帝位争いをした3人のうちのひとり
第15代応神天皇の妃である高城入姫命(タカキイリヒメ)の子で、皇位を狙ったものの殺されてしまった皇子。 『古事記』によると、応神天皇には男子11人、女子15人の26人の子がいたという。 応神天皇の皇后は中日売命/仲姫(ナカツヒメ)で、高城入姫命はその実の姉に当たる。中日売命の子の大雀命(オオサザキ)が後に帝位を継いで第16代仁徳天皇になった。
たくさんいた皇子の中で皇位継承争いをしたのは3人(『古事記』、『日本書紀』の記述によれば)。 皇后・仲姫の子の大鷦鷯(おおさざき)、仲姫の姉の高城入姫(たかきいりひめ)の子の大山守、妃・矢河枝比売(ヤカワエヒメ)の子の守遅能和紀郎子/菟道稚郎子(ウジノワキノイラツコ)だ。 応神天皇は菟道稚郎子が特にお気に入りで、この皇子に帝位を継がせたかった。 あるとき、応神天皇は大山守と大鷦鷯に問いかけた。お前たちは年上の子と年下の子とではどちらがかわいいか、と。 大山守は年上ですと答えると、仁徳天皇はいい顔をせず、それを見た大鷦鷯は、年下はまだ成人していないので年下の方がかわいいですと答えた。 応神天皇は自分もそうだと言い、菟道稚郎子に継がせたいという気持ちを暗に伝えた。 そして応神天皇は大山守に山と海を治めることを命じ、大鷦鷯に国の政(まつりごと)をしろと命じたとする。 宇遅能和紀郎子には皇太子を名乗るようにといっているので、次の天皇は大山守でも大鷦鷯(仁徳天皇)でもなく菟道稚郎子がなるのが既定路線だったことになる。
『古事記』、『日本書紀』が伝える帝位争い
『古事記』、『日本書紀』とも、このやりとりについて書いているのだけど、『古事記』は応神天皇記の前半に出てくる話で、この後すぐに宇遅能和紀郎子を皇太子としているのに対して、『日本書紀』は崩御する前年の即位40年の話として書いている。 そこまで皇太子を決めないというのは不自然なので、もっと早い段階で決まっていたのだろうけど、『日本書紀』がそう書いているところに引っかかりを感じる。
応神天皇が崩御すると、大山守は天皇の決定を不服として宇遅能和紀郎子を殺そうと企むも、大鷦鷯の知るところとなり、宇遅能和紀郎子が船頭に化けて大山守を川に突き落として逆に殺すという展開も記紀で共通している。 違う点としては、その経緯について『古事記』の方がより詳しく書いていることと、大山守殺しの首謀者を宇遅能和紀郎子としている点だ。 『日本書紀』は誰が直接手を下したについては触れずにぼかしている。 違いでいうと、『古事記』はこの話を応神天皇記の中盤あたりで書いているのに対して『日本書紀』は次の仁徳天皇記で書いていることだ。 なので、大雀と宇遅能和紀郎子が帝位を譲り合ったという話も『古事記』では応神天皇記として書かれている。応神が崩御するのはずっと後のことなので、やや違和感がある。 一方の『日本書紀』は、仁徳天皇記の前半部分で、皇太子の菟道稚郎子が帝位を大鷦鷯に譲ろうとするも大鷦鷯は辞退し、互いに押しつけ合うような格好となって次の天皇が決まらず、その間隙を縫うように大山守が天皇になろうとしたという話になっている。 それをたくらみを先に知ったのが大鷦鷯で、大鷦鷯は菟道稚郎子に伝え、菟道稚郎子は船頭に化けて大山守を船に乗せ、渡し守に命じて船をひっくり返して大山守が川に落ちて溺れ死んだという内容だ。 この事件があったあとも天皇は決まらず、最後は菟道稚郎子が自殺して大鷦鷯が帝位についたという結果になるのだけど、よく考えると皇太子だったのは菟道稚郎子で、大鷦鷯は帝位を奪ったことになり、そのまま書くのはまずいので大山守の事件を間に挟んでなんとなく菟道稚郎子が悪いみたいなふうにしたかったのかもしれない。 直接にしろ間接にしろ、大山守を殺したのは菟道稚郎子だから、天皇にはふさわしくないといった印象を与えるためだろうか。 だとすれば、大山守は帝位争いに巻き込まれた被害者という見方もできる。 あるいは、帝位は3年間空白だったのではなく、一度は菟道稚郎子が即位していたところを大山守がそれを狙って返り討ちに遭い、大鷦鷯が菟道稚郎子を倒して帝位についたということも考えられる。 その歴史が伝わっていながらもそのまま書けなかった記紀の編纂者たちが苦し紛れ作り上げた物語があれだったとしたら、それはそれで腑に落ちるけどどうだろう。
宇遅能和紀郎子は本当に皇太子だったのか?
