雨宮社というからには雨の神を祀っているのだろうと想像がつく。 実際その通りで、本社で高龗神(たかおかみのかみ)を祀っている。 アマテラスともう一柱の神、志那都比古神(しなつひこのかみ)は馴染みが薄い。伊勢の神宮(web)をよく知る人なら、風の神だとすぐにピンと来るだろうか。 ここは雨の神と風の神が合体した神社だ。ありそうでない、なかなか渋い選択だ。
中村区から中川区にかけての広い範囲は、かつて伊勢の神宮領だった。一楊庄(ひとつやなぎしょう)と呼ばれ、伊勢の神宮の御厨(みくりや/荘園)、一楊御厨(いちやなぎのみくりや)があった。 その範囲は、烏森、八田、荒子、高畑、萬町、野田、中郷のあたりで、平安時代中期の延喜年間(901年-923年)に成立したとされる。 その後、鎌倉時代になって村として独立した。 雨宮社と風宮社はもともと別の場所にあった。風宮社が雨宮社に移されたは明治40年(1907年)のことだ。 『愛知縣神社名鑑』はこう書いている。 「創建は明かではない。昔は野田町字南屋敷廻りに鎮座のところ 文政二年(1819)4月、祠官高羽石見守の代に中郷町の今の社地に遷座する。明治4年7月4日、郷社に列格した。明治40年12月大字野田の風宮社を本社に合祀する。昭和49年、本殿造営遷座祭を斎行した」 村の位置関係としては、中郷村を中心に、北に野田村、東に高畑村、西に打出村があった。 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、江戸時代から続く村の場所や規模などが見てとれる。 中郷村は「ちゅうごう」と読む。これは神宮の厨(みくりや)がある郷、「厨郷(ちゅうごう)」から来ているとされる。 いずれにしても、伊勢の神宮の影響が大きかった土地ということで、神社もまた当然神宮関連ということになる。 しかしながら、どうして高龗(タカオカミ)だったのか、という疑問を抱く。
一般的にタカオカミは、京都の貴船神社(web)の主祭神というイメージが強い。奈良県の丹生川上神社上社(にうかわかみじんじゃかみしゃ/web)などでも祀られているけど、伊勢の神宮でタカオカミを祀っているというイメージはない。 神宮は内宮、外宮をあわせて125社から成り立っているからその中にタカオカミを祀っているところがあるのかもしれないけど、内宮・外宮の境内にある別宮の神ではない。風の神は内宮の風日祈宮(かざひのみのみや)と外宮の風宮(かぜのみや)で祀られている。 伊勢の神宮は、雨の神、水の神といった属性があまり感じられないのは考えてみると不思議だ。ただ、雨や水は農作物を育てるにも、人が生きていく上でも必要不可欠なものだから、神宮でも大切にしなかったはずがなく、雨乞いの儀式などもあっただろうから、無関係ということはあり得ない。 では、雨宮社はどこからタカオカミを勧請したのか? 創建年について知る手がかりとして、鎌倉時代後期の文保2年(1318年)に伊勢の神宮に初穂を奉納したという記録がある。 神宮の荘園として成立したのが平安時代中期で、鎌倉時代に独立したということは、神社の創建としては鎌倉時代に入ってからだろうか。だとすれば、神宮の直接支配から離れて別の神社、たとえば貴船神社あたりからタカオカミを勧請して雨宮社を建てたという可能性も考えられる。それでも荘園でなくなったからといって神宮との関係がなくなったわけではないだろうから、初穂を納めたとしても不思議はない。 ひょっとすると風宮の方が神社として先だったかもしれない。 内宮と外宮の風宮は、もともと風社(かぜのやしろ)と呼ばれる小さな社だったのが、鎌倉時代の蒙古襲来(1274年と1281年)に対して神風で追い払ったことの功績により風宮の称号を得て別宮に昇格したという歴史を持っている。 現在でも5月には五穀豊穣を祈願する風日祈祭(かぜひのみさい)が神宮で行われている。 風もまた神であり、作物を育てるには必要なものと考えられていたのだろう。
江戸時代前期の『寛文村々覚書』(1670年頃)のそれぞれの村の神社はこうなっている。 【野田村】 社三ヶ所 内 神明 斎宮司 八王神 中郷村 祢宜 孫大夫持分 社内弐反九畝歩 前々除 【中郷村】 神明 社内壱反歩 前々除 当村祢宜 孫大夫持分
