思うよりずっと古い御嶽信仰
読み方 | おんたけ-じんじゃ(やざこ) |
所在地 | 長久手市岩作壁の本33番地 地図 |
創建年 | 1855年(安政2年) |
旧社格・等級等 | 不明 |
祭神 | 国常立尊(クニノトコタチ) 大己貴命(オオナムチ) 少彦名命(スクナヒコナ) 明寛霊神(メイカン) 明心霊神(メイシン) |
アクセス | リニモ「はなみずき通駅」から徒歩約50分 名鉄バス「安昌寺」から徒歩約7分 |
駐車場 | なし |
webサイト | |
例祭・その他 | 春季大祭 4月8日 秋季大祭 9月8日 |
神紋 | |
オススメ度 | * |
ブログ記事 | 長久手の岩作御嶽神社へ 再訪で岩作御嶽神社の印象が大きく変わった |
岩作御嶽神社の個人的な印象
御嶽教講社の一つである心願講の尾張の拠点となっているのが、ここ長久手岩作の御嶽山だ。
麓の里から細い山道を登り、長い階段を上がった先に御嶽神社が鎮座している。
長久手市の隣の日進市岩崎にも御嶽社(地図)があり、あちらは心願講の東海地区全体の拠点となっている。
どちらもディープな御嶽ワールド全開で、長久手岩作を濃度80パーセントとすると、日進岩崎の御嶽は濃度120パーセント(濃縮)で、ちょっと怖すぎて安易な気持ちでは行けない。
コンクリ仏師の浅野祥雲の仏像を見に行ったのだけど、あまりの世界観というか空気感にノックアウト負けを食らって逃げるように帰ってきた。
なんか呪われたんじゃないかと本気で心配になったほどだ。
それが2014年のことで、その2年後、長久手岩作の御嶽神社を訪れることになる。
このときの恐ろしさも忘れがたいものがある。
岩崎御嶽山ほどではないにしても、相当おどろおどろしい雰囲気で、完全にへっぴり腰だった。
そのときはもう二度と訪れることはないだろうと思ったのだけど、翌2017年に再び訪れることになる。
初回は夕方の薄暗い時間帯で一人だったのに対して二度目は昼間の明るい時間に二人だったこともあっただろう。
一緒に訪れた神社巡りの相棒が御嶽関係の人だったから、御嶽神社側も我々を歓迎してくれたというのもあったかもしれない。
そして、今回、長久手編を書くに当たって三度目の訪問ということになった。約7年ぶりということになる。
印象は初回と二回目の中間くらい、やっぱりここって普通じゃないよな、と思った。
岩作御嶽神社ができるまで
御嶽信仰については名古屋編の御嶽神社(高針)のところでわりと詳しく書いたのだけど、あらためて簡単にまとめてみることにする。
通説では以下のような話がよく語られる。
長野県と岐阜県にまたがる標高3,067メートルの御嶽山(木曽御嶽山)は、古くから神の宿る霊山として信仰の対象とされてきた。
文武天皇時代の702年、信濃国国司だった高根道基が登頂して奥社を建て、國常立命(クニノトコタチ)、大己貴命(オオナムチ)、少彦名命(スクナヒコナ)を祀ったといい、木曽の御嶽神社(公式サイト)はこれをもって創建(創祀)としている。
その後、修験の道場として発展するも、一般人の立ち入りは厳しく制限された。
江戸時代は尾張藩の管轄下に置かれ、100日間(または75日間)の潔斎(けっさい)をした行者しか入れない取り決とされた。
それを一般信者に開山したのは江戸時代後期の覚明行者だ。
尾張(春日井牛山)出身とされる(異説あり)覚明は各地で修業した後、木曽で布教活動を行い、潔斎を簡略化して一般信者も登れるように代官所などに掛け合うも相手にされず、1785年に許可が下りないまま黒沢口からの登拝を強行するに至った。
しかし、福島代官所の知るところとなり、覚明行者ならびに無断登拝した信者は福島宿に拘束されることになる。
それでもめげなかった覚明は、翌年も信者をつれて再び登り、登山道の整備などをしている最中に病気で亡くなってしまう。
