尾張の重要人物の一人
天火明命(アメノホアカリ)を祖とする尾張氏13世孫(『先代旧事本紀』は天香語山命から数えて12世孫)で、日本武尊(ヤマトタケル)東征の物語に登場することで知られる。 『日本書紀』には登場せず、『古事記』の応神天皇の系譜で建伊那陀宿禰(タケイナダ)として名前だけ出てくる。 タケイナダ(ネ)の事績を伝えるのは尾張地方の神社伝承などで、尾張の重要神社の祭神に名を連ねていることからして、この地方では重要な人物のひとりと考えてよさそうだ。
系譜について
まずは伝えられている系譜から見ていくことにする。 一番詳しいのは『先代旧事本紀』なのだけど、ここでは天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマニギハヤヒ)が天にいるときに天道日女命(アメノミチヒメ)との間に天香語山命(アメノカゴヤマ)が生まれ、天降って御炊屋姫(ミカシキヤヒメ)との間に宇摩志麻治命(ウマシマジ)が生まれたといっており、饒速日(ニギハヤヒ)と天火明(アメノホアカリ)を同一というか混ぜてしまっている点に注意が必要だ。 天香語山命を尾張氏の祖、宇摩志麻治命を物部氏の祖と位置づけている。 更に天香語山命は天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊とともに天降り、その後は手栗彦命(タグリヒコ)、または高倉下命(タカクラジ)と名乗ったとも書いている。
天香語山命を初代としているので、その子の天村雲命(アメノムラクモ)、またの名を天五多手(アメノイタテ)が二世孫、その子の天忍人命(アメノオシヒト)が三世孫となる。 これでいうと、建稲種命(タケイナダネ)は十二世孫になる。 その前、十一世孫は乎止与命(オトヨ)となっている。 乎止与命が尾張大印岐(オワリオオイミキ)の娘の真敷刀俾(マシキトベ)を娶って一男を生んだといっているので、建稲種命はひとりっ子ということになる。 あれ? 妹の宮簀媛(ミヤズヒメ)はどうなった? と思うのだけど、それは後ほど改めて考えることにする。 建稲種命は迩波県君(にわのあがたのきみ)の祖の大荒田(オオアラタ)の娘の玉姫(タマヒメ)を娶って二男四女が生まれたという。 十三世孫当主となったのが、そのうちの尾綱根命(オツナネ)で、応神天皇のとき大臣(おおおみ)となって仕えたと書く。
応神天皇の系譜
少し脱線して応神天皇関連、その他の系譜を確認して整理しておきたい。 『先代旧事本紀』は続けて、建稲種命の長女(尾綱根命の妹)の尾綱真若刀婢命(オツナマワカトベ)が五百城入彦命(イオキイリヒコ)に嫁いで品陀真若王(オムダマワカ)が生まれ、次の妹(次女)の金田屋野姫命(カナタヤノヒメ)が甥に当たる品陀真若王に嫁いで高城入姫命(タカキイリヒメ)、仲姫命(ナカヒメ)、弟姫命(オトヒメ)が生まれ、この3人は応神天皇の皇妃となったとする。 このうちの仲姫命が生んだ子が後に仁徳天皇(大雀天皇)となる。 このあたりの時代は尾張氏が天皇(家)に対して強い影響力を持っていたことが分かる。 ただ、勘違いしてはいけないのは、尾張氏側からするとこれは決して喜ばしいことでもなければ名誉でもないということだ。この時代は一種の母系社会で、妻の家が権力を持っており、生まれた子供は妻の実家が育て、天皇位についても妻の家の豪族がほとんど決めていた。ここでいえば尾張氏がそれに当たる。 にもかかわらず、応神天皇や次の仁徳天皇が尾張氏を大臣にしたり連(むらじ)の姓(かばね)を与えたということは支配下に置いたことを意味している。 宮も(勝手に)難波に移したりしている。 尾張氏からすれば屈辱的なことだっただろうし、納得もしていなかっただろうけど、時代の趨勢には逆らえなかったということだろう。 尾張氏は応神天皇や仁徳天皇を裏切り者と呼んでいたという話を聞いている
