『古事記』はなぜカカセオを登場させなかったのか?
日本神話において、ほぼ唯一の星神といえるのが香香背男(カカセオ)こと天津甕星(アマツミカボシ)だ。 一般的にはカカセオとして名が通っているのだけど、天(アメ)に属するのか属さないかは大きな違いがあって、そこがひとつ鍵を握っている。 大きな疑問として、どうして『古事記』はカカセオについて書かなかったのか、ということがある。 逆に言えば、『古事記』には登場しない神をどうして『日本書紀』は書いたのか? しかも、一書だけでなく本文にも登場させている。だからこそ、『古事記』が触れていないのが気になる。
『日本書紀』第二巻第九段の本文にはこうある。
一云「二神、遂誅邪神及草木石類、皆已平了。其所不服者、唯星神香香背男耳。 故加遣倭文神建葉槌命者則服。故二神登天也。倭文神、此云斯圖梨俄未。」
天津神の天照大神(アマテラス)と高皇産霊尊(タカミムスビ)は孫の天津彦彦火瓊瓊杵尊(ニニギ)に葦原中国を支配させようと大己貴神(オオナムチ)のもとに天穗日命(アメノホヒ)や大背飯三熊之大人(オオソビノミクマノウシ)、天稚彦(アメノワカヒコ)を派遣するも上手くいかず、ついには武力行使に出る。 送られた経津主神(フツヌシ)と武甕槌神(タケミカヅチ)は大己貴神と息子の事代主神(コトシロヌシ)を脅しつけて国譲りはなんとかなった。上の文はそれに続く文章だ。 本文ではあるものの、”一云”とあるように一書に相当する異伝をここに挿入して、すべての邪神や草木石まで従ったのにただ星神のカカセオだけが従わなかったので、倭文神(しとりがみ)の建葉槌命(タケハヅチ)を遣いにやって服従させたというのだ。 この短い文の中にいくつものはてな? がある。
そもそも星神というのは何を指しているのか? 具体的な星なのか、星座なのか、宇宙全体なのか。 どうしてフツヌシとタケミカヅチが従わせられなかった神をタケハヅチが服従させることができたのか? 服したというだけで武力によるものなのか説得したのかは書かれていない。 倭文神とは何なのか? わざわざ”斯圖梨俄未”と読み方を書いているくらいなので当時(飛鳥から奈良時代)の人にもなじみのない言葉だったと考えられる。 ここですぐには答えは出ないのでとりあえず保留にして先に進みたい。『日本書紀』にもう1ヶ所、カカセオについて書かれている文章がある。
第九段一書第二にはこうある。
一書曰、天神、遣經津主神・武甕槌神、使平定葦原中國。 時二神曰「天有惡神、名曰天津甕星、亦名天香香背男。請先誅此神、然後下撥葦原中國。」
フツヌシとタケミカヅチは葦原中国を平定するにあたって、天(アメ)には天津甕星またの名を天香香背男という悪い神がいるのでまずはこの神を誅してから葦原中国へ下ることをお許しくださいといっている。 本文の”一云”では地上(葦原中国)で最後まで従わなかったのがカカセオといっているのに対して、一書では天にいる”天”津甕星またの名を”天”香香背男というように”天”を付けて呼んでいるという違いがある。これは軽く読み流せない大きな違いだ。 違いでいうと、タケハヅチはここでは登場せず、まずは”誅す”と言っておきながら具体的に何をしたかは書かれていない。フツヌシとタケミカヅチがカカセオを従わせたのかどうかもはっきりしない。 他に気になるというかよく分からないのは、上の文に続いて、戦の門出を祝う齋主(いわい)の神を齋之大人(いわいのうし)といい、今は東国(あずまのくに)の檝取(かとり)の地に在りますと書き加えていることだ。 香取の神というから当然フツヌシを指しているのだろうけど、単に戦の前に祈祷のような祭祀を行ったがフツヌシだったということなのか、それともカカセオ(天津甕星)を誅したことに掛かっているのか。 考えてみると国譲りでの活躍が描かれるのはタケミカヅチばかりでフツヌシは影が薄く、具体的に何をやったのか書かれていない。 本来送られるはずだったのはフツヌシで、タケミカヅチは後からしゃしゃり出てきたのに、すっかり主役の座を奪われた格好になった。
『日本書紀』において、カカセオについて知る手がかりはこれだけだ。これだけでカカセオの正体について知ることは難しい。 『先代旧事本紀』は『日本書紀』第九段一書第二の丸写しだし、『古語拾遺』はまったく登場しない。 そうなると、あとは神社の由緒や伝承などに当たるしかない。
天背男は天香香背男のことなのか?
