風の神というのは本当か?
一般的に風の神とされ、『古事記』、『日本書紀』ともに風神とはっきり書いているから疑いようがないと思いがちだけど、本当にそれで納得していいのだろうかという思いがある。 誰かモデルとなるような人物はいなかったのだろうか。 シナツヒコの”シナ”とは何を表しているのかといったあたりを考えつつ、まずは『古事記』、『日本書紀』から見ていくことにする。
速秋津日子神と速秋津比売神の子かも?
『古事記』は伊邪那岐命(イザナギ)と伊邪那美命(イザナミ)の神生みの中で生まれた神とする。 国生みを終えたイザナギ・イザナミは神生みを始める。その最初に生まれたのが大事忍男神(オオコトオシオ)と『古事記』は書く。 これに続く石土毘古神(イワツチヒコ)、石巣比売神(イワスヒメ)、大戸日別神(オオトヒワケ)、天之吹男神(アメノフキオ)、大屋毘古神(オオヤヒコ)、風木津別之忍男神(カザモツワケノオシオ)まではまったく馴染みのない神で、その次にようやく知っている海神の大綿津見神(オオワタツミ)の名が出てくる。神生みの最初の頃の神がどういう性格の神なのかはよく分からない。 海神に続くのが水戸神(みなとのかみ)である速秋津日子神(ハヤアキツヒコ)と妹の速秋津比売神(ハヤアキツヒメ)で、この二神が河と海で持ち別けて(因河海、持別而生神名)、沫那芸神(アワナギ)と沫那美神(アワナミ)、頬那芸神(ツラナギ)と頬那美神(ツラナミ)、天之水分神(アメノミクマリ)と国之水分神(クノミクマリ)、天之久比箸母智神(アメノクヒザモチ)と国之久比箸母智神(クノクヒザモチ)が生まれたといっている。 更に風神の志那都比古神(シナツヒコ)、木神の久久能智神(ククノチ)、山神の大山津見神(オオヤマツミ)、野神の鹿屋野比売神(カヤノヒメ)、別名・野椎神(ノヅチ)が生まれたとする。 この文章が一連の流れとするならば、風神の志那都比古神は伊邪那岐命と伊邪那美命の子ではなく、速秋津日子神と速秋津比売神の子ということになる。河と海に別れて生んだというのであれば、どちらか一方の子なのかもしれない。しかし、河側なのか海側なのかについては何も書かれていないので判断はつかない。 ただ、神生みの最後のまとめとして、伊邪那岐と伊邪那美二神が生んだ神は參拾伍神(35柱)といっているので、これらすべての神はひっくるめて伊邪那岐と伊邪那美の子という扱いになっているようだ。
『日本書紀』に見られる混乱
『日本書紀』の神生みは五段に書かれているのだけど、五段は神生みから三貴紳の誕生、伊弉冉尊(イザナミ)の死と伊弉諾尊(イザナギ)の黄泉の国訪問から禊ぎまでと盛りだくさんとなっていて、一書は第十一まである。 しかし、『古事記』と比べると神生みに関する記述は簡略で、出てくる神もごく少ない。重要な神以外は興味がないといった態度だ。 五段本文に関しても、国生みに続いて海が生まれ、川が生まれ、山が生まれ、続いて木の祖の句句廼馳(ククノチ)と草の祖の草野姫(カヤノヒメ)、別名野槌(ノヅチ)が生まれ、続いて日神の大日孁貴(オオヒルメノムチ)、月神の月弓尊(ツクユミ)、素戔鳴尊(スサノオ)が生まれ、素戔鳴尊は泣いてばかりいるので父母二神は根の国に放逐したということをごく簡単に書いていて、少し違和感を持つ。 細かい部分は一書で補足すればいいという考えだったかもしれないけど、それにしてもあっさりしすぎているように感じる。
シナツヒコが出てくるのは一書第六だ。 伊弉諾尊と伊弉冉尊は大八洲国を生んだものの、まだ朝霧があって香りが満ちている。このとき気を吹いて生まれたのが級長戸辺命(シナトベ)、またの名を級長津彦命(シナツヒコ)だといい、これは風神だと書いている。 シナツヒコ(級長津彦)は別名でシナトベ(級長戸辺)が本来の名というのが『日本書紀』の立場のようだ。 続いて伊弉諾尊が空腹のときに食物神の倉稲魂命(ウカノミタマ)が、海神の少童命(ワタツミ)、山神の山祇(ヤマツミ)、水門神の速秋津日命(ハヤアキツヒ)、木神の句句廼馳(ククノチ)、土神の埴安神(ハニヤス)が生まれと書く。 その最後が火神の軻遇突智(カグツチ)で、それが原因で伊弉冉尊は亡くなってしまうというのが『日本書紀』の流れだ。 ここでは速秋津日命は級長戸辺命(級長津彦命)の後で生まれていて、『古事記』がいうように速秋津日命が級長戸辺命を生んだということにはなっていない。速秋津日命も男女一対の神とはされていない。 『古事記』が神生みの最初に生まれたとする大事忍男神についての記述もないも気になるところだ。