そもそも、どうして応神天皇は宇遅能和紀郎子に皇位を継がせたかったのかがよく分からない。記紀ともにその理由や応神天皇の考えについては触れていない。 皇太子としながらどうして”郎子”(いらつこ)なのかも気になる。皇太子ならたいてい皇子か太子と称されるのに、記紀の中で郎子となっているのは宇遅能和紀郎子/菟道稚郎子だけだ。女性の郎女(いらつめ)は何度も出てくるけど、郎子は何を示しているのだろう。 即位した後に仲姫を皇后としたというのは、結果的に大鷦鷯が仁徳天皇として即位したことからそういう記述になっただけで、本当は宇遅能和紀郎子/菟道稚郎子の母の矢河枝比売が皇后だったのかもしれない。 矢河枝比売について記紀は、丸邇氏/和珥臣の家の宮主矢河枝比売/宮主宅媛という書き方をしているのも引っかかる。ここでいう”宮主”は何を表しているのだろう。 そもそも、仲姫の姉が高城入姫で、妹の弟姫の3人ともが応神天皇に嫁いでいて真ん中の仲姫が最初から皇后になるというのもちょっと不自然に思える。 『古事記』はこの三姉妹の父を品陀真若王(ホンダマワカ)といっており、三姉妹は第12代景行天皇のひ孫に当たる。 大山守は長女の高城入姫が生んだ男三兄弟の真ん中で、兄の額田大中彦(ヌカタノオオナカツヒコ)と弟の去來眞稚(イザノマワカ)は帝位継承争いに絡んできていない。そのへんもどうなんだろうと思う。 応神天皇の後の帝位争いについては終始モヤモヤ感がつきまとう。
菟道稚郎子が生き返った?
『日本書紀』にはやや奇妙に思える話が書かれている。 菟道稚郎子が自殺したという知らせを受けた大鷦鷯は慌てて菟道(宇治)に駆けつけると、死んでから3日経っていた菟道稚郎子が生き返り、ふたりは皇位について語り合ったというのだ。 そこでもやはり、菟道稚郎子は皇位を大鷦鷯に勧め、同母妹の八田皇女(ヤタノヒメミコ)のことをよろしく頼みますと言ったことになっている。この八田皇女を妃にすることで皇后ともめたという話は仁徳天皇のところで書いた。 それにしても、菟道稚郎子が自殺した後、生き返って大鷦鷯に皇位を正式に譲ったといったエピソードは取って付けたように思う。 大山守反乱から帝位継承までのいきさつを詳しく語りすぎてかえって墓穴を掘ってしまった感がある。 『先代旧事本紀』の仁徳天皇記は『日本書紀』の内容をほぼそのまま写していて違いというか工夫が全くないのもかえってあやしい。
菟道川に突き落とされて死んだ大山守は、考羅/訶和羅の崎(かわら)に流れ着いたところで回収され、 奈良山/那羅山に葬られたと記紀は書いている。 考羅は京都府綴喜郡田辺町河原という。奈良山についてははっきりしないのだけど、奈良県奈良市法蓮町あたりではないかとされる。 現在は奈良市法蓮町にある円墳を宮内庁が大山守の墳墓と治定している。 これら帝位をめぐる争いは大和、菟道、難波という三角地帯で起きた出来事ということになる。
大山守の後裔は生きている
大山守の後裔について、『日本書紀』は土形君(ひじかたのきみ)、榛原君(はりはらのきみ)を挙げ、『古事記』は土形君、榛原君に加え幣岐君(へきのきみ)などとしている。 『新撰姓氏録』には右京・日置朝臣(ひおきのあそみ)、摂津国・榛原公(はりはらのきみ)、河内国・蓁原(はりはら)が載っている。 それらはほとんど表舞台には登場しない氏族で、その後どうなったのかははっきりしない。 遠江国(静岡県掛川)に土形君、幣岐君、榛原君が見られることから、いつの時代かに分家か本家ごとそちらに流れていったようだ。 幣岐君は日置部の伴造ともなったことで”へき”と”ひおき”がごっちゃになってしまった。日置と書いて”へき”と読ませることもある。 幣岐が先なのか、日置が先なのか、もともと別のものだったのか。
日置部とは何かについては諸説ある。 民戸をつかさどる戸置(へき)から来ているとか、宮中で日読(かよみ)を担当していた職掌からとか、太陽神を祀る祭祀や占いをしていた職業集団だとか諸説あってはっきりしない。 日置の由来はひとつとは限らないから、それらすべてが本当かもしれない。 その中でも大山守の後裔を自認する幣岐一族がいたことは確かなようで、そうなると当然、大山守には妻も子もいたということになる。 妻(二番目?)は遠淡海国造の娘・摩奴良比売(マヌラヒメ)だったと土方氏系図にあることから、そのつてで大山守亡き後、一族が遠江国に渡ったとも考えられる。 ただ、摩奴良比売というのは素戔嗚尊(スサノオ)が八岐大蛇(ヤマタノオロチ)から救った櫛名田比売(クシナダヒメ)の本名・久志伊奈太美等与麻奴良比売(『出雲国風土記』)と同じで、そのあたりも何かありそうだけど、ここではこれ以上追求するのはやめておく。