応神天皇の皇妃については『古事記』も同じようなことを書いている。 品陀真若王の3人の娘、高木之入日売命(タカキノイリヒメ)、中日売命(ナカツヒメ)、弟日売命(オトヒメ)を娶り、中日売命の子である大雀命が仁徳天皇になったと。 品陀真若王については、景行天皇の王子の五百木之入日子命(イホキノイリヒコ)と尾張連の祖である建伊那陀宿禰(タケイナダノスクネ)の娘の志理都紀斗売(シリツキトメ)の間の子という書き方をしており、『先代旧事本紀』とは少し違っている。
系譜についての補足
尾張氏の関係氏族とされる京都の籠神社(このじんじゃ/web)の社家、海部氏(あまべうじ)の家に伝わる系図がある。国宝指定にもなっている有名な系図で、二つのうちの一つ、いわゆる勘注系図も見ておくことにする。 ここでは祖を彦火明命としており、天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊を祖とする『先代旧事本紀』との違いがある。 『古事記』、『日本書紀』にも出てくる天火明(アメノホアカリ)の”天”と”彦”では大きな違いがあり、これを同一とすることはできない。 『先代旧事本紀』とは共通する部分と違っている部分があり、いろいろ矛盾も多くて理解不能だったりするので、ここれはあまり深追いしないでおく。 二世孫を天香語山命(またの名を手栗彦命)、三世孫を天村雲命とするあたりは共通しており、建稲種命も出てくる。 十世孫の乎縫命(オヌイ)のまたの名を小止与命とし、十一世孫には建稲種命が書かれている。 しかし、同じ十一世孫に阿多根命と日女命がいて、これが建稲種命の兄弟だとすれば建稲種命はひとりっ子ではないということで、日女命が宮簀媛に当たるのかもしれない。 ただ、海部氏は尾張氏の本家筋ではないので、途中が違ったり共通したりのはあり得ることだ。途中で本家から養子を取ったりということもあっただろう。
神社伝承など
建稲種命の伝承に関しては、関連神社に伝わる話の他、熱田社(熱田神宮/web)の縁起などでも伝わっている。 大元の話がどこから出たものかは分からないのだけど、元ネタの一つが『尾張國熱田太神宮縁起』だったと考えられる。 奥書には寛平二年の編纂とあり、これが本当だとすると平安時代前期の890年に当たる。 そこには藤原村椙が貞観(859-877年)の縁起を筆削して記したとあり、ある程度の信憑性はありそうだ。 大足彦忍別天皇(第12代景行天皇)が播磨の稲日太郎媛(イナヒヲホイラツヒメ)を皇后として大碓命(オヲウス)と尊(ヲウス)の双子が生まれたところから始まり、成長した日本武尊(ヤマトタケル)が西征に続いて東征することになり、天皇が吉備武彦(キビノタケヒコ)と建稲種公(タケイナダネノキミ)を日本武尊に付き従わせたと書いている。 『日本書紀』では吉備武彦と大伴武日連(オオトムノタケヒ)となっており、『古事記』は吉備臣等の祖の御鉏友耳建日子(ミスキトモミミノタケヒコ)となっているので、建稲種公を副将としたのは『尾張國熱田太神宮縁起』独自の伝承ということになる。 日本武尊が伊勢太神宮(伊勢神宮/web)に立ち寄って叔母の倭姫命(ヤマトヒメ)から神剣を授かったというあたりは記紀と共通する。 尾張の国の愛智郡に到着した日本武尊を稲種公が出迎え、氷上邑(ひかみのさと)は自分の故郷なのでぜひ休んでいってくださいとすすめ、そこで日本武尊は稲種公の妹の宮酢媛(ミヤスヒメ)と出会うことになる。 このときすぐに婚姻したというのも『尾張國熱田太神宮縁起』ならではの話だ。 