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ミョウケンボサツ《妙見菩薩》

ミョウケボサツ《妙見菩薩》

『古事記』表記  
『日本書紀』表記  
別名  
祭神名  
系譜  
属性  
後裔  
祀られている神社(全国)  
祀られている神社(名古屋) 妙見宮

それは古代の北極星信仰から始まった

 一般的に妙見信仰というと、北辰妙見菩薩に対する信仰のことをいう。
 中国における北極星や北斗七星に対する道教の信仰と、インド発症の菩薩信仰が習合したものが日本に伝来して始まったとされる。
 菩薩とはいいながら仏教においては天部に属するとされた(仏の位は上から如来・菩薩・明王・天部・その他に分かれている)。 
 北極星信仰を辿ると、古代アッシリアやバビロニアの砂漠の遊牧民が北極星を神格化したのが始まりで、それが中国に伝わったともいわれる。
 道教に由来する古代中国の思想では、北天にあって動かない北極星を宇宙を支配する最高神の天帝(太一神)とし、北斗七星を天帝の乗り物と考えた。北極星を神格化したものを鎮宅霊符神(チンタクレイフシン)とも呼び、鎮宅霊符神は人々の生死を司るとされた。そのため、この神を信仰し、祈れば寿命が伸び、悪事を働くと寿命が縮まった上に地獄でも苦しむと考えていたようだ。
 この鎮宅霊符神が仏教に取り込まれたときに北辰妙見菩薩と名を変え、日本の神道では天之御中主神と同一視されることになる。
 尊星王、妙見尊星王、北辰菩薩などともいう。
 妙見というのは”妙なる目”という意味で、物事の真理や善悪を見抜くということから来ている。

日本に伝わったのは飛鳥時代?

 北辰信仰(妙見信仰)が日本に伝わったのは聖徳太子や推古天皇がいた6世紀後半から7世紀前半にかけてで、渡来人が持ち込んだというのが通説となっている。
 しかし、星信仰自体はもっと古くからあったはずで、それまで日本人が北極星や北斗七星を意識していなかったはずがない。縄文時代に海を渡る場合も天体を読めなければ航海などまったく不可能だし、天体の知識は我々が考えている以上に持っていたに違いない。そういう下地があったからこそ、北辰信仰を受け入れられたのだろう。
 ただ、どういうわけか日本では星信仰はあまり流行らなかった。『古事記』、『日本書紀』における星神といえば天津甕星(天香香背男)くらいしかいない。それをとても不思議に思う。何故、日本人は西洋人のように星や星座を神格化しなかったのだろう。
 香香背男命の正体についてははっきりせず、金星や木星のこととか、北斗七星のこととか、彗星のことではないかなど、諸説ある。
 北辰信仰を思わせる古い例としては、奈良県明日香の高松塚古墳(web)がよく知られている。天井には北斗七星、北壁に北斗の象徴である玄武像が描かれていることからすると、古墳時代終末期までには北斗信仰といったものが定着していたと考えられる(キトラ古墳にも四神や天体図が描かれている)。
 高松塚古墳は藤原京時代(694-710年)のもと推定されており、被葬者は天武天皇皇子の忍壁皇子、高市皇子、弓削皇子などとする説と、百済などの王族とする説があり、はっきり分かっていない。
 645年に乙巳の変が起きた前期難波宮は唐の都城制にならったもので、中央北端に宮の中心を置くのは北斗信仰によるものとされているので、思想としての北斗信仰はすでにこの頃にはあったのではないかと思われる。藤原京、平城京、平安京も、この思想に従って建造されたものだ。
 北辰信仰には渡来の秦氏が関わっているという説もある。秦氏は秦の始皇帝の末裔を名乗ったとされるのだけど、もっと西から来た古い一族という話もあり、秦氏が北斗信仰を持ち込んだという可能性は確かにある。だとすると、第15代応神天皇の3世紀くらいまで遡るかもしれない。
 大阪府太子町の天白山妙見寺(web)は、推古天皇6 年(598年)に蘇我馬子が開基したとされる寺だ。
 第38代天智天皇(在位668-672年)が西日本に住んでいた渡来人たちを東国に移住させたことから、東日本でも北辰信仰(妙見信仰)が広がった。

