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直會神社(岩作村)

祀られているのは塚の主?

読み方なおらい-じんじゃ
所在地長久手市岩作五反田9番地 地図
創建年不明
旧社格・等級等不明
祭神神道毘命(?)
大道毘命(?)
アクセスリニモ「はなみずき通駅」から徒歩約30分
名鉄バス「西島」から徒歩約7分
駐車場なし(1台分スペースあり)
webサイト
例祭・その他例祭 3月と12月の第一日曜日
神紋
オススメ度
ブログ記事長久手岩作の直會神社は初めまして

石作神社の直会と関係があるのかないのか

 神社本庁に所属していないようで『愛知縣神社名鑑』には載っておらず、『寛文村々覚書』(1670年頃)や『尾張徇行記』(1820年)、『尾張志』(1844年)などの江戸時代の書には手がかりがなく、どういう由来の神社かよく分からない。
 ほぼ唯一の情報は、神社境内の由緒書ということになる。
 わりと新しそうで、立派な石に彫られている。
 せっかくなので全文を書き写しておこう。

直會神社御縁起由来記

 直會神社は岩作式内(郷社)石作神社の摂神にして岩作字久手田三十二番地(現五反田九番地)に祭祀する。
 大正初期の直會神社の面積は現在の半分程で古墳上の塚地に二、三本の杉の木立があり杉の木の元附近に四方二尺五寸程の御神殿が祭祀してあり他になにもなく田んぼの中の小祀社である。
 直會神社の祭神は五穀豊穣の神である。
 祭神 神道毘命
 祭神 大道毘命
 大祭日は毎年三月、十二月(第一日曜日)
 当社の創建は古くして詳しからざるも郷社式内石作神社の直會の神として此処久手田の古墳上の地に鎮座して祀る。
 亦当社は式内石作神社の摂社で石作神社の大祭日に大祭終了後御神饌を下げて当社に於て直會の儀を宮司、氏子総代、村長、区長等神社関係者一同が会食する神社であって直會の儀式と云う。
 大正十五年八月神社の再建に際して神社境内の面積拡大に当り、字久手田三十六番地ノ二を増反して今日の面積(二四八平米七十五・一坪)としたものである。
 再建後の直會神社の大祭日以降の参拝者は多く三月、十二月の大祭日には清酒、甘酒の接待もあり露天商も五、六店は出て終日弓道競技大会も挙行され戦後まで多くの人の参詣で盛大であった。

(福岡鍄三書)

 石碑自体は新しいのだろうけど、文体からして文章自体はけっこう古そうだ。
 福岡鍄三を検索すると長久手町郷土史研究会会長や平成に書かれた寄稿文の情報が出てくるので、書かれたのはそれほど昔ではないのだろう。
 福岡氏といえば津田正生が『尾張国神社考』で書いている石作神社の元社家の福岡氏の後裔ということだろうか。
 由緒正しい家柄ながら年々困窮して神職を譲って農民になったと書いている。

 そんな福岡氏が書いた文にケチをつけるのは申し訳ないのだけど、祭神名はどうなんだろう。
 神道毘命・大道毘命などという神は聞いたことがない。
 これは神直毘命・大直毘命の間違いではないのか。
 もしそうなら早急に直した方がいいと思う。
 手書き文字の”直”と”道”を石材屋が取り違えたとも考えられる。
 だとしても、石碑ができてから今に至るまで誰も気づかなかったのだろうか。
 あと、直毘/直日神(ナオビ)は祭りのハレから日常のケに戻す(直す)神とされるので、五穀豊穣の神とは違う。

『古事記』は黄泉の国から戻った伊邪那岐命(イザナギ)が穢れを祓うための禊(みそぎ)を行う中で生まれたのが八十禍津日神(ヤソマガツヒ)と大禍津日神(オオマガツヒ)で、その禍(まがまさしさ)を直すために成ったのが神直毘神(カミナオビ)、大直毘神(オオナオビ)、伊豆能売神(イヅノメ)だと書いている。
『日本書紀』は第五段一書第十の中でこんないい方をしている。
「乃散去矣 但親見泉国 此既不祥 故欲濯除其穢惡 乃往見粟門及速吸名門 然此二門 潮既太急 故還向於橘之小門而拂濯也 于時 入水吹生磐土命 出水吹生大直日神 又入吹生底土命 出吹生大綾津日神 又入吹生赤土命 出吹生大地海原之諸神矣 不負於族 此云宇我邏磨穊茸」
 黄泉の国から戻ってきて穢れを払う禊をしようと粟門(あわと)や速吸名門(はやすいのみなと)へ行ったものの流れが速かったので橘之小門(たちばなのおと)で体を洗って穢れを落とすとになる。
 このとき水に入って息を吐くと磐土命(イワツチ)が、水から出て息を吐くと大直日神(オオナオヒ)が、再び水に入って息を吐くと底土命(ソコツチ)が、また水から出て息を吐くと大綾津日神(オオアヤツヒ)が、また水に入って息を吐くと赤土命(アカツチ)が、また水から出て息を吐くと大地や海原の神々が生まれたといっている。
 直会関連の神社は神直毘神・大直毘神を祀るところが多いのだけど、これは『古事記』から採っている。
 尾張旭市の直会神社もそうだ。

石作神社との関係は?

