ということになる。

 石作神社の説明としてよく語られるのが、石作連(いしつくりのむらじ)が自分たちの祖である天火明(アメノホアカリ)六世孫の建真利根命を祀ったというものだ。
『新撰姓氏録』(815年)に、火明命六世孫の建真利根命の後として石作連(左京神別)と、火明命六世孫の椀根命の後として石作連(摂津国神別)が載っている。
 石作連については『古事記』の垂仁天皇(伊久米伊理毘古伊佐知命)のところでこんなふうに書かれている。

此天皇御年 壹佰伍拾參歲 御陵在菅原之御立野中也 又其大后比婆須比賣命之時 定石祝作 又定土師部 此后者 葬狹木之寺間陵也

『古事記』

 垂仁天皇の皇后だった比婆須比賣命(ヒバスヒメ)が亡くなったときに、”石祝作”と”土師部”を定めたという内容だ。
 本居宣長などは”石祝作”は”石棺作”の間違いではないかと推測しているのだけど、そんな間違いをするとは考えにくく、”石祝作”が何を意味するにせよ、”石祝作”だったのだと思う。
 ”祝”(はふり)という字が入っていることからすると、何らかの祭祀に関係したとも考えられ、単に石棺を作ったというだけではないかもしれない。
『日本書紀』には石作連を思わせるものは出てこないものの、葉酢媛命が亡くなったときに垂仁天皇は殉死(じゅんし)の風習をやめにしたいと言い出して、野見宿禰(ノミノスクネ)が代わりに埴輪(はにわ)を作って並べることを提案して天皇はそれを採用し、土部臣(ハジノオミ)の名を与えたというようなことを書いている。

 これらを考え合わせると、石棺を作る職業集団である石作連の後裔が尾張各地に散って、祖とする建真利根をを祀ったのが石作神社ということになる。
 しかし、個人的にこの話は信じていない。
 少なくとも、石棺を作る職業集団が尾張各地に拠点を構えたというのは考えづらい。
 岩作もそうだけど、中島郡にしても丹羽郡にしても葉栗郡にしても、石材が採れるような土地ではないし、石棺作りには向かない場所だ。
 それに、そもそもの話として建真利根が垂仁天皇皇后の比婆須比賣の石棺を作ったというのも腑に落ちない。

 建真利根は『新撰姓氏録』では天火明六世孫となっているのだけど、この世代の尾張氏の当主ではない。
 尾張氏(海部氏)の系図を見ると六世孫は建田背命/建田勢命(タケダセ)になっている。
『先代旧事本紀』(平安時代前期から中期)の天孫本紀では、五世孫の建箇草命(タケツツクサ)の次の建斗米命(タケトメ)の子の中の一人として建麻利尼命(タケマリネ)が出てくる。
 この世代の当主は建田背命で、神服連(カムハトリ)、海部直(アマベ)、丹波国造(たにはのくにのみやつこ)、但馬国造(たじまのくにのみやつこ)の祖といっている。
 この次が建宇那比命(タケウナヒコ)、次が建多乎利命(タケタオリ)、次が建弥阿久良命(タケミアグラ)で、その次がようやく建麻利尼命で、石作連、桑内連(クワウチ)、山辺県主(ヤマベ)らの祖としている(次が建手和迩命(タケタワニ))。
 長子ではなく家を継げなかったので分家として独立して石棺作りを担当したと考えられなくもないのだけど、そうだとしても世代的に合わないというのもある.。
 天火明の系譜にはいろいろあって定かではないのだけど、仮に『古事記』や『日本書紀』の一書がいうように邇邇芸命(ニニギ)の兄として考えてみると、邇邇芸命のひ孫に当たる初代神武天皇から第11代目の垂仁天皇と天火明六世孫の建麻利尼では世代が違いすぎる。

 ちょっと混乱してきたので、一度岩作の石作神社に話を戻すことにする。

石作と浅井氏

 石作神社について調べている中でちょっと面白い情報に当たった。
 長久手市観光交流協会というところが発行している季刊誌『雑人(ざっと)』web版がこんなことを書いている。

石作連

 古代の弥生時代に一宮の浅井町から、現在の岩作雁又の地に浅井姓の4~5家族が開拓のために移住したのが岩作が発祥した地で、平安時代にはすでに30数戸の集落があったと言われている。
 岩作の地名発祥の語源は、色金山山頂の巨石(胡牀石)の古代の「岩くら信仰」により発祥したとも伝えられている。

