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フトダマ《太玉命》

フトダマ《太玉命》

『古事記』表記 布刀玉命
『日本書紀』表記 太玉命
別名 天太玉命(『古語拾遺』)
祭神名 天太玉命・他
系譜 (親)高皇産霊尊(『古語拾遺』)
属性 神祇
後裔 忌部氏/斎部氏(いんべうじ)
祀られている神社(全国) 天太玉命神社(奈良県橿原市)、各地の太玉神社、安房神社(千葉県館山市)、大原神社(千葉県君津市)、洲崎大神(神奈川県横浜市)、安房口神社(神奈川県横須賀市)、金札宮(京都府京都市)
祀られている神社(名古屋) 日置神社(中区)

忌部氏の祖として

 太玉(フトダマ)は忌部氏(いんべうじ)の祖と、『古事記』も『日本書紀』はいい、忌部氏(斎部氏)も自分たちの祖は太玉だと主張している。
 太玉の後裔とされる斎部広成(いんべのひろなり)は『古語拾遺』(807年)の中で太玉が行ったことや関係氏族について詳しく書いているのだけど、まずは『古事記』と『日本書紀』が太玉について何をどう書いているか読んでみることにしよう。

 

『古事記』が語る布刀玉命

 布刀玉命(フトダマ)が最初に登場するのは天照大御神(アマテラス)が須佐之男命(スサノオ)の乱暴狼藉に嫌気が差して天岩屋戸に隠れてしまう場面だ。
 日神が隠れてしまったことで葦原中国は常闇となり、悪い神々が騒ぎ出して地上は災いがあふれてしまうようになっため、神々はこの状況をどうにかしないといけないと天安河原(あめのやすかわら)に集まって相談することになった。
 中心となったのは高御産巣日神(タカミムスビ)の子の思金神(オモイカネ)だった。
 様々な神にあれこれ指示を出した中で、布刀玉命は天児屋命(アメノコヤネ)とともに天香具山(あめのかぐやま)の鹿の骨を抜き取り、香具山の桜の木で占いをしたという。
 いわゆる太占(ふとまに)と呼ばれるもので、伊邪那岐命(イザナギ)と伊邪那美命(イザナミ)が国生みに失敗した原因を探るために天神が布斗麻邇(ふとまに)を行ったと『古事記』にある。
 鹿の肩の骨を焼いてひび割れた形によって吉凶を占うとされる。
 この太占の太と太玉の太はやはり関係があるのだろうか。太玉が行った占いだから太占と呼ばれたのかもしれない。
 更に天香具山の五百津真賢木(いおつまさかき)を一本抜いて、上に玉緒、中に八咫鏡(やたのかがみ)、下に白丹寸手(しろにきて)と青丹寸手(あおにきて)を垂らして飾り、それを布刀玉命が持って天児屋命が祝詞を唱えたと書いている。
 こうして準備が整ったところで天宇受売命(アメノウズメノミコト)が踊って天照大御神が岩屋戸から出てくるという展開になる。

 

『日本書紀』はどういっているか

 同じ場面を『日本書紀』はどう書いているか見てみる。
 伊弉諾尊によって素戔鳴尊は高天原からの追放が決まり、天照大神が天石窟に籠もって出てくるところまでの話は第六段と第七段にまたがっている。
 第七段の本文は素戔鳴尊の乱暴な行いから天照大神の天石窟隠れと八十萬神によって天照大神が出てきて素戔鳴尊に罪を償わせて追放するところまでが語られる。
 太玉命を忌部の遠祖とし、中臣連の遠祖の天兒屋命とともに天香山から五百箇眞坂樹を掘り出して八坂瓊の五百箇御統、八咫鏡、青和幣・白和幣で飾って祈ったといっている。
 細かく比較すると違いはあるものの、『古事記』の内容とほとんど同じだ。

