カグツチから生まれたのは共通している
『古事記』は伊邪那美命(イザナミ)が火の神・火之迦具土神(カグツチ)を生んだとき女陰に火傷をして死んでしまったことに怒った伊邪那岐神(イザナギ)が十拳剣でカグツチの首を切り、そのとき剣からしたたった血が指から流れ落ちて生まれたのが闇淤加美神(クラオカミ)で、次に闇御津羽神(クラミツハ)が生まれたとしている。 このとき他にも、石拆神(イワサク)、根拆神(ネサク)、石筒之男神(イワツツノオ)、甕速日神(ミカハヤヒ)、樋速日神(ヒノハヤヒ)、建御雷之男神(タケミカヅチ/建布都神/豊布都神が生まれている。
『日本書紀』第五段一書(第六)は、十握劒で軻遇突智(カグツチ)を三段にして、それぞれが神になったとし、剣の柄からしたたった血から闇龗(クラオカミ)、次に闇山祇(クラヤマズミ)、次に闇罔象(クラミツハ)が生まれたとする。 一書(第七)では、カグツチを三段に斬って、一段が雷神(イカヅチ)、一段が大山祇神(オオヤマヅミ)、一段が高龗(タカオカミ)となったと書いている。
『先代旧事本紀』は、伊奘諾尊が十握剣で軻遇突智の頸を斬り、三つになり、五つになり、八つになり、三つからは雷神(イカヅチ)、大山祇(オオヤマツミ)、高龗(タカオカミ)が、五つと八つからはそれぞれ山の神となったとし、剣の柄頭からしたたった血から闇寵(クラオカミ)、闇山祇(クラヤマツミ)、闇罔象(クラミツハ)がなったといっている。
『古語拾遺』は、このあたりは省略して何も書いていない。
まとめると、『古事記』は闇龗神のみ、『日本書紀』の一書は闇龗神と高龗神、『先代旧事本紀』も闇龗神と高龗神が出てきている。 闇龗神と高龗神は別なのか同じなのか、という問題がある。
龗とは本当に龍のことなのか?
龗は”おかみ”と読ませ、一般的に水を司る龍神のこととされる。本当だろうか。 文字を分解すると、雨の下に口3つで、その下が龍になっているから関係はあるのだろうけど、龍そのものではないのではないか。 雨の下に口3つは、霊の旧字の靈と同じ作りで、靈は口の下は巫女の巫の字となっている。 口3つは人の口なのか、器の意味なのか。 他の訓読みとしては”かみ”、”よし”があり、漢音では””レイ”、呉音では”リョウ”となる。 闇龗の”闇”は谷を、高龗の高は山を表すとされる。
上記の解釈をそのまま信じていいのかどうかは分からないのだけど、ふと思ったのは、龗の神は女神なんじゃないかということだ。 水を司る女龍神とするとなんとなくしっくりくる。 問題はやはり、暗龗と高龗は別なのか同じなのかということだ。
高龗と暗龗は別なんじゃないか
『日本書紀』一書もそうなのだけど、『先代旧事本紀』の方が分かりやすくて、三段にされたカグツチ本体から高龗が生まれ、カグツチの血から闇龗が生まれている。 生まれるとうか化成するというか、ここをどう解釈すればいいのかが難しいところなのだけど、本体から生まれている高龗と血から生まれている暗龗は別と考えるのが自然だ。 だとすると、高は山で暗は谷とする解釈は正しくないのではないかということになる。 しかし結論を急ぐ前に龗神を祀る神社を見てみることにしよう。
龗神を祀る神社から見えてくること
龗の神を祀る代表的な神社に、貴船神社(京都府京都市/web)と丹生川上神社(奈良県吉野/web)がある。 それぞれ古い歴史を持つ神社なのだけど、その成り立ちは複雑でなかなか捉えがたいところがある。
貴船神社は古くは木船、木布禰、黄船、貴布禰などとも表記され、『延喜式』神名帳(927年)には山城国愛宕郡 貴布禰神社(名神大)として載っている。 社伝では神武天皇の母である玉依姫命(タマヨリヒメ)が、黄色い船に乗って淀川から鴨川、貴船川を遡ってこの地にたどり着き、水神を祀ったことが始まりとしている。 つまり社名の由来は”黄船”から来ているということだ。 この水神が龗神かどうかは定かではない。 実際の創建は、第18代反正天皇の時代ともいう。 現在は、本宮で高龗神を、結社(ゆいのやしろ)で磐長姫命(イワナガヒメ)を、奥宮で高龗神を祀っている。 あるいは、奥宮の祭神は闇龗神と玉依姫命ともいう。
貴船神社の公式見解では高龗と闇龗は呼び方が違うだけで同じ神といっている。 祈雨・止雨を司る龍神とする。 しかし、それならどちらかに統一すればよさそうなものだし、たとえば和魂が高龗で荒魂が闇龗とでもすれば説明がつくのにそうはしていない。 山と谷をそれぞれが司るという解釈はやはり無理がある。 表裏一体で表と裏の関係とも違う気がする。