 元ネタの出所が分からないのだけど、これは興味深い話だ。
 岩作雁又は、石作神社の600メートルほど北、現在愛知医科大学や愛知医大が建っている場所だ。
 一宮の浅井というと、かつては50基以上の古墳が密集していたとされる地区で、延喜式内の石刀神社(いわとじんじゃ)や浅井神社(あざいじんじゃ)があるところでもある。
 特に”石”という共通項が気になるところだ。

 石神信仰は各時代の各地にあってひとくくりにすることはできないのだけど、物部も石神信仰だったとされている。
 磐座(いわくら)を神に見立てて信仰するのも古くからあったことで、一宮の隣の岩倉市(いわくらし)も磐座信仰が元になっている。
 石神と物部といえば思い浮かぶのが奈良県天理市の石上神宮(いそのかみじんぐう/web)だ。
 石上を”いそ”と読ませるのは五十(いそ)から来ているのかもしれない。
 石作はもともと”いそのつくり”だったとすれば、”石造”から来ている可能性も出てくる。
 ”造”は国造にも使われる言葉で”みやつこ”とも読み、古代の姓(かばね)の一つで、八色の姓(やくさのかばね/684年)で連(むらじ)になった。
 石作がもともと石造だとしたら、石造連は姓が二重でちょっとおかしい。
 思いついたのは、諸国郡郷名著好字令だ。
 一般的には好字令や好字二字令とも呼ばれるもので、713年に元明天皇が風土記編纂の詔を出した中で、国、郡(こおり)、郷(さと)などの名前は、良い(好い)漢字2字で表記するようにという命だった。
 それを受けて各国では3文字の地名を2字にしたり、1字の地名に言葉を足して2字にしたりということを行った。
 木国を紀伊国にしたり、泉国を和泉国にしたりといったものだ。
 ”やざこ”が古くからの呼び名だとすると、石作というのはこのとき付けられた名前(表記)かもしれない。
 上にも書いたように、”いしつくり”が”やざこ”に転じるのはちょっと考えづらいから、もともとは別の表記で”やざこ”といったものを石作の2文字を当てたということは考えられないだろうか。
 もしそうだとすれば、石作は石作連云々とは無関係ということもあり得る。

 個人的に引っかかりを覚えているのは”やざこ”の濁音だ。
 本当に元から”やさこ”ではなく”やざこ”と濁っていただのだろうか?
 ”やさご”たとすると、835になり、完全に尾張と三河のキーワードが仕込まれている。
 高天原は八の国で、尾張は五、三河は三というのはこれまでに何度も書いている。
 濁る必然というか理由があるのだろうけど、それがよく分からない。
 上に出てきた一宮の浅井は”あざい”と濁る。
 有名な戦国武将の浅井長政も”あざい”だったとされる。
 浅井姓は尾張旭市や瀬戸市に多く、長久手市にもいるようだ。
 中世から戦国にかけてのこの地区の城主名としても浅井はよく出てくる。
 トヨタ自動車や豊田市は濁らないのだけど、創業者一族の豊田氏は”とよだ”と濁る。
 石作神社の読み方についていえば、江戸時代までは”いしつくり”だったのが、いつの時代からは”いしづくり”と濁るようになった。『愛知縣神社名鑑』もそうなっているし、石作神社の公式サイトのURLが”ishizukuri-jinja”となっているので、神社側もそういう認識のようだ。

 石作神社の神紋が五七桐紋で尾張氏系なのは祀っている建真利根が尾張氏だから当然ではあるのだけど、名に石がつくあたりになんとなく物部や三河の影も見え隠れする。
 後に豊(トヨ)の臣(おみ)を名乗ることになる羽柴秀吉と、松の平氏(松平)で豊の国の王一族である徳川家康が長久手の地で戦ったというのも、ある種の必然だったと思わないでもない。
 岩作の東に八草(やくさ)があり、その東は三河の猿投(さなげ)だ。猿投山と景行天皇にはゆかりがあり、長久手には景行天皇社がある。
 三河国三宮の猿投神社では景行天皇の王子で日本武尊(ヤマトタケル)の兄とされる大碓命(オオウス)が祀られている。
 歴史というのは横にも縦にもつながっている。