 第七段の一書は第三まであって、その中の一書第二がちょっと変わっている。
 思兼神は出てこず、鏡作部(かがみつくりべ)の遠祖の天糠戸(アメノヌカト)が鏡を作り、忌部の遠祖の太玉が幣(にきて)を作り、玉作部(たまつくりべ)の遠祖の豊玉(トヨタマ)が玉を作ったという。
 また、山雷(ヤマツチ)に五百箇眞坂樹八十玉を、野槌(ノツチ)に五百箇野薦八十玉籤を用意させたともいっている。
 その上で中臣の遠祖の天兒屋命が神を祀ったとする。
 何が違うかというと、太玉は準備を担当して、天兒屋が神祀りをしたといっている点だ。
 これは後裔の神祇氏族の役割分担ということに関わってくる重要なことで、この伝承は中臣氏寄りの伝承に思える。
 一方、忌部の伝承を思わせるのが一書第三だ。
 天兒屋命を興台産靈(コゴトムスビ)の子とし、天石窟に籠もった日神に対してまず祈りを行わせている。
 天香山から眞坂木を掘り出したのも天兒屋命ではあるものの、準備全般を取り仕切ったのは忌部首(いんべのおびと)の祖の太玉命とし、広く厚く祝詞を読んだ(廣厚稱辭祈啓矣)のも太玉命で、それを聞いた天照大神は、「頃者人雖多請 未有若此言之麗美者也」といって細く磐戸を開けて窺ったという。
 これまで多くの人の祝詞を聞いたけどこれほど麗しく美しい言葉は聞いたことがないと絶賛して思わず岩戸を開いたというのだ。
 これに続いて天兒屋命に祓(はらえ)の太諄辭(ふとのりと)を宣らせたとも書いているので、太玉と天兒屋命がともに神事や祝詞に関わっていたと考えてよさそうだ。

 

斎部広成と『古語拾遺』

『古語拾遺』は忌部氏一族の長老的な立場だったと思われる斎部広成が807年(大同2年)にまとめて朝廷に提出したとされる書で、題名が示すとおり古い伝承の洩れたものを拾うという意味で名づけられている。
 当時の斎部広成はすでに80歳を過ぎていて、平安時代初期といえば忌部氏は同じ神祇氏族の中臣氏に大きく押されていた時代だ。
 前半部分で忌部の家に伝わる伝承を記しつつ、後半では斎部広成が遺れていると思うことを11か条挙げている。
 その内容は熱田社の扱いがなっていないとか、伊勢の神宮の宮司を中臣が独占しているのはおかしいとか、忌部の本来の職を奪われているといったものになっている。
 そのため、忌部の嘆願書のようなものと考えられていた時代もあったのだけど、今はそうではなく平城天皇が律令の式をあらたに編纂するに当たって提出させたものという見方が強まっている。
 この少し前、忌部は中臣の主要な祭祀職独占に対して訴えを起こして勝訴しているので、その後にまた嘆願書を提出するのは不自然というのがその理由だ。
 その裁判の判決理由が面白くて、『日本書紀』に忌部の祖の太玉と中臣の祖の天兒屋がともに祝詞を読んだとあるので(第七段一書第三)、忌部も祝詞を読む職に就くことができるというものだった。
 平安時代初期の人たちにとって『日本書紀』に書かれた内容は歴史的事実と同じ重みを持っていたということだ。

 話を戻すと、斎部広成は『古語拾遺』の中で『古事記』、『日本書紀』には書かれていないことをいくつか書いている。
 その多くが忌部の優位性を示すもので全面的に信じていいのかは分からないのだけど、忌部と中臣でいうともともと忌部が主で中臣が従だったということは充分にあり得ることだとは思う。
 中臣が力を持つようになったのは645年の乙巳の変(大化の改新)で活躍した中臣鎌足以降のことで、それ以前の中臣の記録はほとんどない。
 中臣鎌足は死に当たって藤原姓を与えられて、藤原不比等以降に藤原氏が台頭していった。
『古語拾遺』が書かれたのは記紀から100年近く経った時代ということを頭に入れておく必要がある。

