タケウチノスクネ《武内宿禰》

2020年1月14日

タケウチノスクネ《武内宿禰》

『古事記』表記 建内宿禰
『日本書紀』表記 武内宿禰
別名 建内足尼
祭神名 武内宿禰・他
系譜 (父)屋主忍男武雄心命/比古布都押之信命
(母)影媛/山下影日売
(弟)甘美内宿禰/味師内宿禰
(子)平群木菟宿禰/平群都久宿禰、波多八代宿禰、許勢小柄宿禰、蘇賀石河宿禰、木角宿禰、久米能摩伊刀比売、怒能伊呂比売、葛城長江曾都毘古/葛城襲津彦、 若子宿禰
属性 景行・成務・仲哀・応神・仁徳天皇の大臣
後裔 紀氏、巨勢氏、平群氏、葛城氏、蘇我氏など
祀られている神社(全国) 氣比神宮(福井県敦賀市)、宇倍神社(鳥取県鳥取市)、高良大社(福岡県久留米市)、西代神社、富岡八幡宮、住吉神社、平塚八幡宮、高麗神社
祀られている神社(名古屋) 八幡社(枇杷島)(西区)、八幡社(長須賀)(中川区)、和爾良神社(名東区)、若宮八幡社(栄)
 武内宿禰は『日本書紀』の表記で、『古事記』では建内宿禰と表記される。
 読み方は一般的に「たけうちのすくね」とされることが多いものの、「たけしうちのすくね」もしくは「たけのうちのすくね」ではないかという説もある。
 宿禰(すくね)は684年に天武天皇が八色の姓を制定したときの姓(かばね)のひとつになるのだけど、それ以前の古代においては武人や行政官を表す称号とされていたもので、物部や蘇我に与えられていた。
 武内/建内についても、内廷のという意味の呼び名で、個人名ではないと考えられる。
 弟に甘美内宿禰(『古事記』)がいることからすると武内-宿禰ではなく、武-内宿禰だったかもしれない。
『古事記』、『日本書紀』において、第12代景行天皇から成務天皇、仲哀天皇、応神天皇、第16代仁徳天皇まで仕えたという記述があるのも、何人かの人間が武内宿禰を称したと考えれば無理はない。政治から軍事、祭祀まで担っていたようだから、大臣の長として天皇になりかわって実務を担当する責任者だったのだろう。
 武内宿禰は血縁でつながるというよりも、その時代の有能な人間が当てられたと考える方が自然だ。
 そのため、親子関係にも記紀で違いや混乱が見られる。
『日本書紀』の景行天皇紀では、屋主忍男武雄心命と菟道彦の娘の影媛との間に生まれたとし、孝元天皇紀では、第8代孝元天皇皇子の彦太忍信命を武内宿禰の祖父としている。
『古事記』は、孝元天皇皇子の比古布都押之信命と宇豆比古の妹の山下影日売との間に生まれたと書いている。
 子供については『日本書紀』は平群木菟宿禰のみが記述されているのに対して、『古事記』は平群都久宿禰、波多八代宿禰、許勢小柄宿禰、蘇賀石河宿禰、木角宿禰、久米能摩伊刀比売、怒能伊呂比売、葛城長江曾都毘古/葛城襲津彦、 若子宿禰の7男2女といっている。
 紀氏、巨勢氏、平群氏、葛城氏、蘇我氏など中央有力豪族がそれぞれ武内宿禰を祖としていることからも、これらの家から出た人物が武内宿禰を称したと考えていいのではないか(武内宿禰を祖とする氏族は27氏もある)。
 記紀ともに武内宿禰/建内宿禰がもっとも活躍するのが第14代仲哀天皇とその皇后である神功皇后の時代だ。より詳しく書かれた『日本書紀』によると、仲哀天皇が熊襲を討伐する際、神功皇后が神懸かって新羅を討てという神の言葉を伝えた場面に居合わせて重要や役割を果たしている。
 仲哀天皇が神の言葉を信じずに急死してしまい、武内宿禰は天皇の喪を隠して豊浦宮において殯を行っている。
 その後、神功皇后に仕え、神の言葉を伝える場面では琴を弾き(『古事記』では神の言葉を伝える役割をしている)、神功皇后の新羅征伐にも付き従った。
 神功皇后一行が大和に帰還すると麛坂王(カゴサカノミコ)・忍熊王(オシクマノミコ)が反乱を起こしたのでそれを撃退した。
 太子の誉田別皇子(後の応神天皇)を角鹿の笥飯大神(福井県敦賀市の氣比神宮)に会いに連れていったというのは、皇子の成人の儀を執り行ったということか。
『古事記』では皇子を連れて禊ぎのために敦賀の地を訪れたとき、夢に伊奢沙和気大神(イザサワケ)が出てきて名前の交換を持ちかけられるという不思議な記述がある。
 これは今の氣比神宮のことで、天日槍やツヌガアラヒトの話などが関わってくるのだけど、長くなるのでここではやめておく。
 その他、神功皇后摂政時代は政治や外交にも携わっている。
 第12代景行天皇時代には、北陸や東北を視察して蝦夷を討つよう進言したり、皇子の稚足彦(後の成務天皇)に付いていたりしたとある。
 第13代成務天皇のときも大臣をしたといい、武内宿禰は成務天皇と同日の生まれとも書いている。
 第15代応神天皇時代も引き続き政治や外交を行った。しかし、弟の陰謀で殺されそうになり、壱岐の真根子が身代わりとなって殺されたことで何とか難を逃れた(真似をするの語源はここから来たとする説がある)。
 第16代仁徳天皇のところでは大鷦鷯尊(仁徳天皇)と武内宿禰の子の平群木菟宿禰が同日に生まれたという記事がある。
 その後、武内宿禰の活躍は描かれることがなくなり、第19代允恭天皇のところで武内宿禰の墓の伝承の話が出てくるだけだ。
 生まれた地について『日本書紀』は阿備柏原(和歌山市相坂・松原あたり)としており、武内神社の境内に産湯に使ったという武内宿禰誕生井が残されている他、佐賀県武雄市の武雄神社にも生誕伝承がある。武内宿禰の両親を祀る神社が九州各地にあることから、武内宿禰の少なくともひとりは九州出身の可能性が高そうだ。
 墓の場所について記紀は具体的な記述はない。候補地として室宮山古墳(奈良県御所市)が挙げられている。
 氣比神宮(福井県敦賀市)、宇倍神社(鳥取県鳥取市)、高良大社(福岡県久留米市)、西代神社、富岡八幡宮、住吉神社、平塚八幡宮、高麗神社などで祀られている。
 名古屋では八幡社(枇杷島)(西区)、八幡社(長須賀)(中川区)、和爾良神社(名東区)、若宮八幡社(栄)で祀られる。

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