MENU

春日社(和合村)

和爾良と春日の関係は?

読み方かすが-しゃ(わごうむら)
所在地愛知郡東郷町和合北蚊谷168 地図
創建年不明
旧社格・等級等旧指定村社・十二等級
祭神天児屋根命(アメノコヤネ)
天照大御神(アマテラス)
菊理姫命(キクリヒメ)
大山津見命(オオヤマツミ)
アクセス名鉄バス「和合」より徒歩約5分
駐車場あり
webサイトwebサイト(富士浅間神社内)
例祭・その他10月第一日曜日(旧10月19日)
神紋下り藤紋(?)・十六菊花紋(?)
オススメ度
ブログ記事

和爾良神社の可能性はあるのか?

 富士浅間神社のサイトには以下のようなことが書かれている。 

創建は明らかではないが、当地が旧山田郡であったこと、神社東側の鎮守坂の田が古来「わにだ」と言われていること、近隣に奈良、平安時代の古窯跡が多数あり当時より発展した集落が存在したことより式内社「和爾良神社」であったと考えられる。
社蔵の棟札には宝永6年(1709)春日社再建記された物がありそれ以前より春日社と称していた事は間違いない。

 なかなか興味深い内容だ。
 アリかナシかでいえばアリなのだろうけど、結論を急がず、ひとつずつ紐解いていくことにしよう。

和合はあの和合?

 現住所にも和合の地名が残るように、ここはかつての和合村だったところだ。
 和合というと、一般的には和合ゴルフ場を思い浮かべる地元民が多いんじゃないだろうか。毎年中日クラウンズのトーナメントが開催されている老舗の名門コースだ。
 ただ、あそこは和合の外れで、集落があったのはこの春日社があるあたりだった。

 和合村について津田正生(つだまさなり)は『尾張国地名考』でこう書いている。

和合村 ワガフ
廻卿(わガウ)の俗語なるべし此村諸輪村に隣れり
【因書】父盛政曰父子夫婦常に親睦を和合さいふ夫婦和合せざれば子を不成父子和合せざれば家產不増益といはれき
【管子正世篇云】萬民不和國家不安とも見ゆ

 廻卿は廻間(はざま)のことで、尾張にはこの廻間地名が多く残っている。
 迫や狹間などとも表記され、一番有名なのが桶狭間だ。
 一般的に谷地のこととされるのだけど、”はざま”という音はもっと違う意味があるような気がする。
 和合は廻卿の俗語としつつ、夫婦和合などに掛けているというのが津田正生の見解と見ていいだろうか。
 しかし、この説はちょっと納得できない。
 すぐ北にあったのが諸輪村で、南には傍示本村があり、和合村と傍示本村は山田郡と愛智郡の郡境だったとことや、すぐ東を流れる境川が尾張国と三河国の境界だったことを考え合わせると、そのあたりの状況を象徴するのが”和合”だったかもしれない。
 のちに東郷町という名前が付けられたのも偶然ではなく、東郷は統合を象徴している。

 東郷町のサイトは和合について以下のように書いている。

和合の地は谷筋が多く、牛廻間、林清池、大坂、蚊谷があり、さらに小さな(廻間)も多くあります。
これらの廻間の多い地形からの呼名と考えるのが、他の大字名からしても、もっとも妥当のように思われます。
多い廻間の地(廻卿)→和卿→和合と転化したのでしょう。

 もっともらしい説明ではあるけど、個人的にはこういう地名由来は信じていない。
 東郷町にはギロウ、ジ子ンゴ、ドンドロといった変わった地名があり、これらも地形由来などで説明するのは無理がある。

 コトバンクも引用しておく。

和合村(わごうむら)
愛知県:愛知郡東郷町和合村
[現在地名]東郷町和合・和合ヶ丘・春木
南は傍示本村に隣接する。康正二年(一四五六)の「造内裏段銭并国役引付」に「弐貫五百五十八文(中略)
尾張国竹鼻和郷并小熊保段銭」とある。
天正一二年(一五八四)小牧・長久手の戦で全村焼失したと伝えられる。
東西二三町・南北九町。「寛文覚書」や「徇行記」には鳴海庄とあるが、古くは山田庄に属したと考えられている(東郷村誌)。
村内を駿河街道が東西に走り、東南部で諸輪道と傍示本道に分れ、さらに北からは折戸道も合流して交通上の要地をなし、集落もこの付近に形成された(天保村絵図)。