 では、『古語拾遺』で斎部広成が何を伝えたかったのかを見ていくことにしよう。
 序に続いて天地開闢について書かれているのだけど原文は以下のようになっている。
「一聞 夫 開闢之初 伊奘諾伊奘冉二神 共爲夫婦 生大八州国 及山川草木 次 生日神月神 最後 生素戔鳴神」
 いきなり天が開いて伊奘諾と伊奘冉が国生みをしたところから始まる。
 続いて天地が初めて割れて判れたとき、天御中主神(アメノミナカヌシ)が生まれ、次に高皇産靈神、次に神産靈神(カミムスビ)が生まれたといっているのだけど、神産靈神を天兒屋命の祖とし、高皇産靈神の子の栲幡千千姫命の子の天忍日命の子を天太玉命としている。高皇産靈神から見て天太玉命はひ孫に当たるということだ。
 これは他にはない独自の伝承で、忌部の家に伝わっていたものなのだと思う。
 太玉の親について『古事記』、『日本書紀』には記述がない。
 それと、太玉を天太玉命と、”天”の一族としているのも特徴的だ。もともと天がついていたのに後に消されたということは何かあったということを物語っている。
 更に独自伝承は続き、阿波国の忌部の祖の天日鷲命(アメノヒワシ)、讃岐国の忌部の祖の手置帆負命(タオキホオヒ)、出雲国の玉作の祖の櫛明玉命(クシアカルタマ)、筑紫・伊勢の忌部の祖の天目一箇命(アメノマヒトツ)を太玉命が率いたともいっている。
 これらは天照大神の岩戸隠れのときに活躍した神たちで、それらを指揮したのが太玉となれば、神祇全般を取り仕切ったのは太玉だったということになる。
『古事記』、『日本書紀』で天兒屋が活躍したように描かれているのは、編纂された奈良時代初期に強大な力を持っていた中臣、藤原に対する忖度があったという見方もできる。
 斎部広成にしたらそれが納得できない思いもあったのだろう。

 天照大神の天石窟隠れの場面では太玉とその子たちが大活躍するのだけど、それぞれの役割についても記紀とは違っている。
 議論をまとめたのは思兼神というのは同じながら、その思兼神は太玉神に諸々の神を率いて神事を執り行わせるべきだといい、作鏡(カガミツクリ)の遠祖の石凝姥神(イシコリドメ/天糠戸命(アメノヌカト)の子)に天香山の銅(あかがね)を取って日像の鏡を鋳させ、伊勢国の麻続(おむ)の祖の長白羽神(ナガシラハ)に麻から青和幣を、天日鷲神(アメノヒワシ)と津咋見神(ツクヒミ)に殻(かじ)から白和幣を、倭文(シトリ)の遠祖の天羽槌雄神(アメノハヅチ)にに文布(しつ)を、天棚機姫神(アメタナバタツヒメ)に和衣(にきたえ)を織らせたという。
 櫛明玉神(クシアカルタマ)に八坂瓊五百筒御統玉(やさかにうのいほつのみすまる)の玉を、手置帆負(タオキホオイ)と彦狹知(ヒコサシリ)に天御量(あまつみかはり)、瑞殿(みずのみあらか)や御笠、矛、盾を、天目一筒神(アメノマヒトツ)に刀、斧、鉄鐸(さなき)を作らせたとする。
 こうして準備が整ったところで天香山の五百筒真賢木を掘り出し、上の枝に玉を、中の枝に鏡を、下の枝に青和幣・白和幣を掛け、太玉命に捧げ持たせて称賛させ、天児屋命に命じて添わせて祈祷させたといっている。
 この後、天鈿女命(アメノウズメ)が踊って天照大神が出てくるというのは記紀と同じだ。

 

天孫降臨のメンバー入り

 続いて太玉が登場するのは天孫降臨の場面だ。
 まずは『古事記』から読んでいく。

 当初、降臨するはずだった天照大神の子の天忍穂耳命(アメノオシホミミ)が嫌がって子の天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命(アメニキシクニニキシアマツヒコヒコホノニニギ)にその役を押しつけた。
 高木神(タカギ)の子の万幡豊秋津師比売命(ヨロヅハタトヨアキツシヒメ)と天忍穂耳命との間の子が邇邇芸命なので、邇邇芸命は天照大神にとっても高木神にとっても孫ということになるので天孫と呼ばれる。
 この邇邇芸命より前に生まれたのが天火明命(アメノホアカリ)で、これを尾張氏の祖としているので天皇家と尾張氏は兄弟系統ということになる。
 降臨する邇邇芸命のお供として付けられた五神の中に布刀玉命が入っている。
 いわゆる五伴緒(いつとものお)と呼ばれる面々で、天児屋命、天宇受売命、伊斯許理度売命(イシコリドメ)、玉祖命(タマノオヤ)がそれに当たる。
 八尺勾玉、鏡、草那芸剣の三種の神器と常世思兼神、手力男神(タヂカラノオ)、天石門別神(アメノイワトワケ)も加わり、天降ることになる。
 布刀玉命については、忌部首(インベノオビト)の祖神とあるものの、葦原中国での活躍は描かれず、何をしたのかはよく分からない。
 天児屋命、天宇受売命、伊斯許理度売命、玉祖命も同様だ。
 思兼神の存在が地上でほとんど消えてしまっているのも気になるといえば気になる。本来であれば伊勢の神宮(web)で祀られているはずがそうなってはいない。
 高木神の直系なので、天照大神系とはどこかで別れて裏に回ったのか、何かからくりがありそうな気もする。