カカセオを語るとき、ひとつ重要な問題がある。 それは、天背男命(アメノセオ)はカカセオ(香香背男)のことなのかどうかということだ。 カカセオとアメノセオでは全然違うではないかと思うかもしれないけど、アメ+カカ+セオとアメ+セオなので、”カカ”を抜けばどちらもアメ+セオとなる。カカとは何かということは後ほど考えることにして、まずはアメノセオ(天背男命)について確認しておきたい。
『先代旧事本紀』の天神本紀(あまつかみのもとつふみ)の饒速日命(ニギハヤヒ)の天下りのところで天背男命(アメノセオ)の名前が出てくる。 ニギハヤヒに従った32神のうちのひとりで、山背(やましろ)の久我直(こがのあたい)たちの祖先と書いている。 ただ、同書の神代系紀(かみよのつぎぶみ)では高皇産霊尊(タカミムスビ)の子の系譜に天神立命(アマノカムタチ)を山代(やましろ)の久我直(こがのあたい)の祖としていて混乱する。 天背男命は天神立命の後裔なのか、天背男命と天神立命は同一なのか。 ニギハヤヒ随行32人の中で天世平命(アマノヨムケ)の名もあり、これも久我直たちの祖といっていて引っかかる。 平は乎止与命(オトヨ)などの”乎”だとすると、天世乎命となり、アマノセオとも読める。 同じ32人の中に天背斗女命(アマノセナトメ)もいて、背男と対のようにも思える。こちらは尾張中嶋の海部直(あまべのあたい)たちの祖といっている。 久我氏の本拠地だったとされる久我神社(こがじんじゃ/京都府京都市伏見区)は平安遷都以前からあったとされる古社で、久我氏が祖神の興我萬代継神(コガヨロズヨツグ)を祀ったのが始まりとされる(その後、賀茂氏に取って代わられたようで、現在の祭神は建角身命・玉依比売命・別雷神となっている)。
『新撰姓氏録』にも天背男命の名が見える。 そこでは、天壁立命の子で、宮部造(みやべのともつこ)の祖とする。 天壁立命と天神立命は似ているといえば似ているので(カベダテ/カミダテ)同一と考えられなくもない。 天壁立命は天之常立神のこととされ、『古事記』は造化三神に続いて生まれた別天神(ことあまつかみ)とし、『日本書紀』一書は天地が分かれた時に葦の芽のように空中に最初に生まれた神としている。 『先代旧事本紀』は天之御中主神(アメノミナカヌシ)と同神とする。 また、山城国の今木連(いまきのむらじ)は神魂命(カミムスビ)五世孫の阿麻乃西乎乃命の後裔となっている。 阿麻乃西乎乃はおそらく”アマノセオ”と読むのだろうから、天背男のことだ。 それが神魂命系統だといっていることは重要だ。 今木連の父は物部大人(モノノベノウシ)とされるので、物部氏とも関わってくる。 これらの点についても後ほど検討したい。
以上をまとめると以下の様なことが言える。
・カカセオは天(アメ)の一族である。 ・天孫のニニギではなく同じ天孫のニギハヤヒに従った一族らしい。 ・天背男命はカカセオ(香香背男)のことの可能性がある。 ・神魂命(カミムスビ)の系譜とつながっている。 ・山背国(山代)の久我氏は天背男命の後裔を自認していた。 ・天背斗女命は天背男と関係がありそうで、そうなると尾張国ともつながる。
タケミカヅチ・フツヌシやタケハヅチとカカセオの関係性について
カカセオを誅したのがタケミカヅチとフツヌシだったのか、タケハヅチだったのかはともかく、『日本書紀』のニュアンスでいうと、攻め滅ぼしたというより従わせたという印象を受けるので、一族がその後も続いていたとしてもおかしくはない。 その一族がカカセオではなくセオと呼んだのは”カカ”の名を剥奪されたとも考えられる。
『日本書紀』本文の中の一云と一書ではカカセオの立ち位置が違っているのだけど、共通しているのはタケミカヅチとフツヌシが直接従わせることができなかった(またはしなかった)という点と、星神としている点だ。 本文では星神とし、一書では天津甕星といっている。 星神というのが具体的に何を意味しているのかはここからは読み取れない。ただ、はっきり星神といっていることは受け止めないといけない。 ただしそれが我々が思うような夜空に見える星とは限らない。飛鳥奈良時代の人たちが星に関する知識をどの程度持っていたのかもよく分からない。金星や木星、北極星や北斗七星あたりは知っていただろうか。