どちらの村にも雨宮、風宮はない。 荒子村に風宮があり、中嶋新田に風之宮があるも、雨宮はない。
『尾張徇行記』(1822年)はこうだ。 【野田村】 神明社斎宮司社八王神社界内九畝歩前々除 府志ニモミエタリ 中郷村高羽但馬守書上帳ニ、神明境内八畝御除地、末社春日社八幡社 三狐神社内三畝御除地外ニ田九畝村除 八王子社内四畝御除地、外ニ田一反三畝村除、此三社草創ハ知レズ、再建ハ寛文七未年ナリ 【中郷村】 神明社界内一反前々除 当村祢宜高羽氏書上帳ニ、三狐神社内一畝御除地、此社草創ハ知レズ、再建ハ寛永廿一年ナリ 御山戸無社松三本アリ境内一畝余御除地 野田村地内雨宮社内一反八畝御除地、末社白山冨士 中島新田地内風宮社内一反五畝御除地、此二社草創ハ知レズ、再建ハ寛永廿一申年也 【中島新田】 延享二丑年縄入 大明神二社神明二社山ノ上神社風ノ宮界内一町五畝十歩前々除
ここで雨宮と風宮のことが出てくる。野田村の内に雨宮があり、中島新田に風宮があると書いている。中島新田は中郷村よりもだいぶ南だ。
『尾張志』(1844年)ではこうなっている。 【野田村】 神明社 村の氏神 末社に白山社 八幡社あり 八王子ノ社 氏神社より東南にあり サグシノ社 氏神社より東にあり 【中郷村】 雨ノ宮ノ社 天照御大神高龗神を祭れり末社に白山社富士社あり神人高羽馬之助 風ノ宮ノ社 中島新田の地内にあり天照御大神級長戸邊(シナガトベ)ノ命級長津彦(シナガツヒコ)ノ命を祭ると云 社宮司ノ社 雨ノ宮ノ社より東の方 御山戸(ミヤマド)ノ社 廃址 境内古松三株あり 【中島新田】 神明ノ社 神明ノ社 畑田といふ地にあり末社に春日ノ社八幡ノ社あり 八劔ノ社 二所 同處にあり級長戸邊(シナガトベ)と級長津彦(シナツヒコ)だったということだ。
風宮については中島新田の地内にあるものの、所属としては中郷村にあったということは、神社が先にそこにあって後から中島新田が開発されたということだろう。 雨宮は『愛知縣神社名鑑』を信じるなら、文政2年(1819年)に中郷村祠官の高羽石見守が野田村地内にあったものを現在地に移したということになる。
江戸時代の書からは、いつ誰がどこにタカオカミを勧請して祀ったのかについては分からない。 風宮社については伊勢の神宮から勧請したのだろうと予測はできるも、その他のことは不明ということになる。 明治40年に風宮を雨宮に移して合祀したのは、明治39年の神社合祀政策によるものだろう。当時の風宮が無格社だったのか村社だったのかは分からないけど、雨宮は明治4年に郷社になっているから雨宮の方が格上だったのは間違いない。 このときどうしてシナツヒコだけを本社に祀ってシナガトベ/シナトベを祀らなかったのだろう。シナトベはシナツヒコの別名とされたり、男女一対の神とされたり混乱が見られるので、ひとまとめにしてしまったということか。伊勢の神宮別宮の風日祈宮や風宮ではどちらも級長津彦命(シナツヒコ)と級長戸辺命(シナトベ)を祀っている。
以上のような経緯はあるのだけど、実際にこの神社を訪ねてみると、圧倒的に風宮社の方が強い気を発しているように私には感じられた。雨宮社と風宮社の間には目には見えなくてもくっきりとした境界線があって、風宮社一帯の空気は濃密で重い。磁場が違う。霊感などほとんどない私がそうなのだから、感じやすい人ならそれは明らかだと思う。そんなものは気のせいとしてしまってもいいのだけど、あそこまで空気が違っていると、それをないことにするのは難しい。
雨宮、風宮の他に、稲荷、白龍、サルタヒコも祀られている。 雨と風だし白龍もいるから龍属性の神社かと思ったのだけど、風神・雷神の神社といった方がしっくりくる。 名古屋市内で雨と風の神が一体となっている神社はここだけだ。嵐を呼ぶ男や雨女といわれるような人はこの神社に参って雨と風の神を味方に付けると何かいいことがあるかもしれない。 個人的には風宮社を特にオススメしたい。
作成日 2017.7.1(最終更新日 2019.5.20)
|