なんとなく悲劇的
仲哀天皇は気の毒な天皇だと思う。 実際はどうだったのかは分からないけど、『古事記』や『日本書紀』は仲哀天皇に対して冷たいというか、いい印象を持っていない編纂者によって書かれているように感じる。 書かれた内容が事実に基づいているとすると、あんな書かれ方をしても仕方がないかなとは思うけど。
この項では『古事記』と『日本書紀』、その他が仲哀天皇をどう書いているかを読みつつ、それ以外の部分の人となりについて見ていくことにする。
仲哀という諡が示すもの
仲哀天皇という漢風諡号(かんふうしごう)は奈良時代後期に淡海三船(おうみのみふね)が一括してつけたという説があり、その真偽はともかくとして(個人的には信じていない)、『古事記』や『日本書紀』が編纂された時代にはまだなかったものなので、『古事記』は帯中日子天皇(タラシナカツヒコノスメラミコト)、『日本書紀』は足仲彦天皇(タラシナカツヒコノスメラミコト)という呼び方(書き方)をしている。 漢風諡号が贈られる以前は和楓諡号(わふうしごう)が贈られていたとされ、”タラシナカツヒコ”がそれに当たるのか、もしくは実名に相当する諱(いみな)なのかははっきりしない。 名前のことを後回しにするとして、歴代天皇としては第14代とされる。
まずは『古事記』から。 父は倭建命(ヤマトタケル)、母は石衝毘売命(イハツクヒメ)、またの名を布多遅能伊理毘売命(フタジイリヒメ)、皇后は神功皇后こと息長帯比売命(オキナガタラシヒメ)、子には品夜和気命(ホムヤワケ)と後に応神天皇となる大鞆和気命(オホトモワケ)、またの名を品陀和気命(ホムタワケ)などがいる。 このあたりの系譜についても後ほどとしたい。
宮については、穴門(あなと)の豊浦宮(とゆら)と筑紫(つくし)の訶志比宮(かしい)で天下を治めたとする。 これは現在の山口県下関市と福岡県福岡市というのだけど、それはちょっとどうなんだろうと思う。 先代の成務天皇(仲哀の叔父)が近淡海(かちつあふみ)の志賀(しか)の高穴穂宮(たかなほ)に宮を置いたというのも信じがたいことで、これは記紀の物語を成立させるための設定と見るべきだろう。 中央からそんなに遠く離れたところに宮を置いていたのでは天下を治められない。 しかし、設定にしてもそこにしたということには何らかの意味があって、そこに秘められたからくりもあると考えなければいけない。 どうしてすぐにバレるような嘘をつく必要があったのか。
続いて、大江王(おおえ)の娘の大中津比売命(オオナカツヒメ)を娶って、香坂王(カゴサカ)、忍熊王(オシクマ)が生まれたと書く。 最初の妻(妃)は応神天皇を生んだ息長帯比売命(神功皇后)ではなかったということだ。 結局、息長帯比売命が生んだ二人の皇子のうちの大鞆和気命(品陀和気命)が即位することになるのだけど、長子である品夜和気命がどうなったかについては触れられていない。 大鞆和気命は息長帯比売命のお腹の中にいたときから天下をしろしめていたといっているので、ここですでに応神天皇を神格化するための準備が始まっていることが分かる。
この後、よく知られる熊曽国討伐と息長帯比売命の神懸かり、新羅出兵について語られる。 筑紫の訶志比宮で熊曽国を撃とうとしていたとき息長帯比売命が神懸かり、帯中日子天皇は神の言葉を聞くために琴を弾き、建内宿禰が神降ろしをして神の言葉を聞くことになる。 息長帯比売命が、西に金銀の宝がある国があるから私がそれを与えようといので仲哀天皇は高いところに登って西を見てみても何もなく海しか見えない。 神に偽られたと思った帯中日子天皇は琴を弾くのをやめて黙ってしまった。 すると神は怒り、この天下はおまえが治めるものではない、おまえは死んでしまえ(一道に向かえ)と告げた。 焦った建内宿禰は恐れ多いことです、琴を弾いてくださいと帯中日子天皇に頼み、しぶしぶ弾き始めたもののほどなくして琴の音が聞こえなくなった。 そこで明かりを灯してみると仲哀天皇はすでに亡くなっていたのだった。