 1584年の小牧長久手の戦いで”全村焼失”というのは穏やかではないけど、これには何か特別な事情があったのだろうか。
 気になりつつ重要な点を挙げると、東郷町北部の和合や諸輪は山田庄に属していたということだ。
 和合が山田郡でなかったとすれば、延喜式内の「山田郡和爾良神社」の可能性はないことになるのだけど、山田郡ならその可能性が残る。
 ここでは書いていないのだけど、『倭名類聚抄』にある山田郡両村や『延喜式』の両村駅は諸輪ではないかという説があり、そのあたりのことも和爾良神社に関わってくる。
 郡境や郷名、古東海道のことなども、和爾良神社と絡めて後ほどあらためて考察することにする。

和合村のこと

 和合村について尾張の地誌がどう書いているか見ていこう。
 まずは『寛文村々覚書』(1670年頃)から。

家数 四拾弐軒
人数 弐百三拾九人
馬 弐拾疋

社 三ヶ所 内 明神 山神 鎮守 村中支配
 社内五反八散歩 前々除

大日堂一宇 地内弐畝弐拾歩 前々除 堂守 道雲

 家数が42軒で、村人は239人なので村の規模としては大きくない。
 そのわりに馬が20疋(頭)と多いのは、村が挙母街道沿いにあったためだ。殿様などが通る際には人馬を出さないといけないので、馬がたくさん必要だった。
 この挙母街道が非常に重要な道だったのかもしれないと個人的に考えている。あるいは、古東海道はこの道だったのではないかとも。
 赤池村の東で駿河街道(飯田街道)と分かれて和合村、諸輪村を通って境川を超えて三河へ入り、挙母村へ至る。その先は新城方面に向かう。

 神社は3社で、このうちの明神が春日社だろうか。
 鎮守というのも気になるところだ。
 大日堂とともに前々除(まえまえよけ)なので、すべて江戸時代以前からあったことになる。

『尾張徇行記』(1822年)ではこうなっている。

大日堂一宇、地内二畝廿歩前々除、堂守道雲
庄屋書上ニ、境内一献十歩外ニ一畝廿歩松林前々除

社三ヶ所、覚書ニ、明神・山神・鎮守社内五度八畝前々除、村中支配
庄屋書上ニ、春日大明神祠末社天神境内松林東西三十間南北廿七間、神明祠境内松林東西三間南北五間、山神祠境内松林東西十五間南北二十七間、鎮守祠境内松林東西六間 南北六間イツレモ前々除、
観音堂一宇境内松林東西六間ホト南北七間半ホト前々除
府志日、春日祠白山祠神明祠俱在和合村

 春日社の境内社に天神があり、他に神明祠と観音堂が書かれている。
 江戸時代に増えたのかと思いきや、前々除になっているので、これらも古くからあったものだろうか。
『張州府志』(1752年)には春日祠、白山祠、神明祠があるといっている。

『尾張志』(1844年)はこうなっている。

春日ノ社
白山ノ社 大日坂といふ地にあり
神明社 稲葉山といふ處にあり
山ノ神ノ社 神の木といふ地にあり

ならひに和合社(ママ)にあり

 和合社は和合村の誤字が誤植だろう。
 白山が大日坂に、神明が稲葉山に、山神が神の木にあると書いている。
 このうち今の残るのは神の木だけで、大日坂や稲葉山という地名は残っていないと思う。
 そのあたりについては『東郷町誌 第一巻』が補足してくれる。

明治四十年三月二十八日許可を得て
神明社 祭神 天照大御神 芦廻間から(享保三年二月の鎮座という)
山神社 祭神 大山津見命 神之木から(寛政六年十月の鎮座と棟札にあり)
白山社 祭神 菊理姫命 南蚊谷から(鎮座年歷不詳)
の三社を六月二十八日村社春日社に合祀す。

 芦廻間は春日社の西の御嶽神社があるあたり、南蚊谷は春日社があるあたり一帯のどこかだ。
 祭神の天照大御神(アマテラス)、菊理姫命(キクリヒメ)、大山津見命(オオヤマツミ)はこれらの神社を合祀したときに加えられたものということが分かる。
 ということは、もともとの祭神は天児屋根命(アメノコヤネ)一柱だったことになる。