『日本書紀』の第九段は国譲りから天孫降臨までが語られるのだけど、本文も長く、一書は第八まであって内容も多岐にわたる。
 太玉の部分だけ抜き出すと、まず本文には出てこない。
 高皇産靈尊(タカミムスビノ)が皇孫の天津彦彦火瓊瓊杵尊に眞床追衾(まとこおふすま)を着せて降ろしたことになっている。
 太玉の名が出てくるのは一書第二なのだけど、この第二はかなり変わった伝承で他とはだいぶ違っている。
 經津主神(フツヌシ)と武甕槌神(タケミカヅチ)が天神に命じられて葦原中国を平定するに当たって天に悪神の天津甕星(アマツミカホシ)、またの名を天香香背男(アマノカカセオ)がいるのでまずはこれを誅さなければいけないといっているのだけど、その顛末は描かれない。
 第九段本文では、地上の邪神をことごとく平らげて草木石まで従っているのに星神の香香背男だけが服従しないので、倭文神(しとりがみ)の建葉槌命(タケハヅチ)に命じて服させたといっている。
 ここで問題となるというか引っかかるのが倭文神の建葉槌命の存在だ。
 倭文神というと、『古語拾遺』の中で天照大神の岩戸隠れの際に倭文の遠祖の天羽槌雄神(アメノハヅチオ)が文布を織ったといっているあの神だ。時代が違うから天羽槌雄神と建葉槌命が同一とはいえないのだけど、倭文神という共通項はある。
 その倭文神が太玉とどんな関係があるんだと問われると上手く答えられてないのだけど、天皇側と反天皇側という対立構造で見たとき、太玉はやはり天皇側で、尾張氏は反天皇側になるということはいえるのだと思う。天香香背男は尾張側の人間だ。
 話を戻そう。
 国譲りを迫られた大己貴神(オオナムチ)はいったんそれを拒否するというのも第九段一書第二独自の伝承で、国譲りが成った後に高皇産靈尊が葦原中国の代表として大物主神(オオモノヌシ)に自分の娘の三穗津姫(ミホツヒメ)を妻としてこちら側につけと命じているのもここでしか語られない伝承だ。
 大物主神とは何者かということは大物主神の項に書いたのでそちらを参照していただくとして、大己貴神を祀るに際してそれぞれの神にそれぞれの役割が与えられることとなり、ここに太玉の名が出てくる。
 紀国の忌部の遠祖の手置帆負神(タオキホオイ)を笠作りに、彦狭知神(ヒコサチ)を盾作り、天目一箇神(アメノマヒトツ)を鍛冶、天日鷲神(アメノヒワシ)を布作り、櫛明玉神(クシアカルタマ)を玉造りと定めたとあり、続く原文は以下の通りなのだけど意味がよく分からない。
「乃使太玉命 以弱肩被太手繦而代御手」
 弱肩に太櫸をかけるとはどういうことなのか?
 太い襷(たすき)を掛けて神事を行うのだろうというのは推測できるのだけど、弱肩の意味が分からない。
 それから、ここでは神事の責任者(宗源者)を天兒屋命といっており、太占の役目としたとも書いている。
 そして、高皇産靈尊が天兒屋命と太玉命の二神を天忍穗耳尊に従わせて降ろしたとする。
 天照大神もこの二神に、天忍穗耳尊とともに殿內に侍ってよく守るようにと命じている。
 高皇産靈尊は娘の萬幡姫(ヨロズハタヒメ)を天忍穗耳尊の妃としていよいよ降臨となったとき、生まれたばかりの天津彦火瓊瓊杵尊にその役目を押しつけ、授かり物もそっくり与えて天兒屋命と太玉命に後の事は頼んだと丸投げして天忍穗耳尊は天に帰ってしまったのだった。
 自分が天兒屋命か太玉命だったら唖然としてしまうような急展開だ。
 生まれたての赤ん坊だったはずの瓊瓊杵尊が地上に降りてすぐに神吾田鹿葦津姫(カムアタカシツヒメ/木花開耶姫)を見初めてひと晩で妊娠させてしまうという話も読み手としてはあっけにとられてしまう。
 このドラマの脚本は一体誰が書いたんだと思うような出来の悪さだ。

 