京都の貴船神社が祈雨・止雨の神とされたのは794年の平安遷都以降のことで、朝廷が祈願したのは奈良時代までは吉野の丹生川上神社だったとされる。 『日本書紀』の神武天皇即位前紀に、大和の敵が強くて進攻がなかなか上手くいかないので、天香山で採った土で八十平瓮(やそひらか)、天手抉(あまのたくじり)を80枚と嚴瓮(いつへ)を作って丹生の河の上流に登って天津神や国津神を奉り、菟田川(うだがわ)の河原にそれらを浸けて呪いをかけたという記述がある。 これが丹生川上神社の直接的な創祀ではないにしても、丹生川の上流は何か特別な祭祀を行う場所という意識があったのだろう。 社伝は白鳳4年(675年)に罔象女神(ミツハノメ)を御手濯川(みたらしかわ)川南の丹生神社の地に奉斎したのが始まりとしている他、『類聚三代格』に所収された寛平7年(895年)の太政官符に、「人声の聞こえない深山で我を祀れば、天下のために甘雨を降らし霖雨を止めよう」という神託があって創祀されたという『名神本紀』の記述の紹介がある。 他には吉田兼倶撰とされる『二十二社注式』に、天武天皇の白鳳乙亥年に大和神社(web)の別宮として祀られたのが始まりとする説もある。 一番古い祈雨・止雨の記録として763年というものがあることから、少なくとも奈良時代には丹生川上神社は雨を司る神を祀るとされていたということだ。 しかし、丹生川上神社は中世以降に衰退し、所在さえ不明となっていた。
丹生川上神社が現在のように中社、上社、下社の3社体制になったのは近年のことで、もともとは一社だった。 平安時代中期の『延喜式』神名帳にも丹生川上神社(名神大)は一座として載っている。 戦国時代以降、神社は荒廃して忘れ去られ、江戸時代には所在さえ不明になっていた。 明治になって研究と調査が行われ、明治4年に丹生村が候補地とされ、さらに明治29年には川上村ではないかという説が出てきてそれぞれが丹生川上神社の下社、上社とされた。 しかしこれで話は終わらず、大正11年に蟻通神社が本来の丹生川上神社だという説が有力視されるようになり、ここを中社として3社体制となったのだった。 その後、中社が本来の丹生川上神社ということになり、上社と下社を総括していたのだけど、戦後になってそれぞれが独立する形となり現在に到っている。
ではもともとの丹生川上神社の祭神は何だったのかということだけど、龗神ではないだろう。可能性が高いのは罔象女神だろうけど、もっと抽象的な水神、または龍神だったのかもしれない。 現在は中社が罔象女神を、上社が高龗神を、下社で闇龗神を祀るとしている。 ただしこれは上に書いたように明治以降の後付けなので、本来の祭神とは思わない方がいい。どういう経緯でこういう祭神と定められたのかは分からない。何らかの言い伝えがあったのだろうか。 ちなみに、上社は昭和34年の伊勢湾台風の後、大滝ダムが建設されることになって現在地に移されている。その跡地で発掘調査を行った結果、縄文時代中期以降の祭祀跡などの遺跡が見つかった。
後裔は不明
『新撰姓氏録』に龗の神の後裔を自認する一族は載っていない。 『古事記』は淤加美神の娘に日河比売(ひかはひめ)がいて、須佐之男命(スサノオ)の孫の布波能母遅久奴須奴神(フハノモヂクヌスヌ)との間に深淵之水夜礼花神(フカフチノミヅヤレハナ)がいると書いている。 系譜でいうと、この3世孫が大国主大神(オオクニヌシ)となる。 また、大国主の4世孫の甕主日子神(ミカヌシヒコ)は淤加美神(オカミ)の娘比那良志毘売(ヒナラシヒメ)をめとり、多比理岐志麻流美神(タヒリキシマルミ)をもうけている。 この後『古事記』では遠津山岬帶神(トオツヤマサキタラシ)まで辿れるものの、その後は不明。 遠津山岬帶神は大国主の系譜の十七世神(とおまりななよのかみ)の最後の神とされる。
高龗神を祀る神社と闇龗神を祀る神社
貴船神社や丹生川上神社以外に高龗神または闇龗神を祭神としている神社としては、大阪府枚方市の意賀美神社(おかみじんじゃ)がある。 伊香色雄命(イカガシカオ)の邸がここにあったとされる場所にあり、『延喜式』神名帳にも載る古社だ。 淀川の鎮守として祀られたのが始まりとされ、現在は高龗神を祭神としている。 伊香色雄命といえば三輪山に大物主神(オオモノヌシ)を祀ったり、石上神宮(いそのかみじんぐう/webを創建したりしたとされる物部氏の祖だけど、それがどこで龗神とつながるのかは分からない。 興味深いのは、同じ大阪府の岸和田市にも意賀美神社があって、こちらも『延喜式』神名帳に載っており、こちらは闇意賀美大神を祭神としていることだ。 社名も”おがみ”と濁る違いがある。 また、大阪府泉佐野市にも『延喜式』神名帳に載る意賀美神社があり、高龗神を祀っている。 どうやら和泉国や河内国には古くから龗神信仰があったようだ。逆に言うと、この地区以外に意賀美神社やそれに類する神社は『延喜式』神名帳には載っていないことから、土地神信仰とも考えられる。
