イヅナゴンゲン《飯縄権現》

2020年3月20日

イヅナゴンゲン《飯縄権現》

『古事記』表記 なし
『日本書紀』表記 なし
別名  
祭神名  
系譜  
属性 飯縄山の守護神
後裔  
祀られている神社(全国) 飯縄神社
祀られている神社(名古屋)  

それは飯縄山から始まった

 長野県北部にある標高1,917メートルの飯縄山/飯綱山(いいづなやま/長野市・上水内郡信濃町・飯綱町)に対する山岳信仰から始まったとされる信仰。後に修験などと習合して飯縄権現(飯綱権現/飯縄明神)信仰に発展していった。
 霊仙寺山(れいせんじやま/1875メートル)と瑪瑙山(めのうやま/1748メートル)をあわせて連山全体を飯縄山と呼ぶこともある。戸隠山、黒姫山、妙高山、斑尾山とともに北信五岳のひとつとされ、古くからこのあたり一帯を霊山と考えていたのだろう。
 飯縄山の飯縄は、飯のように食用となる砂の飯砂(いいずな)から来ており、菌類や藻類など微生物の複合体とされるテングノムギメシ(天狗の麦飯)が採れたからだという説がある。荒唐無稽な話に思えるけど、修験者がこの山から採れる砂だか微生物の塊だかを食べて命をつないだというのはあり得ることだ。

飯縄信仰の展開

 第15代応神天皇の270年頃、飯縄山山頂に大戸之道尊(オオトノジ)が降臨したという伝承がある。
『古事記』では意富斗能地神、『日本書紀』では大戸之道尊と表記される神世七代の5代目の神だ(オオトマベと男女一対の神とされる)。大地が固まったことの神格化というのだけど、ここで大戸之道の名が出てくるのは非常に唐突に思える。
 これは江戸時代に作られた『飯縄山略縁起』によるものなので、古くからそういう信仰があったということではないのかもしれない。
 平安時代前期の848年に学問行者が飯縄山に入り、飯綱大明神という神格が生み出され、それは大日如来のことともされた。
 あるいは、飛鳥時代の伝説の修験者、役行者が戸隠山とともに飯綱山を開いたという話もある。
 やがて戸隠山は天台派修験の道場として栄え、飯綱山は真言宗の道場として発展していくことになる。
 鎌倉時代前期の1233年には水内郡萩野城主の伊藤兵部太夫忠縄が山頂に飯縄大権現を祀り、修行を行って神通力を得たことで100歳以上生きたといい、その息子の次郎太夫盛縄も山で修行して飯縄法(いづなほう)なる妖術を獲得して千日太夫を名乗り、以降千日太夫の名を世襲したとされる。
 室町時代には広く知られるようになっていたようで、室町幕府第3代将軍足利義満や管領の細川家も信仰したとされ、戦国時代には戦勝を呼ぶ神と信じられるようになっていた。武田信玄は飯縄権現の小像を懐に入れて守護神とし、上杉謙信は飯縄権現を前立てにした兜を持っていたことが知られている。
 どうやら中世までに飯縄権現の本地仏は勝軍地蔵となっていたようで、そのことから戦勝を呼ぶ神とされたようだ。勝軍地蔵は愛宕権現のことでもあり、直江兼続の有名な兜の愛は愛宕権現のことともされる。
 飯綱山一帯は最初、上杉の領土だったのが、後に武田領となり信玄によって安曇郡から移された仁科氏が守った。信玄、謙信亡き後は、北条家が保護し、江戸時代に入ると徳川家が庇護して明治を迎えることになる。

飯縄権現の神像や史料について

 飯綱権現に関して現存する最古の史料は室町時代の戸隠山顕光寺流記(并序)とされ、そこにはこんなことが書かれている。
「吾は是れ、日本第三の天狗なり。願わくは此の山の傍らに侍し、権現の慈風に当たりて三熱の苦を脱するを得ん。須らく仁祠の玉台に列すべし。当山の鎮守と為らん」
 この権現は九頭竜のことで、吾というのが飯縄明神のことだ。ここでは自らを日本第三の天狗といっている。
 後に作られた『飯縄山廻祭文』(室町時代後期)によると、飯綱権現は十人の王子の三番目なので第三の天狗を称したということになっている。それぞれが住む山を決め、長男の太郎が愛宕山、次男が比良山、四男が富士山で、以下、白山、熊野大峰山、羽黒山、大山、日光山、金峯山とある。
『飯縄講式』などでは、父は妙善月光、母は金毘羅夜叉となっている。
 現存最古の飯縄神像は永福寺(長野県)の神像で、応永13年(1406年)の銘がある。
 その他、日光山輪王寺に伝来する「伊須那曼荼羅図」は南北朝時代のものとされ、岡山県立博物館に寄託された飯縄権現図は室町期の作とされる。