『先代旧事本紀』はいいとこ取りでおかしなことに

 続いて『先代旧事本紀』が太玉をどう書いているか見ていくことにしよう。
『先代旧事本紀』は物部氏や尾張氏に関する独自の伝承が多いことからそのあたりの関係者によって書かれたとされるのだけど、実際のところは分からない。
 序文には大臣の蘇我馬子宿祢が勅をうけたまわって撰修したとあるので、それが本当だとすれば蘇我馬子の没年は626年(推古天皇34年)とされるので、『古事記』、『日本書紀』よりも100年も前に書かれたことになる。
 しかし、『古事記』、『日本書紀』を丸写ししている部分が多々あって、それはちょっとあり得ない。原形がその頃書かれた可能性はあるだろうけど。
 それでも、904年から 906年にかけて行われた延喜の書紀講筵(しょきこうえん/『日本書紀』読み合わせの朝廷行事)に引用があることから、遅くとも平安時代中期までには成立していたことは間違いない。
 どこまで遡れるかはなんともいえないのだけど、『古語拾遺』が807年ということを考えると、その同時期、または少し後という可能性もあるだろうか。
 江戸時代には偽書扱いされたものの、個人的にはけっこう信用できると思っている。記紀に対する忖度はある程度あるものの、あまり束縛されずに自由に書いている部分もあって、そのあたりに本当のことがポロリと漏れていたりするのが見逃せない。
 平安時代前期の編纂とすれば中臣、藤原に対する遠慮や気遣いもあっただろうけど、太玉と天児屋との関係でいえば第三者的な立場で書いているのではないかと思う。

 まず「神祇本紀」で天照太神の天岩屋の磐戸隠れのシーンが語られる。
 太玉については天太玉神と、”天”を付けて”神”としている点に特徴が出ている。
 天児屋は天児屋命と、”命”になっているので、そこで差別化をしている。
 なのだけど、前半部分で天太玉神としながら途中で天太玉命になっているので、もしかすると天太玉神と天太玉命を別としているのかもしれない。
 八百万の神たちが天八湍河の河原に集まって高皇産霊尊の子の思兼神が中心となってそれぞれの役割を決めた。
 その中で、天太玉神に諸々の部の神を率いて幣帛を作らせたとあり、役割を与えられた神たちが紹介されていて、内容は『古語拾遺』のものにごく近い。なので、『先代旧事本紀』は『古語拾遺』の後には違いない。
 ただ、どのレベルの人間までが『古語拾遺』を読むことができたのかというのは一つ問題となる。
『古語拾遺』は朝廷に提出されたもので、たとえば地方豪族の首長が手に取ることができたかといえば難しいんじゃないか。なので、物部氏や尾張氏が勝手に書いたとはちょっと考えにくい。
 この部分だけでいうと、物部氏や尾張氏の誰かが書いたにしても朝廷内にいた有力者が深く変わっているという見方ができそうだ。
 その人物は『古事記』、『日本書紀』が付けなかった”天”を太玉に付けている。
 ”天”が付くか付かないかはけっこう大きな問題で、逆にいえば『古事記』、『日本書紀』は太玉に天を付けなかったということだ。
 それが何を意味しているのか。

 諸々の準備が整ったところで中臣の祖の天児屋命と忌部の祖の天太玉命に天香山の牝鹿の肩の骨を抜きとって天香山の朱桜を取り、占わせたとある。
 最初にの天太玉神のところでは忌部の祖ということは書かず、次に出てきた天太玉命を忌部の祖としているところを見ると、やはり天太玉神と天太玉命は別なんじゃないかと思える。
 これに続く部分がなかなか微妙な言い回しで興味深い。
 天香山から掘り出してきて鏡や和幣などで飾った賢木を天太玉命がささげ持って天照太神の徳をたたえる詞を申し上げ、天児屋命と共に祈らせた。そして、天太玉命と天児屋命はともに祈祷したといっている。
 何が微妙で大事かというと、このとき祝詞を読んだのが太玉だったのか天児屋だったのか、両方だったのかということだ。
『古事記』は天児屋命が読んだといい、『日本書紀』の一書第二は、最初に太玉命が祝詞を読み、天照大神が出てきた後に天兒屋命が祓の祝詞と読んだといい、『古語拾遺』は最初に太玉命が祝詞を読み、続けて太玉命と天兒屋命がともに祈祷したといっている。
 それらを受けて『先代旧事本紀』は、太玉命を主としつつも天兒屋命も両方を立てたような書き方をしている。
 どれが正しいのか、どれも正しくないのかは分からないのだけど、後々長く続く忌部と中臣の争いの種がここにある。
 そんなのどうでもいいよというのは外部の人間の言い分で、当事者たちにとっては自分たちの存在意義の根幹に関わる重大事だっただろうと思う。
 祝詞を読むという行為は代表で挨拶するのとは全然違って重要な意味を持つことだからだ。