古代の長久手

 長久手の地形を俯瞰してみると、東側一帯は丘陵地帯で、東から西へ向かって流れる香流川やその支流沿いの平地を耕作地として活用してきた歴史がある。
 江戸時代の村絵図を見ると、無数の河川が毛細血管のように長久手地区全域を流れていたことが分かる。

 これまでに発見されている遺跡については、石器の散布地や弥生時代の土器散布値などがわずかに見つかっているにすぎないものの、遅くとも弥生時代までには長久手地区に集落ができていたと考えられる。
 上に書いた一宮の浅井から移ってきたという話は事実を反映したものかもしれない。
 6、7世紀のものとされる古窯跡も数ヶ所見つかっており、古墳時代後期の7世紀の熊張古墳群や高根山古墳群があることからしても、飛鳥時代までには確実にある程度の集落はできていたと考えることができる。
 だとすれば、その時代にはすでに何社かの神社もあったということだ。そのうちの一つが石作神社だったとしてもおかしくはない。

 個人的な感触というか推理をいえば、長久手地区を最初に開拓したのは建真利根たちだったのではないかということだ。
 もしそうなら、天火明から数えて六世孫なのでかなり古いことになる。2世紀とか3世紀、あるいはもっと遡るかもしれない。
 周辺の尾張旭や瀬戸も尾張氏の一族が開拓したのは間違いなく、どこが先でどこが後かは分からないにしても、長久手を手つかずのままにするとは考えられない。
 一つのヒントというか手がかりは”熊”だ。

 いつも書くように”熊”は”雲”が転じたもので、中心の雲から八方向に雲を作って八雲となり、八雲から出ると出雲になる。
 長久手には前熊、北熊といった地名が今も残り、熊野社もある。
 ”前”と”北”はあるのに”熊”そのものがないのは不自然で、前熊、北熊の場所からしてその南に熊の本地があったとすれば、それは岩作村の南部に当たる。
 そこに何があるかといえば、今はモリコロパーク、かつて青少年公園と呼ばれた広大な公園だ。
 青少年公園はかつての”雲”であり、大規模集落があった場所だったのではないかというのが私の推理だ。
 宅地開発などで掘り返されて見つかると面倒なので、緑地や公園にしたり学校や役所などの公共施設を建てて封印するというのは常套手段だ。
 その場所で愛知万博が行われ、今はジブリパークができたのも、何らかの力が働いたかもしれない。
 ジブリの鈴木敏夫プロデューサーは名古屋市東区の出身であり、宮崎駿監督も愛知にゆかりがある人だ。何か話を聞いて知っている可能性がある。
 尾張旭のところでも書いたけど、令和の今上天皇が最初の地方公務で尾張旭の森林公園に植樹したのも、もちろんたまたまなどではない。

江戸時代の書の岩作村と石作神社

 以上、長すぎる前置きを経てようやく岩作の石作神社についての話になる。
 まずは分かるだけの情報を集めて並べてみることにしよう。

『愛知縣神社名鑑』は以下のように書いている。

 創建は承和元年(834)と伝う。「延喜式神名式」に山田郡石作神社とあり、「尾張本国帳」に従三位石作天神という。
 明治5年7月28日郷社に列格する。同44年9月15日字色金の八幡社と、字高根前冨士浅間社を合祀した。
 昭和49年3月、社殿を造営する。
「尾張名所図会」に主神建摩利尼命は石作連の祖神とあり、又社殿の改造を正和年中(1312-16)に行ったと記す。

『愛知縣神社名鑑』

 創建を平安時代前期の834年(承和元年)とするのは神社にそういう話が伝わっているということなのだろうけど、これはちょっと遅すぎて信じられない。
『智識優婆塞貢進文』の750年に「尾張国山田郡石作郷」とあることからして、少なくともこの時代にはすでに石作郷があったということで、集落には氏神が祀られていたはずだからだ。
 後の『延喜式』神名帳(927年)に載る石作神社と現在の石作神社が違う可能性はあるものの、岩作地区に何かしらの氏神があったのは間違いない。
 神社というのは飛鳥時代や奈良時代に突然誕生したものではなくて、縄文からのカミマツリが形を変えながら続いてきたものと認識する必要がある。
 たとえ社殿の創建が飛鳥時代だったとしても、マツリの始まりの創祀はそれよりも遡るということだ。