記紀その他が伝える大山守の後裔についてもう少し見ておく。 土形君の”ひぢ”は土に点のある”圡”(機種依存文字)が正式で(土の右上に点があるひぢもある)、水気のある土(泥)のことを指すとされる。 『古事記』、『日本書紀』に宇比地邇神/(ウイヂニ)、須比智邇神/沙土煮尊(スイヂニ)という神世七代の神が出てくるけど、それが元になっているようだ。 土方といえばだいたいの人は新撰組副長の土方歳三を思い浮かべると思う。多摩の豪農だった土方家だけど、大山守の血筋を引いているかどうかは分からない。 大和国に土方村があったので、そこから関東に流れていったのかもしれない。 中世の土方家の中には清和源氏・宇野氏族の末裔を名乗った家もあった。
幣岐君(へきのきみ)について補足すると、大和国葛上郡日置郷があったので、そこが本拠地だっただろうか。 そのほか、天照大神(アマテラス)の子の天穂日命(アメノホヒ)の後裔を称した紀伊の日置首(ひおきのおびと)や、菅原朝臣(すがわらのあそみ)の姓を与えられた京師の日置臣(ひおきのおみ)などがいる。 戸岐、戸木、部木、比企などが一族の後裔と考えられる。
榛原君(はりはら)の榛原は、奈良県宇陀市や静岡県牧之原市に地名として残っているので、一族が分かれて移り住んでいたのだろう。 ただし、いずれも”はいばら”と読ませている。
名古屋に残る大山守のかすかな痕跡
名古屋で大山守を祭神とする神社はないのだけど、中区の日置神社に大山守の伝承がわずかに残っている。 日置社は『延喜式』神名帳(927年)にも載る古社で、もともと「へき-の-やしろ」と呼ばれていた。 『特選神名牒』(1876年)は日置朝臣が大山守を祀る神社だったのが、後に大山守の父の応神天皇をあわせて祀ったことで八幡社となり、主客転倒してしまったのではないかと書いている。 通説ではこのあたりに日置部がいたことが由来で天太玉命(フトダマ)を祀ったのではないかとされる(現在の祭神は天太玉命・品陀和気命・天照皇大神)。 どちらかといえば幣岐君(日置氏)があのへんに住んでいて祖神の大山守を祀る社だったという方が違和感がないというのが個人的な感触だ。 大山守を祀る神社としては日置神社などいくつかあるようだけど、その数は少なく、おおっぴらに大山守を主祭神として祀っている神社はほとんどないのではないかと思う。 それでも、他の兄弟が無名で終わったのに対して、多少なりとも名を残すことができたことはよかったのではないかと思うけどどうだろう。
名古屋で大山守を祭神とする神社はないのだけど、中区の日置神社に大山守の伝承がわずかに残っている。 日置社は『延喜式』神名帳(927年)にも載る古社で、もともと「へき-の-やしろ」と呼ばれていた。 『特選神名牒』(1876年)は日置朝臣が大山守を祀る神社だったのが、後に大山守の父の応神天皇をあわせて祀ったことで八幡社となり、主客転倒してしまったのではないかと書いている。 通説ではこのあたりに日置部がいたことが由来で天太玉命を祀ったのではないかとされる。 どちらかといえば幣岐君(日置氏)があのへんに住んでいて祖神の大山守を祀る社だったという方が違和感がないというのが個人的な感触だ。 大山守を祀る神社が全国にいくつかあるようだけど、その数は少ない。それでも、他の兄弟が無名で終わったのに対して、多少なりとも名を残すことができたことはよかったのではないかと思うけどどうだろう。
大山守は誰だ?
大山守という名前からして山の神を想像するけど、実際はそうではない。父の応神天皇から山と海を治めろと命じられたという逸話からそう呼ばれるようになったのだろうけど、だとしたら本名のはずがない。そのやりとりがあったのは自分の子供もいる成人のときだからだ。 では大山守が通称だとして、本名は何かということになる。そんなことは何も書かれていないから分かるはずもないのだけど、記紀の登場人物の中の誰かという可能性はあるだろうか。 宇遅能和紀郎子と大鷦鷯と大山守の三角関係の話はどう考えても違和感がある。違和感しかない。 誰が本物の皇太子で、誰が帝位について、誰がそれを奪ったのか? 3人以外の兄弟たちは何をしていたのか? ひょっとすると大山守は宇遅能和紀郎子のことで、そもそも宇遅能和紀郎子が正当に即位したものを大鷦鷯が奪ったのではないか? などという推測は大胆すぎるだろうか。 そもそも、応神と仁徳は裏切り者だという話が尾張氏の家に伝わっているのを聞いている。 あれらは武内宿禰(タケウチノスクネ)の子の系統だから正統ではないではないのだと。 そんな話をし出すと話がまったくまとまらなくなってしまうのでやめておくけど、記紀が伝える大山守の話をそのまま受け取るわけにはいかないということだけは言っておきたい。 名古屋の日置神社を訪れた際は、そんなことを少し思い出してもらえると大山守に対する供養になるかもしれない。
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