タケミカヅチとフツヌシが言うことを聞かせられなかったカカセオを従わせることができたタケハヅチとは何者なのかということも考えてみる。 あらためて『日本書紀』本文の一云を見てみるとこうなっている。
「故加遣倭文神建葉槌命者則服。故二神登天也。」
”倭文神”である”建葉槌命”を”遣”わしてこの者(カカセオ)を”服”させたと読み取ることができる。 武によって征伐したといった書き方ではない。 では倭文神(しとりがみ)とは何かということだけど、これが分かるようで分からない。 後に織物を生産する部民である倭文部(しとりべ)を率いた伴造氏族の倭文氏(しとりうじ)がおり、そこから逆に考えると織物の神ということになるだろうか。 倭文は”しずおり”ともいい、麻(あさ)や梶木(かじのき)などの繊維で文様を織り出した日本古来の織物のことだ。 古代、布には霊力があると考えられていて、それを司った一族とすると、タケハヅチはその元になった人物または一族だったのかもしれない。 『古語拾遺』は天照大神が石窟に隠れてしまったとき天羽槌雄神(アメノハヅチ)に文布(しつ)を織らせたと書いている。この天羽槌雄神を建葉槌命と同一とする考えもある。 天羽槌雄神というからにはやはり”天”の一族で、忌部氏とも関わりが深いということだ。 『先代旧事本紀』も神祇本紀で倭文造遠祖と書いている他、『新撰姓氏録』に大和国と河内国の委文宿禰や摂津国に委文連などが載っている。 また、天神の項に「委文宿禰 出自神魂命之後大味宿禰也」とあり、摂津国神別(天神)の項に「委文連 角凝魂命男伊佐布魂命之後也」とあるのが引っかかるのだけど、この点も後回しにしたい。 建葉槌を武刃鎚に置き換えてタケハヅチを武神とする考え方もあるけど、後裔の倭文氏が武系の一族ではないことからするとそれは違うように思う。
常陸国におけるカカセオの痕跡
タケハヅチとカカセオの関係性を示す痕跡が常陸国に残っている。 今の茨城県日立市に鎮座する大甕神社(おおみかじんじゃ/web)は、主祭神として建葉槌命を、地主神として甕星香々背男という祭神名でカカセオを祀っている。この2柱を一緒に祀っているのは全国でもこの神社だけだという。 社伝によると、初代神武天皇即位の紀元前660年に大甕山の山上に祀られたのが始まりとしており、江戸時代前期の元禄八年(1695年)に水戸藩主だった徳川光圀の命によって甕星香々背男が化成した磐座とされる宿魂石上の現在の地に遷座したといっている。 かつては倭文神宮とも呼ばれていた。 言い伝えとして、武甕槌命(タケミカヅチ)は香島(723年に鹿島と改名)の見目浦(みるめのうら)に降って後に祀られたのが鹿島神宮(web)で、そこから北70キロの大甕を本拠地としたのがカカセオ(甕星香々背男)だったとされ、タケハヅチは大甕の西20キロの静(しず)の地に対峙したという。そこには現在、静神社(茨城県那珂郡/しずじんじゃ/web)が建っている。 静神社は常陸国の二宮であり、『延喜式』神名帳(927年)には名神大社となっていることから、古くから官社とされる神社だったと推測できる。 『常陸国風土記』には静織里(しどり)とあり、『和名類聚抄』の常陸国久慈郡に倭文郷(しどりごう)が載っていることからしても、倭文一族がこの地にいたことは間違いない。自分たちはタケハヅチの後裔と自認もしていただろう。 タケミカヅチやフツヌシがどうして常陸国や上総国で祀られるようになったのかはよく分からないのだけど、この2神に加えてタケハヅチとカカセオの伝承が近い場所に伝わっていることは興味深い。 ただし、この地で起きたわけではなく、後裔たちが物語を語り伝えたというのが実際のところだと思う。この物語の元地はもっと別の場所にあると個人的には考えている。結論を先に言ってしまうと、それは尾張国だ。
カカセオの故郷は尾張国ではないのか?