「天神本紀」は正哉吾勝勝速日天押穂耳尊に代わって饒速日尊(ニギハヤヒ)が天孫降臨する話で、この部分は他では見られない『先代旧事本紀』独自の伝承となっている。
 天照太神の太子の正哉吾勝々速日天押穂耳尊が高皇産霊尊の娘の万幡豊秋津師姫命(またの名を栲幡千々姫命)を妃として天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊と天饒石国饒石天津彦火瓊々杵尊が生まれたといっている。
『古事記』は兄を天火明命、弟を邇邇芸命として、饒速日尊を天神としつつも兄弟とはしていない。
 それに対して『先代旧事本紀』は天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊と、天火明と饒速日尊を合体させて瓊々杵尊の兄としている。
 これがいろいろと混乱を生む要因ともなるのだけど、まったくの作り話とも思えない。
 兄の天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊がまず降臨したものの、早くに亡くなってしまったので代わりに弟の天饒石国饒石天津彦火瓊々杵尊が降臨したというのが『先代旧事本紀』のストーリーだ。
 これはかなり斬新というか思い切った物語なのだけど、不自然すぎる記紀の天孫降臨よりもずっと筋は通っている。
 天照太神は降臨するに際して天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊に天孫の証の瑞宝十種と32人の防衛を付けた。32人以外にも40人以上がお供に付けられたというからかなりの大所帯だ。
 この32人の中に天太玉命も天児屋命らとともに入っている。
 尾張氏二代とされる天香語山命(アメノカゴヤマ)や天鈿売命、天明玉命といったおなじみもいるのだけど、それ以外の大部分は馴染みのない面々でわりと戸惑う。戸惑いつつも、こんな人数を想像では書かないだろうとも思う。総勢70人も架空の人物を氏族の祖として挙げるのは難しいし、そんなことをしても意味がない。元史料なり、伝承なりがあったのだろう。

 読み進めていくともう一度天太玉命も天児屋命が出てくる。
 経津主神と武甕槌神が大己貴神(大国主神)に国譲りを承諾させた後、首長だった大物主神と事代主神(コトシロヌシ)が従うこととなり、高皇産霊尊が大物主神に皇孫を守れと命を下すという『日本書紀』第九段一書第二の話があり、天太玉命の弱肩に太襷かけて天孫の代わりに大己貴神を祀らせたと書いている。
 続けて高皇産霊尊が天忍穂耳尊に天太玉命と天児屋命を付き従わせて降臨した話になって、あれ? どういうことと思う。
 どうやら『日本書紀』でいうところの別伝承の一書に当たるもののようで、それを続けて書いているので混乱してしまう。
『古事記』も『日本書紀』も『古語拾遺』も全部入りなのでときどきこういうことが起きる。
『先代旧事本紀』はあっちにもこっちにも顔を立てようとして多くの矛盾を来す結果になっている。

 最後の方に重要なことが書かれている。
 高皇産霊尊は天太玉命に葦原中国でも天の慣例に従って諸々の神たちを率いてその職を全うするように命じたと。
 つまり、天太玉命は高皇産霊尊から直々に天孫を守って他の神々をよくよく束ねなさいという命を受けたということだ。
 考えてみると、太玉は高皇産霊尊の直系(ひ孫)なのだから、地上では高皇産霊尊に代わって首長を務めるのは当然のことで、格ということでいうと天児屋よりも上ということになる。天児屋が神皇産霊尊(カミムスビ)の子だとしてもそれは代わらない。
 なので、本来であれば天太玉命やその後裔一族である忌部氏は天孫の直系である天皇の側近くに使えて祭祀を執り行う立場にあったということになり、それを天児屋命の後裔の中臣に奪われることは許されないという思いがあったに違いない。自分が忌部の一族ならそう考える。
 余談だけど、織田信長の家は忌部氏といわれていて、祖先は越前二宮の劔神社(web)の神官をしていたことが知られている(神紋は織田木瓜紋)。
 なので、信長もこういう古い歴史の裏側をよく知っていた可能性がある。

