チュウアイテンノウ《仲哀天皇》

2020年1月10日

チュウアイテンノウ《仲哀天皇》

『古事記』表記 帯中日子天皇(タラシナカツヒコ)
『日本書紀』表記 足仲彦天皇(タラシナカツヒコ)
別名 仲哀天皇
祭神名 仲哀天皇・他
系譜 (父)日本武尊
(母)両道入姫命
(后)神功皇后
(妃)大中津比売命(『古事記』)/大中姫(『日本書紀』)、弟媛(『日本書紀』)
(子)香坂王/麛坂皇子、忍熊王/忍熊皇子、品夜和気命、大鞆和気命(品陀和気命/誉田別命/応神天皇)、譽屋別皇子
属性 天皇
後裔 天皇家
祀られている神社(全国) 香椎宮(福岡県福岡市)、忌宮神社(山口県下関市)、柞原八幡宮(大分県大分市)、千栗八幡宮(佐賀県三養基郡)、穴八幡神社(東京都新宿区)
祀られている神社(名古屋) 西八幡社(蝮ヶ池)(千種区)、八幡社(長須賀)(中川区)、七所神社(伏屋)(中川区)、城山八幡宮(千種区)

 第14代天皇。
 父は日本武尊、母は両道入姫命、皇后は神功皇后、子供は応神天皇というビッグネームに囲まれて天皇自身の存在感は薄い。
 ただ、『日本書紀』によると、容姿端麗で身長は10尺(3メートル弱なので大げさすぎる)もあったというから、見た目はよかったようだ。
 第13代成務天皇(日本武尊の異母弟)に男子がいなかったことから皇太子となり、成務天皇崩御の2年後に即位した。このとき31歳だったという。
 氣長足姫(神功皇后)を皇后にしたのは即位2年で、それ以前に妻と子がいたと記紀は書く。
『古事記』は大中津比売命(大江王の娘)との間に香坂王と忍熊王がいたとし、『日本書紀』は大中姫(彦人大兄の娘)との間に麛坂皇子(カゴサカ)と忍熊皇子(オシクマ)が、弟媛(大酒主の娘)との間に譽屋別皇子(ホムヤワケ)がいたとする。
 息長帯比売命/氣長足姫尊との間の子供にも違いがあり、『古事記』は最初に品夜和気命(ホムヤワケ)が生まれ、次に大鞆和気命(オホトモワケ)が生まれたとする。この大鞆和気命の別名が品陀和気命(ホムダワケ)で、後に第15代応神天皇として即位する。
『日本書紀』は神功皇后との間の子供を誉田別命(応神天皇)のみとしている。
 即位した場所については記紀ともに書いていない。成務天皇を倭国の狹城盾列陵(奈良県奈良市)に葬ったとあるので、大和(倭国)と考えていいのかもしれないけど、『古事記』は穴門の豊浦宮(とゆら/山口県)と筑紫の訶志比宮(かしい/福岡県)で天下を治めたとあり、熊襲討伐の遠征先で急死したこともあって大和近辺での足跡はほとんどない。
『日本書紀』は穴門豊浦宮も筑紫橿日宮も滞在したというだけで宮があったとは書いていない。
 仲哀天皇の死については記紀ともに話の展開は同じだ。熊襲を討伐しようとしていたとき、神功皇后が神憑りして、海の向こうに金銀財宝がある国があるのでそれを与えようと言うと、仲哀天皇はそれを信じなかったため、神の怒りに触れて死んでしまったというのだ。
 後にその神は底筒男・中筒男・上筒男の住吉三神ということが判明し、神の意志に従った神功皇后は新羅を討伐したというのが話の流れだ。
『日本書紀』はこのときの出来事を天皇即位8年から9年のことし、崩御したときの年齢を52歳といっているのだけど、31歳で即位したはずなので年齢が合わない。
 別伝によるとという形で、熊襲討伐の際に矢に当たって亡くなったという話も紹介している。
 この一連の出来事の間、その場にいた武内宿禰が後々鍵を握ることになる。というのも、応神天皇が生まれたのは仲哀天皇死去の10ヶ月後で、仲哀天皇崩御の後、神功皇后と武内宿禰が夫婦の秘め事をしたという話があるからだ。
 天皇の死についてしばらく隠されたというのも何か秘密めいている。筑紫から穴門に移って秘密の殯(もがり)を執り行ったのも武内宿禰という。
 仲哀天皇の陵について、『古事記』は河内の恵賀の長江、『日本書紀』は河内国長野陵としている。
 現在は大阪府藤井寺市の岡ミサンザイ古墳を仲哀天皇陵としているのだけど、これにはいろいろ異論が出ている。そもそも。この前方後円墳が築造されたのは5世紀末頃と考えられており、ヤマトタケルの息子の仲哀天皇の時代とは合わない。そのため、第21代雄略天皇が被葬者ではないかとする説がある。
 仲哀天皇を祀る神社としては、香椎宮(福岡県福岡市)、忌宮神社(山口県下関市)、柞原八幡宮(大分県大分市)、千栗八幡宮(佐賀県三養基郡)、穴八幡神社(東京都新宿区)などがある他、氣比神宮(福井県敦賀市)もゆかりが深いとされる。
 名古屋では西八幡社(蝮ヶ池)(千種区)、八幡社(長須賀)(中川区)、七所神社(伏屋)(中川区)、城山八幡宮(千種区)で祀られている。

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