 直會神社という社名や石作神社の摂社という関係性からして、石作神社の直会と関係があると考えるのが自然だ。
 けど、本当にそうだろうか?
 個人的にはこの話を疑っているというか、またく信じていない。
 この話は尾張旭市印場の澁川神社直会神社の関係性に似ている。
 686年に天武天皇の新嘗(にいなめ)が尾張国山田郡で行われたときに直会殿を建てて、それが残ったのが直会神社というものだ。
 しかし、あちの話も私としては信じられない。
 直会というのはどの神社でも行われるもので、直会殿のようなものはちょっとした神社ならどこにでもあった。
 境外に直会殿を設けて、それが神社に発展するというのがスタンダードであれば、もっとたくさんの直会神社があるはずだけど、直会関係の神社など数えるほどしかない。それは名古屋や周辺部だけでなく全国的に見てもそうだ。
 ただし、石作神社と直會神社が無関係ということをいいたいのではない。関係はあっただろう。
 では、直會神社の場所は何故あそこなのかということだ。
 由緒書がいう直會神社はもともと古墳の上に祀られていたというのが事実であれば、それはもう単純に石作神社祭神の建真利根命(タケマリネ)か、石作神社に近しい人物の塚だったということではないだろうか。
 そもそもはその人物を祀る社が建てられてマツリが行われていたところに、いつからか石作神社の直会を行うようになったと考える方が納得がいく。
 もちろん、理にかなっているからといってそれが事実とは限らないけれど。

 石作神社のページにも書いたのだけど、『尾張国神社考』の中で津田正生はこんなことをいっている。

従三位石作(ヤザコノ)神社天神
 集説云 山田の荘岩作(やざこ)村神名の社 末社四。熱田、白山宮、一の御前 饒速日命、妻の宮 日葉酢媛命 社家福岡氏

 耶座古美也志呂と讀奉るべし

「當所澤助曰」 神明の社地は後也。舊地は畔名(あざな)を舊氏神と呼處也。西島といふ民家の北一町半に在今は田となる
 此南半町に禰宜屋敷とよふ畔名もあり。また四ッの末社にもおのおの舊地といふものあり。
 舊氏神(もとうぢかみ)の地より西へ順々に不遠(ちかく)舊地あり。
 村民は、縣木(あがき)、カシャゴ、石神(シャグジン)、エビスと呼。みな杉櫻なと古木一株つつ遺れりといへり

「正生考」 今の神明の地は齋場(いむば)村の宮に習て漸(おひ)々廣長(ひろし)なる末社の内饒速日命、日葉酢媛命を祀るものは後世鎌倉以後の誤也

『尾張国神社考』

 ”當所澤助曰”として、今(江戸時代)の神明(石作神社のこと)があるのは新地で、旧地は西島の160メートル(1町=109m)ほど北の旧氏神と呼んでいる場所だという話を紹介している。
 これが本当だとすると、元地は今の藪田か石田あたりになるだろうか。
 ここだと石作神社と直会神社は南北の位置関係となり、距離も近い。

 あと、「齋場村の宮に習」というのも気になった。
 これは印場村(齋場村)の澁川神社を指しているのであれば、澁川神社と石作神社は何か関係があったということだろうか。

いつからここにあったのか?

 神社由緒書がいう古墳というのは現在明確になっていない。
 なんとなく周囲の田んぼより少し高い位置にあるように思えるけど、境内地は平らにならされているので古墳感はない。
 それにしても、この社はいつからここにあったのだろう。
 由緒書は古くて分からないといっているけど、古墳に祀られたのが始まりとすれば7世紀くらいを想定できるかもしれない。
 しかしながら、江戸時代の書にはこの社に相当するようなものは書かれていない。
 恵比寿社や妻ノ宮の跡地は分かっているので違うし、可能性があるとすれば『尾張国神社考』に出てくる縣木(あがき)、カシャゴ、石神(シャグジン)あたりだろうか。

『岩作里誌』(浅井菊寿/1924年)には石作神社の末社が11社載っている。
 東末社を一御前社、八幡社、妻宮、鍬神社、熱田社、天王社、山神社、西末社を恵比寿社、冨士浅間社、直會社、白山社としている。
 これは『岩作里誌』が編纂された1924年(大正13年)の時点で、これらが境内社として石作神社にあったことを意味しているのだと思う。