愛知県稲沢市国府宮にある尾張大國霊神社(おわりおおくにたまじんじゃ/web)は一般には国府宮神社として知られている。はだか祭で有名なあの神社だ。 律令時代に尾張国の国衙(国府)があったことから尾張大國霊神社は尾張国の総社に位置づけられていた。 祭神は尾張大国霊神というはっきりしない神なのだけど、ざっくり言ってしまえば大国主大神(オオクニヌシ)のことだ。 この神社の社家は中島直の子孫の久田氏と野々部氏が務めた。 中島直は自分たちは”尾張氏の遠祖”の天背男命の子孫だといっている。 尾張国の一宮は同じ中島郡の真清田神社(ますみだじんじゃ/web)なのだけど、中島郡には久多神社(くたじんじゃ/愛知県稲沢市)もあり、そこでは天背男命と茜部天神を祭神としている。 この辺り一帯は、中島直やその分家に当たる海部直の一族が住んだ地とされ、彼らが祖神として祀ったのが天背男命だった。 茜部天神の正体はよく分からなくなっているのだけど、木曽川を挟んだ対岸に茜部神社(あかなべじんじゃ/岐阜県岐阜市)があり、当然ながら関係神社と思われる。 更に中島郡の隣の丹羽郡には阿豆良神社(あずらじんじゃ)があり、その祭神は天甕津媛命(アマノミカツヒメ)となっている。 カカセオのもう一つの名である天甕星命(アマノミカボシ)と対をなしていると考えるのが自然だ。 『先代旧事本紀』が尾張中嶋の海部直の祖を天背斗女命(アマノセトメ)といっていることも無関係ではないだろう。 これらの神社はすべて、平安時代中期までに官社と位置づけられていた神社だ。
これらを踏まえた上で、名古屋市内と周辺のカカセオ関連神社に目を向けてみる。 まず、名古屋市内にカカセオを主祭神として祀る神社が2社ある。 南区本星崎町の星宮社が天之香々背男命、西区上小田井の星神社が天香香背男神という祭神名でそれぞれ祀っている。 どちらも延喜式内社の論社とされつつ創建のいきさつはよく分かっていない。よく分からないまでも古い神社には違いないとう感触を個人的には持っている。古いからこそよく分からなくなってしまったという言い方もできる。 それにしてもカカセオを祀るというのは唐突で違和感がある。本当に最初からそうだったのか。可能性として考えられるのは、中島郡や丹羽郡などに住んでいた海部直や中島直の一族の一部がここにいたというものだ。あるいは、もともと名古屋市内のそれぞれの地にいた一族が中島郡などに移っていった可能性もある。それなら自分たちの祖神を祀る神社を建てたのも不思議ではない。 ただしそれはあくまでも可能性であって、確率としてはあまり高くない気もする。 それと、これも唐突なのだけど、天背男と天村雲が同一という説があって、そうなると天村雲は尾張氏第3代なので尾張氏や尾張国とも深くつながることになる。
名古屋周辺部でいうと、清須市にかつて星宮と呼ばれた河原神社(かわらじんじゃ)がある。 現在の祭神は大己貴命になっているものの、古くは河原天神とされていて、その正体ははっきりしない。 清須市は律令時代は春部郡(かすがべぐん)と呼ばれ、中島郡と山田郡の間に位置している。 名古屋市中川区には赤星神社があり、祭神は根裂尊(ネサク)となっているのだけど、これはフツヌシから見ると祖父神(祖母神?)とされるので、カカセオとも間接的な関わりがある(磐裂神・根裂神の子が磐筒男・磐筒女で、根裂尊はその子)。