 続いて江戸時代の書を見ていこう。
『寛文村々覚書』(1670年頃)の岩作村はこうなっている。

家数 七拾壱軒
人数 五百拾六人
馬 三拾五疋

社 四ヶ所 社内弐町弐反六畝拾弐歩 前々除
 神明 当村祢宜 孫大夫持分
 富士浅間 長久手村祢宜 次郎左衛門持分
 山之神 弐ヶ所 村中より支配

古城跡 先年今井五郎太夫居城之由、今ハ畑ニ成

『寛文村々覚書』

 家数が71軒で村人が516人なので、江戸時代前期の村としてはわりと大きな規模といえる(江戸時代の一村の平均は400人ほど)。
 ここにある”神明”というのが石作神社のことなのだけど、江戸時代は神明と呼ばれていたようだ。
 氏神でもないのがちょっと不思議ではある。

『愛知縣神社名鑑』には明治44年に村内にあった八幡社と冨士浅間社を石作神社に合祀したといっているけど、ここでは八幡は出てきていない。
 八幡は安昌寺(地図)裏手の色金山(いろかねやま)に祀られていたもので、1559年(永禄2年)に安昌寺の僧の泰順が創建したと伝わっている。
 1584年(天正12年)の長久手合戦の際に徳川家康が戦勝祈願をしたという話があるのだけど、『寛文村々覚書』はどうして八幡について書かなかったのだろう。
 冨士浅間は岩作御嶽山の南にあった。
 文禄年中(1592-1596年)に浅井助左衛門が勧請して祀ったという。
 ただ、前々除になっているのがちょっと引っ掛かる。これは1608年の備前検地以前より除地だったことを意味するもので、創建と同時に除地とされたのか、もともとの除地に社を祀ったということだろうか。
 あるいは、この浅井氏は初期開拓者の浅井氏の後裔ということかもしれない。
 村支配の山神は2社以外にもあったようだけど、そのうちの2社は明治5年に石作神社に合祀された。

『尾張徇行記』(1820年)は『寛文村々覚書』と『張州府志』(1752年)を引用して次のように書いている。

 社四ヶ所、覚書ニ、神明・冨士浅間・山神二区・境内二町二反六畝十二歩前々除
 府志曰、石作(ヤザコ)神祠在岩作村、祀建摩利尼命、神名式謂石作神祠、本国帳曰従三位天神是也、此祠今俗誤為神明祠、有五区、各祠神号亦失之、神祇宝典以当社為建摩利尼命、則石作連祖也、後花園院正和年中重修
 祠官福岡太夫書上ニ、神明祠 境内松林一町前々除、外ニ燈明田前々除 摂社、熱田大神・一ノ御崎・白山・妻宮・是ハ昔時境外ニアリ、其旧跡八歩前々除ナリ、此神明祠ハ人皇五十四代仁明天皇承和元年寅年鎮座也、神名式尾張国山田郡石作神社トアリ、国内神名帳ニハ従三位石作天神トアリ、山神祠境内三畝十六歩前々除

『尾張徇行記』

 共通しているのは、岩作村の神明は延喜式内の山田郡石作神社という認識だ。
 今(江戸時代)これを神明と呼ぶのは誤りといっている。
 その他の5社も神号を失っていると書いているのだけど、これが何を指すのかはよく分からない。おそらく、正体不明になっている祠が冨士浅間や山神以外に5つあったということなのだろう。

『尾張志』(1844年)はこう書く。

 岩作村にまして今は神明と申す 延喜神名式に山田ノ郡石作ノ神社本國帳に同郡従三位石作ノ天神とある是也
 和名抄に山田ノ郡石作とある郷(サト)も此村也
 今この愛智郡に属す社説に建摩利尼ノ命を祭るといふこの命は天孫本紀火明命六世孫建田背命(タケダセ)の條に次ニ建摩利ノ命(石作ノ連桑内ノ連小邊縣主等が祖)と見えまた姓氏録左京ノ神別下に石作(イシツクリ)ノ連(火明命六世ノ孫建眞利根命之後也
 垂仁天皇のノ御世奉為皇后日葉酢媛ノ命作石棺献之仍賜姓イシツクリ大連公也)なとあり尾張氏の別氏なるゆえに本國には此氏人殊に多□りしとおほしくて石作という地名も和名抄に中島郡と此處と二處見え又中島葉栗丹羽山田四郡に石作神社ありて神名式にのせられたり
 當社は仁明天皇の大御代承和元甲寅年鎮座にて後花園天皇正和年中にも御修造ありしよし社記に見えたり
 摂社に一御前ノ社 白山ノ社 熱田ノ社 妻ノ宮ノ社あり 神主を福岡氏と云