日本武尊は海側を進み、稲種公は山側から行って坂東国(ばんどうのくに)で会おうと約束を交わす。 上総(かずさ)から陸奥(みちのく)に入ったところで日本武尊と稲種公は合流し、ともに蝦夷(えみし)の国津神や族長の島津神を討とうということになる。 討伐を終えた一行は帰途につき、帰りは日本武尊が山から、稲種公が海から行って尾張の宮酢媛の屋敷で会うことを約束する。 尾張に向けて進む途中の篠木(しのぎ)で食事をとっていた日本武尊の元に稲種公の従者の久米八腹(クメノヤハラ)という者が参上して稲種公が海に落ちて亡くなったと告げた。 突然の訃報に涙を流しながら日本武尊は「現や、現や」と嘆いたという。 ここが今の内津峠(うつつとうげ)で、この話が内々神社(うつつじんじゃ/web)の由緒としても伝わっている。 どうして亡くなったのかと訊ねる日本武尊に八腹が答えて言うには、駿河の海を渡っているときに可憐に鳴く羽根が美しい鳥を見て、あれは何という鳥かと訊ねると鶚駕鳥(みさごどり)だというので、この鳥を捕まえて日本武尊に献上しようとしたら波風が荒くなって船が傾いて海に落ちてしまったのですと。 嘆き悲しみつつ尾張に辿り着いた日本武尊は宮須媛の元に戻った。 この後の話は、宮簀媛の項に書くことにしたい。
熱田社創建のいきさつを伝える由緒なので日本武尊を中心に物語られるのは当然ではあるのだけど、地元ならではの建稲種公伝承を伝えているところに特徴がある。 逆にいえば、『古事記』も『日本書紀』も建稲種公をまったく登場させなかったといういい方もできる。 建稲種を架空の人物とするのは無理がある。『先代旧事本紀』や尾張氏系の系図が伝えるように、それに当たる人物がいたには違いない。その時代の尾張氏の当主がそうだ。 宮酢媛(宮簀媛/美夜受比売)については『古事記』も『日本書紀』も書いているし、日本武尊の東征を作り話とすると草薙剣や熱田社の存在が空に浮いてしまう。まったくの作り話から神社が建てられるわけもない。 記紀が建稲種について書かなかったのには理由がある。
では、建稲種はどういう立場にあったかというと、これはなかなか難しい。 『先代旧事本紀』は「国造本紀」の中で、尾張国造は成務天皇時代に天火明命の十三世孫の小止与命が国造に定められたと書いているので、その子の建稲種が国造を継いだと考えるのが普通だけど、そのような記述はない。 『古事記』は美夜受比売を尾張国造の祖と書いている。 日本武尊東征の話がどこまで事実を反映したものなのかが分からないのだけど、建稲種が何歳で死んだのかも問題となる。 日本武尊が伊吹山の神にやられて伊勢の能褒野(のぼの)で命を落としたとき30歳だったと『日本書紀』は書いており(『古事記』は書いていない)、『先代旧事本紀』の系譜で建稲種命には二男四女がいたとあるのでそれほど若くない。 妹の宮簀媛が日本武尊と婚姻したことを考えるとそれほど高齢でもなかっただろう。 気になっているのは、記紀や熱田の縁起に乎止与命が出てこないことだ。 熱田の縁起では稲種公が氷上邑を我が故郷といって日本武尊を招待し、『古事記』では”美夜受比賣之家”という書き方をしている。 このときすでに乎止与命は亡くなっていたのではないだろうか。 『古事記』は建稲種命を登場させなかったばっかりに不自然な記述になっているように感じる。尾張国造の祖を美夜受比売としたり、美夜受比売の家としている部分だ。 この時代に未婚の若い女性がひとり暮らしをしていたというのはちょっと考えにくい。美夜受比売の家というのは建稲種命の家ではなかったのか。 ではどうして『古事記』が建稲種命の存在に触れず隠すようなことをしたのか? それはやかり、建稲種命が東征の帰りに死んだという伝承と関わりがありそうだ。 熱田の縁起は「駿河の海」で亡くなったといっているけど、実際は矢作川(やはぎがわ)で殺されたという話を聞いている。 その話は「さるかに合戦」として今に伝わっているといったらあなたはどう思うだろうか。