これらの古社に直接的な関係があったのかなかったのかは分からないけど、社名からして少なくとも平安時代中期には意賀美=龗神を祀る意識があったのは間違いなさそうだ。 それは案外古くかもしれなくて、たとえば東京都品川区にある荏原神社(web)は飛鳥時代末の和銅2年(709年)に丹生川上神社から高龗神を勧請して建てられたという伝承があることからもうかがえる。 他には、青森県青森市に市内最古ともされる龗神社(おがみじんじゃ/web)があり、高龗神を祭神としている。 『延喜式』神名帳には載っていないものの、平安時代後期の記録があり、正式名を法霊山龗神社ということから古くから神仏習合していて官社とされていなかっただけとも考えられる。 のちに陸奥国八戸の総鎮守とされた。 青森県には他にも高龗神社が1社、闇龗神社が5社ほどあるようで、この地域も龗神信仰があったことが分かる。 高龗ではなく闇龗が優勢の理由も何かあるのだろうけど、そのあたりはなんとも言えない。 その他、貴船神社系の神社でも高龗神を祀っている。 長崎県壱岐市の國津意加美神社(web)は祭神が素戔嗚尊となっているので違う系統なのか、途中で龗神から素戔嗚尊に変わったのか。
名古屋では北区の東八龍社、西八龍社、八龍社(福徳町)、中川区の雨宮社、中村区の白龍社(名駅南)で高龗神を祀っている。 この中にはわりと古いと思われる神社があるものの、創建時から龗神を祀っていたところはないのではないかと推測する。 ほとんどは明治以降ではないだろうか。 闇龗神を祭神としている神社は名古屋にはない。
龗神をめぐるちょっとした考察
龗神を祀ることがいつから始まったのかはなんとも言えない。しかし、雨乞いや雨を止める祈りが行われるようになったのは古いはずで、それは稲作が始まったのと時を同じくしているだろう。日照りや長雨、台風などは稲の収穫に直接関わってくることで死活問題だから、雨を司る神に祈るのは当然のことだ。 ただしそれが龗神と認識されるようになるのは後のことで、少なくとも『古事記』、『日本書紀』が編纂された奈良時代以降と考えていいのではないか。 記紀の中ではその誕生が書かれているだけで属性や働きについては何も書かれていない。水の神とも書いていない。後世の人間が勝手に解釈しただけだ。
ここで2つ考えなければいけないことがある。ひとつは他の龍神との関係で、もうひとつはやはり、高龗と闇龗との関係だ。 龍神でパッと思い浮かぶのは九頭竜と八大竜王だ。 龍(竜)は中国から伝わった想像の生き物とされているけど、日本にはもっと古くから龍の概念があったと個人的には思っている。 八大竜王はインドで信じられていた龍神が仏教に取り込まれて生まれたものだ。 それらが国外から持ち込まれる以前から日本に水神信仰があったのは間違いなく、九頭竜や八大竜王から龗神信仰が生まれたと考えるのは違うと思う。 ただ、奈良時代にはすでに水神と龍神は習合して信仰の対象になっていたはずで、具体的に祈雨、止雨の霊験があったからこそ神社で祀られるようになったという経緯がある。
もうひとつの高龗・闇龗問題は難問すぎて私の手には負えない。 高龗は山で闇龗は谷という通説ははっきり否定したい。そんな単純なことではない。 高龗を祀る神社と闇龗を祀る神社の意識の違いといったものをもっと深く追求すれば見えてくるものもあるのかもしれないけど、ざっと俯瞰した感じではよく分からない。 どちらが上でどちらが下とか、どちらが主でどちらが従といったふうでもなく、表と裏の関係性でもなさそうだ。 ただ、もともとの龗が高と闇に分かれたという言い方はできそうな気もする。 最初に立ち返ってみれば、『日本書紀』や『先代旧事本紀』はカグツチ本体から生まれたのが高龗で、カグツチの血から生まれたのが闇龗といっているように、微妙なようでいて決定的な違いがある。 神社の祭神としての高龗と闇龗も、そのあたりの違いが半ば無意識的に反映されているのかもしれない。 これ以上理解を深めるためには、高龗よりも闇龗を調べた方がいいと思う。そこから何か浮かび上がってくるような気もする。
|