「天孫本紀」では天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊の死が語られ、「皇孫本紀」では死んだ兄に代わって天饒石国饒石天津彦々火瓊々杵尊が降臨した話が書かれているのだけど、瓊々杵尊については記紀をなぞったような内容になっていて「天神本紀」で見せた熱は感じられない。記紀がいっているので一応書いておきますけどねといった態度だ。

 

後裔について

 太玉の後裔に関しては記紀もその他も忌部氏(斎部氏)で共通している。
 それに加えて、『古語拾遺』では天岩戸開きのときに登場した神たちを太玉の子や関係者としている。
 天日鷲命を阿波国の忌部の祖、手置帆負命を讃岐国の忌部の祖、彦狭知命を紀伊国の忌部の祖、櫛明玉命を出雲国の玉作の祖、天目一箇命を筑紫国と伊勢国の忌部の祖と位置づける。
 また、天岩戸から出てきた天照太神に仕えさせた大宮売神を太玉命が生んだ神とし、御門の守護をした豊磐間戸神(トヨイワマト)と櫛磐間戸神(クシイワマト)も太玉命の子といっている。
 更に神武東征の際に橿原宮(かしはらのみや)を造営した天富命(アメノトミ)を太玉命の孫する。
 この天富命は阿波国と安房国の開拓をしたという。
 それだけ太玉と忌部は重要な祭祀を司る立場にあったことを強調したかったのだろうし、それなりの根拠のある主張だったのだろうと思う。

『新撰姓氏録』(815年)を見ると、天太玉命は高皇産霊命の子という扱いで、右京神別の齊部宿祢が載っている。
 ただ、太玉の孫という天富命は見当たらず(天富貴命五世孫の古佐真豆智命の後の穴師神主はある)、天日鷲命は神魂命の系統に入っていたりして、必ずしも斎部広成が書いていることは正しくないのかもしれない。
 天久斯麻比止都命が天目一箇神のことを指すのかは不明。

 

広がらなかった太玉信仰

 太玉を祀る神社としては、その名もずばり天太玉命神社(あめふとたまのみことじんじゃ)というのが奈良県橿原市忌部町にある。
『延喜式』神名帳(927年)に「大和國高市郡 太玉命神社 四座 月次新嘗」とあり、名神大社とされた。
 平安時代中期にすでに四座とあることから、天太玉命とその関係者が祀られていたことが分かる。
 現在の祭神は大宮売命、豊石窓命、櫛石窓命となっているけど、最初からそうだったと断定することはできない。
 豊石窓命、櫛石窓命は天照太神の御門を守った豊磐間戸神と櫛磐間戸神のことと考えられている(『古語拾遺』)。
『古事記』には天孫降臨の際に常世思金神、天手力男神とともにお供に付けられた天石門別神として出てくる(天石戸別神はまたの名を櫛石窓神、豊石窓神としている)。
 古代の忌部氏がこの神社を創建(創祀)したのは間違いないだろうけど、どこまで遡れるかとなるとなんともいえない。
 橿原という地は神武天皇即位の地とされているので相当古いと思われがちだけど、案外そうでもなくて、最大限遡っても3世紀くらいではないかと思う。
 だとすれば、忌部氏の古い本拠地は別にあったということで、それは倭(大和)ではなく尾張だったということになる。
 太玉が本来は天太玉だったとすれば、天が付く以上、天の一族に違いなく、天は高天原なので、原高天原があった尾張出身ということだ。
 倭以前に一時的に九州に移っていた可能性はある。1世紀から2世紀の九州は尾張の影武者的な存在だった。

 全国に目を向けると、石川県輪島市の太玉神社、鹿児島県鹿屋市と霧島市の太玉神社、岡山県真庭市の太玉神社、東京都品川区の品川神社、千葉県館山市の安房神社、麻比古神社(徳島県鳴門市)、安房神社(千葉県館山市)、大原神社(千葉県君津市)、洲崎大神(神奈川県横浜市)、安房口神社(神奈川県横須賀市)、金札宮(京都府京都市)、石川県羽咋市の氣多大社摂社の太玉神社などがある。
 これらほとんどのところは天太玉命と、”天”を付けている。
 地域的な特徴として千葉、神奈川などの関東と、北陸の石川、九州の鹿児島に何社かまとまってあるという以外は特別な地域性は感じられない。
 意外に少ないという印象だ。これは忌部の氏神で一般的な信仰対象とはならなかったという推測はできる。
 中臣、藤原が祖とする天児屋を祀る春日社が全国に広まったのと比べると大きな差となっている。