 直會社については、「神直毘命 大直毘命 伊邪那岐御子物を清潔にする神なり」と書いている。
 これが著者の浅井菊寿の認識なのか、石作神社の言い分なんかは分からないのだけど、神直毘命と大直毘命を伊邪那岐の子といっているのはなかなか興味深い。
 記紀は確かにイザナギから成ったといっているから子といえば子なのだけど、”物を清潔にする”という言い回しはちょっと面白い。
 石作神社の直会の儀云々ということはここでは書かれていない。
 小さな社自体は古くからあったにしても、石作神社の直会がここで行われるようになったのは案外新しい時代のことなのではないだろうか。
 そのことも含めて、江戸時代から現在に至るまでの岩作村の推移を村絵図と今昔マップで追ってみることにしよう。

村絵図と今昔マップの岩作村

 万延元年(1860年)に作られた岩作村の村絵図を見ても直會神社は確認できない。
 ただ、田んぼの中に小さな盛り上がりがあって塚と思われるそこには一本の木が立っている。
 それが4つ描かれており、これがかつての古墳や社の跡地だとすると、そのうちの一番左が直會神社かもしれない。
 4つの塚の北に木に囲まれた石作神社の社が書かれている。
 その右(東)に描かれているのが色金山と安昌寺で、山の上に八幡の社らしきものがちょこんと乗っている。

 今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見てみる。
 現在の直會神社がある場所は田んぼの中で、左に通っている農道から少し離れている。
 ここは石作神社から見て西500メートルほどの場所だ。
 実はこのとき、この場所に直會神社はなかったと思われる。場所的にも不自然だし,『岩作里誌』は明治5年(1872年)に村内にあった山神社や天王社とともに直會社を境内に遷したといっているからだ。
 つまり、明治5年から大正13年までは直會社は石作神社の末社になっていて現在地にはなかったということになる。
 今昔マップの1920年(大正9年)を見ても、現在地に直會神社らしきものは書かれていない。
 この後の地図がないので途中の経緯は分からないのだけど、1968-1973年(昭和43-48年)の地図に、鳥居マークが現れる。これが現在の直會神社だ。田んぼの中を通る細い道沿いに位置している。

 以上を考え合わせると、大正末か昭和に石作神社の末社となっていた直會社を復活させるような格好で現在地に独立させたという推理が成り立つ。
 しかし、ここであらためて神社の由緒書を読むと、微妙に話が違っている。
 由緒書は、大正初期の直會神社は今の半分くらいの境内地で、古墳の上に杉が二、三本あってそこに小さな社が祀られていたとある。
 これは『岩作里誌』の説明とは合致しない。
 明治5年の遷座は増えすぎた神社を整理するのが目的だっただろうから、元地に残しつつ石作神社に末社を分祀するようなことではなかったはずだ。
 考えられるとすれば、塚と社はそのまま残しておいて、その後、復活させたということだろうか。
 由緒書は大正15年8月に再建したといっている。
 明治5年に社と祭祀は石作神社に移したものの境内地はそのままにしておいたと考えればおかしくはないのか。
 でも分からないのは、石作神社に移した神社のうち、直會社だけを復活させた理由だ。大正15年に何があったのだろう。
 石作神社の直会の儀を行うなら境内の中で行えばいいだけで、わざわざ外に設ける必要もない。
 いずれにしても、石作神社の直会を直會神社で行うようになったのは大正15年の再建後なのだろうと思う。
 直會の儀を行う目的で古い時代に創建された神社ではないということはいえそうだ。

田んぼ神社の風景

 現在の神社は平成11年(1999年)に再建されたもののようで、社前の拝殿(?)の上には寄付者の名前がたくさん書かれている。
 それだけこの神社を守っていこうという人がいたということだ。
 立派な鳥居も建っていて、これだけで数百万円はする。

 上で見てきたように、もともと古墳の上に祀られていたというのであれば、古墳の主を祀ったと考えるのが自然だし、古くから石作神社の境外社の扱いだったとすると、石作神社にまつわる関係者の可能性が高い。
 世代は分からないけど、尾張氏の誰かかもしれない。
 しかし、それならどうして直會と呼ばれるようになったかだ。
 尾張旭の直会神社は地元民から”にょうらい”と呼ばれていたという話があって、それなら如来から転じたのかもしれないと推測したけど、ここも直會(ナオライ)は後付けのような気がする。
 江戸時代までは塚で祀られる名もない祠だったとすると、直會と名づけたのは明治以降ということになる。

 神社はけっこう広い田んぼが広がる風景の中にポツリと建っている。
 この感じは江戸時代までの原風景を思い起こさせるもので、名古屋にはほとんど残っていないので貴重だ。
 田植えが終わった6月とか稲が実った9月とかに訪れるのがいいかもしれない。
 一見の価値ありとしておきます。


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