「さるかに合戦」として語られる話
昔ばかしとして語られる一般的なあらすじはこうだ。 蟹がおにぎりを持って歩いていると、猿が柿の種と交換しようというので、最初は嫌がったものの、おにぎりは食べてしまえばそれで終わりだけど、柿の種は植えて実がなればたくさん食べられると言いくるめられ蟹は申し出を受け入れる。 やがて柿の木が生長して実がなると、木に登れない蟹に代わって猿が採ってあげようというので頼むと、猿は熟した実を全部食べてしまい、青い柿を投げつけてきた。 ショックを受けた蟹は子を生むと命を落としてしまう。 このことに怒った子蟹は親蟹の敵を討つため、栗と臼と蜂と牛糞を家に集め、協力して猿を殺して復讐を果たすという物語だ。
これはどう考えても象徴的で暗示的なお話なのだけど、これらの登場人物(要素)が誰、または何を表しているかが紐解く鍵となる。 世界には類似の話がたくさんあり、様々な解釈が成り立つことを承知の上で私が聞いていることを書くと、これは尾張と三河、美濃までを巻き込んだ戦いの話だというのだ(私の想像や思いつきではないので理解を超えている部分が多い)。 ここに建稲種が関わってくる。稲であり、種であるというのもそれを示している。
愛知県の形を見て蟹っぽいと思った人はけっこういるんじゃないかと思う。知多半島と渥美半島が蟹の手(爪)みたいだ。 同時に横から見たカンガルーを連想する人もいるようだ。しかしこれは横から見た猿にも見えないだろうか。 名古屋市と北西部が頭で、知多半島が手、渥美半島が足に当たる。 中央の背中あたりに猿投山(さなげやま)があり、頭の口の上が蟹江町(かにえちょう)、背中のすぐ上が岐阜県可児市(かにし)だ。 猿が尾張、蟹が三河を表していて、美濃も関わってくる。
「さるかに合戦」では猿(尾張)が蟹(三河)に対して柿の種とおにぎりを交換しようと申し出ている。 この柿の種が何かが重要で、当たり前だけど柿の実の種ではなく、別の何かだ。 どうやらそれは、柿の種の形に似た錆びない特殊な金属の鉱石らしい。伝説のヒヒイロカネのたぐいで、草薙剣などもこの金属から作られたという話もある。 だとすれば、尾張からの申し出で、この金属と米(稲)を交換しようという話があったということになる。 しかし、結果として尾張は三河をだます格好になり、三河の誰かを殺し、その報復として尾張側の誰かが殺されたということになるのだろう。 となると、核心は猿は誰で蟹は誰かということになる。 聞いている話をそのまま伝えると、親猿が乎止与、子猿が建稲種で、親蟹が両道入姫(フタジイリヒメ)、子蟹が仲哀王子だという。 これでピンと来る人がいるだろうか? 私ははてな? と思って判断停止に陥ってしまう。 両道入姫といえば、日本武尊の妃となって仲哀天皇(足仲彦天皇)を生んだとされる人物だ。 日本武尊も関わってくるとなると、なるほどと思うことはある。日本武尊の本名とされるのが小碓(ヲウス)で、双子の兄に大碓(オヲウス)がいる。父の景行天皇は双子が生まれたと聞いて臼に向かって叫んだと『日本書紀』は書いている。 「さるかに合戦」で最後に猿を殺したのは臼だった。 大碓は東征を拒んで美濃に引っ込んだと『日本書紀』はいう。 猿投山に祀られる三河国三宮の猿投神社(さなげじんじゃ/web)の祭神が大碓命で、ここは金属関係の人たちが左鎌を収める習わしがある。三河側は蟹の手の左手に当たる。