出雲国と尾張国との関係
これ以上話を広げたくないのだけど、ついでにもう少しだけ書いておくと、かつての出雲国にもカカセオ関連を思わせる神社や伝承が残っている。 島根県八束郡鹿島町(現在は松江市鹿島町)に多久神社(たくじんじゃ)があり、そこの祭神は天甕津比女命(アメノミカツヒメ)となっている(地名の鹿島町も意味深だ)。 尾張国中島郡の天背男命=天甕星命を祀る久多神社とどう考えても無関係とは思えない。久多と多久、天甕星と天甕津比女。尾張大國霊神社の社家だったのが久田氏。 天甕津比女命は『出雲国風土記』において八束水臣津命(ヤツカミズオミツノ)の子の赤衾伊農意保須美比古佐和気能命(アカブスマイヌオオスミヒコサワケ)の后神(奥さん)とされている。 八束水臣津といえば国引き神話で知られる出雲の基礎を築いた人物とされながら『古事記』、『日本書紀』には出てこない。 島根県平田市の伊努神社(いぬじんじゃ)では天甕津姫命を祀り、同じ平田市内の芦高神社(あしたかじんじゃ)では赤衾伊野意保須美比古佐和氣能命と天甕津姫命を祀っている。 他にも出雲市の葦高神社(あしたかじんじゃ)などで赤衾伊農意保須美比古佐和気能命を祭神とする。
いったん尾張国に目を戻すと、上に書いたように丹羽郡(一宮市あずら)の阿豆良神社の祭神が天甕津媛命だ。 『尾張国風土記』逸文に、第11代垂仁天皇(すいにんてんのう)の皇子の品津別(ホムツワケ)が7歳になっても言葉を話せないでいると皇后の夢に多具国(たくのくに)の阿麻乃弥加都比女(アマノミカツヒメ)を名乗る神が現れ、自分を祀れば皇子は言葉を話せるようになると告げた。天皇は日置部の祖の建岡君(たておかのきみ)を遣いにやって美濃国の花鹿山で榊の枝から縵(かづら)を作ったところ、ひとりでに飛んでいって吾縵郷に落ちたので、それを神の意志として阿麻乃弥加都比女を祀ったのが阿豆良神社の始まりという話がある。 多具国は出雲国のどこかとされているのだけど(多久神社のあるあたりか)、多久と久多は対の関係だろうし、阿麻乃弥加都比女=天甕津姫命が自分を祀れといっているのだから、その地は自分のゆかりの地、あるいは故郷と考えるのが自然だ。アマノミカツヒメは尾張国から出雲国に嫁に行ったと推測することもできる。 それから、気になるのが伊努神社の”伊努”と赤衾伊野の”赤衾”だ。 名古屋市西区に伊奴神社(いぬじんじゃ)という延喜式内社の古い神社があり、そこの祭神に伊奴姫神(イヌヒメ)がいる。その正体はよく分かっていないのだけど、天甕津媛(天甕津比女)のことかもしれない。 それから熱田区には謎の青衾神社(あおぶすまじんじゃ)があり、天道日女命(アメノミチヒメ)を祀っている。 ミチヒメとミカツヒメは似ているといえば似ている。そうではなかったとしても、青衾と赤衾は何らかの関係がありそうだし、かつては白衾社もあった。 これ以上話を広げるととりとめがなくなるのでこの話はいったんここまでとしたい。 あともうひとつだけ書き加えると、武蔵国四宮の秩父神社(ちちぶじんじゃ/埼玉県秩父市/web)にも香香背男命を真名井の原に勧請したという話が伝わっている。