『先代旧事本紀』の強引な合わせ技
『先代旧事本紀』はここでも『古事記』と『日本書紀』の合わせ技をしているのだけど、両方を立てるために少々強引な継ぎはぎをしている。 前半部分で『古事記』の記事を採用して大事忍男神から速秋津彦神・速秋津姫神まで十柱を挙げ、速秋津彦神と速秋津姫神が生んだ十柱の中に志那都比古神(級長津彦命)は入れず、生んだ国に朝霧がかかっているので吹き払い、そのときに生まれたのが風神の級長津彦命で、次に級長戸辺神が生まれたのだといっている。 全部入れようとしてかなり無理をしているけどなんとか収まった。級長津彦命と級長戸辺神を別にしたのはいいアイディアだった。 ただ、両方に引っ張られたせいで、級長津彦を”命”、級長戸辺を”神”にしてしまっている。ここはどちらかに統一しないと男女一対の神とはいえないのではないかと思うけどどうだろう。 とはいえ、『日本書紀』も少童命、山祇、速秋津日命、句句廼馳、埴安神と、”命”と”神”と”無し”が混在しているので、編纂者たちがどこまで厳密に区別していたのか判断がつかない部分もある。まったく無自覚だったはずはないけれど。
手がかりは風神というだけ
以上が記紀その他の史料に出てくるシナツヒコのすべてといっていいと思う。活躍が描かれることはなく、風の神ということしか分からない。 『新撰姓氏録』にシナツヒコ関係の氏族は載っておらず、一族や後裔についても不明とするしかない。 しかし、シナツヒコはその後、意外な形で脚光を浴びることになる。
神風を吹かした?
伊勢の神宮(web)は内宮、外宮の両正宮を含む125社の総称で、その中で特別高い位置づけの別宮が14社(内宮10社、外宮4社)ある。 その内宮別宮の風日祈宮(かざひのみのみや/web)と外宮別宮の風宮(かぜのみや/web)で、級長津彦命と級長戸辺命が祀られている。 ただし、最初からそうだったわけではなく、蒙古襲来が大きな転機となった。例の神風を吹かせたのが風の神の級長津彦命と級長戸辺命だということで、それまでの風神社から一気に格が上がって風宮となった。 それまでは風神社(ふうじんのやしろ)と風社と称される末社に過ぎず、いつから祀られるようになったのかはよく分からない。最初から級長津彦命と級長戸辺命を祀っていたかというと違うような気もする。 ”かぜ-じんじゃ”ではなく”ふうじん-の-やしろ”ということは、中世のように思うけど、延暦23年(804年)の『皇太神宮儀式帳』に載っていることからすると奈良時代にはすでにあったようだ。 風は農耕に欠かせないものであり、一方では作物や人家などに被害を与えるものだから、古くから風の神を鎮める祭りが行われていたはずだ。その起源は農耕の始まりまで遡るのではないかと思う。 文治3年(1187年)に源頼朝が神宮に8頭の神馬を奉納したことが『吾妻鏡』に書かれており、このとき風神社にも収められたとされ、弘安4年(1281年)の弘安の役の際には朝廷から二条為氏大納言が勅使として派遣されて風神社(または風社)で祈祷を行っている。 このことがあって、モンゴル軍を撃退する一因となった台風を吹かせたのは神宮の風神ということになり、正応6年(1293年)に風神社と風社は宮号が与えられて別宮に昇格となり、それぞれ風日祈宮と風宮となったという経緯がある。 このときすでに祭神が級長津彦命と級長戸辺命だったかどうかは定かではない。
風神神社
風神の神社はいくつかある中で一番有名なのは奈良県生駒郡の龍田大社(たつたたいしゃ/web)だろう。 祭神は天御柱命(アメノミハシラ)と国御柱命(クニノミハシラ)で、『延喜式』祝詞の「龍田風神祭祝詞」によると、第10代崇神天皇の時代に疫病で民が死滅しそうになったとき神託を受けて龍田山に天御柱命と国御柱命を祀ったのが始まりとする。 『延喜式』神名帳にも「龍田坐天御柱国御柱神社二座 並名神大 月次新嘗」とあり、平安時代中期には格式の高い官社とされていたことが分かる。 社伝では天御柱命を級長津彦命、国御柱命を級長戸辺命としているものの、これは後世の後付けのように思う。 天御柱命と国御柱命の解釈はともかく、水神の廣瀬(廣瀬大社/web)、風神の龍田と、古くから龍田大社が風神の神社という認識があったのは間違いなさそうだ。 今も7月に風鎮大祭が行われている。
