池下(千種区向陽1丁目)にある蝮ヶ池八幡宮(地図)の飛地境内社となっている神社なのだけど、蝮ヶ池八幡宮との関係や経緯によく分からない部分がある。 境内にある由緒書きをまとめるとこうだ。
・江戸時代前期の1633年に「蝮ヶ池八幡大神様を一時仮安置」した「由緒ある神社」である。 ・昭和11年(1936年)に元の鎮座地が道路拡張の敷地になったため、現在地(内山1丁目)に移された。 ・昭和19年(1944年)、あらたに伊勢神宮(web)、熱田神宮(web)、津島神社(web)の祭神を迎えた。そのためもあってか氏子は第二次大戦の空襲の被害を免れた。 ・社殿が古くなってだいぶ傷んできたのでどうしようか相談していたところ、地域の氏神である蝮ヶ池八幡宮の祭神・應神天皇の両親神を祀れという神のお告げがあった。そのため、昭和27年(1952年)、山口県下関市の忌宮神社(いみのみやじんじゃ/web)に出向いて仲哀天皇と神功皇后を迎えて祀った。 ・同年、神社本庁から蝮ヶ池八幡宮飛地境内社西八幡社として承認された。 4月の蝮ヶ池八幡宮の大祭ではここが御旅所とされた。
まず分からないのが1633年に「蝮ヶ池八幡大神様を一時仮安置」したという部分だ。 この言い回しからすると蝮ヶ池八幡宮の元宮のようでもあり、単に一時預かっただけとも取れる。どちらなのか判断がつかない。 1633年以前からすでにこの神社はあったのかどうなのか。ニュアンスとしてはすでにあって、一時的に蝮ヶ池八幡宮の御神体を預かったということのように思える。 蝮ヶ池八幡宮の縁起では、名古屋新田の開発を進めた尾張藩士で大庄屋の兼松源蔵が山城国男山八幡宮(石清水八幡宮 web)に参籠して屋敷内に祀ったのが始まりとしている。 それが寛永年中というから1624-1643年にかけてのことだ。 となると、蝮ヶ池八幡宮の創建は1633年以前で、何らかの理由で西八幡社が1633年にその御神体を預かることになったということだろうか。 少し違う話として、兼松源蔵の自宅近くの西八幡社に祀ったのが始まりというものもある。混乱しがちなのはこのときの西八幡社は今の場所ではないということだ。それがどこだったのかが分からないのでややしく感じる。 のちに兼松源蔵の八幡社は村人たちの希望もあって現在地に移され名古屋新田の鎮守とされた。それがいつだったのかも分からない。 「一時預かった」という言い回しが混乱の元となっているのだけど、元宮なら元宮と書くはずだから、やはり蝮ヶ池八幡宮と西八幡社はもともと別の神社だったのではないのか。 蝮ヶ池八幡宮の蝮ヶ池の社名は、近くにあった蝮池から名前がとられているのだけど、蝮池は万治年間(1658年-1680年)にこの地を開拓した人々によって築造された溜め池だ。蝮ヶ池八幡宮が現在地に移されたのは蝮池ができた後なのか先だったのかも定かではない。 更に言えば、西八幡社も本来は西八幡社という名前ではなかったはずで、八幡社ですらなかったかもしれない。 これも由緒書きにあるけど、昭和19年にあらたに伊勢神宮、熱田神宮、津島神社を勧請している。このとき社名変更があったのかなかったのか。 そして、昭和27年に仲哀天皇と神功皇后を祀っている。そのときに西八幡社となったのだと思う。 西八幡社のもともとの名前が何でどんな神を祀る神社として創建されたのか。最初の鎮座地が分かると調べる取っかかりになるのだけど。
蝮ヶ池八幡宮と西八幡社の関係性と経緯は分からずじまいだ。 神社の創建や遷座に関しては記録や言い伝えが残っていても曖昧で分からない部分が多々あって、神社がいう縁起も当てにならない。 西八幡社の元の場所と経緯が分かれば、蝮ヶ池八幡宮についても分かるはずなので、西八幡社に関して調査継続ということにしたい。 蝮ヶ池八幡宮の飛地境内社として龍神社・辨天社もある。
作成日 2018.1.7(最終更新日 2019.2.14)
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