驚いた建内宿禰だったが、それからの行動は速やかでもあり冷静でもあった。 帯中日子天皇を殯宮(もがりのみや)に移すと穢れを祓う儀式を行い、あらためて建内宿禰が沙庭(さには)となって神の言葉を受けた。 神の言葉は前回と同じで、この国のすべては(息長帯比売命の)腹の中の子が治めるものだというものだった。 ここでも引き続き答えているのは神懸かった息長帯比売命ということになる。 なおも建内宿禰は神の言葉を求める。腹の子は男か女か、あなたは何という名の神ですか、と。 神は答えた。これは天照大神(アマテラス)の御心であり、そして神の名は底筒男(ソコツツノオ)、中筒男(ナカツツノオ)、上筒男(ウハツツノオ)の神だと。いわゆる住吉三神がこれに当たる。 本当に西の国を求めるなら我を祀れという神の言葉に従った上で、息長帯比売命一行を乗せた船は西へと向かい、たちまち新羅国に辿り着くと新羅国王は恐れをなして降伏の意を示したので国王の家の門に墨江大神(すみのえ)の荒御魂(あらみたま)を祀って帰国の途についたのだった。 新羅出兵のときはすでに産み月になっていたものを遅らせて、帰国後に息長帯比売命は筑紫国で子を産んだという。
以上が『古事記』が伝える仲哀天皇の話なのだけど、あれ? と思うのは、長子とされる品夜和気命の存在だ。新羅出兵前にすでに生まれているはずなのにどこで何をしていたのか? この問題に関しては『日本書紀』のところであらためて考えることにしたい。 帰国後に起きた国内の反乱その他については応神天皇や武内宿禰の項に書いたので、よかったらお読みください。
『日本書紀』もおかしな点が多い
『日本書紀』は即位の年などが書いてあるので『古事記』よりも全体の流れを把握しやすいのだけど、年齢のことなどいろいろ矛盾があるのでそのまま受け取るわけにはいかない。その他、おかしなこともいろいろある。 とはいえ、まずは『日本書紀』が何をどう書いているかをまとめてみよう。
名前の足仲彦天皇(タラシナカツヒコノスメラミコト)は『古事記』の帯中日子天皇と表記が違うだけで読み方は同じと考えて差し支えなさそうだ。 父は日本武尊(その第二子)で母は日本武尊の皇后とされた兩道入姫命(フタジイリヒメ)と、これも『古事記』と共通する。 容姿についての言及があり、端麗で身の丈は10尺といっている。 本当なら身長3メートルになってしまうので現実的ではないのだけど、それだけ大男だったという話が伝わっていたのかもしれない。 立太子は先代の成務天皇(稚足彦天皇)即位48年で、このとき31歳だったという。 12年後の成務天皇即位60年に成務天皇が崩御し、子供がいなかったため足仲彦が天皇として即位することになった。その通りなら43歳になっていたということだ。 その年最初にやったのは、諸国に白鳥(しろとり)を献上させることだった。 これは、自分(仲哀天皇)がまだ若い内に父の日本武尊が命を落として白鳥に姿を変えて天に昇ったという伝承にちなんで白鳥を飼いたいというのが理由だった。 天皇の気まぐれやわがままのような話なのだけど、これには何か裏があって暗示が隠されていそうだ。 日本武尊が白鳥になったということもそうだし、仲哀天皇がそれを欲したというのもそういうことだろう。 日本武尊と白鳥のことは呪いのように天皇家代々につきまとっていてそれは現代にまでつながっている(昭和天皇の大御葬のときにも日本武尊を悼む歌が歌われた)。 詔を発した3日後(11月4日)に越国(こしのくに)が4隻(つ)の白鳥を貢いだ。 その白鳥を運ぶ使者が菟道河(うじがわ)のあたりで宿をとったとき、蘆髮蒲見別王(アシカミノカマミワケノミコ)がその白鳥を見て、どこに持っていくのかと問いかけ、越国の人が事情を説明すると蘆髮蒲見別王はこんなことを言った。 白鳥も焼いたら黒鳥になるだろう、と(雖白鳥而燒之則爲黑鳥)。 越国の人はそのことを足仲彦天皇に伝えたところ、天皇は先王に対して失礼だと憎み、すぐに兵を送って蘆髮蒲見別王を誅殺してしまったのだった。 この蘆髮蒲見別王というのは日本武尊の子のひとりで、仲哀天皇の異母弟だといっている。 その話を伝え聞いた人々は父や兄を侮れば罪は免れないと噂し合ったという。 何だかアリアリなエピソードで、白いものも黒くなるということは天皇にとって突かれたくない部分だったのだろう。 『古事記』が書かなかったこの話を『日本書紀』が書いたことにも意味がある。