覚明の亡骸はそのまま御嶽山に葬られることになった。
その後も信者たちの登拝は続き、ついには代官の山村氏が折れて条件付きで軽潔斎による一般信者の登拝を許可した。
期間は6月14日から18日までで、入山料二百文を払うなど、六ヶ条がその条件だった。覚明の死から5年後の1791年のことだ。
翌1792年には王滝村で活動していた普寛行者が王滝口の登山道を開き、それによって関東からの登拝者が増えて御嶽信仰は関東にも広がっていくことになる。
普寛行者が布教のために開発したものに御座(おざ)がある。行者が神懸かりになって神のお告げを信者などに伝えるというもので、東北のイタコのようなものだ。
行者が神の依り代(中座)となり、別の行者が前座として中座の言うことを聞いて伝える役割をつとめる。
これが流行って信者数は激増し、各地で御嶽教の講社が作られることになった。
こうした一連の流れや活動を放っておけないと感じた幕府による弾圧が行われることになる。
1821年には普寛行者の最後の弟子の一心行者が捕まり、三宅島遠島を言い渡された当日に自害するといったことも起きている。
盛心行者が一心行者の汚名を晴らすために尾張藩の力を借りたことで御嶽講社と尾張藩の縁が生まれ、藩主の関係者の女性を御嶽講の人間が治したなどいう話も伝わっている。
そんな御嶽講社も、明治の神仏分離令で危機を迎える。
その後、紆余曲折があって明治15年に教派神道の御嶽教として再出発することになり、現在に至っている。
名古屋や近郊では覚明系の講社が主となっているのだけど、有力講社の福寿講、心願講、日出講などは儀覚の宮丸講の流れを汲むもので、儀覚は普寛の孫弟子なので、系統としては普寛系ということになる。
普寛の弟子が広山(廣山)で、その直弟子が儀覚だ。
宮丸講は熱田に拠点を置く名古屋最古の講社で、設立は1811年頃とされる。
高針の御嶽神社を建てた高針心願講も儀覚とのつながりが深い講社だ。
心願講を設立したのは古伯(倉知茂兵衛)で、1830年のことだった。
その後を継いだのが儀覚の弟子の明寛(丹羽宇兵衛)で、古伯の実子である明心(倉知茂兵衛)とともに発展させた(父の古伯と息子の明心の俗名が同じ倉知茂兵衛というのだけど、これは本当なのだろうか?)。
その明寛と明心が最初に拠点としたのが長久手岩作の御嶽山だった。
幕末の1855年のことだ。
その5年後の1860年に、日進市の岩崎御嶽山に拠点を遷した。
こういった経緯があって、岩作の御嶽神社創建は1855年(安政2年)ということになっている。
これに先立つ天保元年(1830年)に木曽の御嶽神社から分霊を受けたという話があるので、創祀ということでいうと1830年になるのかもしれない。
岩作御嶽神社についてもう少し詳しく
『郷土ながくて』(昭和57年)が「岩作御嶽山記」と題してわりと詳しく書いている。
そこから以下のようなことを知ることができる。
安政2年(1855年)に明寛と明心に協力した人として、浅井吉十、浅井八右衛門の名を挙げている。
石作神社のところで書いたように、弥生時代に一宮の浅井からここに移ってきて岩作を開拓して浅井氏を名乗ったという話があり、この浅井氏はその浅井氏の後裔かもしれない。
まずこの浅井氏二人が山を開いて道を通し、明寛と明心が御嶽神を祀り、その後、浅井政四郞、伊藤嘉六、犬飼武右衛門らが協力したという。
祭祀は天保元年(1830年)から行われていたとも書いている。
明治9年に建て替えが行われ、御嶽教の講堂や社殿が建てられたのが昭和2年だそうだ。
境内には霊神の石碑などが林立していてカオス状態になっているのだけど、境内社として秋葉や白川大神、不動明王、八海山大頭羅神王、三笠山大神、十二権現、香良洲大明神などが祀られているという。
階段を登っていく途中に堂があって人がいるようだけど、境内は全般的に荒れ模様ではある。
