オトヨ《乎止与命》 | |
『古事記』表記 | なし |
『日本書紀』表記 | なし |
別名 | 乎止與命、手止与命 小止與命(『先代旧事本紀』)、小豐命(『新撰姓氏録』) |
祭神名 | オトヨ《乎止与命》・他 |
系譜 | (父)不明(淡夜別? 小縫? 建多乎利?) (妃)真敷刀婢 (子)建稲種命、宮簀媛/美夜受比売 |
属性 | 尾張国造 |
後裔 | 尾張氏 |
祀られている神社(全国) | 小豊神社(愛知県一宮市) |
祀られている神社(名古屋) | 上知我麻神社(熱田区・熱田神宮境内) |
『古事記』、『日本書紀』に名前は出てこない尾張氏第11代(10代とも12代とも14代とも)当主で、初代の尾張国造ともされる人物。 『古事記』、『日本書紀』に記載はなく、『先代旧事本紀』の国造本紀などに名がある。 『古事記』は、ヤマトタケルは父である第12代景行天皇に西征に続いて東征を命じられ、伊勢の大御神宮(オオミカミノミヤ/web)に立ち寄って叔母である倭比売命(ヤマトヒメ)に草那芸剣を授かり、尾張国で美夜受比売(ミヤズヒメ)の家に入ったと書く。 そして、ミヤズヒメを”尾張国造の祖”といっている。つまり、オトヨの名前を挙げずミヤズヒメが尾張国造の祖というのだ。 『日本書紀』もヤマトタケルは伊勢の神宮で倭姫命に会って草薙剣を受け取ったのは同じなのだけど、行き道に尾張国へ寄ったという記述はない。なので、ここではまだミヤズヒメは出てこない。 『古事記』は行きにミヤズヒメと婚姻しようと思ったのだけど東国を平定してからにすることにして婚約だけして東征に向かい、東国の神を平らげた後に尾張国に戻り、ミヤズヒメと婚姻したという話になっている。 このときミヤズヒメの衣服の裾に月経の血がついていてそれを見たヤマトタケルはミヤズヒメと歌を交わすというエピソードが入る。 『日本書紀』は東征を終えて尾張国にまた戻ってミヤズヒメを娶ってしばらくの間留まったという書き方をしている。 また戻った(更還於尾張)とあるから、書いてはいないけど行き道でも尾張国に寄ったということだろう。 歌のやりとりなどは『日本書紀』にはない。 この後、草薙剣をミヤズヒメの元に置いて伊服岐の山(伊吹山)の神を退治に行ったら体調を崩して伊勢で命を落とすというのは『古事記』、『日本書紀』ともほぼ同じ内容になっている。 いずれにしてもオトヨは登場せず、タケイナダネが副将軍として従ったという話も書かれていない。登場するのはミヤズヒメのみで、『古事記』はミヤズヒメを尾張国造の祖としている。 オトヨが出てくる『先代旧事本紀』はというと、逆にミヤズヒメの話はまったく書かれておらず、ヤマトタケルは東征の帰り道に尾張国で亡くなったといっている。 何が本当でどれを信じればいいのだろう? ついでに『古語拾遺』も見ておくと、ヤマトタケルと伊勢のヤマトヒメの話があり、東征の帰りに尾張国に寄ってミヤズヒメと婚姻して久しく留まったと書いている。 内容的には『日本書紀』の簡略版といったところだ。 作者の斎部広成はヤマトタケルのことよりも草薙剣への興味が強くて、熱田社は草薙剣を祀るための社という熱田社創建のいきさつを語りつつ、皇位継承の三種の神器のひとつである草薙剣を祀っている熱田社に対する朝廷の崇敬が足りないのではないかと苦言を呈している。 『先代旧事本紀』が伝えるオトヨオトヨの系譜に関しては、『先代旧事本紀』や尾張氏の系図が参考になるというか、それしかないのである程度それらを信じるしかない。『先代旧事本紀』の天孫本紀(あめみまのもとつふみ)の「天の香語山の命の子孫」において、第十一世孫を乎止与命としている。 『先代旧事本紀』は邇芸速日命/饒速日命(ニギハヤヒ)を天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(アマテルクニテルヒコアメノホノアカリクシタマニギハヤヒ)と、天火明命(アメノホアカリ)と同一視していて、ニギハヤヒ/アメノホアカリは天にいるときに天道日女命(アメノミチヒメ)との間に天香語山命(アメノカゴヤマ)が生まれ、天下ってから御炊屋姫(ミカシキヤヒメ)との間に宇摩志麻治命(ウマシマジ)が生まれたといっているので、オトヨに続く尾張氏の系譜は天香語山から始まるという認識になる。