即位2年の春1月11日。氣長足姫尊(オキナガタラシヒメノミコト)を皇后とした。 それ以前に彦人大兄(ヒコヒトノオオエ)の娘の大中姫(オオナカヒメ)を妃として麛坂皇子(カゴサカ)と忍熊皇子(オシクマ)が生まれたとする。 ここまでは『古事記』と同じなのだけど、來熊田造(ククマタノミヤツコ)の祖の大酒主(オオサカヌシ)の娘の弟媛(オトヒメ)を娶って譽屋別皇子(ホムヤワケ)が生まれたという点が違っている。 『古事記』は品夜和気命を息長帯比売命の長子にしてしまったので無理があったけど、母親を別にすれば不自然ではなくなる。
2月6日に角鹿(つぬが)に行って行宮(あんぐう)である笥飯宮(けひのみや)を建てたというのも『古事記』とは大きく違っている。 ただ、本来の宮がどこかについては言及がない。 同じ月に淡路屯倉(あわじのみやけ)を定めたとも書いている。 足仲彦天皇が即位したのが43歳のときで、翌年に氣長足姫尊を皇后とし、即位9年の52歳で崩御したときに氣長足姫尊のお腹に子供(応神天皇)がいたという設定はちょっと無理があると思うんだけどどうだろう。
即位2年3月15日に天皇は南国を視察した。 ”巡狩”という言葉を使っているので狩りをしながら巡ったという意味合いだろうか。 ”南国”というのがどのあたりなのかは不明なのだけど、その後、紀伊国に至ったとあるので、倭(やまと)から南へ下ったということか。 德勒津宮(ところつのみや)にいたときに熊襲が叛(そむ)いて貢ぐことをしなかったので天皇は熊襲国を討つことなる。 すぐに德勒津宮をたって穴門へ向かい、角鹿にいた皇后に遣いを送って穴門で待っている旨を伝えさせた。 穴門は今の山口県で、熊襲国は九州南部というのが定説なのだけど、紀伊にいて九州の国が反抗したというのは話が飛びすぎているのではないか。 紀伊には熊野もあるし、そのあたりの話とした方が自然だ。穴門も紀伊あたりのどこかかもしれない(設定の問題として、という意味でだけど)。 熊襲といえば足仲彦天皇の父の日本武尊が討伐したのが熊襲で、熊曾建(クマソタケル)こと兄建(エタケル)と弟建(オトタケル)を討って以来、日本武尊を名乗るようになったというあの熊襲だ。 しかし、熊襲を九州南部とするのはやはり無理があるように思う。なぜなら、息長帯比売命が神懸かって伝えた言葉として、”西”に宝の国である新羅国があると言っていたからだ。地図を見れば分かるけど、九州南部から見て朝鮮半島は”北”にある。決して西ではない。紀伊あたりから見れば朝鮮半島は西にあるという感覚だ。 あるいは、新羅国とはいっているけど、それは朝鮮半島の新羅国ではなく国内のどこかをいっているとも考えられる。
天皇一行はそのまま熊襲に攻め込みそうな勢いだったのに、実は非常にのんびり向かっていたらしい。 供を連れて南国の視察に出たのが即位2年の3月15日で、天皇が豊浦津(とゆらつ)に着いたのは6月10日だという。 紀伊滞在が1、2ヶ月あったにしても、3ヶ月経ってまだだいぶ手前までしか行っていない。 一方の皇后も似たようなペースで、7月5日にようやく豊浦津に追いついている。 その間、船で食事をしているときに海鯽魚(タイ)が集まってきたので酒を注いだら酔っ払って浮かび上がってきたので海人たちがたくさん獲れて喜んだとか、海から如意玉を得たとか、よく意味が分からないエピソードが挟まれている。 『古事記』と比べると余計な話が多くてテンポが遅い。 更に続く記事を読んで驚くことになる。 即位8年1月4日に筑紫を行幸したとある。 ええ!? 