
白土の”白”は何を意味するのか
読み方 | やまがみ-じんじゃ(ほうじもとむら) |
所在地 | 愛知郡東郷町大字春木字白土1番 地図 |
創建年 | 1799年(1811年とも) |
旧社格・等級等 | 旧無格社・十三等級 |
祭神 | 大山咋神(オオヤマクイ) |
アクセス | 名鉄バス「東白土」より徒歩約1分 |
駐車場 | あり |
webサイト | webサイト |
例祭・その他 | 10月第1日曜日(旧10月19日) |
神紋 | 折敷に縮み三文字(おしきにちじみさんもじ) |
オススメ度 | * |
ブログ記事 |
白土が意味するもの
名古屋方面から向かうと、東郷町に入ってすぐの場所にある。
神社があるのは白土西交差点の北だ。
白土は”しろつち”と読むのだけど、隣接する緑区の地名も白土で、東郷町も大字春木字白土なので、ちょっとややこしい。白土といっても人によってイメージする場所が違うだろう。
白土の地名由来として通説となっているのが、このあたりで磨砂土が採れたからというものだ。
磨砂は文字通り何かを磨くときに使ったり、陶器の原料になったりする土で、白堊(しらつち)ともいう。
花崗岩が風化したもので、猿投山周辺が産地だった。
しかし、この手の地名由来を個人的には信じていない。白い土が採れたから白土が地名になったなんてことはちょっとあり得ないのではないか。
キーワードとなるのはやはり”白”で、ここは白の土地だったのではないかと思っている。
東郷町には白鳥神社もあり、そこの地名を諸輪(もろわ)という。
これは二つの輪を象徴している。二つの輪はいうなれば尾張と三河だ。
東郷町は尾張の東端であり、東を三河と接している。隣町はみよし市で、以前は三好(みよし)と表記した。
和合、音貝、神の倉、豊明など、このあたりは意味深な地名が多い。
尾張の中心を黄身とした場合、その周辺は白身となり、外周は殻となる。
白土という地名はそのあたりが関係しているのではないかと思う。
傍示本村の村域
最初、山神神社があるのが何村の村域か分からず困ったのだけど、どうやら傍示本村(ほうじもとむら)のようだ。
ただ、今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、近くに集落はなく、傍示本村集落からはかなり遠い。
明治前期まで、東郷町のエリアには北から諸輪村、和合村、傍示本村、祐福寺村、部田村の5村があり、明治11年(1878年)に傍示本村、祐福寺村、部田村が合併して春木村が誕生した(春木村は春日社の”春”と富士浅間神社祭神の木花開耶姫の”木”をあわせた名前というのだけど、それもちょっと怪しい)。
現在の町名が大字春木なのはこの流れだ。
明治以降の市町村合併の経緯を書いておくと、明治22年(1889年)の町村制の際に諸輪村と和合村が合併して諸和村となり、明治39年(1906年)に諸和村と春木村が合併して東郷村が成立した。
東郷町になったのは昭和45年(1970年)のことだ。
傍示本(ほうじもと)の村名の由来は、後醍醐天皇の頃に国境を示す”榜示”が立てられた地だったからという話があるのだけど、これまたちょっと信じがたいところではある。
傍示本村については春日社(傍示本村)のところで詳しく書くことにしたい。
白土という場所
再び今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、白土の重要性が見える。
現在、白土西交差点は6叉路になっているのだけど、明治半ばの時点ですでに5叉路だった。
ここから500メートルほど西にある大池は扇川の水源だ。
この5叉路は近隣の村に通じていて、大勢の人が白土を行き来しただろう。
こんな場所が重要でないはずがなく、そこに何もなかったとは思えない。
これらの道が江戸時代になってから作られた新道ではないだろうから、元になる道は相当古くからあったはずだ。
東郷町は奈良・平安時代に日本の窯業の中心だった猿投山西南麓古窯跡群の中央に当たり、古窯址も見つかっている。その上白土から磨砂土も採れたことからして、遅くとも奈良時代やそれ以前の飛鳥時代にはこのあたりに人がいて、道もできていたのではないかと思う。
そういうことでいうと、山神神社の元になった社があって、それはかなり古いのではないかとも考えられる。
江戸時代後期創建は本当か?