なので、アメノホアカリから数えるとオトヨは十二世孫に当たるということだ。 オトヨについては、尾張国造でヤマトタケルが神剣を授けたミヤズヒメの父とされる、という微妙な書き方をしている。 先代である十世孫の淡夜別命(アワヤワケ)との関係については触れていない。 妻は尾張大印岐(おわりのおおいみき)の娘の真敷刀俾(マシキトベ)で、一男の建稲種命(タケイナダネ)が生まれたとする。 このタケイナダネをヤマトタケル東征の副将軍といっている元ネタは『先代旧事本紀』のこの部分なのだろう。 タケイナダネについてミヤズヒメの兄弟とされる、ともいっている。 親子兄弟関係を明確に書けなかった理由が何かあったのだろうか。それとも伝承が曖昧で断定的に書くことを避けたのか。 中でも一番引っかかるのは、オトヨの父がはっきりしない点だ。 オトヨの先代である世孫十世孫の淡夜別命(あわやわけのみこと)との関係が書かれていないということは親子関係ではないのか。 淡夜別命については、大海部直(おおあまべのあたい)の祖の弟彦命(オトヒコ)の子としている。 第十世孫の世代には大原足尼命(オオハラノスクネ/置津与曽命の子)、大八椅命(オオヤツキ/彦与曽命の子)、大縫命(オオヌイ)、小縫命(オヌイ)がいると書いているのだけど、いずれも親子関係とはしていない。 この点についてはこれ以上知る手がかりがないのでいったん保留とする。 『先代旧事本紀』の国造本紀(くにのみやつこのもとつふみ)では、志賀高穴穂朝(第13代成務天皇)の時代に天火明の命十世孫の小止与命を国造に定めたといっている。 天孫本紀で乎止与命としながら国造本紀では小止与命とした理由はよく分からない。編纂者が違っていたとしても、最終的な校閲をしなかったのか。 それはともかくとして、第13代成務天皇のときにオトヨを国造に定めたというのはちょっと不自然だ。 成務天皇は第12代景行天皇の第四皇子とされ(母は八坂入媛命)、第二皇子(『古事記』では第三皇子)のヤマトタケル(母は播磨稲日大郎姫)の異母弟に当たる。 ヤマトタケルが東征の帰りに命を落としたのは30歳とされ、オトヨの息子のタケイナダネも同時期に亡くなったとされる(駿河の海に落ちたと)。 ヤマトタケル亡き後も景行天皇の治世は長く続き、その後を継いだ成務天皇のときにオトヨを尾張国造にしたというのは不自然だ。上にも書いたように『古事記』はミヤズヒメを尾張国造の祖といっている。 ついでに書いておくと、タケイナダネの息子の尾綱根(オツナネ)は第15代応神天皇のときに大臣となり、オツナネの子の意乎己(オオコ)は第16代仁徳天皇の大臣となったとされる。応神天皇はタケイナダネの孫の仲姫命(ナカヒメ)を皇后としている。 このへんも世代的に合わない気がするのだけどどうなんだろう。成務天皇と次の仲哀天皇が短ければぎりぎり合うのか。 以上のようにオトヨの人物関係ははっきりしない点がいくつかある。 そのあたりについては、最後のまとめてもう少し考察してみることにする。 記紀と『尾張国風土記』あらためて書くと、『古事記』、『日本書紀』、『先代旧事本紀』その他と熱田神宮の縁起書は切り分けて考える必要がある。熱田社の由緒はあくまでも由緒や伝承であって歴史書ではない。歴史書が必ず真実を書いているわけではないにしても、歴史書と伝承は性格が異なっているのは確かだ。伝承は無責任でも許されるところがある。『古事記』、『日本書紀』は草薙剣のところをあれほど詳しく書きながら熱田社の創祀については何もいっていない。『古語拾遺』は少し書いているけど、一般的に知られている熱田社創祀の話は熱田社の『熱田大神宮縁起』などの縁起書や『尾張国風土記』逸文などが伝えるものだ。 