急に6年後の話? もはや意味不明で考えるのが馬鹿らしくなるくらいだ。 この後のエピソードも、その話って必要なの? と訊きたくなるようなもので、『日本書紀』編纂者たちの意図が読み取れない。 岡県主(おかのあがたぬし)の祖の熊鰐(ワニ)や伊覩縣主(いとのあがたぬし)の祖の五十迹手(イトテ) が最大限のもてなしで天皇を迎えたとか、船が進めなくなったのは地元の神の意志なのでそれを祀って鎮めたといった話があり、ようやく1月21日に灘県(なだのあがた)に至って橿日宮(かしひのみや)に入ったのだった。 しかし、すぐに熊襲討伐とはならず、8ヶ月後の9月5日になって群臣(まえつのきみたち)に熊襲討伐をどうするか話し合いを持たせることになる。 この間、天皇一行はどこで何をしていたというのか? 宮を留守にしっぱなしで大丈夫なのかと心配にもなる。 熊襲討伐は仲哀天皇にとってライフワークと呼ぶべき所業だったといえるかもしれない。
この後、神の託宣という流れになるのだけど、『古事記』との違いは群臣たちの会議中に皇后に神懸かったという点だ。 『古事記』は仲哀天皇、息長帯比売命(神功皇后)、建内宿禰の三人による秘密の儀式めいていたのに、ここではそれが大勢の前で起きた出来事として語られている。これは大きな違いといえる。 神懸かった皇后は言った。 天皇よどうして熊襲が服さないことを嘆くのか。熊襲など兵を挙げて討つに値しない。服させるべきは膂宍之空国(そししのむなくに)だ。そこには金銀などの宝がたくさんあって栲衾新羅国(たくぶすましらきのくに)という。吾を祀れば血を流さずにその国は服すだろうし、熊野も服すだろうと。 天皇はその言葉を聞いて疑いの情を抱いた。そして高い丘に登って遙か大海を見渡すも国など見えない。 そこで天皇は神に向かって言った。海を見たけど国など見えなかった。朕を欺こうとする神は誰だと。 それに対して神は怒り、我の言葉を信じず謗(そし)る汝はその国を得ることはできないだろうと言い放った。 そして、今皇后のお腹にいる子がそれを得るだろうとも。 天皇は独断で強引に熊襲を討とうとしたものの勝つことはできずに帰ってきた。 ここでも『古事記』との違いがあって、神の言葉を聞いている最中に急死した『古事記』に対して『日本書紀』は熊襲討伐を断行している。 死についても崩御したのは翌即位9年の2月で病死ということになっている(52歳)。 別伝承として賊の矢に当たって亡くなったという話も伝える。 病死だとすると、神の託宣の話が即位8年の9月だったから、ちょっとしたタイムラグがあるのだけど、原因については神の言葉を聞かなかったからだといっている。 皇后と大臣(おおおみ)の武內宿禰は天皇の死を天下に知らせず、秘密の殯(もがり)をしたというのがなかなかに怪しくて何かあったと思わせる。神功皇后側のクーデーターかもしれない。
この後あらためて神の言葉を聞いた上で新羅出兵(三韓討伐)ということになるのだけど、『日本書紀』は氣長足姫尊(神功皇后)を独立させて書いていて、足仲彦天皇のその後についても言及がある。 即位9年の2月に橿日宮で崩御した後、皇后は武内宿禰、中臣烏賊津連(ナカトミノイカツノムラジ)、大三輪大友主君(オオミワノオオトモヌシノキミ)、物部膽咋連(モノノベノイクヒノムラジ)、大伴武以連(オオトモノタケモツノムラジ)を集めて天皇の死を口止めした上で遺体を穴門へ移し、豊浦宮で火を炊かない秘密の殯(无火殯斂)を行わせた。 新羅出兵から戻った氣長足姫尊は筑紫で譽田天皇(ホムタノスメラミコト/応神天皇)を生んで海路で京(倭)へ向かったところ、足仲彦天皇の先妻(妃)の皇子である麛坂王(カゴサカノミコ)と忍熊王(オシクマノミコ)が天皇の死と皇后が新羅を討って皇子が生まれたことを聞いて反逆の計画を練って待ち構えていたという話が語られる。 麛坂王と忍熊王の反乱を抑え込んだ後、その翌年(摂政二年)にようやく仲哀天皇の死を天下に知らせて正式な喪を行ったのだった。
陵はどこか?