妙見北辰信仰、西へ東へ

 平安時代になると、密教や修験道で妙見信仰が重視されるようになり、一方で武家の守護神としての性格も強めていく。北斗七星の第七番目の星が破軍星と呼ばれたためともいわれる。
 桓武平氏の流れを汲む千葉氏が妙見を厚く信仰したことはよく知られている。鎌倉時代以降、千葉氏系一族が全国に散らばり、妙見信仰を広げていった。千葉県には今も多くの妙見信仰系の神社が残っている。あまり知られていないけど成田山新勝寺(web)にも妙見宮があった(現在は清瀧権現堂・妙見宮となっている)。
 千葉氏の他に、九戸氏や秩父氏なども有名だ。埼玉県秩父市の秩父神社(web)は中世に妙見信仰と習合して秩父大宮妙見宮と呼ばれていた。
 江戸時代に入ると妙見信仰は日蓮宗と結びついて、日蓮宗の寺院で妙見菩薩が多く祀られるようになる。日蓮宗の開祖の日蓮が妙見菩薩の姿を見たといった話も伝わっている。
 千葉周作が創始した北辰一刀流の北辰は、北辰信仰(妙見信仰)の北辰から来ている。千葉氏の家紋は月に星紋だ。
 その他、大阪の能勢妙見(web)も関西ではお馴染みだろう。

伊勢の神宮と妙見信仰の関わり

 伊勢の神宮(web)もまた、北辰や妙見信仰と関わりがある。ただしそれは、伊勢の神宮本体というよりもその周辺で影がちらついているという意味だ。
 たとえば、神宮の式年遷宮に携わる人々は「太一」(たいいつ)をシンボルマークとしている。これは天照大御神のことであり、大日如来のことであり、北極星のことであり、天御中主神のことでもあるとされる。
 ”太”は至高を、”一”は唯一や根元を表すことから、天之御中主や天照大御神と同一視されたのだろう。
 神宮式年造営庁造営課の作業員の帽子やヘルメットには「太一」という章がついており、宮大工や職工など、造営に関わる人達の法被などにも太一の印がついている。
 しかし、神宮内で太一の文字を見たという人はないのではないだろうか。神宮側が太一をシンボルマークとしている様子はない。
 太一を伊勢の神領民たちがシンボルマークとしたのは、中世の伊勢神道の影響が大きかったのではないかと思う。
 伊勢神道は度会神道ともいうように、伊勢の外宮の神官である度会氏が鎌倉時代末に唱えた神道説だ。外宮の祭神である豊受大御神を根源神の国常立命や天之御中主神と同一視して、内宮の天照大御神よりも上位にあると主張した。その過程で豊受大御神=天之御中主神=妙見菩薩=太一という図式ができあがっていったということは充分に考えられる。
 あるいは起源はさらに古いかもしれない。
 平安時代前期、外宮の神官だった度会高主の娘が内宮に供えるための御饌を運んでいる途中に川で溺死してしまい、遺体の代わりに川から童の像が出てきたのでそれを祀り、後に白太夫と呼ばれた度会春彦が妙見信仰を始めたという話がある。
 度会春彦は菅原道真に仕えていた人物としても知られる。
 度会氏というのは内宮ができる前から土着していた一族ともいわれ、外宮で豊受大御神を祀るように命じられる以前は別の神を祀っていたともされる。そう考えると妙見信仰につながる別の信仰を持つ一族だった可能性もある。
 内宮は後に荒木田氏が神官を務めることになるのだけど、いずれにしても度会氏は内宮とは別のルーツを持つ一族に違いない。内宮別宮に位置づけられる志摩国一宮の伊雑宮(web)でも神領民が太一をシンボルマークとしていることからすると、伊雑宮の神官家も度会氏の一族かもしれない。
 外宮の神宮寺で度会氏の氏寺でもある常明寺という寺がある。川から上がった童の像を妙見菩薩として本尊としたのがこの常明寺だ。
 鎌倉時代前期の僧・日蓮が常明寺に滞在したとき、妙見菩薩が示現して北辰を感得したという話が伝わっている。これがひとつのきっかけとなって、後に日蓮宗と妙見信仰がつながっていくことになる。
 伊勢絡みでもうひとつ書いておくと、伊勢の海女がお守りとしているセーマン・ドーマン印は北辰信仰にルーツがあるとされている。安倍晴明と芦屋道満を思わせる呼称なので、陰陽道と関わりがあるのは間違いないだろう。