近年は信者の高齢化や後継者不足によって講社も縮小傾向のようだ。
御嶽山のこと
御嶽山が突然噴火したのが2014年なのであれから10年経った。
古代に山体崩壊するほどの大噴火を起こすまでは御嶽山が日本一の山だったといったらあなたは信じるだろうか。
そんなことがあったらたくさん証拠が残っているはずではないかというだろうけど、これは日本神話が語る国作りの話と深く関わっていて、公にされていないだけかもしれない。
古くは”御山”といえば御嶽山のことで、富士山は”不二”、二番目の山だったという。
御嶽山の”嶽”は岳の旧字なのだけど、よくよく見ると変わった字だということに気づく。
”山”に”獄”で、”獄”を分解すると”犭”、”言”、”犬”からできている。
この意味を聞いたのだけど、忘れてしまった。今思えば大事な話だった(今度ちゃんと聞いておかないと)。
御嶽教のマークは”山”をかたどった文字の下に”○”と”三”から成っている。
この山があるのとないのとでは意味が違うという話だったのだけど、その話も頭に入っていない。
何か私の中に拒絶するものがあったのか、引っかかりがない話だったのか。
いずれにしても、御嶽信仰は飛鳥時代末に始まるような新しいものではなくて、確実に縄文時代やそれ以前にさかのぼるものだ。
近世以降の御嶽教によってイメージが歪んだというか偏ってしまった部分が大きいのだけど、非常に根源的な信仰ということができる。
岩作の御嶽山も江戸時代などではなく、もっと古く、最初にここに人が暮らしていた頃から何らかのマツリが行われていた可能性もある。
岩作御嶽山の変遷
万延元年(1860年)の岩作村絵図は香流川右岸(北)の村の中心部分しか描かれていないので他の部分が分からない。
岩作御嶽山は香流川の左岸に位置しているので、村地図には現れない。
岩作村は今の愛知医大があるあたりから南のモリコロパークの一部までの広い村域だった。
今昔マップの明治中頃(1888-1898年)を見ると、江戸時代から続く当時の様子が見て取れる。
岩作御嶽山は非常に等高線が狭くなっていて険しい小山だということが分かる。
山頂の鳥居マークが御嶽神社で、その南にある鳥居はかつてあった富士浅間社だ。
『寛文村々覚書』(1670年頃)によると、この冨士浅間社は隣の長久手村の祢宜の持分となっている。どういう事情だったのかはよく分からない。
御嶽神社の創建は1855年というから、1844年の『尾張志』や『尾張名所図会』には書かれていない。
冨士浅間社は明治44年に石作神社に合祀されたので、1920年(大正9年)の地図では鳥居マークが消えている。
岩作御嶽山の周辺は、その後も現在に至るまではあまり大きな変化はない。
麓あたりに建っている家は先祖代々ここに住んでいる家系の人たちではないかと思う。あらたに長久手に越してきた若い世代が住むようなところではない。
御嶽の今とこれから
名古屋神社ガイドを作るより以前にも御嶽関連の神社にちょくちょく行っていて、ちょっと怖いような印象を抱いていた。
その後、御嶽教の人たちと交流を持ったこともあり、御嶽神社への偏見とまではいかないまでも身構えるような気持ちは薄らいだ。
更に、御嶽山そのものの話もいろいろ聞いて思い直すところもあった。
そこで分かったのは、御嶽信仰の大切さだ。
これからの時代において、御嶽は重要な鍵を握ることになるかもしれない。
それは宗教観を越えて歴史観にも関わることで、一気に多くのことが明るみに出たとき、我々は御嶽の本質的な部分を知ることになる。
それが数年先の近い未来なのか、もっと遠い未来なのかは私には分からない。
ただ、御嶽というものをこれまで以上に意識しておいた方がいいと思う。
気になった方は一度、長久手岩作の御嶽山と日進岩崎の御嶽山を訪れてみてください。
作成日 2024.6.22