『愛知縣神社名鑑』は祭神を大山咋神(オオヤマクイ)として、以下のように書いている。
創建は寛政十一年(一七九九)四月吉日と伝える。
愛知県の明細帳に脱漏していたのを昭和十六年七月三十一日に編入する。
創建は江戸時代後期の1799年? これは本当だろうか。
昭和16年に明細帳から漏れていたので編入したという経緯はよく分からないのだけど、戦時中ということを考えると出征する兵士に何か関係があったのかもしれない。
『東郷町誌』も創建年は同じく寛政11年(1799年)としている。
寬政十一年未四月勧請傍示本村白土元山に奉斎した。「元山を『山ノ神』と尊称し、此の地下の磨砂を採ることを禁す」と棟札に記載す。
当時氏子は八戸で祭礼当日は村中山に入ることを休んで神前に集い、和楽の一日を過すを例とし、これを山の子遊びと称す。後この日、街道を通行する人々に茶菓子を与え、すしを施し赤飯の撮りを施すを習わしとして現在に至る。
祭日 十月十九日
別のところで白土については、「古くは人家なくさびしい山であった旨徇行記にみえ徳川末期に移住形成したものであろう」という推測を書いている。
しかし、江戸時代後期までこのあたりには家もなく、神社の創建も1799年というのはちょっと信じがたい。
「古くは人家なくさびしい山であった旨徇行記にみえ」とあるも、『尾張徇行記』の傍尓本村の項にはそんな記述を見つけられなかった。どこか別のところに書かれているのだろうか。
これら寛政11年創建説に対して富士浅間神社のサイト(webサイト)では違うことが書かれている。
創建については、文化4年(1811)「奉勧請山神一社」の棟札より明らかである。
またこの事は「尾張徇行記」によれば、寛政期以前に人家が無かったと記されていることよりもわかる。
白土の地名の由来である磨砂の産出と共に部落が発展してきた。
ここでは創建年を文化4年の1811年としている。
”棟札より明か”といっているから現物にそう書かれているのだろう。
では何故、『愛知縣神社名鑑』や『東郷町誌』は寛政11年としているのだろうと思うけど、どちらが正しいのかは判断がつかない。
いずれにしても江戸時代の後期に山神を祀ったという点では共通している。
問題はそれ以前に何からの社が祀られていなかったかどうかだ。
江戸時代の傍示本村
江戸時代の地誌で傍示本村の神社について見ておく。
『寛文村々覚書』は1670年頃にまとめられたものなので、山神神社の創建が1799年や1811年というのが本当であれば載っているわけはない。
ここでは以下のように書かれている。
傍尓本村
社 弐ヶ所 内 明神 山之神 当所祢宜 三郎右衛門持分
社内壱町九反步 但、松林共 前々除
傍示本村の神社は経緯がやや複雑で分かりづらいところがあって、私自身もよく把握できていない。
この中の”明神”が現在の春日社なのかというとそうでもないようなのだ。
山之神も今の山神神社のことではないと思う。
『尾張徇行記』(1822年)を見ると混乱する。
社二区、覚書ニ明神山神社内一町九反前々除
庄屋書上ニ、神明祠境内二町六反六畝二十歩御除地、応永二十八丁丑年沙門宥賢ト云者勧請スル由棟札ニアリ、
当社ノ界内ニ春日大明神愛宕大権現ノ二社アリ、春日祠ハ万治三年勧請ノ由棟札ニアリ、山神二社、此内一社ハ一反、一社ハ一反二畝御除地、役行者堂境内十五歩、弁才天祠境内一畝、熊野権現祠境内二畝、牛頭天王祠境内一畝十歩、秋葉祠境内一反、金毘羅祠右ノ境内ニアリ、イツレモ御除地ナリ
庄屋の書上によると、応永28年(1421年)に宥賢という沙門(しゃもん=修行者のこと)が神明祠を勧請したという棟札があり、境内社に春日大明神と愛宕大権現があって、春日大明神は万治3年(1660年)勧請の棟札があるといっている。
1421年といえば室町時代の中期で、応仁の乱(1467-1477年)より前の時代だ。
『寛文村々覚書』がいう”明神”がこの神社を指すわけではないけど、だとしたらどうして『寛文村々覚書』は神明を書かなかったのか。
