オオヤマモリ《大山守命》

2020年1月24日

オオヤマモリ《大山守命》

『古事記』表記 大山守命
『日本書紀』表記 大山守皇子
別名 大山守王
祭神名 大山守命
系譜 (父)応神天皇
(母)高城入姫命
(同母兄弟姉妹)額田大中日子命、伊奢之真若命、大原郎女、高目郎女
(異母弟)菟道稚郎子、大鷦鷯尊(仁徳天皇)
(妻)摩奴良比売(?)
属性 応神天皇皇子
後裔 土形君、幣岐君、榛原君
祀られている神社(全国)  
祀られている神社(名古屋) なし(日置神社の本来の祭神とも)

 第15代応神天皇の最初の妃・高城入姫命の子で、皇位を狙ったものの殺されてしまった皇子。
『古事記』によると、応神天皇には男子11人、女子15人の26人の子がいたという。
 皇后は中日売命/仲姫で、後の第16代仁徳天皇(大雀命/大鷦鷯天皇)の母に当たる。
 たくさんいた皇子の中で皇位継承争いをするのは3人。
 皇后・仲姫の子の大鷦鷯、最初の妃・高城入姫の子の大山守、妃・矢河枝比売の子の守遅能和紀郎子/菟道稚郎子だ。
 応神天皇は菟道稚郎子が特にお気に入りで、この皇子に皇位を継がせたかった。
 あるとき、応神天皇は大山守と大鷦鷯に問いかけた。
 お前たちは年上の子と年下の子とではどちらがかわいいか、と。
 大山守は年上ですと答えると、仁徳天皇はいい顔をせず、それを見た大鷦鷯は、年下はまだ成人していないので年下の方がかわいいですと答えた。
 応神天皇は自分もそうだと言い、菟道稚郎子に継がせたいという気持ちを暗に伝えた。
『古事記』、『日本書紀』とも、このやりとりについて書いているのだけど、『古事記』はわりと前半に出てくる話で、この後すぐに宇遅能和紀郎子を皇太子としているのに対して、『日本書紀』は崩御する前年の即位40年の話として書いている。そこまで皇太子を決めないというのは不自然なので、もっと早い段階で決まっていたのだろうけど、『日本書紀』がそう書いているところに引っかかりを感じる。
 応神天皇が崩御すると、大山守は天皇の決定を不服として宇遅能和紀郎子を殺そうと企むも、大鷦鷯の知るところとなり、菟道稚郎子が船頭に化けて大山守を川に突き落として逆に殺すという展開も記紀で共通している。
 違う点としては、その経緯について『古事記』の方がより詳しく書いていることと、大山守殺しの首謀者を宇遅能和紀郎子としている点だ。『日本書紀』は誰が直接手を下したについては触れておらずぼかしている。
 そもそも、どうして応神天皇は宇遅能和紀郎子に皇位を継がせたかったのかがよく分からない。
 即位した後に仲姫を皇后としたというのは、結果的に大鷦鷯が仁徳天皇として即位したことからそういう記述になっただけかもしれない。
 仲姫の姉が高城入姫で、妹の弟姫も妃にしているので、仲姫は三姉妹の真ん中に当たる。
『古事記』はこの三姉妹を品陀真若王の娘といっている。
 大山守は長女の高城入姫が生んだ男三兄弟の真ん中で、兄の額田大中彦と弟の去來眞稚は皇位継承争いには絡んできていない。
 応神天皇お気に入りで本命の宇遅能和紀郎子は、丸邇氏/和珥臣の家の宮主矢河枝比売/宮主宅媛が生んだ子と記紀にある。
 ここで注目すべきは「宮主」という冠がついていることだ。他の妃にはないもので、特別な表記だ。文字通りなら宮の主ということなのだろうけど、それが具体的に何を表しているのかはよく分からない。
 宮主の子だったから皇位を継がせようとしたのか、あるいは応神天皇が気に入っていたのは宇遅能和紀郎でなくその母の宅媛だったかもしれない。
 大山守のクーデターがもし成功して即位していたら、記紀の皇后は高城入姫になっていた可能性もある。
 大山守の反乱を防いだ後、宇遅能和紀郎子と大鷦鷯は互いに皇位を譲り合い、3年も皇位が空白になってしまったという(『日本書紀』)。
 ここで『古事記』と『日本書紀』に違いが出てくる。『古事記』は譲り合っているうちに宇遅能和紀郎子は早くに亡くなってしまったと自然死のような書き方をし、『日本書紀』は菟道稚郎子ははっきり自殺したと書いている。
 大鷦鷯は難波に宮を作り、菟道稚郎子は菟道に宮を建てたというのも不自然な話に思える。
 難波は今の大阪のことで、菟道(うじ)というのは京都の宇治のことだ。
 菟道稚郎子の名前は菟道の稚郎子だから菟道生まれ、もしくはそこに拠点があったことを意味している。大山守を突き落として殺したのも菟道川(宇治川)だ。菟道稚郎子の墓とされるものも京都府宇治市菟道にある。
 京都はかつて山背、山代と呼ばれ、7世紀に山背国ができるまでは何もないような土地だった。平安京ができるのはもっとずっと後の話だ。
 難波は応神天皇の代から進出した土地で、仁徳天皇も難波の高津宮で天下を治めたとされる。
 歴史は勝者の側から書かれるもので、真実のすべてを伝えるわけではない。菟道で菟道稚郎子が即位して3年後に大鷦鷯がクーデターを起こして皇位を奪ったということも考えられる。
『日本書紀』にはやや奇妙に思える話が書かれている。
 菟道稚郎子が自殺したという知らせを受けた大鷦鷯は慌てて菟道に駆けつけると、死んでから3日経っていた菟道稚郎子が生き返り、ふたりは皇位について語り合ったというのだ。そこでもやはり、菟道稚郎子は皇位を大鷦鷯に勧め、同母妹の八田皇女のこともよろしく頼みますと言ったことになっている。この八田皇女を妃にすることで皇后ともめたという話は仁徳天皇のところで書いた。
 それにしても、菟道稚郎子が自殺した後、生き返って大鷦鷯に皇位を正式に譲ったといったエピソードは取って付けたように思う。大山守反乱から皇位継承までのいきさつを詳しく語りすぎてかえって墓穴を掘ってしまっているようにも思える。