『尾張志』

 鎮座を仁明天皇時代の承和元年(834年)とする社伝はここで出てくる。
 後花園天皇の正和年中(1312-1317年)に修造という記録もあったようだ。
 摂社の一御前や熱田は尾張氏系で分かるとして、妻宮というのはちょっと興味深い。
『先代旧事本紀』などに名は現れないも、建麻利尼の妻だろうか。

『尾張名所図会』(1844年)はこう書いている。

 岩作村(やざこむら) 「和名抄」に山田郡(やまだのこほり)石作(やざこ)とあるは此村にて、古き地名なり

 石作神社(やざこのかみのやしろ) 岩作村にあり。今神明社と稱(しょう)す。「延喜神名式」に山田郡石作神社、「本國帳」に従三位石作天神とある是なり。
 祭神建摩利尼命(たけまりにのみこと) 「姓氏録」にのせし石作連(やざこのむらじ)の祖神なり。
 鎮座の年月定かならず。後花園天皇の正和年中に重修せり。
 例祭 九月十二日。走馬(はしりうま)を出(いだ)す。」

 富士権現社 同村にあり。文禄年中淺井助左衛門の營建なり。攝社、伊勢・熊野・伊豆・白山・日吉・鹿島・三島・箱根等の祠ありて境地甚廣大(はなはだくわいだい)なり

『尾張名所図会』

 ここでは石作神社を”やざこのかみのやしろ”としていて、鎮座の年は定かではないとする。
 例祭で走馬を出すというのはここだけの情報として貴重だ。
 今でも祭りのときは馬の塔(おまんと)を引くのだけど、走り馬というくらいだから馬を走らせていたのだろう。

 冨士浅間については、文禄年中に浅井助左衛門が創建したという認識で、境内は”はなはだ広大”といっている。
 摂社も各地の有名どころを取りそろえていて、なかなか充実した神社だったようだ。

 ついでに安昌寺についての記述も載せておきたい。

久岳山安昌寺(きうがくざんあんしょうじ)
 同村にあり。曹洞宗、白坂雲興寺末。天正十三年丹羽勘助氏建立なり、山號もと色金山(しきこんざん)といひしが、後今の號に改む。
 當山はうしろに色峯(いろがね)峩々(がが)として老松蓊鬱(をううつ)たり、前に香流川潺々(せんせん)として清く、寂寞たる山林の古禪刹なる。

『尾張名所図会』

『尾張名所図会』はタイトルが示す通り観光案内的な書なので、藩の地誌より詩的だったり文学的だったりするのがいい。

津田正生曰く

 津田正生については名古屋編の中で何度か書いているのだけど、あらためて少し説明しておくと、江戸時代中期の1776年海東郡根高村(愛西市根高町)生まれの郷土史家のような人だ。
 生家は酒屋だったのだけど、家業そっちのけで歴史のことばかりやっていた。
 尾張藩士でもないのだけど、けっこう知られる存在だったようで、地誌編纂に携わった尾張藩士たちとも交流があった。
 頼まれもしないのに『尾張国地名考』や『尾張国神社考』(『尾張神名帳集説本之訂考』)を書いて勝手に尾張藩に上納したりしてるあたりに共感を抱く。
 そんな津田正生は石作神社について『尾張国神社考』の中でこんなことを書いている。

従三位石作(ヤザコノ)神社天神
 集説云 山田の荘岩作(やざこ)村神名の社 末社四。熱田、白山宮、一の御前 饒速日命、妻の宮 日葉酢媛命 社家福岡氏

 耶座古美也志呂と讀奉るべし

「當所澤助曰」 神明の社地は後也。舊地は畔名(あざな)を舊氏神と呼處也。西島といふ民家の北一町半に在今は田となる
 此南半町に禰宜屋敷とよふ畔名もあり。また四ッの末社にもおのおの舊地といふものあり。
 舊氏神(もとうぢかみ)の地より西へ順々に不遠(ちかく)舊地あり。
 村民は、縣木(あがき)、カシャゴ、石神(シャグジン)、エビスと呼。みな杉櫻なと古木一株つつ遺れりといへり