『東郷町誌 第一巻』の他の部分も引用しておく。

鎮座年歴は詳かでないが、古老は伝える貞享九年三月鎮座と。
又棟札に

(表) 奉再建 春日大明神
(裏) 宝永六巳巳八月吉辰

とあるところから推定して、再建を必要とする年数以前の創祀とみれば、貞享以前文祿天正の頃か、あるいはもっと古くはないかとも思われる。
又延喜三年の延喜式神祇編に和爾良神社とあるのは、当社ではないかともいわれているが真偽はさだかでない。


  古老の言い伝えとして貞享九年三月鎮座という話があったようだけど、貞享年間は1684年から1688年まで5年間で、貞享九年は存在しないので、この話は信じられない。
 そもそも、この神社がそんなに新しいはずもない。
 再建の棟札があるという宝永6年は1709年に当たる。

 ちなみに、貞享2年(1685年)に渋川春海(しぶかわはるみ)が日本人初の暦を作って暦が改められた(貞享の改暦)。
 渋川春海(安井算哲)の生涯を描いた冲方丁の『天地明察』で渋川春海を知ったという人もけっこういるんじゃないかと思う(2010年の本屋大賞)。
 後に滝田洋二郎監督、岡田准一主演で映画も作られた。

『愛知縣神社名鑑』は以下のように書いている。

創建は宝永六年(一七○九)丑八月と伝える。
明治五年七月、村社に列し、同四十年六月二十八日に神ノ木の山神社、南蚊谷の白山社、芦廻間の神明社の三社を合祀する。
同四十四年十二月二十七日、供進指定社となる。

宝永6年は再建された年で、創建ではない。

あらためて和爾良神社の可能性を考えてみる

 一通り情報が出そろったところで、あらためて和合の春日社が延喜式内の和爾良神社だった可能性について考えてみたいと思う。
 そこで鍵を握るのが両村郷の存在と古代東海道の道筋だ。

 平安時代中期の930年代に編纂された『倭名類聚抄』(和名抄)の山田郡の項には船木(ふなき)、主恵(すえ)、石作(いしつくり)、志談(しだみ)、山口(やまぐち)、加世(かせ)、両村(ふたむら)、余戸(あまるべ)、驛家(うまや)、神戸(かんべ)が載っている。
 これらが現在のどこなのかについては諸説あってはっきりしないのだけど、ここでは両村がどこだったのかを問題としたい。
『延喜式』には両村駅とあるので、街道沿いだった可能性が高い。
 これまで豊明市の二村山付近というのが定説として語られてきたのだけど、二村に限らず豊明全体は山田郡ではなく愛智郡だろうと思うので、この説には同意できない。
『延喜式』は尾張国に馬津(うまづ)、新溝(にいみぞ)、両村(ふたむら)の3つの駅があると書いており、これは古代の東海道筋にあったのは間違いないだろう。
 これらの場所も定まっていないものの、馬津は伊勢から木曽三川を渡った甚目寺の萱津あたり、新溝は現在金山と呼ばれている古渡、、両村は豊明市の二村山というのが通説となっている。
 ただ、古代の道は人の都合をあまり考えずなるべく最短距離を真っ直ぐ作られていたことが分かっている。
 それでいうと、豊明の二村山は少し南過ぎるような気もする。
 三河国のことを少しいうと、『延喜式』に三河国には鳥捕、山綱、渡津の3駅が書かれており、一番西の鳥取(ととり)は岡崎市の宇頭地区とされているのだけど、これも再考の余地があるように思う。
 尾張と三河を結ぶ道で、三河側の重要拠点である挙母を通らないはずがないから、もっと山側に想定すべきではないか。
 後の鎌倉往還や旧東海道は中世以降の新道だと思う。
 それよりも、両村郷が山田郡である以上、愛智郡の郡域であろう豊明の二村山が両村駅とは考えにくい。
 そこで浮上するのが両村は諸輪だったのではないかという説だ。
 個人的にこの説には魅力を感じている。というのも、もしそうだとしたらいろいろ説明がつくというか都合がいいからだ。
 もちろん、辻褄が合っているからといって真実だとは限らない。限らないのだけど、この説について私見を少し書いてみたいと思う。