 菟道川に突き落とされて死んだ大山守は、考羅/訶和羅の崎(かわら)に流れ着いたところで回収され、奈良山/那羅山に葬られたと記紀は書いている。
 考羅は京都府綴喜郡田辺町河原あたりだという。奈良山についてははっきりしないのだけど、奈良県奈良市法蓮町あたりだとされる。
 現在は奈良市法蓮町にある円墳を宮内庁が治定している。
 これら皇位をめぐる争いは大和、菟道、難波という三角地帯で起きた出来事ということになる。

 大山守の後裔について、『日本書紀』は土形君、榛原君を挙げ、『古事記』は土形君、榛原君に加え幣岐君などとしている。
『新撰姓氏録』には右京・日置朝臣、摂津国・榛原公、河内国・蓁原が載っている。
 ただ、ほとんど表舞台には登場しない氏族で、その後どうなったのかははっきりしない。
 遠江国(静岡県掛川)に土形君、幣岐君、榛原君が見られることから、いつの時代かにそちらに流れていったようだ。
 幣岐君は日置部の伴造ともなったことから、日置も名乗るようになった。戸岐、比企などもこの一族とされる。
 日置部とは何かについては諸説ある。日置は戸置から転じたもので民戸をつかさどるとか、宮廷の日読をしていたとか、占いのようなことをしていたなどだ。日置の由来はひとつとは限らないから、それらすべてが本当かもしれない。
 その中でも大山守の後裔を自認する一族がいたことは確かなようで、そうなると当然、大山守には妻も子もいたということになる。妻は遠淡海国造の娘・摩奴良比売だったという話があり(土方氏系図)、そのつてで大山守亡き後、一族が遠江国に渡ったということは考えられる。

 名古屋で大山守を祭神とする神社はないのだけど、中区の日置神社に大山守の伝承がわずかに残っている。
 日置社は『延喜式』神名帳(927年)にも載る古社で、もともと「へき-の-やしろ」と呼ばれていた。
『特選神名牒』(1876年)は日置朝臣が大山守を祀る神社だったのが、後に大山守の父の応神天皇をあわせて祀ったことで八幡社となり、主客転倒してしまったのではないかと書いている。
 通説ではこのあたりに日置部がいたことが由来で天太玉命を祀ったのではないかとされる。
 どちらかといえば幣岐君(日置氏)があのへんに住んでいて祖神の大山守を祀る社だったという方が違和感がないというのが個人的な感触だ。
 大山守を祀る神社が全国にいくつかあるようだけど、その数は少ない。それでも、他の兄弟が無名で終わったのに対して、多少なりとも名を残すことができたことはよかったのではないかと思うけどどうだろう。

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