「正生考」 今の神明の地は齋場(いむば)村の宮に習て漸(おひ)々廣長(ひろし)なる末社の内饒速日命、日葉酢媛命を祀るものは後世鎌倉以後の誤也

『尾張国地名考』

 石作神社は”やざこみやしろ”(耶座古美也志呂)と読むとしつつ、現在地は新地(江戸時代すでに)で、元地は旧氏神と称する場所だったということを書いている。
 その南には禰宜屋敷という地名があって、石作神社の末社にはそれぞれ旧地があったともいっている。
 齋場村の宮に習うというのがよく分からないのだけど、これは印場の澁川神社のことをいっているだろうか。
 末社で饒速日命や日葉酢媛命を祀るのは鎌倉以来の誤りだとする。
 続けて醍醐天皇の延喜年中(901-923年)から一条天皇の長保・寛弘(999-1012年)くらいの百年くらいの間に社号が変わった例が多いともいっている。
 更に国学者で伊勢の神宮(公式サイト)外宮の神官でもあった出口延經(でぐちのぶつね)が姓氏録の石棺連(いしつくりのむらじ)は火明六世孫の武椀根(たけまりねの)命之後云々といっているのも間違いだと噛みついている。
 ちょっと面白い小ネタとして、石作神社の福岡孫大夫は代々の神職で系図の正しい嫡家なのだけど、年々困窮して神職を譲って農民になったとしつつ、嫡流の子たちは優れていて村に比類のない存在だと書いている。
 安昌寺にある十一面観音、千手観音、如意輪観音は岩作神社の本地仏だったのではないかという推測もしている。

村絵図と今昔マップに見る岩作村の変遷

 岩作村の村絵図は幕末の万延元年(1860年)のものが残っている。
 長久手の村絵図に関しては、『長久手町史 史料編(一) 近世村絵図・地図集』が分かりやすくてオススメなので興味がある方は図書館で借りて見てみてください。
 これを見ると、香流川の北、右岸沿いに民家が建ち並んでいた様子が見て取れる。
 現在の長久手市役所の南一帯だ。
 集落の北には田んぼが広がっており、それは今も変わらない.。
 大きなため池の立石池も現存している。
 ここが岩作雁又なので、古い時代に浅井氏が掘ったため池の可能性がある。
 南側は丘陵地で、高いところにため池を作って狭い平地を耕作地にしていたようだ。

 石作神社については、社名は書かれておらず、集落から外れた北に、丸く木で囲まれた社と鳥居が描かれている。
 他の村の神社が朱塗りになっているのに対して、ここでは塗られていない。
 社は中央が大きく、左右に小さめの社が2社描かれている。
 その他、社寺に関する表記がないので詳しいことは分からない。

 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると更に村の様子が分かる。
 村の中心を東から西に向かって蛇行しながら流れる香流川と北の通り沿いに民家が集まっている。
 これを見ると集落の様子や石作神社と安昌寺の位置関係なども把握できる。
 ただ、まだ合祀前だったはずの八幡はなく、現存している直會神社も書かれていない。
 香流川を挟んで南の低山の山頂付近にある鳥居マークは今もある御嶽神社で、その南の鳥居は合祀前の冨士浅間のものだ。

 1920年(大正9年)の地図に現れる”文”は今の長久手小学校だ。
 これは明治6年(1873年)開校の帰厚学校(岩作村)、熊林学校(前熊村)、到道学校(長湫村)が明治39年(1906年)に統合してできた長久手尋常高等小学校を前身としている。
 ついでに村の統合の歴史を書いておくと、明治10年に大草村と北熊村が合併して熊張村となり、明治22年に熊張村と前熊村が合併して上郷村となり、明治39に上郷村、岩作村、長湫村が合併して長久手村となった。
 その後、昭和46年から愛知郡長久手町、平成24年に長久手市となって今に至る。

 途中の地図がないのだけど、1968-1973年を見ると、東と西に縦筋の道路が通って、やや整備された感がある。
 大きな変化は村の中央を6号線が横断したことだ。
 これは豊田市の力石と八草を結ぶ自動車専用道路の猿投グリーンロードの終点と名古屋方面をつなぐ道で、便利にはなったものの、道路を境に北と南が分断されてしまった。
 愛地球博が開催された2005年にはリニモがその道の高架を走ることになる。