そこでは、ヤマトタケルが尾張連らの遠祖である宮酢媛命を娶って宿泊した時、剣が神々しく光り輝いたため、ミヤズヒメにその剣を奉斎することを命じ、ミヤズヒメは年を取って自分ではもう祀れないということで熱田の地に社を建てたのが熱田社だとしている。 『尾張国熱田大神宮縁起』は平安時代前期の貞観十六年(874年)に正六位上尾張連清稲が熱田社の由緒を記したものを寛平二年(890年)に藤原村椙が改めたものとされ、古いには古い。 尾張国風土記は『古事記』完成から3年後の和銅6年(713年)に出された風土記撰進の詔(第43代元明天皇)を受け て編纂された官製地誌の尾張版で、提出されたのは720年代または730年代と考えられる。 現本も写しも残っておらず、他の書に引用された一部のみが伝わっている(完本として伝わっているのは出雲国風土記のみで、他に播磨国風土記、肥前国風土記、常陸国風土記、豊後国風土記の一部が伝わる)。 いずれも提出されたのは『日本書紀』が完成した720年以降だろうけど、編纂作業は同時進行の形で行われたはずで、互いに影響を受けている可能性は充分に考えられる。神々についても、記紀が採用したものがあり、採用しなかった地方神もある。『出雲国風土記』は記紀が伝える出雲神話をほとんど載せていない異色の内容になっていて興味深い。 『尾張国風土記』が編纂された奈良時代初期の人たちにとってヤマトタケルの物語は当然ながら大昔から伝わる話で、ある意味では現実味のない神話のようなものだったのかもしれないけど、少なくともその時代までにヤマトタケルや熱田社創祀の伝承はすでにできあがっていたということは言える。 つまり何が言いたいかというと、ヤマトタケル物語は『古事記』や『日本書紀』がでっち上げた架空の絵空事ではなく、すでに尾張国にある伝承だったということだ。記紀の編纂者たちはそこからすくい上げて記紀に反映させたということだろう。 あるいは逆で、記紀の内容を受けて尾張国風土記の編纂者たちが忖度した上で話を盛って『尾張国風土記』に記した可能性もある。 686年に尾張国ではヤマトタケルゆかりの地に神社を10社建てていて、同年には熱田社の大改築が行われていることからしても、ヤマトタケルの物語制作というのは単に歴史書の記述にとどまらない国家的な事業だったと考えられる。 それが尾張国側から発信されたものだったのか、ヤマト王権側から押しつけられる格好だったのかといえば、やはり後者だったのだろう。 ミヤズヒメやタケイナダネの元になるような人物はたぶんいただろうし、尾張国を治める尾張氏には代々当主がいた。国造制度自体はもっと後の時代に始まったともされるけど、この時代に中央集権化が進んで地方豪族の力が相対的に弱まっていったのは間違いない。国造に任命されるのは決して名誉なことではないし喜ばしいことでもない。独立性を奪われることを意味するからだ。 そいった時代の端境期にオトヨという人物はいた。 オトヨの後裔『新撰姓氏録』は河内国神別の若犬養宿禰(わかいぬかいのすくね)を天火明十六世孫・知調根命(オツナネ)の後としている。また、河内国神別の尾張連を火明命十四世孫・子豊命の後とする。 尾張氏の一部が河内国に移り住んだということだろう。 丹後国一宮の籠神社(このじんじゃ/web)の海部氏(あまべ)や摂津国一宮の住吉大社(web)の津守氏(つもり)なども尾張氏の一族とされる。 wikiの宮簀媛のページに「父の乎止与命は天火明命(アメノホアカリ)または綿積豊玉彦命(ワタツミトヨタマヒコ)の子孫」という記述があるのだけど、この元ネタは何だろう。 ワタツミの神といえば、山幸彦が婚姻した豊玉姫(トヨタマヒメ)の父である大綿津見神(オオワタツミ)のこととも考えられるけど、これは天皇家の流れだからオトヨをこの後裔とするのは少し無理があるのではないか。 私が知らない尾張氏一族の系図にそう書かれているものがあるのかもしれない。 海部氏系図でオトヨは11代小登与命となっている。 オトヨを祀る神社についてオトヨが具体的に何をした人物だったのかといったことについては伝わっていない。 |