整理するとこうだ。 乎止与が両道入姫に金属鉱石と米の交換を申し出て、だます格好で両道入姫を殺したか死なせたかしてしまった。それに怒った仲哀王子は仲間を集めて復讐し、最後は小碓(日本武尊)が乎止与と建稲種を殺したという筋書きだ。 これには物部(栗や牛のふん)や成務王子(蜂)も関わっていて、勝者側の登場人物が後に天皇として即位することになる。 ただ、小碓はもともと建稲種の友達だったらしいので、敵討ちは本意ではなかったかもしれないし、建稲種を殺したのは別の誰かだったかもしれない。だから、小碓(日本武尊)は建稲種が死んだと聞いて嘆き悲しんだという話になったのだろうか。
ここで問題となるのが時代のことだ。 「さるかに合戦」の話が日本武尊や建稲種、仲哀王子たちの争いが元になっているとして、それは何年に起きた出来事なのか。 聞いている話では5世紀半ばという。しかし、そうなると一般的に考えられている日本武尊、景行、仲哀、成務天皇の時代とはズレが出てくる。これらの天皇は4世紀の人たちというのが通説だから、100年違う。これをどう考えるべきなのか。 それは古墳問題にも関わってくることで、4世紀から5世紀にかけてであれば、尾張の王なら古墳が築造されたはずだ。たとえば名古屋市内でいうと、守山区の東谷山(とうごくさん/198m)の山頂に4世紀前半築造とも考えられている尾張戸神社古墳があり、東谷山の麓には4世紀後半とされる白鳥塚古墳がある。 東谷山の山頂にある尾張戸神社は宮簀媛命が創祀したという伝承もあり、天火明命、天香語山命、建稲種命を祀ることからも、建稲種命がどこかに埋葬された可能性はある。 もう一つの可能性としては三河の吉良、西尾だ。 建稲種命を祀る幡頭神社(はずじんじゃ/西尾市吉良町/web)の近くにある正法寺古墳は5世紀初頭の築造と考えられており、知られている中では三河最大の前方後円墳(全長94m)となっている。 正法寺古墳はかつての矢作川の河口に位置しており、矢作川で殺されたという尾張氏の伝承とも合致するから、この古墳の被葬者は建稲種かもしれない。 知多半島の南知多にも羽豆神社(はずじんじゃ)があり、やはり祭神は建稲種命になっている。
これらを考えあわせると、時代はやはり5世紀で、日本武尊や関係天皇も実際は4世紀ではなく5世紀の人たちだったかもしれない。 日本武尊の伝承は同時に建稲種命の伝承でもある。
686年の尾張
朱鳥(あかみとり)元年の686年は尾張にとって重要な年となった。 天武天皇が病気で危篤になり、原因を占ったところ草薙剣の祟りということになって即日、草薙剣を尾張国の熱田社に送り置いたと『日本書紀』は書く。 このとき、熱田社は大改築中だったようで、草薙剣は熱田社大宮司の尾張氏の家で一時的に祀られることになる(影向間社のページ参照)。 それから間もなくして天武天皇は崩御する。 この年、尾張国で日本武尊ゆかりの地に神社が10社(もしくは11社)建てられたという伝承がある。 熱田社に伝わる『熱田太神宮御鎮座次第本紀』には、白鳥神社、入海神社、松姤神社、日長神社、狗神神社、成海神社、知立神社、猿投神社、羽豆神社、内津神社、羽豆神社、が建てられたとある。 その中では、2社の羽豆神社の祭神が建稲種命、内津神社の祭神が日本武尊と建稲種命になっている。 ある程度事情を知っている人からすると、これはなかなかの顔ぶれだなと思うはずだ。 日本武尊東征というだけでなく、「さるかに合戦」ゆかりの地や人物たちがここから浮かび上がってくる。 地理的にいうと、尾張の熱田、尾張と美濃の境の内津、尾張と三河の境の猿投、三河の中央から知多半島にかけての広い範囲となっている。 これらの地は日本武尊よりも建稲種ゆかりの地という色合いが強い。 やはり、建稲種は相当重要な人物でありながら、『日本書紀』や『古事記』はそれを書かなかった、あるいは書けなかったと考えていいのではないか。