 

尾張のにおける忌部の本拠

 個人的に気になっているのが、名古屋市中区の日置神社で祀られていることだ。
『延喜式』神名帳(927年)の愛智郡日置神社とされる神社で、江戸時代は誉田別尊(応神天皇)を祀る八幡だったのだけど、明治になって『延喜式』神名帳にある日置神社に戻して祭神を天太玉命とした。
 そのあたりの経緯がよく分からない神社なのだけど、何の根拠もなく天太玉命を祭神とするはずもなく、古代には天太玉命を祀っていたという伝承や記録があったのかもしれない。
 平安時代末に作られたとされる『尾張國内神名帳』の写本では従一位としているものがあり、だとすればかなり高位の神社だったということになる。
『尾張名所図会』(1844年)は日置朝臣が祖神として應神天皇を祀ったのではないかとしており、早くから八幡神を祀った可能性もあるものの、日置という社名からすると日置部などが何らかの形で関わっていたと考えられる。
 日置は「ひおき」の他に「へき」とも読み、全国に残る日置の地名は、日置氏または日置部から来ていると思われる。
 日置部は日置氏に従う部民という意味と、職業集団としての日置部がある。
 日置とは何かについては諸説あるのだけど、尾張の日置神社についていえば、日置氏の関係神社ということになるかもしれない。
 忌部氏が関わっていて、尾張の忌部がここで祖神を祀ったのが始まりとも考えられる。
 現在の地名が橘となっていることからも、尾張氏との関係も深い。
 橘は音であり、音は日立であり、日立は尾張、愛智だというのはこれまでにも何度か書いた。
 祝詞で「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」で伊弉諾尊が禊を行ったというのを日向地方での出来事と思っている人が多いだろうけど、これは本当の場所を隠すために操作されていて、”橘の小戸”(たちばなのおと)を”橘の音”に読み替えないと真実が分からないようになっている。
 筑紫も日向も特定の地名を指していない。そう解釈するようにミスリードしている。
 天太玉命を祀る神社は尾張(名古屋)にはこの一社しかないのだけど、一社あれば充分で、ここがもともとの忌部の本拠だったのかもしれない。
 ちなみに、信長は桶狭間の戦いに向かう途中でこの日置神社に立ち寄って敦盛を舞ったという話がある。
 戦に勝利した後、千本松を贈ったとされ、松は枯れてしまったものの松原という地名は残っている。
 忌部を祖に持つとされる織田家と日置神社で天太玉命を祀ることは無関係でははないのだろう。
 ついでに書くと、日置神社には弓道の日置流の人間がいて、その一派も信長に従っていたという。
 弓は中世以降に武道に変化していくのだけど、もともとは神事として行われていた。
 天若彦は天神から授かった天之波波矢と天之麻迦古弓で使者の雉名鳴女を射殺し、高木神の返し矢によって命を落としたという話を思い出す。

 古代においては何々氏といっても、皆親戚のように近しい関係で、祀る神も一柱ではなかっただろうから、何々氏の本家がそこに住んでいたから祖神を祀ったといった法則のようなものは成り立たない。
 長い歳月の中で祭神も変わっているので、何にしても決めつけない方がいい。
 ただ、太玉もしくはそれに近い人物が尾張にいて一定の勢力を持っていたということはいえると思う。
 それが隠されたということであれば、守る必要があったということだし、他に移っていって歳月を経る中で痕跡が薄れて消えたということもありそうだ。

 

どうして天を消されたのか

 最後まで気になったのは、どうして太玉は”天”を消されてしまったのだろうということだ。記紀編纂時代は中臣、藤原全盛だったから天児屋との差別化を図った可能性は考えられるけどそれだけでもないような気がする。
 高皇産靈神は天の付かない神で、その子の思金神も天は付かない神、その妹の栲幡千千姫命は天の付かない命、栲幡千千姫命の息子の天忍日命は天の付く命で、天忍日命の息子の天太玉命も天の付く命だ。
 忌部の祖神とされる天日鷲命と天目一箇命には天が付き、手置帆負命や産狹知命には天が付かない。
 これらをどう考えればいいのかはよく分からないのだけど、もともと天だったのが天なしになってしまうことは普通のことではない。そのあたりの理由を知ることができれば太玉の実体にもう少し迫れるのだと思う。
 ただ、太玉を祀る神社の多くが天太玉命としていることに、ある種の救いのようなものを感じる。

 

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