 今昔マップで説明すると、諸輪村の西に和合村があり、二つの村は挙母街道と呼ばれた道でつながっている。挙母(ころも)は衣とも表記したのだけど、かつての挙母市、現在の豊田市のことだ。挙母村の集落は豊田市駅の東にあった(挙母町)。
 和合村の南には傍示本村があり、村名は境界を意味する傍示から来ているという説がある。
 和合村と諸輪村はかつての山田郡に属し、傍示本村以南は愛智郡だったとされる。
 諸輪村の東を南西に向かって流れる境川は名前の通り尾張国と三河国を分ける境界線だった。
 つまり、和合、諸輪、傍示本は3つの境界のような場所で、駅を置くのにふさわしい場所ということができる。
 諸輪は中世には両輪や両和とも表記した。
 もし、諸輪が両村で、両村駅があったとすれば、古代東海道は多くの人が考える南寄りの道ではなく山側の挙母街道だったということにならないだろうか。
 古渡と挙母を直線で結んだとき、諸輪はその線上にある。豊明の二村を通ると南にふくらんで無駄に距離が長くなる。

 諸輪や和合が古代の尾張において中心地のひとつだったとすれば、当然ながら古い神社があったはずだ。
 和合と和爾良神社は”和”でつながり、”和”は諸輪の”輪”とも通じる。
 両和は両方の”和”であり、両村という郷名もふさわしいように思う。
 和爾良神社については、”わにら”と読ませる場合と、”かにら”と読ませるところがあるも、一般的には”わにら”で、和爾氏(和珥氏)の関係社の可能性が高い。
『和邇氏系図』では、第5代孝昭天皇の子の天足彦国押人命を祖としており、古代には多くの天皇に皇妃を送り出している。つまり、非常に重要な一族だったということだ。
 一般的な認識では大和の氏族だろうけど、大和の元は尾張で、和爾氏も尾張の出だと聞いている。
 実は和爾氏と春日はつながる。
 6世紀頃に和爾氏は春日、小野、粟田、柿本、大宅などと名乗るようになり、その中心が春日氏だったのだ。
 つまり、和爾良神社から春日社になったのは自然の流れとして捉えることができるということになる。
 東郷町に春日社が多いのは、この地が和爾氏の支配地だったと考えれば納得がいく。
 この一族には柿本人麻呂や小野小町、小野道風などがおり、小野道風は春日井出身とされるので、和爾の一族が春日井(春部)を作った可能性がある。

 もう少し付け加えると、和爾(ワニ)は後に反転させてニワを名乗ったそうだ。
 ニワといえば丹羽が思い浮かぶ。
 諸輪城や日進市全域の城の城主がほとんど丹羽氏だったことからしても、あれは和爾氏の後裔なのではないかと思う。
 諸輪を両輪とすれば二つの輪となり、二輪=丹羽になる。
 輪といえば○で、○を漢字で書くと丸。和爾氏は丸邇、丸とも表記した。
 和爾の”爾”は”近い”という意味と、産土神の社、生まれた場所という意味がある。
 あるいは、和珥とするなら、”珥”は”さしはさむ”といった意味を持つ。”耳の玉”とも解されるのだけど、文字そのままなら”王の耳”だ。
 和に近しくて王の耳を務めるとなれば、王の側近を連想する。天皇の側近を務めた藤原氏につながるといえるかもしれない。藤原氏が氏神としたのが春日社で祀る天児屋根だ。
 和合、諸輪、和爾良神社、和爾氏、丹羽氏、春日といったキーワードが結びつくように感じるのは私だけだろうか。

 以上のように、両村駅は諸輪にあって、馬津(古渡)から和合、諸輪を通って挙母へと結ぶ道が古代東海道であり、和合の春日社はかつての式内山田郡和爾良神社と考えると、すべてが収まるべきところに収まるように思うのだけどどうだろう。

春日社と和合の変遷を辿る

 春日社がいつから春日社を名乗るようになったのかは分からない。
 宝永6年(1709年)の棟札に春日社再建とあるというから、それ以前なのは間違いない。
 1670年頃の『寛文村々覚書』は”明神”とあるけど、この頃すでに春日明神という認識があったかどうか。
 明治以降については上に書いた通りで、明治40年の合祀は政府の神社合祀政策を受けてのものだ。
 この時期、郷社や村社のみを残して他の小社の大部分が合祀されてしまった。
 現在の社殿のうち、拝殿や祝詞殿は昭和42年に、本殿は昭和52年に再建された。土地の一部を売って資金調達をしたようだ(『東郷町誌 第二巻』)。
 古くからの警固祭は戦中に廃止となり、戦後に形を変えて復活。御輿台5組新調したというけど、今も続いているのだろうか。