天皇と妙見祭

 妙見信仰のもうひとつの側面として、天皇との関係が挙げられる。
 平安時代の第50代桓武天皇が初めて妙見祭を宮中祭祀に取り入れたとされ、八代の妙見宮(八代神社/熊本県八代市/web)795年に桓武天皇の勅命で建てられたと伝わる(上宮)。
 その後、1186年には第82代後鳥羽天皇の勅願で下宮も創建された。
 宮中の妙見祭は室町時代まで続いたとされる。

それぞれの妙見菩薩像

 妙見菩薩像は、妙見信仰が様々な要素を取り込んでいるため姿かたちに絶対的な法則性が見られない。 
 唯一、重要文化財に指定されているものは、読売新聞社が所有するもので、よみうりランドの妙見堂にある。これは伊勢の外宮の妙見堂にあったものとされ、正安3年(1301年)の銘がある。
 身には甲冑をつけ、頭髪は美豆良結の童子姿で、右手に剣を持っている。
 日蓮宗の妙見菩薩像は、玄武に乗って両手に剣を持っていたり、片手で金剛印を結んでいたりする。
 陰陽道系の妙見菩薩像は唐服を着て笏を持っているものもある。

日本三妙見といえば

 明治の神仏判然例を受けて、妙見信仰は仏教系と神道系に分かれた。神社で祀っていたところは祭神を天之御中主神としたところが多い。
 鎮宅霊符神として祀っているところも一部あるようだ。
 日本三妙見というと、大阪の能勢妙見、熊本の八代妙見、福島の相馬妙見(web)とされている。大阪府交野市の星田の妙見さん(web)も入れてくれという声もある。

内々神社と妙見宮

 愛知県の妙見信仰でまず思い浮かぶのは、春日井市の内々神社(web)の隣にある内津妙見寺だ。
 江戸時代までは神仏習合で一体化されていて、全体で妙見宮と呼ばれていた。
 内々神社は日本武尊命ゆかりの式内社で古い神社なのだけど、尾張国の天台宗の中心だった密蔵院(春日井市/web)開山の慈妙上人が内々神社の別当を務めたことから妙見宮となっていった。
 神社裏手には鎌倉時代前期の夢窓国師が作庭したとされる日本庭園が残っている。
 明治の神仏判然令の後、神社と寺は分かれたものの、今も同じ敷地内に並んで建っている。
 黒田の妙王山法蓮寺(一宮市)は妙見信仰の日蓮宗の寺で、山内一豊ゆかりの寺としても知られている。
 室町時代の1492年に日朝上人の弟子の日妙が開基と伝わる寺で、近くにあった黒田城主の山内家の菩提寺となった。境内には「山内一豊出生地」の碑もある。

名古屋における妙見信仰の名残

 名古屋で妙見信仰がどの程度あったのかはよく分からない。『尾張志』(1844年)や『尾張名所図会』(1844年)などでもほとんど出てこないから、あまり流行らなかったのかもしれない。
 神社に関係する妙見信仰でいうと、ほとんど唯一といっていいのが昭和区の妙見宮(浄昇寺)だ。ここは町名が妙見町なので、名古屋の妙見信仰の中心地だったとも考えられる。
 隣り合うように建つ浄昇寺が日蓮宗の寺なので、ここに妙見信仰があって、明治になって浄昇寺と妙見宮を分けたのではないかと思う。

死兆星が見えたなら

 北斗七星を見ると、つい死兆星を探してしまうという世代がいるかもしれない。
 最初の方に書いたように、古代中国では北斗七星は北極星の天帝の乗り物であり、鎮宅霊符神は生死を司ると考えられていた。その北斗七星のすぐ脇に輔星と呼ばれる小さな星があり、その星が見えない人間は死が近いとされた。それは漫画の世界だけの話ではなく、第107代後陽成天皇の『御宸翰星図』にも書かれているくらいなので、けっこう真面目に信じられていた話だったようだ(『北斗の拳』では死兆星が見えると死ぬという逆設定だった)。
 妙見信仰も死兆星も、信じるか信じないかはその人次第ということになるだろうか。

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