 その後の変遷を見ていくと、旧岩作村よりも西の旧長久手村の発展の方が早かったことが分かる。
 長久手村は1980年代以降に田んぼを潰して丘陵地をならして宅地化していった。
 岩作と長久手では今も圧倒的に長久手の方が発展していて、岩作は出遅れ感を取り戻せずにいる。
 少子化で学校の統廃合が進む中、長久手は時代に逆行して平成20年(2008年)に新しく小学校が建ったのは驚きだった。
 長久手市は全国市町村の平均年齢で1位だったり2位だったりもしている(40歳くらい)。

村神社合祀と王辰爾

 岩作村の神社については江戸時代までにすでに合祀されていたようで、明治になってほぼ石作神社に集められる格好になった。
 ただ、上にも書いたように村内の直會神社と岩作御嶽社は今も独立して現存している。
 あらためてまとめておくと、石作神社の旧地は西島の北一町半の旧氏神と呼ばれる場所にあったらしい。
 西島という地名は今も残っていて、そこの北160メートル(1町=109m)ということは、藪田か石田あたりということになるだろうか。
 そうならば、石作神社と直会神社はわりと近い南北の位置関係となり、納得がいく。

 石作神社の末社に関しては、江戸時代後期にはすでに跡地だけになっていて、村人は縣木(あがき)、カシャゴ、石神(シャグジン)、エビスと呼んでいると『尾張国地名考』はいっている。
 このうちの恵比寿社(エビス)は石作神社のすぐ前にあって、幕末か明治に石作神社に移されたようだ。
 妻ノ宮というのが上のどれに当たるのかは不明ながら、これも石作神社の南にあって、江戸時代に石作神社の境内に移されている。
 興味深いのは、この妻ノ宮の祭神が王辰爾命になっていることだ。

 王辰爾(おうしんに)は第16代百済王の辰斯王の子ともされる飛鳥時代の人物で、船氏の祖とされている。
『日本書紀』や『続日本紀』にも登場しているのだけど、個人的にこういう半島や大陸からの渡来という話はあまり信じていない。
 別の場所からやってくれば渡来人だし、国外をルーツとするという話には何か裏がある。
 それにしても、どうして王辰爾などという人を石作神社摂社の”妻宮”で祀ったかだ。
 塚の上に祀っていたというから、その塚の主の可能性が高そうだけど、それにしても渡来系の王辰爾を祀るというのは唐突で違和感がある。
 伝承が違ってしまったのか、どこかで話のすり替えが行われたか。

 上に書いたように色金山にあった八幡と岩作御嶽山にあった冨士浅間は明治に石作神社に合祀されて姿を消した。
 その他、山神が3社、天王社も5社あったようだ。

岩作城について

 長久手市役所の前に「岩作城址」と彫られた大きな石が置かれている。前の道を通った人は見ているのではないかと思う。
 旧岩作城跡が役場になったのではなく、岩作城は市役所の南にあった。
 南を流れる香流川沿いでもなく、北の丘陵地の麓でもない平地の中程になんで建てたのだろうと疑問に思うのだけど、もともと戦用の城ではなく館城だったのかもしれない。
 昭和60年(1985年)から行われた発掘調査で14世紀から17世紀の城跡と判明したというから、始まりは室町時代だっただろうか。

 『寛文村々覚書』に「今井五郎太夫居城の由」とあり、『尾張徇行記』は「岩作城 古簿曰、今井五郎太夫者居之、然土人今無識其姓名者」と書きつつ、「古城跡二区、一ツハ今井四郎兵衛居之、当村東畠ニアリ、其跡一反二畝歩也、又一ツハ鈴村権八居之、当村西畠ニアリ、其跡一反廿歩也」ともいっている。
 このうち東畠がよく知られる岩作城なのだけど、西畠の古城についてはよく分からない。
『尾張志』は「岩作東ノ城」として、「岩作むら東島といふ民戸の西の方に屬る地にてここの字を城の内といふ也 四面に土居の形猶残れり土居幅二間つつあり土居を省て東西四十四間南北三十二間あり 地方覚書に今井四郎兵衛居之當村東畠にあり其跡一段二畝歩也とある是なり 郷人今も其名を知れり天正十二年四月九日岩崎籠城戦死の士に今井四郎三郎といふあるは四郎兵衛の子なとにやありけむ」と書いている。
 城の規模は東西80メートル、南北57メートルほどの規模(土居幅二間を加えると86m×65mくらい)だったようで、ここでも城主として今井氏の名が挙げられている。
 岩崎城籠城戦死というのは、長久手合戦のときにあった岩崎城の戦いのことで、このときの戦死者の一人、今井四郎三郎は岩作城主の今井四郎兵衛の子だったのではないかといっている。
 ここで出てくる今井氏はもともと武田家家臣の家で、武田氏が滅亡した後、徳川家康に仕えたというのだけど、長い歴史を持つ岩作村や岩作城にそんな落ち武者同然の武将がプラッとやってきて城主になれるとは思えず、その今井氏と岩作の今井氏は別か、もっと早くから今井氏は岩作の主家のような存在だったかだろう。
 尾張国東部と武田氏は意外と深いつながりがあって、わりと早くから武田家に近い人間が岩作村に入っていた可能性もありそうだ。
 岩作西ノ城については遺構が残っていないので定かではないものの、地方覚書に鈴村權八居と書かれているということを紹介している。