シナツヒコはけっこうマイナー神
奈良県御所市の志那都彦神社など、シナツヒコを祀る神社もそれなりにあるものの、主祭神として祀っているところは少なく、風神はあまり重視されてこなかった感がある。 火や水や土や海、山といった目に見えるものに対して風は直接見えないから人々がイメージしづらかったというのもあるだろうか。 台風を司るには風神よりもむしろ水神や龍神と思われていたようだ。
名古屋では 中川区の雨宮社で志那都比古神が祀られている。現存する風神の神社はここだけだ。 もともと雨宮とは別のところで独立して祀られていたものを合祀したもので、江戸時代までは他にも何社か風宮(風社)があったようだ。
それにしても非常にマイナーな神には違いない。 元寇がなければ完全に忘れられていただろう。
”シナ”は何を示しているか
名前の”シナ”をどう考えるべきかという問題が残った。 ”シ”を風または息と捉えて級長だから風(息)が長いといった解釈があるけど、それはどうかと思う。 『古事記』は「次生風神名 志那都比古神 此神名以音」と、シナツヒコは字ではなく音ですよといっているから、級長を文字で判断するのは違うのではないか。 シナというと、中国の古い呼び名の”支那”を連想するけど、この言葉が浸透したのは江戸時代とされ、古代から中国のことを支那といっていたわけではない。 シナといえばむしろ、科の木(シナノキ)から来ている可能性の方が高いのではないか。 アイヌ語でシナは”結ぶ”とか”括る”という意味だそうで、だとすると”ムスヒ”や”ククリ”に通じる。アイヌはシナノキの樹皮から繊維を採って糸や縄を作っていたという。 あるいは、信濃国との関係も考えられるか。信濃はもともと科野と書いていたのだけど、シナの国だ。 シナ-ツ-ヒコをそのまま解釈すると、シナの男という意味になる。シナが場所や国を表していると考えるのは自然なことだ。
と、ここまで書いてちょっと思いついたのは、朝霧を払うために息を長く吹いた(乃吹撥之氣)のが名前の由来なら、息長氏(おきながうじ)に通じるのではないかということだ。 息長氏は古代の有力な氏族のひとつで、『古事記』に息長水依比賣(オキナガノミズヨリヒメ)の名が出てくる。父は天之御影神(アメノミカゲ)で、第9代開化天皇皇子の日子坐王(ヒコイマス)の妃とされる人物だ。 それより息長といえば神功皇后の諱(いみな)が息長帯比売命/息長帯比売命(オキナガタラシヒメ)で息長氏だ。 直接的なつながりはないかもしれないけど、間接的に関わっているかもしれない。
風神は女神なのか?
よく分からないのが『日本書紀』の言い回しだ。原文は「乃吹撥之氣 化爲神 號曰級長戸邊命 亦曰級長津彦命是風神也」となっており、級長戸邊命、または級長津彦命というといっている。 級長津彦命は別名で、本来の名前は級長戸邊命ということだ。 しかし、一般的にベ(邊/辺)は女神とされてるので、級長戸”邊”命の別名が級長津”彦”命というのはおかしい。 そこで級長津彦命を男神、級長戸邊命を女神として、姉弟または夫婦神とする解釈が生まれた。 ただ、これはちょっと飛躍が過ぎると思う。級長津彦命と級長戸邊命を一対とするとはどこにも書いていないし、一対の神を別名とはしない。 どういうことかは分からないにしても、級長津彦命を男神、級長戸邊命を女神として一対の神とする考え方は個人的には受け入れがたい。 風の神はもともと女神だったとする方が個人的にはしっくりくるけどどうだろう。
神風は今も吹いている
『日本書紀』垂仁天皇記にこんなことが書かれている。 天照大神(アマテラス)を祀る場所を探して各地を巡っていた垂仁皇女の倭姫命(ヤマトヒメ)が伊勢国に至ったとき、天照大神は倭姫命にこう伝えた。
「是神風伊勢国 則常世之浪重浪歸国也 傍国可怜国也 欲居是国」
この神風吹く伊勢国は常世の浪が幾重にも打ち寄せる可怜国(うましくに)だ。自分はここにいたいと思うと。 神風(かむかぜ)は伊勢の枕詞だ。つまり、伊勢には神の風が吹いている。その伊勢で風神を祀るのは自然なことで、その歴史は思うよりも古い。 神風は目には見えないけど、風神は今も日本国を守ってくれている。
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