1660年(万治3年)に春日大明神を勧請したときに春日社になったということか。だとすれば、『寛文村々覚書』の”明神”は神明(春日)のことということになる。
山神はこのとき2社あって、それ以外にも弁才天、熊野権現、牛頭天王、秋葉、金比羅まであったようだ。
すべて年貢地ではなく除地になっているということは、江戸時代以前からあった可能性も考えられる。
『尾張志』(1844年)ではこうなっている。
春日社
傍爾本村にあり當村の氏神とす境内に神明社及愛宕ノ社あり神明ノ社の棟札あり如左大願主沙門宥賢
泰造立御社一宇應永廿八年辛丑極月十九日
大工叉次□山ノ神ノ社 氏神より西の方にあり
熊野社 氏神より東の方にあり
山ノ神ノ社 氏神より南の方にあり
知立社
秋葉社この五社も同村にあり
この頃までには春日社が村の氏神となっており、境内に神明と愛宕があるといっているので、やはり神明と春日が主客転倒した格好になったようだ。
『尾張徇行記』と違っているのが知立社で、もしかするとこれは元の金比羅かもしれない。
牛頭天王がなくなってしまっているのは少し気になる。
この中でいうと、氏神の南にあった山神は候補から外れるのだけど、氏神の西にあると書かれた山神が今の山神神社の可能性はあるのだろうか。
もともと1社だった山神が『尾張徇行記』では2社に増えているということは、増えた1社が山神神社と考えられなくはない。
あらためて『東郷町誌』を引用してみる。
寬政十一年未四月勧請傍示本村白土元山に奉斎した。「元山を『山ノ神』と尊称し、此の地下の磨砂を採ることを禁す」と棟札に記載す。
当時氏子は八戸(後略)
寛政11年(1799年)に傍示本村の白土元山に山ノ神を祀ったとし、当時の氏子は8戸だったといっている。
繰り返しになるけど、山神を祀ったのがこのときだったとしても、それ以前に何らかの社があった可能性が否定されるわけではない。
たとえ民家はなくても交通の要衝といえるこの辻に何かの神が祀られていたのではないだろうか。
ここの山から磨砂が採れることは早くから知られていただろうし、だとすればこの小山が特別視されていたとしても不思議はない。
”傍示本”の”本”も、”元山”の”元”も、本郷や元郷に通じる言葉で、何でもないところにこんな字は使わないでのではないか。
白土のすぐ西隣が”神の倉”からしても、この場所が江戸時代後期まで誰も見向きもされないような土地だったとは思えない。
神の倉と白土とは市を超えて関係があり、現在でも山神神社の氏子地域は東郷町白土と緑区神の倉地区にまたがっている。
白土の変遷を辿る
もう一度、今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見てみる。
神社があるのは5叉路の北で、雑木林しかないような丘陵地として描かれている。
このときまでにこの場所に神社が建っていたのかどうかはなんとも判断がつかない。あったとしても鳥居のない祠程度のものだったかもしれない。
5叉路のどれかは明治になって整備されたものだとしても、ルート自体は江戸時代かそれ以前からあったものだと思う。それぞれの道は近隣の村に続いているから、少なくとも集落ができたときに道は作られたに違いない。
少し広めに周囲を俯瞰しても、ため池くらいしかない。西側に少し田んぼがある程度だ。
1920年(大正9年)の地図ではほとんど変化が見られないものの、ため池が増えている。
道沿いの民家も少し増えただろうか。
時代は大きく飛んで1968-1973年(昭和43-48年)、大きな変化はないとはいえ、さすがに家は増えている。
ここでようやく山神神社の鳥居マークが描かれる。
その後は少しずつ宅地開発が進み、民家が増え、住宅街として発展していくことになる。
神紋と大山咋神
神紋はおそらく折敷に縮み三文字(おしきにちじみさんもじ)で、伊予国一宮の大山祇神社(愛媛県今治市/公式サイト)にならっただろうか。