神社伝承と後裔の補足
補足的に神社関連についてもう少し書いておくと、吉良の幡頭神社は、矢作川から流れてきた建稲種の遺体を村人が葬って祀ったことが創祀とされ、幡頭は建稲種が水軍の幡頭(はたがしら)をつとめたことから来ているという説がある。 知多半島の南知多にある羽豆神社は、建稲種と玉姫が暮らしていた地で、羽豆岬の別名を待合浦と呼ぶのは、玉姫が建稲種の帰りを待っていたからという伝承がある。 尾張氏の系図にはないものの、建稲種の息子とされる建蘇美(タケソミ)が幸田町の蘇美天神社で、弟の建津牧(平)が西尾市の志葉都神社で祀られていることからも、西三河のこのあたりは建稲種親子が開拓した地と考えていいかもしれない。
愛知県春日井市の内々神社は上にも書いたように、建稲種の死の知らせを聞いた日本武尊(小碓)が現(うつつ)かな、現かなと嘆いた場所に建てられたと社伝は伝える。 これはもしかすると本当の話かもしれない。 神社の祭神は建稲種命、日本武尊、宮簀媛となっている。
猿投神社の祭神は小碓の兄の大碓というのも上に書いた。猿投山の中腹には大碓のものとされる墓もある。 猿投山にはちょっと面白い話がある。 景行天皇は猿が好きでいつも連れ歩いていたのだけど、あるとき伊勢(伊勢地方とは限らない)を行幸していて猿が悪さをしたので怒って海に投げ捨ててしまった。その猿は泳いで鷲取山に逃げ込んだので、山の名前が猿投山になったというものだ。 これには後日談があり、その猿は人に化けて日本武尊の東征に従って武勲を挙げたのだとか。 景行天皇と臼と猿とくれば、「さるかに合戦」の戦いの話から来ている伝承とも考えられる。 猿つながりでいえば、猿田彦大神(サルタヒコ)も関わっていそうだ。
その他、知多郡東浦町の 入海神社(いりみじんじゃ)は穂積忍山宿禰(ほづみおしやまのすくね)やその娘とされる弟橘媛(オトタチバナヒメ)関係の神社だろうし、知多市、岡崎市、安城市にある日長神社はこのあたりの有力者だった日長氏から来ている。 これらの人物または家も、「さるかに合戦」の登場人物のひとりとなっている可能性が考えられる。
『先代旧事本紀』の系図でいうと、建稲種の孫に当たる尾治針名根連命(オワリハリナネ)とその父(建稲種の子)の尻調根命(シリツナネ/尾綱根命)が愛知県犬山市の針綱神社(web)祀られる他、天白区平針の針名神社は針名根連命を主祭神として祀っている。 十四世孫の尾治弟彦連(オトヒコ)がどこかで祀られている(いた)のかははっきりしないのだけど、次の十五世孫の尾治金連(カネ)は瀬戸市の金神社(こがねじんじゃ/web)の祭神に名を連ねている。 小牧市の田縣神社(たがたじんじゃ/web)の祭神は御歳神(ミトシ)と玉姫命になっている。 社伝によると、玉姫は建稲種亡き後、子供たちを連れて故郷の荒田に戻って過ごし、後に田縣神社で祀られるようになったという。
尾張やその周辺部以外で建稲種命が祀られている例を知らないのだけど、どこかの祭神になっているだろうか。 ただ、一般的な信仰対象にはなっておらず、尾張と周辺に限定された祖先神という位置づけには違いない。
更に補足
更に補足として書いておくと、『先代旧事本紀』は「国造本紀」の中で丹波国造(たにはのくにのみやつこ)は成務天皇時代の建稲種命四世孫の大倉岐命(オオクラキ)が定められたと書いている。 同じ『先代旧事本紀』の「天孫本紀」では建斗米命(タケトメ)の子の建田背命(タケダセ)が丹波国造の祖といっている。 建斗米命は五世孫、建田背命は六世孫に当たる。 大倉岐命は丹波国一宮とされた籠神社(このじんじゃ)の海部氏に伝わる海部氏系図では彦火明の十六世孫として書かれており、またの名を大楯縫命(オオタテヌイ)といっている。