以上のように、カカセオの痕跡は尾張国一帯にもうっすら残っていて、それは今も続いていると見ることができる。 大前提として、歴史は古ければ古いほど薄れて見えづらくなり、新しいほどくっきりしているということだ。歴史が色濃ければ歴史が古いと考えるのは誤りで、かすかに残る歴史こそが歴史の深層だと思わなければならない。
カカセオの系譜についてのまとめ
あらためてカカセオ関係の系譜をまとめてみたい。 カカセオの痕跡が残るのは主に3ヶ所。
カカセオの後裔を自認する海部直や中島直がいた尾張国。 カカセオやタケハヅチの伝承が伝わる常陸国。 『先代旧事本紀』が伝える天背男の後裔の久我直がいた山背国。
カカセオと間接的に関係がありそうな出雲国をあわせると4ヶ所になる。 この中で山背国は794年に平安京ができるまでは辺鄙な土地で、山の背という名前が示すように大和国(ならのみやこ)の人たちからすると未開の地といった感覚があっただろうと思う。京都は歴史が古いと思っている人が多いだろうけど、古代史の観点からすると京都は新しい都だ。だからこそ、秦氏などの渡来系が入り込む余地があった。 山背国のカカセオに関する伝承も平安時代より遡らないのではないか。 常陸国は尾張国のコピー&ペースト、写しだといったら常陸国の人たちは納得しないだろうけど、そういう話を聞いている。 他でも書いたけど、尾張国は古くは”オト”(ヲト)の国と呼ばれ、オトを漢字で書くと”音”で、これを分解すると”日”+”立”となり、日立の国になる。日立国を後に常陸国とした。 国を写すということは地名も歴史も写されるので、常陸国の古い歴史は更に古い尾張国の歴史が元になっている可能性がある。 ただ、それぞれがカカセオなり天背男なりを祖神としていたからといって同じ出発点とは限らない。分家といえばそうなのだろうけど、ひょっとすると同じ血族ではないかもしれない。 そもそも、天香香背男と天背男が同一と断定するのも危うい。 『日本書紀』は天津甕星といっているし、『先代旧事本紀』には同一や対の関係を思わせる神が出てくるので、そのあたりは少し慎重にならないといけない。 気になるのは、尾張国にいた一族が天背男を尾張氏の祖神としているのに対して、久我氏などはカミムスビ系としたりしている点だ。それが本当だとすれば、尾張、山背、常陸の一族はそれぞれ別の一族とも考えられる。 そのあたりのことについても、あまり断定的なことを書くのはやめて、いろいろな説や可能性がありますよと言うにとどめたい。
なお、星神社や星宮社についてはそれぞれのページに書いたので、ここでは繰り返さない。 中世に一部で流行した妙見信仰や北辰思想がカカセオと結びついたという話も妙見菩薩のページに書いたので、興味のある方はそちらをお読みください。
天香香背男を祀る神社を調べた人によると、東北では秋田県の1社を北限とし、九州には各県に1社、もしくは2社で、あとは西日本から東日本にまんべんなく点在しているようだ。どこかの県が突出して多いわけではない。 星神社も似たような傾向で、北限が新潟県と福島県に1社ずつ、南限は九州の鹿児島県となり、北辰思想や妙見信仰が盛んだった関東などに多いようだ。
”香香”とは何か?