結局のところどうなのという話

 長久手地区限定で考えると視野が狭くなって本質を見失ってしまうのだけど、長久手地区最古の集落はどこかというのが一つ問題となる。
 その集落で最初に祀ったのが長久手最古の神社ということになる。
 それは『延喜式』神名帳に載っている石作神社かといえば断言はできない。
 長久手村の景行天皇社は『延喜式』の山田郡和爾良神社の論社でもあるし、遺跡から考えると神明社古墳群や助六古墳群がある北熊地区の方が集落としては古い感じもする。
 高根山周辺や香流川上流南部の古墳群も知られている。
 石作神社についていえば、建真利根命を祖とする一族や集団が祀ったのが始まりと考えるのが一番自然ではある。
 石作連がどうこうというのはあまり重要ではない。
 ただ、尾張国にある4社の石作神社をどう考えるかという問題もある。
 尾張国以外にも、山背国(京都府京都市)と近江国伊香郡(滋賀県長浜市)に延喜式内の石作神社がある。
 伊香郡の石作神社は天火明を祭神としている。
 単純に考えれば、長久手の岩作地区を最初に開拓したのが建真利根命の世代だったか、建真利根命を祖とする一族だったということだろう。
 気になるのは、弥生時代に一宮の浅井から移ってきた者たちが岩作雁又に入植したという話だ。
 雁又は愛知医大が建って古い時代の状況がまったく分からなくなってしまっている。これは何か匂う。隠した可能性が高い。
 中島郡の石作神社との関係はどうかということになるのだけど、延喜式内の中島郡石作神社はあま市石作郷にある石作神社が論社となっており、一宮市の浅井とはかけ離れている。
 葉栗郡の石作神社は岐阜県羽島郡岐南町の石作神社とされていて、これまた遠い。
 岩作の石作神社の正体がよく分からないのは、このように他の石作神社との関連が見えてこないのが要因の一つとなっている。

 位置についてはどうだろう。
 岩作村の集落から離れた北の丘陵地の麓というのは、違和感とまではいかないまでも、なんとなく中途半端な感じがする。
 むしろ安昌寺があるあたりや、色金山に祀ってもよかったのではないか。
『尾張国地名考』がいう西島の北が旧地というのが本当であれば、岩作集落の西の外れに当たり、こっちの方がふさわしいように思う。
 では何故、現在地に移す必要があったのかだ。
 それはそれでよく分からない。

 もう一つ分からないのは、どうして神明と称されるようになったかだ。
 延喜式内社の古社が中世の流行神の八幡に変わる例は多いし、天神と称されるのもよくあるのだけど、神明になる例はちょっと記憶にない。
 天皇家に近い神を祀る神社ならありそうだけど、そもそもここは尾張氏系の建真利根命を祀っているので、よけいに変な感じがする。
 石神信仰と関係があるのだとすれば、どこかの時代で物部系や天皇系の勢力に乗っ取られた可能性も考えられる。
 その土地の支配者層が変われば神社の祭神や性質も変わるのは必然だ。

 通説で語られる建真利根命を祖とする石工集団の石作連が祀ったのが石作神社の始まりという説をまったく否定するわけではないけど、もう少し別の見方があってもいいのかなと思っている。
 長久手エリアだけで考えると見えてこないこともあるので、尾張旭市や瀬戸市、日進市や東郷町あたりまで視野を広げて考察する必要がありそうだ。

作成日 2024.6.4


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