飯縄法は妖術なのか

 飯縄権現信仰は、飯縄法と呼ばれる一種の秘術とともに語られることが多い。
 愛宕勝軍神祇秘法やダキニ天法と呼ばれるものと近いともされ、飯縄法の特徴としては管狐を使うことにある。
 竹筒に入るほどの大きさの妖狐で、強大な霊力を持っていて主に利益をもたらす一方で敵に害を為すとされた。安倍晴明が使った式神のイメージに近い。75匹まで増えて予言もするという。
 これは千日太夫が飯縄権現から授かったとされるもので、この術を使う者を飯綱使いといった。
 後に忍術としても応用されるようになり、室町時代には濃望月氏によって密かに甲賀に伝えられたという話もある。
 戦国武将が信仰したのはこの秘法だったともされ、一方では邪法ともされていたようで、「世に伊豆那の術とて、人の目を眩惑する邪法悪魔あり」(『茅窓漫録』)や「しきみの抹香を仏家及び世俗に焼く。術者伊豆那の法を行ふに、此抹香をたけば彼の邪法行はれずと云ふ」(『大和本草』)などと書かれている。

高尾山と飯縄信仰

 東京都八王子市にある高尾山(599メートル)は、今では都民や観光客が気軽に登山できる山として人気を博しているけど、もともとは修験の霊山だったことはあまり知られていない。ここも飯縄権現信仰のひとつの中心地として栄えた歴史を持っている。
 奈良時代前期の744年、聖武天皇の勅令により行基が開山して高尾山薬王院(高尾山薬王院有喜寺)を創建したのが始まりと伝わる。
 当初、薬師如来を本尊としたことから薬王院と称した。
 南北朝時代の永和年間(1375-1379年)に京都の醍醐山より俊源大徳が入山して護摩供養秘法を行い、飯縄大権現を本尊として中興した。この後、高尾山は修験の道場としての性格を強めていく。
 戦国時代は北条氏が守護し、江戸時代は徳川家が大事にした。
 高尾山の飯縄権現の特徴としては、不動明王の化身とされた点が挙げられる。不動明王としてこの地に現れ、高尾山を守っていた4体の神が融合したとされる。

秋葉権現と混同される

 飯縄権現は白狐に乗って手に羂索を持つ烏天狗の姿で描かれることが多い。これはダキニ天や天狗、あるいは秋葉権現と習合したというかイメージがごちゃ混ぜになってしまった結果を示している。絵図に描かれた姿などを見ると、秋葉三尺坊とよく似ている。
 戦がなくなった江戸時代には勝軍の神としての性格は弱まり、火伏せの神とされたことも秋葉三尺坊と混同された要因だろう。
 飯綱山の麓では山の神であると同時に農耕の守護神ともされた。

飯縄山は誰のもの?

 飯綱山山頂の領有権について、千日太夫仁科氏と戸隠側でモメ続けたという歴史がある。
 1671年(寛文11年)の裁判で戸隠神領という判決が下り、千日太夫仁科氏は事実上、活動停止していた。しかし、1842年(天保13年)の幕府の裁許状では干日大夫仁科家の支配ということになり、1846年(弘化3年)には両者の間で示談が成立するも、この争いは昭和まで尾を引き、最終的には仁科氏側の勝利で幕引きとなった。
 飯縄権現信仰についていえば、明治政府の神仏判然令によって大きく衰退することになる。
 名古屋でも江戸時代まで飯縄信仰はわりとポピュラーだったようで、『尾張志』(1844年)や『尾張名所図会』(1844年)にも飯縄社がちょくちょく出てくる。飯縄神社という独立したものはなかったようだけど、境内社としてはわりと数があったのではないかと思う(日出神社(大須)白龍社(小幡)を参照)。
 それでも飯縄山山頂には今でも飯縄神社(web)があり、全国で500社以上の飯縄社が現存しているというから、飯縄信仰はまだ消えたわけではなさそうだ。
 飯縄は食べられる砂の飯砂から来ているということから保食神を祀るということになり、明治6年に長野県庁より皇足穂命神社という称号を与えられた。各地の飯縄社も保食神や宇迦之御魂神を祀るとしているところが多いようだ。

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