タケイナダは”竹”のイナタ
最後に建稲種(タケイナダネ)の名前について少しだけ書いておく。 『先代旧事本紀』に建稲種命とあり、神社の祭神名としてもそれに倣っているのでこれが一般的な通り名になっているのだけど、『古事記』は建伊那陀宿禰で、”イナダネ”ではなく”イナダ”になっている。『尾張志』(1888年)も建稲種命として”タケイナタノ”とふりがなをしているので、本来は”イナダネ”ではなく”イナタ”だったかもしれない。 稲種は「さるかに合戦」を暗示していると書いたけど、当て字には違いない。なので、稲と種に引っ張られすぎるとミスリードされてしまう。 意外に大事なのは”建”の方で、これは”竹”を象徴的に表している。 日本武尊に代表されるように”建”や”猛”、”武”は猛々しいとか、武人を表していると考えられがちだけど、必ずしもそうではない。 それぞれの一族や家には家紋があり、神社には神紋があり、その多くは草木や花をかたどっている。 その中で”竹”は尾張の一族のもので、名前に”タケ”とあればそこと関わりがあると考えていい、 ヤマトタケルはヤマト(大和/倭)の”タケ”であり、吉備武彦(キビノタケヒコ)なら吉備(氏)の”タケ”、大伴武日連(オオトモノタケヒ)なら大伴(氏)の”タケ”ということだ。 なので、タケイナダネ/タケイナダは”竹”のイナタ(ネ)ということになる。 『日本書紀』の中で山幸彦(彦火火出見尊)は”竹”で編んだ無目籠(まなしかたま)で海神の宮へ行っているし、 海部氏の神社である籠神社にも”籠”の字が使われている。これは竹+龍なら成る文字だ。 竹取物語は、竹を取る物語であり、ここでいう竹は竹の一族を暗示している。竹の一族から嫁を取ることで権力を得るということだ。 松竹梅は格付けのように使われている言葉だけど、それでいうと、松はタカミムスビの一族、梅はムスビの一族ということになる。 竹は尾張、松は三河といういい方もできる。なので、松平は”松”の一族(平氏)ということだ。 その他、桜、笹、桐、藤、槇などに対応する一族がいる。
神社のところで建稲種命を祀る幡頭神社や羽豆神社があると書いたけど、ここにも隠れている言葉がある。 ”ハズ”は八の頭を意味している。 ”八”が何かということは他でも何度か書いた。国作りの基本思想が”八”であり、尾張の”五”と三河の”三”をあわせて五男三女神、八王子になるということだ。 八の頭ということは、全体の長を意味する。 尾張の牛頭天王(ごずてんのう)の”五頭”よりも上ということだ。 この時代の八頭王が本当に建稲種だったとして、それがもし殺されたとなると、それはもうゆゆしき事態だ。尾張にとっても天地がひっくり返る出来事だったといえる。 勝者側に仲哀王子や成務王子がいて、それぞれが”天皇”として即位したというのなら、時代の大転換だったといういい方ができる。 このとき、ヤマトの”タケ”も同時に殺されていることも見逃せない。 これを機に地方豪族の時代は終わりを告げ、中央集権が進むことになる。建稲種の子や孫は連の姓を与えられて大臣になったというのもそれを示している。 天の一族は”天(アメ)”も、”弟(音/オト)”も、”竹”も名乗ることができず(許されず)、以降は尾張(尾治)を名乗ることになる。 尾張は”終わり”を表しているというのも笑い話ではないかもしれない。
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