しかし、白土の山神神社が特徴的なのは、祭神を大山咋神(オオヤマクイ)としている点にある。
一般的に山神社の祭神は大山祇神(オオヤマツミ)とされることが多いというか、ほとんどで、名古屋も例外ではない。
大山咋神を祭神とするのは日吉(日枝)系の神社で、名古屋でいうと名東区上社の日吉神社や中学吉津の日吉神社はいずれも祭神を大山咋神としている。山神社で大山咋神を祀っているところは一社もない。
白土の山神神社がどうして祭神を大山咋神としたのかは分からない。大山祇神と間違えたわけではないだろうから、あえてそうしたということだろう。
三島神社系総本社とされる伊予国の大山祇神社も、伊豆国一宮の三嶋大社(公式サイト)も、祭神は大山祇命(大山積神)としており、大山咋神ではない。
神紋の折敷に三文字紋は三島神社系の神社で広く使われており、いくつかのバリエーションがある。
大山祇神社に代表される縮み三文字(揺れ三文字)のタイプと、三嶋大社の真っ直ぐな三文字が代表例だ。
折敷は神事や食事に使われた角盆を上から見たところをモチーフとしたとされている。
三文字は波を表しているなどいろいろいわれるのだけど、”三”がキーになっているのは間違いない。
”三木”かもしれないし、”三河”かもしれない。
大山咋神は『日本書紀』には登場せず、『古事記』にだけ出てくる。
『古事記』の大国主神(オオクニヌシ)のところの大年神(オオトシ)の系譜でこんな記述がある。
次に大山咋神、亦の名は山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝の山に坐し、亦葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神ぞ。
前段は大年神が天知迦流美豆比売(アメチカルミズヒメ)を娶って奥津日子神(オキツヒコ)と奥津比売命(オキツヒメ)の竃(かまど)の神が生まれたという話で、それに続くのが大山咋神、またの名を山末之大主神(ヤマスエノオオヌシ)といっている。
近淡海国(ちかつおうみのくに)は琵琶湖がある近江国のことで(遠淡海国は浜名湖がある遠江国)、葛野の松尾は現在の松尾大社(まつのおたいしゃ/公式サイト)のこととされる。
そのため、松尾大社の祭神も大山咋神(と中津島姫命)になっている。
鳴鏑(なりかぶら)というのは、放つと音が出る鏃(やじり)のことなのだけど、どうして大山咋神を鳴鏑の神としたのかはよく分からない。一般的に大山咋神は戦の神とは考えられていない。
よくいわれるのが、大山咋神の”くい”は”杭”に通じるので、山に杭を打つ、つまり山の主神だというものだ。
しかし、こんなこじつけは個人的にはまったく信じていない。”くい”にはもっと別の意味があるはずだ。
平安時代に最澄が比叡山に延暦寺を開いて以降、天台宗の守護神という性格を持つようになった大山咋神は、日吉系神社とともに各地に広がっていった。
江戸城を築城した太田道灌は、川越の無量寿寺の鎮守・仙波日枝神社から勧請して大山咋神を祀ったのが赤坂の日枝神社(公式サイト)の始まりだ。
江戸の城下をデザインしたとされる天海は天台宗系の山王神道(山王一実神道)の人だったこともあり、日枝神社は江戸の総鎮守となった。
名古屋ではあまり馴染みのない大山咋神も、関西や関東ではけっこう馴染み深い神なのかもしれない。
何かあると思わせる白土
以上ここまで見てきて結論めいたものがあるかといえばほとんど何もない。何かありそうという気がするだけだ。
引っ掛かるのはやはり、”白土”の地名だ。”白”が鍵を握っている。
そこにある山神で大山咋神を祀っているというのも何かあるのではないかと思わせる。
山神の創建が本当に江戸時代後期だったのであれば、大山咋神は江戸総鎮守の日枝神社で祀っている神という認識はあっただろう。
この土地にいた天台宗の人間が関わった可能性もあるだろうか。
作成日 2025.6.29