やや意味不明な猿田彦宮 | |
読み方 | さるたひこ-ぐう |
所在地 | 名古屋市熱田区幡屋1丁目6 地図 |
創建年 | 不明 |
旧社格・等級等 | 不明 |
祭神 | 猿田彦大神(さるたひこおおかみ) |
アクセス | 地下鉄名城線「西高蔵駅」から徒歩約1分 駐車場 なし |
その他 | |
オススメ度 | * |
熱田神宮(web)の北西は幡屋(はたや)という地区で、古い起源を持つ地名のひとつとされている。 地名の由来について『尾張志』(1844年)はいくつかの説を紹介している。 『日本書紀』に書かれている漢織・呉織(あやはとり・くれはとり)の綾織(あやおり)に由来するとか、『続日本紀』にある和銅五年(712年)に伊勢・尾張・三河に綾綿を織るように命じたことから来ているとか、日本武尊(ヤマトタケル)が死後に白鳥になって飛んでいったときの羽が白旗に見えたことから幡屋と名付けたなどという話があるとしつつ、「何れもあやしき伝えなれとその地名の古き事疑いなし」と書く。 実際のところはどうか分からないのだけど、相当古い地名で、もともとは機綾(はたあや)だったことを考えても、機織(はたおり)に関係する地名の可能性は考えられる。 熱田社の神官の衣を縫っていた集団がいたことから名付けられたという話もある。 猿田彦宮があるのは断夫山古墳(地図)の北、国道19号線を西に入ってすぐだ。 通り沿いに猿田彦宮という社号標があり、横には猿田彦大神と書かれた大きな看板がある。 その看板に書かれている内容がよく分からない。 「日本最古御降臨の御聖地(幣掛)」 誰がいつここに降臨したのだろう? 猿田彦(サルタヒコ)は国津だから降臨というのはちょっと違和感がある。 瓊瓊杵尊(ニニギ)一行がサルタヒコの案内で熱田にやってきたなんて話も聞いたことがない。 幣掛も意味が分からない。「しでかけ」と読ませるか、「ぬさかけ」なのか。 宮城県に幣掛(ぬさかけ)という地名があるけど関係ないだろう。 奈良県の吉野山には幣掛神社(しでかけじんじゃ)があって、速秋津比売神(ハヤアキツヒメ)を祀っている。それも関係なさそうだ。 幣(ぬさ)は、にぎて、幣帛(へいはく)、御幣(ごへい)ともいい、神への供え物や祓(はらえ)のときに使われるものだ。 本殿の前に、紙垂(しで)を木に挟んで立てかけてあるのを見たことがあれば、あれが幣だ。昔は麻や木綿(ゆう)、織った布だったという。 日本最古の降臨の聖地=幣掛とはどういうことなんだろう。 御札、御砂の授与を道を挟んだ家がやってますという案内があったから、そこの人に訊ねれば何か教えてくれるかもしれない。 創建の時期やいきさつについてはまったく情報がないため何も分からない。 サルタヒコは様々な民間信仰と結びついていたから、そういう種類のものかもしれないし、違うかもしれない。 伊勢の猿田彦神社(web)や椿大神社(web)などから勧請して祀ったというものではなさそうだ。 すぐ南にある淳徳寺は真宗大谷派の寺院だけど、ここと関係があるのかないのか。 庚申堂や道祖神など、いくつもの可能性が考えられる。 あるいは、近年に建てられたものかもしれない。 【追記】 2024.10.28 「幣掛」は「へいかけ」と読むと教えていただいた。 このあたりはかつて榊の森があったことから幣懸の里と呼ばれ、それが地名(町名)になったそうだ(熱田西町幣懸)。 なるほど、そういうことであれば、幣掛(幣懸)の地に猿田彦が降臨したといいたかったのだろう。 幣を掛けるというのは何か意味深で、あるいは古い時代の歴史が秘められているのかもしれない。 熱田や高蔵という土地柄からしても、その可能性は充分に考えられる。 ところで、この社の場所がどこだったか思い出せなかったのでGoogleのストリートビューで探したら見つからなかった。 ここか、ここだと思うのだけど、どちらも跡形もない。 淳徳寺の北側で、向かいに御札を授与すると張り紙がある家があったのは確かで、その家はあるのでこのあたりには違いない。 訪れたのが2017年で、あれから7年も経っているから廃社となっていても不思議はない。 近くへ行ったら確認してきたいと思う。 【更に追記】 2024.11.10 この情報を教えていただいた方が見てきてくださり、やはりなくなっていたとのことだ。 私が出向いた2017年当時でもよく残ったものだと感心したものだけど、令和元年に廃社になったという。 残念ではあるけど、致し方ないといえばそうなのだろう。 こうして記録に残せただけでもよしとしなくてはいけないか。 跡地に立っている説明板の写真を送っていただいたので、それをここに書き写しておきます。 「弊掛社 猿田彦宮跡地 淳德寺の記録によれば昭和二十年 五本松町境内地を都市計画 強制疎開による退去後、昭和二十六年寺有地として この地を購入移転。敷地内北東角あたりの小塚に幣縣という町名を由来する民間伝説に基ずく小さな古い社がありました。 昭和三十四年当時 上旗屋町内会二十六戸が氏子としてこの社を護持運営したいとの要望に応えて、淳徳寺は寺有地の内 北東角三坪を猿田彦宮として割し、上旗屋町内会は新社殿を建立しました。 以来六十年にわたり崇敬を集めて参りましたが、氏子は年々減少運営困難の為護持を断念し、奉賛会を解散、社殿玉垣を撤去 して淳德寺に返譲致しました。 時代が移り行く中、地縁深き氏子の手によって猿田彦宮が長年に亙り崇敬護持されたことを偲び、ここに伝え記すものであります。 令和元年七月一日 猿田彦宮 旧氏子一同」 作成日 2017.8.26(最終更新日 2024.11.10) | |
ブログ記事(現身日和【うつせみびより】) 熱田区旗屋の猿田彦はどこの猿田彦さん? | |