陵について『古事記』は、帶中津日子天皇は52歳で亡くなり、御陵は河內惠賀之長江にありと書いている。 『日本書紀』は河內國長野陵としていて、惠賀之長江と同じなのか違うのかは分からない。 足仲彦天皇が亡くなったのが筑紫の橿日宮としつつ、それを河内に運んで陵を造ったというのも不自然な話で、倭でもなく河内とした点にも違和感を抱く。 現在、大阪府藤井寺市にある岡ミサンザイ古墳(おかみさんざいこふん)を恵我長野西陵(えがのながののにしのみささぎ)として仲哀天皇陵に治定している。 ただし、これは江戸時代末期の1863年(文久3年)に戸田大和守忠至という人物が定めたとのことで、その根拠はよく分からない。
記紀以外に手がかりなし
『古語拾遺』は磐余稚桜(いわれのわかざくら)の時代(神功皇后)について少しだけ書いているものの、仲哀天皇については何も書いていない。 『先代旧事本紀』は『古事記』と『日本書紀』をあわせて簡単にまとめた内容で独自伝承などは書いていない。
後裔について
仲哀天皇の皇子の一人である誉田別が応神天皇となったので本流はそれでいいとして、別の流れもあったと考えられる。 『新撰姓氏録』(815年)には誉屋別命の後として間人宿祢、間人造、蘇宜部首、磯部臣が載っている。 誉屋別といえば『古事記』は息長帯比売命の長子とし、『日本書紀』は大酒主娘である弟姫(大酒主娘)の子としているあの人物だ。 息長帯比売命の子かそうでないかはけっこう重要なのだけど、いずれにしてもそちらの流れもあったということだ。 他に仲哀天皇皇子の忍稚命が載っていて、その後として布勢公を挙げている。 これは『新撰姓氏録』にだけ出てくる名前で素性はよく分からない。 麛坂王や忍熊王の子供や後裔がいた可能性もあるけど、それは表には出てきていない。
帯中日子天皇は殺されたのかもしれない
応神天皇は裏切り者という話が尾張氏の家に伝わっているという話を以前に何度か書いた。 応神天皇は息長帯比売命(神功皇后)と建内宿禰の子ではないかという話がまことしやかに語られていて、まったくない話ではないと思わせる。 帯中日子天皇は変な死に方をしている。突然死であり、その死は息長帯比売命と建内宿禰によって隠された。 仲哀天皇を祀っている神社でよく知られるのが福岡県福岡市にある香椎宮(かしいぐう/web)だ。もともと香椎廟(かしいびょう)と呼ばれる霊廟だったのが神社になったもので、創建は帯中日子天皇の死後すぐとも、724年(神亀元年)に神功皇后の託宣によって建てられたともされる霊廟で、帯中日子天皇の霊を慰めるためのものとされた。 怨霊化するのを防ぐために祀られたとすると、帯中日子天皇は恨みをもって死んだと考えられる。少なくとも祀る側の意識がそうだったということだ。 帯中日子天皇と息長帯比売命との対立が起こり、息長帯比売命が建内宿禰や有力豪族を味方に付けて帯中日子天皇を倒したという構図が見える。 麛坂王や忍熊王は反乱を起こして殺されたと記紀は伝えているけど、逆から見たらどうだろう。 そもそも麛坂王と忍熊王が正統な後継者候補だったのが、息長帯比売命と建内宿禰が帯中日子天皇を殺して天皇位を奪ったとしたら、そちらの方が裏切り者ということになる。戦うのは当然で、麛坂王・忍熊王側が官軍だったのではないか。 歴史は勝者の側によって語られるというのはよく言われることで、結果から『古事記』も『日本書紀』も書かれている。 神功皇后は皇后であり摂政であって天皇とはなっていない。その資格がなかったのかもしれない。
