マシキトベ《敷刀婢命》

マシキトベ《敷刀婢命》

『古事記』表記 なし
『日本書紀』表記 なし
別名 敷刀婢命(『先代旧事本紀』)
祭神名 敷刀婢命・他
系譜 (父)尾張大印岐
(夫)乎止与命
(子)建稲種命、宮簀媛/美夜受比売
属性  
後裔 尾張氏
祀られている神社(全国)  
祀られている神社(名古屋) 下知我麻神社(熱田区)
『古事記』、『日本書紀』には記載がなく、『先代旧事本紀』天孫本紀に書かれている。
 初代の尾張国造で尾張氏11代・乎止与命(オトヨ)の妻であり、建稲種命(タケイナダネ)と宮簀媛命(ミヤズヒメ)の母とされる人物だ。
 尾張大印岐(おわりのおおいみき)の娘というのだけど、尾張大印岐の正体は不明。尾張大印岐という名前だとすると尾張氏の一員なのか違うのか。尾張国の大印岐という意味なのか、大印岐は名前なのか違うのか。
 印岐というと滋賀県草津市の式内社・印岐志呂神社(いきしろじんじゃ)があるけど、これは第30代敏達天皇または第31代用明天皇のときに大嘗祭の悠紀(ゆき)に定められた場所に建てられた社ということで悠紀代、由紀代が転じて由岐志呂と呼ばれるようになったとされるから直接関係はなさそうだ。印岐志呂神社は第38代天智天皇が大和国の大神神社(web)から勧請して建てさせたと伝わる。
 オトヨが尾張大印岐の娘をめとったということは勢力拡大を図るということもあったはずで、それなら尾張大印岐はどの地域を支配していたかが問題となるわけだけど、そのあたりについて書かれているものを読んだことがない。尾張大印岐を祀るという神社も知らない。
『先代旧事本紀』は尾張大印岐の妻で真敷刀俾の母を不明としている。それは何故なのか。
 オトヨとマシキトベの息子のタケイナダネは丹羽氏の祖の大荒田命(オオアラタ)の娘・玉姫をめとったとされる。大荒田は尾張国二宮の大縣神社(web)一帯の支配者と考えられている。
 尾張大印岐の素性がはっきりしないとマシキトベの正体も掴めない。
 真敷刀俾の真敷(ましき)は、尾張国にあった天皇の直轄地、間敷屯倉(ましきみやけ)と関係があるのではないかという指摘がある。『日本書紀』は第27代安閑天皇のとき、尾張国に間敷屯倉と入鹿屯倉が置かれたと書いている。安閑天皇の母は尾張連草香女の娘の尾張目子媛なので、そのあたりも関係がありそうだ。
 入鹿屯倉は入鹿池がある犬山市ではないかとされ、名古屋市北区から春日井市にかけての安食荘(あじき)は間敷から転じたという説がある。
 それらを考え合わせると、オトヨの時代に名古屋市北部を勢力下に治め、息子のタケイナダネのときに更に北へと勢力を広げたという推測ができる(あくまでも推測に過ぎない)。
 マシキトベは現在、熱田神宮摂社の下知我麻神社で祀られている。境内の北西なのだけど、どういうわけか境内から直接行くことができず、いったん外に出て西の鳥居から入る恰好になる。
 西の国道19号線はかつての美濃路で、名古屋城の西から真っ直ぐに延びた道だ。江戸時代は熱田社の南で東海道とつながった。
 下知我麻神社は古くからこの場所にあったという言い伝えがあるのだけど、上知我麻神社との関係も含めて分からないことが多い。
 南区の星宮社に上知我麻神社と下知我麻神社があり、それは単なる境内社ではなくそこが元地だったのではないかという説がある。もともとそのあたりは千竈郷と呼ばれた場所だったともいうのだけど、初めから上知我麻神社と下知我麻神社でオトヨとマシキトベを祀っていたとは断定できない。個人的には千竈郷はもっと北の中川区あたりだったのではないかと考えている。
 ただ、『延喜式』神名帳(927年)に載っているので、平安時代中期までには官社となっていたのは間違いない。
 下知我麻神社の祭神については、熱田社の古い縁起書や『張州府志』などの地誌では二柱を祀るとしていた。しかし、明治になって下知我麻神社を『延喜式』神名帳の下知我麻神社と定めた際に、神名帳では一座になっているのに二柱を祀るというのは都合が悪いということで祭神を真敷刀俾命の一柱とした経緯がある。
 江戸時代は上知我麻神社の源太夫社に対して下知我麻神社は紀太夫社と呼ばれていた。
 マシキトベという音と真敷刀俾という字にはどういう意味が込められているのか。刀は文字通りカタナだとして、俾には「助ける」とか「しもべ」とか「にらむ」といった意味がある。当て字の可能性もあるけど、何かを表しているようにも思える。

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