 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、江戸時代から続く和合村の様子が見て取れる。
 春日社の南に民家が密集しており、その中を挙母街道が通っている。
 集落の南を流れているのは春木川で、その先で境川と合流している。
 このあたりは険しい丘陵地ではないので、川沿いを中心に田んぼが広がっている。
 ただ、『尾張徇行記』の和合村についての記述を読むとそれほど豊かな村ではなかったらしい。

此村ハ挙母街道筋ニアリ、民戸平山ニ建ナラヒ一村立ノ所ナリ、村中組分モナシ、小百姓ハカリニテ村立アシシ、其内庄屋幸八宅ヨシ、農事ヲ以テ専ラ渡世トス、民屋岡上ニ建ナラヒ竹木茂レリ

 1920年(大正9年)を見ると、まだほとんど変わっていないように見える。道が真っ直ぐ整備されたくらいか。
 時代は大きく飛んで1968-1973年(昭和43-48年)、さすがにいろいろ変化がある。
 パッと目につく大きな変化は、集落の北を愛知用水が流れていることだ。
 岐阜県加茂郡八百津町から名古屋東部を縦断して知多半島南部の南知多町に至る大がかりな水路で、昭和36年(1961年)に完成した。
 東郷町、日進市、みよし市にまたがる愛知池は、愛知用水の水を管理する人工池で、正式名を東郷調整池という。
 この水路は農業にも利用され、この地方一帯の稲作にも大きな影響を与えた。

 1970年代以降は区画整理が進み、丘陵地も宅地化されて団地が建ち、民家も増えた。
 残念だったのは東郷町に鉄道が通らなかったことだ。需要不足だったのか、地形的、地理的な問題があったのか。
 道路に関しては、国道153号線が通ったおかげで名古屋方面にも豊田方面にも出やすくなった。

 村名・町名の変遷についても書いておくと、明治22年(1889年)に和合村と諸輪村が合併して諸和村となり、明治39年(1906年)には諸和村と春木村が合併して東郷村になった。
 その後、昭和45年(1970年)の町制施行で東郷村は東郷町になった。
 東郷町は発展を続けて人口は増加傾向にあるものの、現在は4万3,000人ほどなので、5万人を超えて東郷市になるのは夢で終わるかもしれない。
 町と市の違いはいろいろあるようだけど、一番大きな違いは町役場と市役所の違いだ。役場の人間も、町役場に勤めてるというのと市役所に勤務してますではだいぶ印象が違う。

春日社は元和爾良神社か?

 和合村の春日社が『延喜式』神名帳に載る山田郡和爾良神社だった可能性があるかないかでいえばあり得るとは思う。
 ただ、それは上に見てきたように推測であり、机上の空論のようなもので、実感として感じるかといえば感じなかった。
 社殿がいかに新しくなろうと、古社には古社の匂いのようなものがある。私はそれを古社臭さと呼んでいるのだけど、ここ和合の春日社にそれはなかった。
 もしかしたら場所が違っているのかもしれない。少なくともここではないなと思った。
 和爾良神社という社名の神社なら、名東区猪子石原にも、春日井市上条町にもあり、他にもあっただろうと思う。
 そのうちのどれかが延喜式内社かもしれないし、本来の和爾良神社は中世以降に廃社となって残っていないのかもしれない。

 それにしても、古代東海道と駅と郷については今後も調査研究が必要で、それは延喜式内社とも密接に関わってくる。
 集落があれば必ず社はあるし、逆にいえば集落のないところに社はないということになる。
 今昔マップを見れば分かるように、明治中期ですら集落のある場所は限られていて、村という単位は独立して存在し、隣村とさえも離れていた。
 時代を遡れば遡るほど村の数は少なくなり、ますます限定的になる。
 山の上に祀った社などを除き、社は集落とともにあった。
 弥生時代や縄文時代まで遡ればカミマツリの様式は違ってくるのだけど、飛鳥時代以降の社についていえばそうだ。
 もちろん、『延喜式』神名帳に載っている神社が当時の神社のすべてではない。少なくともその数倍はあった。
 尾張国の延喜式内社は121社だけど、実際は数百社あったということだ。
 つまり、たとえ和合の春日社が和爾良神社だったとしても、『延喜式』神名帳に載る山田郡和爾良神社だったとは限らないということになる。

 今後、AIと考古学と歴史学が結びついたとき、新たな発見があるかもしれないと、個人的には期待している。
 もう少し長生きすれば面白い時代が待っているかもしれない。

作成日 2025.7.24


HOME 東郷町