オトヨ《乎止与命》

オトヨ《乎止与命》

『古事記』表記 なし
『日本書紀』表記 なし
別名 乎止与命(『先代旧事本紀』)
祭神名 オトヨ《乎止与命》・他
系譜 (妃)真敷刀婢
(子)建稲種命、宮簀媛/美夜受比売
属性 尾張国造
後裔 尾張氏
祀られている神社(全国) 小豊神社(愛知県一宮市)
祀られている神社(名古屋) 上知我麻神社(熱田区)
 尾張氏第12代(10代とも11代とも14代とも)当主で、初代の尾張国造とされる人物。
『古事記』、『日本書紀』に記載はなく、『先代旧事本紀』の国造本紀などに名がある。
 熱田神宮web)の縁起書などによると、日本武尊(ヤマトタケル)の東征に副将軍として従ったのが、オトヨの息子の建稲種命(タケイナダネ)で、オトヨの娘でタケイナダネの妹の宮簀媛/美夜受比売(ミヤズヒメ)がヤマトタケルの妃になったとされる。
『先代旧事本紀』では乎止與命、小止與命とも表記され、妻は尾張大印岐娘の真敷刀婢(マシキトベ)とする。
 尾張氏系図では、1代の天火明(アメノホアカリ)から数えて12代目になる。
 しかし、11代の淡夜別(アワヤワケ)とは親子関係になく、母は不明とされ、系図上では不明な点が多い。
 そのことから、オトヨは他から尾張氏に婿入りしたか、天火明から続く系図と尾張氏の系図を接続したなどという説もある。
 ただ、素性の知れない人間が尾張大印岐の娘をめとれるとも思えず、父と母を不明としなければいけなかった何らかの理由があったとも考えられ、やや謎めいた存在となっている。
『先代旧事本紀』によると第13代成務天皇のときにオトヨは国造に定められたというのだけど、これはちょっと信じられない。第12代景行天皇皇子のヤマトタケルが東征の帰りに死んだのが30歳とされ、そのとき娘のミヤズヒメが10代、または20代だったとして、景行天皇が崩御して成務天皇が即位した後にオトヨを尾張国造にするというのは不自然だ。そのときまでオトヨは生きていたかどうか。
 息子のタケイナダネはヤマトタケル東征の帰りに駿河の海で命を落としたとされる。
 タケイナダネの息子の尾綱根(オツナネ)は第15代応神天皇のときに大臣となり、オツナネの子の意乎己(オオコ)は第16代仁徳天皇の大臣となった。応神天皇はタケイナダネの孫の仲姫命(ナカヒメ)を皇后としている。
『新撰姓氏録』は河内国神別の若犬養宿禰(わかいぬかいのすくね)を天火明十六世孫・知調根命(オツナネ)の後としている。
 また、河内国神別の尾張連を火明命十四世孫・子豊命の後とする。
 オトヨが具体的に何をした人物だったのかといったことについては伝わっていない。
 そのせいもあってか、オトヨを祀るとする神社もごく少ない。私の知る限り、名古屋市熱田区の上知我麻神社と愛知県一宮市の小豊神社しかない。
 上知我麻神社はもともと千竈郷にあった千竈神社だったのではないかと考えられるも、はっきりしたことは分からない。本来の祭神は伊奈突智翁命(イナツチノオジ)だったともされる。
 どういう経緯で上千竈と下千竈に分かれることになったのか、いつ熱田に移されたのかといったあたりも不明だ。
『延喜式』神名帳(927年)が完成した平安時代中期までには上知我麻神社と下知我麻神社は官社となっており、文治2年(1186年)に2社とも名神に列していることからすると、創建も上下に分かれたのも古い時代と考えられる。一説では大化3年(647年)ともいう。
『尾張國内神名帳』では「正二位 千竈上名神」・「正二位 千竈下名神」となっている。
 江戸時代は熱田社とは独立した神社で、源大夫社と呼ばれていた(下知我麻神社は紀大夫社といっていた)。
 中世から近世にかけて本地仏を文殊菩薩としたことから智恵の神様ともされていた。

ホーム 神様事典