香香背男(カカセオ)の”カカ”とは何かについてあらためて考えてみたい。
天香香背男 天背男 天津甕星
”香香”が抜けても成立するのであれば、名前としては”背男”ということになる。”天”はアメの一族または高天原にいたことを意味しているのだろう。 一般にカカ(カガ)は”輝く”の意味で、星の輝きを意味しているとされる。 太陽に対抗できるほど輝く星ということで金星のことと考える人もいる。 平田篤胤は”甕”を厳(いか)めしいと解いて金星のことだと言っている。 一瞬輝いて消えた彗星とする説もある。 しかし、個人的にはそれらの考えに同感できない。何かもっと違う意味があるはずだと考えている。
天香香背男 天津甕星 香島の武甕槌神 香取神の経津主神 建葉槌命
こう並べて見ると、”香”、”甕”、”槌”の共通項が浮かび上がる。 これをただの偶然で済ませていいだろうか? カカセオは本来、天香香背男だったのが、”天”もしくは”香香”を取られて背男にされてしまった。 それを行ったのが武甕槌神と建葉槌命(天羽槌雄神)だった。 共通項は”槌”だ。鎚は金槌のように叩いて潰す道具をいう。 経津主の”フツ”は刀剣で断ち切る様を表しているとされる。 あるいは”布都”主とも書くことから倭文神との関係も考えられる。天羽槌雄神はアマテラスの岩戸隠のとき文布(あや)を織ったと『古語拾遺』は書く。 香香背男から”香香”を取ったからフツヌシは”香取”の神と呼ばれたのではないか?
カカセオが象徴するもの
最後にもう一度、最初の疑問に戻ってみる。
なぜ、『古事記』はカカセオについて書かなかったのか? 逆に、なぜ『日本書紀』はカカセオを登場させたのか?
カカセオの後裔を自認する人たちがいて、カカセオを祀る神社が少なからず存在する以上、『日本書紀』だけのまったくの作り話とは思えない。 『古事記』が書かなかったのには必ず理由がある。 意外と思うだろうけど、『古事記』はフツヌシも登場させていない。 タケミカヅチの持つ劔を佐士布都神(サジフツノカミ)と呼んでいて、これをフツヌシとしているのかもしれない。 国譲り関連でいうと、オオクニヌシの子で事代主神(コトシロヌシ)の弟の建御名方神(タケミナカタ)は『古事記』にのみ出てきて『日本書紀』には出てこない。 国譲りの話は場所と登場人物を変えて描かれているので、その制作過程の中で混乱というか物語が変化していったということは考えられる。 出雲神話の元になった出来事は尾張国でのものだという話を聞いて信じられる人はどれくらいいるだろう。 書かれていないことを読み取ることも大切だ。
もうひとつの疑問は、日本神話は星神の話が極端に少ないのはどうしてなんだろうというものだ。 カカセオだけがほぼ唯一の星神で、アマテラスを太陽神、月読尊(ツクヨミ)を月の神としても、その他星に関する話がほとんど書かれていない。 古代の日本人は古代ギリシャやローマ、メソポタミアの人たちのように星座を描いたりそれを神にたとえたりしなかったのだろうか。 古代中国にも星座に関する知識や思想はあったから、それらが入ってきていなかったはずはないのだけど。 日本人が星について無関心だったわけではない。キトラ古墳や高松塚古墳の石室には天体が描かれているし、『日本書紀』の次の国史の『続日本紀』には天体にまつわる記事が多数ある。 もっとさかのぼれば、旧石器時代以降、多くの人たちが大陸や半島から海を渡ってやっていて、彼らは星の知識があったはずだ。そうでなければ長い航海はできない。 縄文人は基本的に暇だから満天の星空をよく眺めていただろう。月の満ち欠けや流れ星などに天の意思や神を思わなかったなどということはないのではないか。 『古事記』、『日本書紀』が星や星神について無関心を装っている理由がよく分からない。
ほぼ唯一の星神であるカカセオを悪として描いた意図は何だったのか? ここまで考察してきたけど、結局、カカセオが何者なのかは見えてこない。 にもかかわらず、ある種の人たちにとってカカセオが近しい存在に感じられるのはなぜだろう? 単なる判官贔屓のたぐいではないように思う。 あるいは、ヤマト王権に従わなかった反体制派の騎手としてカカセオをそれに反映させているのだろうか。 ヤマト支配=太陽神支配をよしとしなかった人たちにとっての希望の一番星がカカセオだったのかもしれない。 そうだとすれば、明けの明星であり宵の明星でもある金星こそがカカセオにふさわしい。
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