”ナカ”の名を持つということ
麛坂王と忍熊王の母は大中津比売(大中姫)で、これは大江王の娘だ。大江王(彦人大兄命)は景行天皇(大足彦忍代別天皇)の皇子なので帯中日子天皇(仲哀天皇)のいとこに当たる。 つまり、帯中日子天皇と弟媛、その子の香坂王、忍熊王は天皇家の血が濃い人たちだ。純血種といってもいい。 それに対して神功皇后こと息長帯比売命は名前からも分かるように息長氏の娘だ。 父の息長宿禰王(おきながのすくね)は第9代開化天皇の玄孫(やしゃご)というのだけど、大中津比売の家格と比べるとだいぶ落ちる。 仲哀天皇即位二年に息長帯比売命が皇后とされたというのも後付けで、そもそもは大中津比売が正妻だったのではないだろうか。 ”中”とか”仲”というように名前に”ナカ”が入っているのは内とか中央とかといった意味で本家筋の人間を示している。中間とか三兄弟の真ん中といったことではない。 仲哀天皇も帯中日子(足仲彦)というように”ナカ”の人だ。 後の時代でいえば、中大兄皇子(天智天皇)もそうだし、そもそも葦原中国という呼び名に”ナカ”が入っている。 漢風諡号として贈られた”仲哀”というのも哀しき”ナカ”の人と読み解くことができる。
仲哀天皇を祀る神社
仲哀天皇(帯中日子天皇)に対する信仰のようなものがいつ頃生まれたのかはよく分からないのだけど、忌宮神社(いみのみやじんじゃ/山口県下関市/web)、柞原八幡宮(ゆすはらはちまんぐう/大分県大分市/web)、御勢大霊石神社(みせたいれいせきじんじゃ/福岡県小郡市/web)、久度神社(くどじんじゃ/兵庫県南あわじ市)といった延喜式内社が主祭神として祀っていることからすると、その信仰は奈良時代もしくはそれ以前からあったのかもしれない。 平安時代までには神功皇后や応神天皇とあわせて祀るという思想ができあがっていたのだろう。 その他、応神天皇を主祭神として神功皇后、仲哀天皇をセットで祀っている神社もある。 千栗八幡宮(佐賀県三養基郡/web)、穴八幡宮(東京都新宿区/web)、鶴谷八幡宮(つるがやはちまんぐう/千葉県館山市)などがそうで、祭神の一柱とされている神社をあわせるとその数は思いがけず多い。 ただし注意しなければならないのは、八幡の総本社とされる宇佐八幡宮(大分県宇佐市/web)をはじめ、石清水八幡宮(京都府八幡市/web)、筥崎宮(福岡県福岡市/web)、鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市/web)といった八幡社を代表する神社では仲哀天皇(帯中日子天皇)を祀っていないことだ。いずれも応神天皇、比売神、神功皇后という三柱セットで、仲哀天皇(帯中日子天皇)は意図的に排除されているように感じられる。 八幡信仰と仲哀天皇(帯中日子天皇)に対する信仰は別と考えた方がよさそうだ。 あるいは、仲哀天皇の悲劇を伝える伝承があり、それを鎮めるために祀られた社から派生した神社(八幡)があるということかもしれない。
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